第1章 黄昏の魔女 その3



 この世界には、《黄昏の線路》と呼ばれる空間が存在します。


 それはとても不思議な空間でした。


 ーー不思議な空間。そんな曖昧模糊な表現はしかし、この世界の住人にとってはある種の常識的解釈として定着しています。


 なぜならば、我々が保有する知識では、そうとしか言い表しようがないからです。


 黄昏のまま停滞した時間。


 広がる廃墟の山。


 その中で、無傷で佇む巨大な線路橋。


 遺跡に眠る、オーバーテクノロジーの遺物の数々。


 とある国では、野山を行くと唐突に。また別の国では平野を渡る途中にその入り口が。まるでお伽話の中に登場する不思議の国のように、“別世界に迷いこんでしまった”かのように、ありとあらゆるところに突然に、黄昏の線路へのアクセスは存在します。


 いったい、この空間はなんなのか。

 なんのために存在するのか。

 どうやって形成されたのか。

 いつから存在しているのか。


 物事を定義づける方法の一つに、『理由』があります。この世界に存在する万物には、全てにおいて存在する理由があり、それを解明することが存在証明の第一歩だったりするのです。存在理由を問う命題ーー人には決して向けてはいけない凶器ですーー存在の確立を行う上での身分証明書としては、申し分ない効力を発揮することでしょう。



 しかし、黄昏の線路ではそれら全てが不明瞭で、誰もその存在を説明できないのです。自分が何故産まれてきたのか、何故生きているのか、何故死んでいくのか、そんは設問の答えが絶無なのと同じように、その空間を叙述する言葉は存在しませんでした。


 ですので、かの空間を言い表す時、誰もが口を揃えてそう言うのです。


 それは、とても不思議な空間、だと。


 しかしながらーー本当に当然で必然の流れなのですが、全ての人間がそんな不可思議を一も二もなく是と認め、諦めているわけではありませんでした。


 いわゆる、学者さんとか研究者さんとかです。気狂(きちが)いと埒外の坩堝。研究に心血を注ぎ、学習に肺腑を捧げる。どんな手段を使ってでも、どんなものを犠牲にしてでも、とにかく謎を解明したいーーいろんな意味で頭の切れた人種というのは、どこにでもいるもので。


 今や、それぞれの国が独自に研究機関を抱えています。当然国が管理する以上、伊達や酔狂で研究員を養っているわけではなく、黄昏の線路の研究にはちゃんとした利益(リターン)があり、それが黄昏の遺物だったりするのですが、そのことについては今この場においてさして重要ではありませんでした。


 重要なのは。


 “これから黄昏の線路に赴くであろう”私が、取り急ぎ念頭においておかなければならないことは。


 世界中で、頭のいい人達が、国の庇護の元、その非凡な才能をもってして、その超凡な知能をもってして、人生を投げ打つ覚悟で、研究に没頭してもなお真理に届かないーーその理由。


 理由は、単純化して大きく二つ。


 まず一つが、根本的な文明力不足。いくら個々の能力が高くても、いくら一握りの飛び抜けた天才がいようとも、技術力であり文明は、人類全体としてレベルが推移していくものです。黄昏が有する遺物からも明らかであるように、それらが造られた時代の文明は、我々のものより遥かに高度なのは文字通り歴然です。文明レベルの差、それが一つ目の理由。


 そして、二つ目。こちらが、私のこれからにとって非常に重要なのですがーー広義の意味での“物理的な障害”の存在です。


 黄昏の研究が進まない大きな理由に、そもそも、黄昏の線路へと進入し、その後“探索できる人間が限られている”という特筆事項があります。


 何故か。


 それは、“毒”の存在でした。


 黄昏の線路は、毒に満たされています。それは空気中の成分表に我が物顔で軒を連ね、哀れなる侵入者に容赦なく襲いかかるのです。


 致死性の猛毒でした。


 “耐性のない”人間ならば、個人差は多少あるもののもって1時間というところです。成分、発生要因など主要なことはもれなく不明。空気を媒介にする不可視の殺人者を防ぐ手立ては、皆無に等しく、息を止めたところで皮膚から毒は進入します。むろん、ガスマスクや防護服などの技術対策は日々開発研究されているのですが、どれもこれも決定打にはいたっていない模様。せいぜい、寿命が数十分伸びるだけでしょう。それが短いか長いかは人それぞれでしょうが、


 たった一つだけ、劇的に活動時間を延ばす方法は存在しました。


 詳しくは割愛しますが、それは先天的なもので、後からどうのこうのなるものではないことだけは確かでした。そういう意味では、方法というのは正しくないのかもしれません。そこにあるのは、0か1かの結果のみです。


 そして、よしんば毒の魔の手から逃れられたとしても、次なる刺客が行く手を阻みます。


 ーーそう、それはまさに、いい具合にお腹が満たされた後の、甘くて切なくてほろ苦くて粒粒のあんちくしょうのように、逃れようのない必然……なの……です。


「うぷっ……」


 そこまで考えて、私は慌てて口をおさえます。この状況下で、食べ物のことを思い描いたのは完全に失策でした。喉奥からこみ上げてきたすっぱい何かを強引に溜飲します。喉が焼けるようでした。この味は非常に嫌いです。それでも、なんとか耐えようと、私は絶賛うなぎ登り中の気持ち悪さを、理性で抑えつけようとします。この閉鎖空間で、戻すことはなんとしてでも断固絶対に避けたいところ。人として。いや乙女として。口からなにかを戻すなど、断じてあってはならないのです。


 残酷な揺れでした。


 まるで線路脇の砂利道を猛進しているかのような、縦揺れが絶え間なく続いております。お尻はすでに痛覚を手放していて、ぴりぴりとした鈍い痺れが空白の感覚器官に根を張っていました。あまりよろしくない状態なのは確かでしょう。休みたい。精神を落ち着けたい。しかし気を抜くと、今度は途端に、胸から熱いパトスがこみ上げてくるのです。


「キモ……チワルイ……」


 もはや呻き声のような言葉でした。


 目的地はまだなのかと、懇願するように思いを馳せます。目的地について、ある程度予測がついている身としては、終着することを望むのはいささか理にかなっていない気はするのですが、そんなことはこの際どうでもいいのです。


 人間とはかくも刹那的な生き物でした。今の苦痛から逃れたい。とにかく今を楽になりたい。そのためならば、さらなる困難が待ち受けていようとも未来を切望する。でも後でしっかり後悔はする。そんなダメ人間、私。


 薄暗い車内には窓がなく、今がいったい何時であるか、想像に頼るしかありませんでした。先ほど日の光を見て掘り起こされた私の時間感覚を頼りにすると、おそらく出発から数時間といったところでしょうか。どこまで正確はわかりませんが、そこまで的外れでもないような気がしました。根拠らしい根拠はないのですが、なんとなく、そう思いました。


 例えば、この揺れ。


 先ほど私は線路脇の砂利道を走っているようと表現しましたが、それもあながち間違いではないはず。


 黄昏の線路には、いくつものゲートが存在するのですが、その中で実用的なのはほんの一握りでした。理由は単純明快で、ゲートと一口にいっても、安定して繋がるものが限られているのです。そして、その安定したゲートの中でも“連絡通路”に用いられるものはごくごくわずか。黄昏の線路の中に存在する巨大な鉄道橋、そこに通じるゲートだけなのです。


 もし今この車が、黄昏の線路に突入しているという段階であるならば、時間的にもちょうど符合します。


 なぜならば、彼の地へと進入できるゲートが開くのは、こちらの世界の時間でいう日没直後、つまり黄昏に限定されるからでした。


 此方の黄昏と、彼方の黄昏。


 黄昏と黄昏が重なるとき、生と死の狭間と呼べる時間帯に、異世界への扉が開くというのはいささか洒落がききすぎている気はしますが、とにかく。


 今が黄昏の線路を走行中ならば、目的地は、もうすぐでしょう。それまで、何としてでも耐えなければ……。


「やっぱり無理かも……うっ……ぅ~……」


 いっそ楽になってしまえば……。全てをぶちまけてしまえば……。そんな思いさえもよぎり始めます。どこまでも意志の弱い私でした。 

 私の三半規管は、もうぼろぼろでした。


 あ、やっぱりもう駄目かも……そう、諦めかけたそのときです。


「……大丈夫? お姉ちゃん」


 と、真横から小さな声がしました。


 私は墓場から出たてのゾンビのような動きで振り向きます。


 隣に座っていた少年が、心配そうにこちらを見ていました。


「大……丈夫ですよ……」


 そこで私は言葉を一旦区切り、運転席側の壁に身を預けるようにして座る看守さんを見ます。彼はその視線に気づいてくれまして、私達を一瞥した後、律儀に目を逸らしてくれました。好きにしろ、ということらしいです。


「ありがとうございます。心配してくれて」


 私は少年に向かって、なるべく怖がらせないように頑張って笑顔をつくりました。


 少年は少し恥ずかしそうにはにかみます。しかしやはりどこか疲労感が隠しきれない、無理矢理な表情でした。


 ああ、強い子なんだなあ、と。


 私は心に目打ちを刺されたかのような心地になります。


 こんな状況で。こんな目にあってるのに。


 かろうじて、心を正常に保てているであろうにも関わらず、こうやって他人のことまで気遣って。


 それはーーとても辛いことだと思います。


 強くなければ、味わわなくてもよかった苦しみだったはずです。普通ならば、とうに心は現実を手放し、無気力という名の不感世界に逃げられたはずなのに。


 あるいは私のように、弱ければ、全てを諦めて傍観者気取りで被害者面をして全てを見上げて生きていれば、傷つかずに、済んだかもしれないのに。


 なんて。


 そんな生き方。


 人間の、生き方ではーーない。


 それこそ、人でなし、です。


「…………」


 私は、無意識の内に少年の頭を撫でていました。少し伸び過ぎなくらいの髪が、私の手の中で柔らかに踊ります。


「えっ……えっ、な、何するのお姉ちゃん」


 少年はくすぐったそうに身をよじります。嫌がっているという感じはしなかったので、私はなでなでを続行。年下にはコミュニケーション抵抗が無い私でした。


「心配してくれたでしょう? そのお礼ですよ」


 いつの間にか、気分の悪さもだいぶマシになっていますし。名も知れぬ少年に感謝の意を示します。


 名も知れぬ。


 ……名前を、聞くべきでしょうか。


 どうせ見捨てるくせに? と、私の中で何かが囁きます。


「…………」


 今まで、私の周りでどれだけの人が死んだことか。


 いつだって、人が死にました。


 いい人間も。

 悪い人間も。


 優しい人間も。

 怖い人間も。


 騒がしい人間も。

 大人しい人間も。


 賢い人間も。

 愚かな人間も。


 良識ある人間も。

 狂った人間も。

 

 強い人間も。

 弱い人間も。


 正しい人間も。

 間違った人間も。


 大人も。

 子供も。


 男も。

 女も。


 たくさん、死にました。


 私の周りは、いつも死人ばかりでした。


 人の、死で溢れていました。


 ならば。


 ならばーーそんな中。


 ただ一人、死んでいない私はーー人では、ないのでしょう。


 死んでいるのが、皆人ならば。

 死んでいないのは、人ではない。


 単純な答え。

 簡単な解答。 


 ここにいる、彼らもこのまま行けば同じ運命を辿るかもしれません。


 そうーー分かっているのに。


 知っているのに、何もしようとしないお前は生きているだけで罪なのだと、心の中の私は私を糾弾します。


 全てを、救えもしないくせに。


 この子にだけ、感情移入して、あまつさえ救いたいなどと考えるのは、


 あまりにもーー虫が、よすぎる。


 そうは、思わないか? この人でなし。


 うるさい。


 と、私は私に言います。


「あなた、お名前はなんとおっしゃるのです?」


 私は一旦、少年の頭から手を下ろし、尋ねました。


 少年は少しだけ恥ずかしそうに、しかし真っ直ぐに私の方を見て答えます。


「風間灯(かざまあかり)」


「珍しいお名前ですね。東の国の出身ですか?」


 つい余計なことを口走ってしまう私です。子どもにするには、難しい質問だったかもしれません。


 しかし少年は、ふるふると首を振って意思表示します。長い前髪の間から、澄んだ瞳が覗きます。


「お母さんが……ニホン人」

 

「そうだったのですか。改めて、いいお名前ですね。灯とお呼びしても?」


 こくこくと少年ーー灯は頷きました。どうやら年相応に、ボディランゲージが先行する傾向にあるようでした。


「ありがとうございます、灯」


 私は、彼の名前を、口にしました。


 我ながら、わざとらしかったとは思います。ですが、そうでもしないとーー人間、いつなんどき、名前を呼べなくなるとも、限らないのです。


 私に名前を呼ばれたからなのか、お礼を言われたからなのかは分かりませんが、灯は、とても嬉しそうにはにかんでいました。


 私はもう一度、彼の頭を撫でます。


 彼はしばらく気持ち良さそうにしていましたが、やがて思いついたようにはっとなります。 



「お姉ちゃん。お姉ちゃんの名前は、なんてゆうの?」


「私の名前、ですかーー」


 私は、少しだけ迷いました。


 いえ、別に、教えたくないとか、名前を言ってはいけないとか、後ろ指を指されるようなニュアンスだとか、では決してないのですが。


 なんというかーーそう。


 私は、自分の名前が、あまり好きではありませんでした。


 ですので、それはもう反射的に、口に出すのをほんの少しだけためらったのです。


 名前を。


 個を、世界に、固定する、記号を。


 もちろん、私もかつては人の子らしきものでしたので、名前らしきものは、親らしきものから授かったものです。


 しかしながらーー言葉。


 “その人たち”から、私が受け取った言葉は、“たったの2つだけ”でした。


 私という存在を言い表すためだけの、からっぽの名前と。


 そして、呪い。


 “お前なんか産まれてこなければよかったとは言わないさ。けれどーーお前が産まれてこなければ、お前さえいなければ、私達は今よりも、ずっと、ずっとずっと幸せだったよ”


 それは、産まれて初めて聞いた両親の声。


 それは、産まれて初めて聞いた呪いの言葉。


 産まれてこなければよかったのに。


 せめて、そう言ってくれたならば、まだ、救いはあったのに。


 産まれる前に、終わっていたならばまだ救われたのに。


 生まれて、すみません。それだけで済んだのに。



 しかしーー



 “生きていなければよかったのに”


 “生きていることを否定される”のはーー


 そんなものは、もう


 ただの、


 

 呪いでした。




 結局のところ、私は今もなお、その言葉に縛られているのでしょう。あるいは、縛っているのか。


 どちらにせよ。


 だからといって、名乗らない理由には、全くもってならないので、私は口を開きます。


 いい加減、急に押し黙った私を見て不安気な表情をしている灯を、安心させてあげねばなりません。


 こんな子どもにまで気を遣わせる私は、最低でした。



「私の名前はーー」



 しかしながら、その先が紡がれることはありませんでした。


 なぜならば、車が、停止したのです。


 絶え間なく続いていた揺れは嘘のようにぴたりと止み、それまで静観してくれていた看守さんが立ち上がりました。


 私はそれを横目で見ながら、他の子ども達の様子を伺います。皆一様に、生気の宿らない顔を、緩慢な動作できょろきょろとさせていました。あの少女以外は。私は、彼女の、隠そうともしない微笑に気付かないふりをしながら、灯へと視線を戻します。


 先ほどとは違った意味で顔を曇らせる彼。


 その手を、ぎゅっと握りました。


 人の手の、なんと暖かいこと。


「大丈夫ですよ。私が、付いています」


 私はーー。


 

 私は、嘘をつきました。



ーーーーーーー




 護送車の扉が開かれました。


 一気に、色々な情報が飛び込んできます。


 扉の側には、先程とはまた別の、二人の軍人。精悍な顔つきと、がっしりとした身体つき。おそらく、運転手と相席者。


 外ーー真っ赤に燃える夕焼け空。雲はなく、送電線が被さるように、懐かしいような、悲しいような、情景。


 下ーーどこまでも続くような線路はとても大きく、長く。敷き詰められた、砂利。バラスト軌道は、超文明の名残りとしては古臭く、けれど悠久の時を、何のメンテナンスも存在し続けるのは、まさに異常。


 ここがどこだか、切り取られた四角い光景からでも、容易に判断ができてしまうーー


 ーー黄昏の線路。


 私の予想が当たるのは、いつだって、悪い方向のみです。



「順番に出るんだ。左から、そこのお前から奥に向かって順番に。そして次は右だ」


 淡々とそう告げたのは、軍人さんのうちの一人でした。こちらから見て、右手側。つまり私の前に立つ彼は、顔色一つ変えることなく私達に護送車から降りるように促します。


 最初は、私でした。


 ちらりと、灯の様子を伺います。彼の心配そうな視線を感じました。


 大丈夫ですよ。心配しないでください。と表情で伝えてみます。


 ついでに看守さんの方へと目を配ると、彼はすでに立ち上がり、それとなく私達を警戒しているようでした。子ども相手に、しかもほとんどが糸を失った人形のような彼らに対して、そんなものは必要ないのでしょうが、そこはそれ、そういった手筈なだけなのでしょう。


 看守さんも、軍人さんも、これは仕事なのです。


 それについては、私は、何も思いません。良くも悪くもどころか、何も思うところはありませんでした。


 例えば、人殺しを憎むとして。


 憎悪する対象はあくまで殺人者であり、ただの道具であるナイフやピストルを恨む道理は皆無でしょう。


 敢えて言うなら、そんなところだと思います。


 私は、彼らの仕事に従って、護送車から飛び降りました。


 着地。


 当然ですが、靴の裏から不揃いな砂利の感触が伝わってきます。


 黄昏の線路の独特な空気が、鼻腔を通りました。乾いたような、湿ったような、清涼のような、淀んでいるような、そのどれでもない、あるいはその全てのような不思議なニオイ。それは認識から生じる思い込みなのかもしれませんでしたが、だならこそ、独特な空気、そう表現するのが最も適当であるように思えました。


 軍人さんの一人に促されるままに、私は護送車から少し離れたところに移動します。そこから灯が降りてくるのを見ながら、私の側に連れてこられるのを見届けてから、考えます。


 まだ、大丈夫なはず、だと。


 ーー死が隣り合わせの黄昏の線路において、この鉄道橋だけは安全地帯と呼べるものでした。


 瓦礫と廃墟と遺跡の大地の中にあって、ただ一つ無傷で、佇む建造物。その特異性からも分かる通り、この鉄道橋はどうやら黄昏の線路の中でも特別な場所のようで。


 ここだけは、毒がつゆと存在せず。


 そして、“蟲”も、入ってはこないのです。


 蟲ーーそれは黄昏の線路における、毒と並び立つ脅威でした。


 名を、《毒蟲(ドール)》といいます。


 その名とは裏腹に、個体差はあるものの人間の数倍から数十倍はあろうかという体躯。その名の通り、蜘蛛のような見た目を有する外殻。


 人を襲う、化け物。


 例によって、分かっているのは、ほんの僅か。


 彼らは捕食を必要としないこと。


 彼らは繁殖をしないこと。


 彼らは、人間を、襲うこと。


 分かっていないのは、それこそ黄昏の瓦礫の山のように膨大でーー。


 

 とにかく、この場所が安全であることは間違いないのです。


 では、これからは?


 この先、私達に待っている運命ーーここまできてしまえば、予想するまでもなく、明白でした。


 実験ーーあるいは、研究。


 “これだけの数の人間の命を、好きに使える”。それは研究者達にとって、垂涎もの、破格の条件でしょう。


 となれば、後から合流するのは、護衛の軍人だけではなく、研究員と機材も含まれることも当然ーーより監視の、いえ正確には観察の目は増えることとなります。


 この実験がどれだけの規模のものなのか、それはまだ分かりませんがーー私達が、生きてこの空間を出られる確率は限りなく零に等しく。


 それも、彼等にしてみれば、どちらでも、いいのでしょうね。


 私達が死んでも、貴重なデータを取れて甲斐がある。


 万が一にでも、生きていたら大きな投資に対するリターンとしては十二分。


 どちらに転んでも、必ず利益は出るようになっているはず。


 そうでなければ、こんな実験(こと)、そもそも存在自体が成り立たないはずーー


 ーーと。


 そこで、私は、違和感を感じました。


 一抹の、とても微かなひっかかり、なのですが。


 何かを、見落としているーー?


 いえ、違います。


 そんな予感めいたものではなく、


 見落としているのではなく、


 何かを、忘れてーーいる?

 

 私は、記憶の糸を探すように、護送車を見ます。


 そこに答えがあるのかは定かではありませんでした。どころか、自分が何に対して疑念を抱いているのか、おおよその方向性すら私には判断できなかったのです。


 ですので、私が護送車の方に視線をやったのに、さして意味はありませんでした。いつの間にか子ども達はそのほとんどが降車されておりーー灯が降りてから、意識をそちらに向けていなかった点が、私の人となりを、人でなし具合を如実に表しているのだと痛感しますーー護送車の中に残るのは、看守さんと、彼女”といった様子でした。


 ならば。


 忘れているのは、“彼女”のことでしょうか。


 やはり私は彼女とどこかで会ったことがあって、それが私の中で小さなわだかまりとなってつっかかっている、と。


 なんとなくーーそれでは、不十分のような気がしました。


 何故人は生きるのかという問いに対して、死んでいないから、と答えるようなーー不正解でも、的外れでもなく、かといって決して正解ではない、物事の本質が先行し過ぎていて、理屈が伴っていない、そのような解答でした。


 間違いーーではない。


 だからこそ、もう少し考えれば、もう少しだけ時間があれば、真実に考えが至るかもしれないーーそう、思った、


 その時、でした。

 




 ぶるり、と。




 背筋が、震えました。


「ーーーーっ!?」


 悪寒のままに。


 直感のままに。


 反射的に、空を見上げます。


 次の瞬間。



 “一本の巨大な柱”がーー



 護送車の丁度、真上に。


 突如として出現したかと思うと、


 そのまま、


 彼等に向かって、


 “振り下ろされた”のです。


 護送車が、豆腐のように容易く押し潰しされました。そのまま勢いは衰えることなく、頑強な地面ごと、その“脚”は最後まで踏み抜かれました。

 

 凄まじい衝撃が、身体を貫きます。


 地面がまるで噴火したかのような、激しい縦揺れ。耳をつんざく轟音。すぐさま、暴力的な突風が横殴りに襲いかかってきました。


 突然の理不尽に、貧弱な私の身体は耐え切れるはずもなくーーあっけなく地面になぎ倒されてしまいます。


「あっーーぐ」 


 何が起こったのか。


 それを理解しようにも、思考は追いつかず、


 “痛い”ーー


 受け身もなく地面に叩きつけられたその痛みだけが、私の考えを支配していました。


 痛いのは、嫌です。


 もうこのまま、立つことも向かうこともなく、 目を閉じて、現実から逃げ出してしまいたい。


 それでも、私が必死に立ち上がろうとしたのは、


 灯を逃がさなければ、


 その一心でした。


「ーーーー痛い」


 なんとか立ち上がることには成功したものの、さらなる激痛。見ると、身体のあちこちに大小様々な破片が突き刺さっていました。どうりで痛いはずです。


 しかし、そんなことにかまけてはいられません。辺りを見回し、灯の姿を探します。瓦礫に押しつぶされた軍人さんと子どもたち、致命的なサイズの破片に胸を抉られた子もいます、凄惨な光景。灯は、近くで倒れていました。私は身体を引きずるようにして、彼の元に向かいます。私と同じく破片を全身に浴びてはいるものの、致命傷もなく、意識もはっきりしている様子。


「お、お姉ちゃん……」


 私は彼の手をとり、助け起こしながら「立てますか? さあ、逃げますよ」早口でまくし立てます。


「でも、みんながーー」


 みんなーーその半分は、もう死んでいます。けれどそれは、半分はまだ生きているという意味で。


 それを助けなければ、放っておけないと思うことは、人として、当たり前のことだと思います。


 例え、そこにどんな合理的な理由があろうとも、それは間違っていると、見捨てると言ってしまう人間はーーもう、駄目なのでしょう。人として。



「駄目です。無理です。見捨てます」

 


 私は、人でなしでした。


 時間が無いので、端的に。かつ分かりやすく。


 繋いだ手から、力が抜けていくのがわかります。抵抗の意は感じられませんでした。彼は聡い子でした。


 人の好意の、なんと儚いこと。


 そもそも好意的に見られていたかどうか、今となってはもう定かではありませんが。少なくとも私は、友人であったと、ありたいと願っておりました。


 出会ったばかりでも、例え私が人でなしであろうと、その気持ちは嘘ではありませんでしたよ、灯。


 言葉には出しませんでした。


 言っても詮なきことですので。


 代わりに、彼を引く手に力を込めます。


 どうやって逃げる?


 とにかく、走らなければ。


 どこに?


 そんなこと、考えてはいられません。


 なぜならば。


 その時、まるで巨大な金属が擦れ合うかのような重音が聞こえてきました。私は慌てて振り向きます。


「なっーー!」


 肺腑が震え上がりました。


 毒蟲ーーの口元に生えた4本の触角。モズの早贄のように串刺しにされた子どもたち。まるで餌のように。ショッキングな光景でしたが実際にはそう思う暇などなく。残った私達に向けて、今まさに、踏み上げられた毒蟲の脚。ゆっくりと、されどそれはスケールの違いによるただの錯覚で。私達に残された時間はごくごく僅か。刹那の瞬(またた)き。否。瞬(まばた)きすら許されない、時間感覚の圧縮と崩壊が引き起こす絶対矛盾。加速する思考領域。既に論理の体をなさず。一瞬のきらめき。様々な選択肢が星の流れのように浮かんでは消えて行きます。


 取捨と選択の狭間。


 掴んだのは、無謀か絶望か。


 無と死の境界、絶と死の臨界点で、


 私はーー


 灯に、


 向かって、


 微笑みます。


 どうか生きてくださいね、


 と願いを込めて。


 大きく見開かれた目。


 長い前髪は乱れに乱れ、


 恐怖と渇望に支配されながらも、綺麗な、とても綺麗な瞳が、


 小さな人でなしを映し、


 何かを悟ったように。


 何かを察したかのように。


 彼の表情が一瞬だけ曇り、そして視線が前へと注がれます。


 世界がスローモーション。


 繋いだ手と手。


 それを支点に、私は身体を捻り、半回転。


 お互いがお互いを前に押し出すようなタイミングで、手を、離します。


 私は毒蟲へと向かって。


 灯は毒蟲に背を向けて。


 走る形となります。


 すぐそこまで迫る毒蟲の脚の軌道が、僅かに動いたような、気がしました。


 狙い通り、自身に近づいてきた私に反応してくれたのか。


 それでも、灯が範囲外に逃げ果せられるかどうかは賭けでした。そしてここをしのいでも、次の一手で彼が生き残れる可能性は零に等しいでしょう。


 それでも、願いを込めて。


 送り出す私は、どこまでも人でなし。


 視界が銀色に染まりました。


 目の前に近づく圧倒的で、無機質な殺意。


 衝撃を感じる暇もなく。


 しーーーーーー


 ーーーー


 ーー




 おしまい。



 

 全てが真っ暗に。


 走馬灯は、ありませんでした。

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Twilight Doll〜黄昏の魔女と小さな人でなし〜 囲味屋かこみ、 @kakomi

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