第1章 黄昏の魔女 その2
終わりは突然でした。
とでも言えば、はたしてこの世に突然ではない終わりなど存在し得るのかという話にまで飛躍してしまいそうになりますが、とにかく、永遠にでも続くかと思われた長く苦しい階段の終わりは、唐突でした。
あの後、すぐに休憩を終えた看守さんと私はそのまま行軍を再開。それから何度目かの、通算としてはもう数えることも無意味なくらいの階段を登り終えたところで、ゲートをくぐり、またぞろ通路を渡るものだと思い込んでいた私の目に飛び込んできたのはーー部屋と呼べるほどの空間でした。
私がいた牢よりも幾分か広いその部屋は、おそらく看守室のようなものなのだと思いました。そこは牢と同じくがらんとしている、ほとんど何もないような部屋でしたが、決定的に違う箇所が二つほどありました。
一つは、部屋の造り。
私達が入ってきた扉のほぼ真向かい、部屋の突き当たりの壁には、重苦しい鉄の扉が設けられていました。年季の入った、無骨で重厚な、扉です。それは外からの進入を阻むためか、それとも中からの脱走を阻むためか、質実剛健、熟練の門番を思わせるかのような鉄壁さが、見るだけでありありと伝わってきます。
そしてその様式に付随するかのように、壁や床を形成するのは、石材でした。均一に敷き詰められた石畳は、ランプの光に照らされぬらぬらと怪しく蠢いております。白く塗り固められた壁紙はどこか冷たく、華やかさなど微塵もない堅牢な造り、そのどれをとっても、明らかにこれまでの空間とは全く異なる様相でした。
その国に根付くクラシカルな建築様式と、黄昏の遺物から散見される遺跡機構の同居は、何も珍しいことではありません。和洋折衷、というとても古い言葉がありますが、これはそれ以上です。てんでばらばらな、ちぐはぐもいいところの混濁とした私達の生活は、古今東西の文明がパッチワークのように縫い合わせられ、世界の縮図を如実に形成しているのです。
そして、二つ目。
入ってすぐ、右手の一角には、大きな窓のついたしきり壁が設けられていました。部屋の三分の一は占めるだろうそのスペースは、監視場所と思われました。私がこの部屋を看守室だと思った要因でもあります。
実際に。
窓ガラスの向こうには、看守さんと同じ軍服を着た中年の監視員さんが立っていました。じっと、厳しい視線をこちらに向けています。直接目を合わせられないので確かなことは言えませんが、その視線には職務上の意味合いの他に、わずかな恐怖と、そして侮蔑が含まれているような気がしました。
「予定よりも遅かったな。ーー“何をしていた”?」
監視員さんは、部屋の中に足を踏み入れた私達に言います。正確には、看守さんに向けて。それは詰問するような口調でした。
ガラス越しの、しかし不思議なくらいによく通る声ーーああ、なるほど、どこかに拡声器でも設置されているのでしょうかーーなどと、おそらくは場違いなことを考えていると、看守さんは監視員さんに答えます。
「いえーートラブルは、何もありませんでした。しかし、被検体の体調が芳しくなく、途中休息が必要であると判断し、その為の時間を有した次第です」
看守さん、敬語を使えるお方でした。
……いえ、当たり前なんですけどね?
なんとなく、イメージとして、そういうこととは無縁のような印象がありましてですね……すいませんでした、と私は心の中で看守さんに謝罪します。
「ふんーー」と監視員さんは、看守さんの説明に納得したのか納得していないのか、そのどちらとも取れる態度で相槌をうち、続けて、私の方に視線を向けます。
「被検体……ね。そんなものに休息が果たして必要かどうかはさておきだ。ーー“そいつが例の《魔女》”だろう?」
それは、はっきりとした、悪意でした。
嘲笑と、侮蔑と、忌避と。
人間の多様な感情がある一点にのみ集中し、泥のような倫理観とぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、暗く、黒く、底のない、人間だけが持つことをかせられた悪意という名の原罪。
過去、幾度なく向けられた それには、とても、身に覚えがありました。身に覚えがあるからこそ、敏感に、感じ取れます。
なるほど、部屋に入ってきたときに向けられた視線は、そういうことかと、私は納得します。私がどういう存在であるか、監視員さんは知っていたのです。それを言葉にしたことによって、内に秘めた蔑みが明確な悪意となって漏れ出た、と。
しかし、ここで疑問なのが。
思い返してみれば、“その視線は看守さんにも向けられていた”ことでした。
「…………」
看守さんは、監視員さんの言葉に何も答えません。私の前に立つ看守さんの表情を伺い知ることはできませんでしたが、おそらくはどんな感情も表には出していないような気がしました。仏頂面、とはまた違う無表情。それは気がするだけかもしれませんし、ある意味では正解を射止めていたのかもしれません。なぜならば、
少しだけ、看守さんからの威圧が、増したのです。
ほぼ真後ろにいた私は、反射的に一歩、下りました。怖いだとか、恐ろしいだとか、危険だとか、そんな明確な理屈は全く存在せず、ただただ気がついたときには、私の身体は行動した後でした。本能が独断先行し、思考が遅れてのんきにやってくる、あの感じです。例えばそれは、目の前にいきなりまさかりを振り下ろされたときのような(目の前に、というのがミソです。目掛けて振られたら、私は普通にカットされます)、青天の霹靂、が故の咄嗟の行動。その行動が正しい選択である場合は、あまり無いというのが悲しいところですが。
とにかく。
私は、看守さんを見上げます。改めて分析してみると、威圧感とは言ったものの、脅威とまでは感じない、というのが正直な感想でした。気圧されるのではなく、空気が質量を持ったかのような少し居心地の悪い圧迫感を感じるだけです。それはおそらく、看守さんの感情が私に向けられたものではないことに起因するのだと思います。
「…………ちっ」
その証拠に、ガラスの壁を隔ててはいても、監視員さんは舌を打ち、私達から目を逸らしました。そして、
「もういい。行け。……これ以上ここにいられたら、“《毒》が移る”」
と、本当に、吐き捨てるようにそう言いました。
《毒》をーー移す。そんなことが出来たら、どれだけ楽なことか。
誰かを、身代わりに。
見知らぬ誰かに押し付けてしまえれば。
名前も知らない誰かになすりつけてしまえれば。
どんなにーー楽か。
そんなことができるはずもないのは分かっているのです。思っていいはずもないことも。言っても詮無きことですが。詮が無いからこそ、道徳的に問題なことを思うくらいは、許されるのではないでしょうか。
なんて。
そんな戯言。許されようが、許されまいが、きっとそれは同じことなのでしょう。
どちらにせよ、
私が、《私(ばけもの)》であることに、変わりはないのですから。
ーー本当に。
分かってますよ、そんなことは。痛いほどに。“痛いだけで済んでしまうほどに”ーー。
「分かりました。失礼します」
偶然にも、私の心情と若干の同調をしつつ、看守さんはそう言って、監視員さんに向かい短く頭を下げました。そしてすぐさま、出口へ向かって歩きだします。黙ってそれについて行く私。なんだか従順な犬みたいだと、先ほどの看守さんの例えも思い出しつつ、首輪ならぬ腕の拘束具を揺らします。
扉の前に来た看守さんは、軍服の懐から束になった鍵を取り出します。そして、その中から一つの鍵を迷わず取り分けると、扉に空いた奈落の底のような鍵穴に差し込みました。
がちゃん、と。小気味のいい音を立て鍵が開きます。看守さんは鍵の束を再び懐へ。続いて扉に手を押し当てると、さして力を込めた様子もなく、いとも簡単に、鉄の扉は口を開きました。
重々しい音とともに、振動まで伝わってきそうなほどの重量感。どうやら、ダミーではなかったようです。これならば鍵などかかっていなくとも、私のような非力な存在には開けるのはまず無理でしょう。よしんば何らかの方法で開けられたとしても、その音と振動は防ぎようもなくーーローテクながら、セキリュティ面ではそこまで悪いものではないのかもしれませんでした。むしろ外部からの介入を可能にしてしまうハイテクよりも、こういったアナクロの方がよりよい場合もあるのでしょう。何に対して想定されたセキリュティ、かにもよるでしょうが。
などと、いつも通り『だからどうした』と
言われればそれまでのようなことを無意味に考えていた私は、部屋を出る前に、一度だけ、振り返ります。
監視員さんと、“目が合いました”。
私は、さして気にすることもなくーー軽く、“笑み”を返します。
目が合えば、微笑む。
“人として”、当然の行い。
「ーーーーっ」
監視員さんは、まるで道端に打ち捨てられた猫の死体を見たかのような、なんとも言えない表情で私から目を背けました。
一体その時私は、どんな顔をしていたのか。
私には、分かりません。
自分のことなのに。自分のことだからこそ。まるで、他人事のように、どうでもいい。
目を合わさないように。
目を逸らすように。
目を背けて。
視線を、閉ざす。
私にとって、生きるとは、そういうことでした。
ずっと。
ずっとずっと、そうやって生きてきました。
人の、弱さの権化。
私という存在の曖昧さ。
それが自分であれ、他人であれ、視線を交わすのは、あまり好きではありません。
視線には意志が宿り。
その意志を、受け止めるだけの強さが私には無いのです。
私は、監視員さんから視線を戻します。なぜ笑ったのか、実際私にはわかりませんでした。それは嘲笑などでは無いことだけは確かでしたが、だからこそ、余計にわからないのです。そうするだけの理由が、見当たらない。感情と理屈の欠落。行動に思考が伴わないーー
「なんて、まあ、あまり珍しいことでもありませんけどね」
私は独白します。
全ての行動に、理由を紐付けしてしまえれば、それはそれで恐ろしいことのような気がしますしね。
やってしまったものはしょうがない。
そういう心構えって、大切。
便利な言葉って、素敵。
私はそう思うことにし、看守室を後にしました。
もう2度と振り返ることはありませんでした。
ーーーーー
知らない場所というのは、それだけで距離感を狂わせるものです。脳内に地図が無い分、本来ならば単純な道筋も、たいしたことのない距離も、次から次へと新しい情報が脳に描き込まれるせいで、必要以上の疲労感が頭の芯におりのように蓄積するのです。それに伴い、さまざまな感覚はだんだん麻痺していき、次々と仕事を放棄し始めます。方向感覚、距離感、時間感覚は機能停止。著しい脳のパフォーマンス低下により、次には気力が減衰していきます。未踏の地を征く活力は枯渇し、明日への希望だとか、生きる気力だとか、そういったいかがわしいものに思考は逃げ始め、やがてそれすらも疲労軍にたやすく淘汰され、頑張るという気持ちが静かにブラックアウトしていくのです。
ぶっちゃけ、しんどいです。はい。
随分と回りくどいことを言っても、それが全てなのです。
ようするに、私はただの根性無しだという話です。
「……自虐って、誰も得をしないあたり、自傷と同じ行為だとは思いませんか?」
「お前は何を言っているんだ?」
そんなやり取りをしながら、石畳の廊下をひたすら歩きます。角を幾度となく曲がり、廊下から廊下へと扉を越え、途途中武器庫のような部屋や、倉庫のような部屋、はたまた給湯室なども経由したりもしました。
そしてーー
目的地に行くのに部屋を通るのは、建物の構造としていかがなものかとようやく思い始めたところで、
ついに、その時は訪れました。
「着いたぞ。この先だ」
看守さんが、立ち止まり言います。目の前には、少し大きめの扉。いい加減見飽きてきたところですが、その時といえば本当にその時ばかりは、その扉は天国へと続く門にも見えました。決して、楽観的になっているわけではありませんが。なんとも言えない安堵感と、達成感が私の目と心を曇らせるのです。
そしてその曇を晴らすように、看守さんが、扉を開けました。
はたして。
そこに広がっていたのは、とてつもなく広大な空間でした。
天井は吹き抜けと見紛う程の高さ。よく見ると、遠くの方に規則正しく組まれた鉄骨と、大きな板のような天窓が見えます。日光が眩しいくらいに明るく、天井に虫の卵の如く張り付いた巨大なライトは、今はなりを潜めていました。そこで初めて、私は現在が昼間なのだと気付きます。もう何時間か経てば、日も沈み始めるでしょう。そしてじきにーー《黄昏》です。
「…………」
私は、目を細めます。
あまり、《黄昏》にいい思い出はありませんでした。そして、おそらくは“これから”もーー。
目を背けるように、私は視線を落とします。
見渡す程の広さをもつこの場所は、どうやら発着場のようでした。
家が何軒も並び立つ程の広さの空間には、プラットフォームが敷かれていて、それぞれに番号が振られています。
それ自体は何ら珍しい光景ではありません。今の時代、交通網は血管のように世界中に張り巡らされ、主要な都市と都市を繋いでおります。当然、都市インフラとして乗り物の発着場は必須項目と化しており、その規模がどれだけのものかによって、その街の都市度が測られるほどです。今や交通は、人々にとって無くてはならない存在であり、生活基盤としての重要な地位を確固たるものにしているのでした。
しかしながらこの場所は、そういったライフラインとしてのプラットフォームとは、幾分か様相が異なっておりました。人が利用する施設というのは少なからず、人が利用しやすいよう配慮がなされるものですが、ここにはそういった工夫が見受けらないのです。全体的に殺風景で、どちらかと言えば工場のそれを思わせます。段差の少なさや、通路スペースの広さなど共通する部分もあるものの、人が乗り降りするというよりは、荷物の積み下ろしに観点を置いたようなーーそんな印象を受けました。
まあーーもしこの施設が、私の予想する用途によって利用される物ならばーー人と物とを同列としていても何ら不思議はありませんが。少々斜に構え過ぎているかもしれませんが、しかし真実だとは思います。
穿ったものの見方。
この場合は、正しい意味で用いるべきでしょう。
「こっちだ」
看守さんは迷うことなく、目的地へと向かって歩き出します。銀色の髪が太陽の光を浴びて、綺麗に揺れておりました。
どうやら、目指すべき場所はもうすぐそこの様子です。
私達は一番ホームから順に、二番三番を越えて、奥へ奥へと進みます。途中、ところどころに配置された軍人さんからの奇異と侮蔑の入り混じった視線を受けながら、ぱっと見では用途がわからない機材を横切り、五番ホームに停車された巨大な貨物車を尻目に、そして、辿り着いたのはーー8番ホーム。
しかし私はよくよく8という数字に縁がある気がする、などと場にそぐわないことを考えていると、“それ”は嫌でも目に入ってきました。
護送車、でした。
とても大きな四輪車です。少し光度を落としたシルバーの外装。運転席以外、窓が一切設けられていないその車は、まるで箱のような外見をしています。人が十数人、余裕で箱詰めできるであろう大きさからいって、おそらくは、燃料電池やソーラーを用いたハイブリッドではなく、《黄昏》から採取される鉱石を用いた『黄輪車こうりんしゃ』なのでしょう。車の知識に関して造詣が深いわけではありませんので、正確には、それが護送車なのか輸送車なのか、はたまたそれ以外の何かなどの判断はできませんでしたが、現実問題、あれが今から何に使用されるのかは自明の理でしょう。
移送か。
はたまた、出荷か。
お外へ楽しいピクニック(監視つき。抵抗即射殺)、ではないことだけは確かでした。
今更どうしようもないので、私は黙って看守さんについていきます。車の後部スペースは、大口を開けて哀れなる生贄(わたし)を待っていました。古代より、生贄は美女が勤めるのが習わしです。そう考えると、悪い気はしませんでした。
……悪い気はしなくとも、気持ち悪いとは思いました。我ながら。とても恥ずかしい。
かしゃん、と。
つけた時とは違い、軽快な音と共に手枷が外れます。物騒なものから解き放たれたことは素直に喜ぶべきなのでしょうが、なぜ今のタイミングでという疑念が拭えません。確かに監視の目は増え、手枷など無くとも反抗の芽など摘み取られたも同然でしょう。しかし今から輸送もしくは出荷されるという、このタイミングなのが腑に落ちませんでした。輸送先では、手枷など必要ないということでしょうか。その上、“向こう”で手枷を外すのも都合が悪いと。
ーーいよいよもって、私の予感は確信に近づきつつありました。ふわふわとちりばめられたピースが、推測という枠組みに嵌められていき、推定の絵を完成させる。まだまだ予測の域を脱しませんが、予測予想予感推測、そして勘とは古今東西悪い方向にばかり当たるものです。
しかし、だからといって抗う術は皆無でした。
こちらの戦力は私の身体一つ。お前に比べりゃ仔犬の方が立派な番犬だ、とは師匠の談です。しかしこの例え、私も犬扱いなのは気のせいでしょうか?
とにかく、そういうわけで現状、無慈悲な現実に抗う術はありませんでした。人生、ままならないものです。なるようにしかならないのですから。いえ、この場合は、ならないようにはならないと言った方が正しいのでしょうか。どちらにせよ、無情です。南無三(意味は知りません)。
「乗るんだ。空いているところに、適当に座れ」
根性無しの上に劇的に諦めのいい私は、看守さんに促されるまま、なすがままに護送車へと乗り込みます。少し段差が厳しく、小柄な私は難儀しました。その間、両脇の軍人さんと看守さんの会話が耳に入りました。私が乗り込むこの護送車の他にも、“例の場所”に別働隊が向かうと。
となれば、監視の人数は分散するわけで、“不測の事態”があれば、あるいは……。
護送車の中は、外見から予想した通りの広さでした。
左右にベンチのような座席が設けてあり、それぞれ8人ずつ、計16人の姿が確認できます。全員、10歳前後の子供、でした。皆どこか虚ろな表情で、力なく座っています。視線は虚空を彷徨い、生気が全くと言っていいほど感じられませんでした。
私は、思わず眉をひそめます。
この子達を救えるわけでもない私に、そんな資格はないことは重々承知しているのですが、それでも、反射的に顔をしかめずにはいられませんでした。
“このためか”、と。
私は苦虫を踏み潰したように得心します。
外界から完全に隔絶されたあの牢屋ーー隔絶自体を目的としているかのようなあの場所の意味。そして、決行までに設けられた妙な時間。全ては、この状況のための舞台装置だったのでしょう。
彼らのような子どもに、あの仕打ちはさぞ辛かったと思います。わけも分からず放り込まれた冷たい現実。外界との遮断。ひとりぼっち。何もない、無味乾燥の時間。それはもう、ほとんど催眠に近く。彼らからこうして気力を奪うには、十分過ぎる程でした。
徹底的に。
子どもがいくら抵抗したところでたかがしれているのに。ここまで徹底的に、意思を摘むーーそれには、何か理由があるのか。
いえ、理由があろうがなかろうがーー
狂っています。
酷く、歪に。
醜く、歪んでいます。
いったい、どんな素敵な免罪符(いいわけ)があれば、こんなことができるのか。
考えるだけでも、気が違いそうでした。
「何もしない私が言えた義理でもないんですけど……」
その呟きに、意味はありませんでした。あるいは、看守さんが後ろに立っていたからかもしれません。
おそらく彼もこれからこの護送車に乗り込むのでしょう。ならば、これ以上もたもたもしていられませんでした。
改めて。
私は自分の座るスペースを探します。
場所は二つ、空いていました。探すも何も一目で分かりますので、見繕うといった方が正しいのかもしれません。
左手前に一つ。
そして、右奥に一つ。
右奥は、この中で唯一の女の子の隣でした。肩まである綺麗な白髪の、アルビノの子どもです。触れれば今にも崩れてしまいそうな、とても繊細な雰囲気を纏った少女でした。
左手前は、男の子でした。少しごしんまりとした、気配の薄い少年です。さらさらと均一に伸ばされた髪は、目を覆う程にながく前が見えているのかと疑問に思うくらいです。
私は少しだけ逡巡し、左手前のスペースに陣取ることにしました。
理由はなんとなくでしたが、強いて言うならば、少女に対する薄氷の違和感でした。何か、ひっかかる感じ。不安定な足場で片足立ちをしているかのような、どことなく不安になる違和感。
私は、あの少女とどこかで会ったことがあるーー?
その時、少女がこちらを見て、微笑んだ、ような気がしました。
しかし。気のせいだろうと自分の感覚を棚に上げてしまい込み、特に視線を向けることなく、私は椅子に座ります。洋服越しのはずなのに、ひんやりとした感触がありました。臀部から這い上がる、底冷えする冷たさ。それは今後の私の運命を暗示しているかのようで。
私は、先ほど自由になったばかりのその手で、首をさすります。
二度と消えることのない、傷痕。
この傷が私に教えてくれたのは、冷たい現実と、冷めてもなお途切れることの無い痛みだけでした。
看守さんが護送車に乗り込んでくるのをぼんやりと眺めながら、私は軽く瞳を閉じます。
心臓の音がしました。
当たり前でした。
真っ暗です。
当然でした。
目を開けます。
世界が、そこにありました。
「私は、今日も生きている」
誰にも聞き取れないような小声で、私は囁きます。
扉が、閉まる音がしました。
生きるって、何だろう。
真逆のことをしてみれば、あるいはその答えが分かるのかもしれませんね。
そんなわけで、出発進行。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます