第1章 黄昏の魔女 その1

 一体、どれ程の時が経ったのでしょうか。


 頼りない灯りに照らされた空間で、私は膝を抱えて座り込んでいました。本当に何もない空間です。辺りを見回しても、すぐに視線は壁へと終着してしまいます。のっぺりとした不思議な材質のその壁には窓一つ無く、入り口すらも今は見当たりません。本来ならそれ程広くはないであろうこの部屋も、何もないというあっけなさからかなりの広さに感じました。


 まるで独房のような空間でした。


 というか、独房そのものでした。


 座る以外にすることがないので、座っているというよりは、座らせられているというのが正しいのかもしれません。半強制です。横になるという選択肢もあるにはあるのですが、硬く無機質な床がそれを許しませんでした。ベッドなど気の利いたものはもちろんありません。あるのはただ、小さな桶だけです。あまり使用用途については言及したくありませんので、無い物として扱います。


 ですので、睡眠を取るとき以外は、こうしてただ座って無意味に時を過ごします。


 四方を壁に囲まれたこの部屋には窓が無く、今が昼なのか夜なのかもわかりません。外界との接触は、日に二度運ばれてくる簡素な食事だけ。体内時計はもうとっくに狂ってしまっていて、お腹が空く、眠くなる、もよおす、それらだけが時間の流れの目印でした。つまりはもう、時間の感覚は無きに等しいのです。


「はぁ……」


 私は溜め息をつきます。


 暇でした。暇は人を殺すといいます。


 本来ならば暇な時間もそこまで嫌いではないのですが、それは満たされた環境があってこそのものだと痛感します。


 過去に何度かこういう経験はあるものの、それでも今回のは様子が違いました。


 牢屋とは本来、人を捕らえておく目的で使用される空間です。


 しかし、これではまるで外界との隔絶自体を目的としているようなーーそうと仮定するなら、その理由は?


「どう楽観的に考えても、あまりいい予感はしませんね……」


 私は独り言を呟きます。


 たまには声を出しておかないと喋れなくなりそうで。


 自分でいうのもなんですが、鈴のような声でした。子どもっぽいともいえます。


 さて。


 さてさて、本来ならば、余計なことを考えるよりも、私にはまず第一に考えなければならないことが存在します。しかしながら私は、意図的にそれを思考の外に隔離しておりました。これは、嫌いな食べ物を後に残すという心理に似ています。問題の先送り、現実の先延ばし、見て見ぬ振りをすればともすればなんとかなるのではないかという淡い期待。いわゆるただの現実逃避です。得意なんです、現実逃避。現実逃避が服を脱いで、ありのままの姿で停滞しているような人間だと揶揄されたこともある程です。……服を着て歩いてもいない現実逃避って、それはただの現実逃避そのものでは? いや、そもそもそのものであることの喩えなんですけれども。


 いい加減、頭の中で現実逃避という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうになってようやく、私は現実と向き合う決意をいたします。

 

 現実に、いや切実に、

 うたかたの誠実さを武器に確実とし、

 事実をただただ如実に、

 質実剛健の言葉と虚実をもってして結実といたしましょう。

 

「私、これからどうなるんでしょうかねー……」


ーーーー



「被検体08号、出ろ」


 それまで何も無かった壁が、急に上下にスライドしたかと思うと、そんな言葉と共に光の暴力が私に襲いかかってきました。


 反射的に腕で顔を覆います。時間にして数秒でしょうか。食事の度に繰り返されたこの行為も未だ慣れることはなく、ようやく目の奥にあるちかちかが落ち着きだしてから、私はゆっくりと腕を下ろしていきます。


 ぽっかりと空いた牢屋の壁の外、そこには顔見知りのお方が仏頂面で立っていました。


 白銀の髪に、感情の読み取れないルチノーの瞳。この国の軍服に身を包んだその体は、すらりとした痩身で。大変背が高くいらっしゃるその方を見ようと思うと、自然と私は首を限界まで稼働させなければなりません。


「おはようございます、看守さん。今日のご飯はなんでしょうか」


 私は言います。外行き用の、できるだけ顔に張り付いたような笑顔で。


 しかしそれがお気にめさなかったのか、看守さんは仏頂面を一ミリも崩すことなく、冷たく言い放ちます。


「被検体08号、出ろ」


 被検体08号とは、はて?


 この部屋には私と看守さんしかいませんし、看守さんが自分に出ろとは文脈に些か無理がありますので、十中八九私の事を指しているのだと思います。しかしながら、ヒケンタイーーどう好意的に捉えても、不吉な意味合いしか感じ得ないその言葉に、私は恐る恐る尋ねます。


「あの……申し訳ありません。ヒケンタイゼロハチゴウとは私の事でしょうか?」


 ちなみに、恐る恐るなのはただ単に私が人と話すのが苦手であるからです。そんな私の心境を知る由もない看守さんは、冷たい声で言い放ちます。


「そうだ。出ろ」


「あのー……、私はどうなるのでしょうか?」


「それを答える義務は俺にはない。出ろ」


「……今日はいい天気ですね?」


「しらん。出ろ」


 もはや何を訊いても出ろとしか言われない気がしました。


 私は消え入るような声で「はい」とだけ答えると、素直に立ち上がりました。ずっと硬い床に座っていたので、お尻が岩のようで、鈍痛が身体の奥に響きます。痛みにはある程度耐性がある方ですが、それは我慢ができるというだけで、痛いものは痛いのです。


「これをつけろ」


 重たいお尻を引きずりながら2、3歩看守さんに近づくと、彼は私に何かを差し出してきました。


「……これは?」


「つけろ」


 基本的に質問は許されないシステムのようです。


 手渡されたそれは、一枚のカードでした。少し硬めの素材で若干の厚みがあり、指先に軽く力を入れるだけでは全く折れる気配はありません。大きさは、昔滞在していた国にあったメイシとほぼ同じ大きさでした。そして、表面には8という数字が8桁書かれたナンバーと、小さい窓枠に収まった少女の写真が印刷されていました。


 12、3歳くらいでしょうか。長く伸ばされたプラチナブロンドの髪は、前髪に若干の癖が見受けられます。まだ幼さの残る顔立ちは深窓の令嬢のような儚さがありますが、細い首を両断するかのような大きな傷跡がミスマッチでした。そして、何よりも気になるのがその瞳です。空色をした彼女の瞳は、なんというかその、死んだ人間のような目をしていました。目に光が宿って無いといいますか、普通の人が見れば見落としてしまいそうなほどのささやかな差異ではあるのですが、私にははっきりと見てとれます。全く、若い少女が嘆かわしいことです。若者とはもっと活力に溢れた存在であるべきです。特に子どもならなおさら、むき出しのエネルギーの塊のような存在であるべきなのです。と、そんな心にもないことを平気で考える私でしたが、


「ーーって、私じゃないですか、これ」

 

 はい。


 私のことでした。


 カードに印刷された写真には、私が写っていました。おそらく、ここに入れられる前の検査のときに撮られていた写真でしょう。写真写りはお世辞にもいいとは言えません。


 カードには紐がついておりました。つけろとのことなので、私はそれを首に通してぶら下げます。ほぼほぼ壁に近い私の胸辺りで、カードは寂しげに揺れていました。


「手を出せ」


 私は握手をするように手を差し出します。


「違う。両手だ」


 言われるままに残った片方の手も出しました。


 がちゃん。


 流れるような看守さんの動作で、あっという間に私の両の手は拘束具によって固定されてしまいました。


「あのー……これは?」


 無駄なことと知りつつも一応たずねます。


「こっちだ。こい」


 そう言うと、看守さんはきむすびを返し歩き出しました。私は言われるがままに、その後をついていきます。流されやすい私と、口下手な私、自分の意見を強く相手に主張できない私、日和見主義の私、色んな弱い私が同居していました。


 だって、怖いじゃないですか。


 看守さんの腰には、ホルスターに収まった鈍い光をたたえるオートマチックピストル。反抗でもしようものなら、あっという間に蜂の巣、私の身体中から血という名の蜂蜜が流れ出ることは必至です。


 痛いのは嫌です。


 我慢はできますけど、嫌でした。


 看守さんのあとを追い牢屋を出ると、一本道の長い廊下が奥へ奥へと続いていました。床も壁も、牢屋と同じ素材で構成されておりました。石でもなく、木でもなく、まるでのっぺらぼうのように無機質な、不思議な光景です。いえ、一つ訂正します。壁ーー淡々と連なる両脇の壁には、一定間隔で白い四角模様が描かれていました。丁度私の目線くらいの高さに、丁度私の手のひらくらいの大きさで。おそらく、スイッチなのだと思いました。違っていても特に残念ではありませんが、きっとそうなのだと思います。


「と、すると結構な牢屋の数ですねぇ……」


 つい口に出してしまいました。


「……お前は少し独り言が多いな」


 ーーうん?


 と、私は恥ずかしくも一瞬、思考が停止してしまったようでした。いえーー看守さんの前で独り言を洩らしたのは初めてのはずだとか、それとも私は自分でも気付かぬ内に考えていることが言葉に出てしまう危ない人間なのでしょうかとか、ああきっと牢屋に見えないように仕掛けられた監視カメラが存在していたのだとか、だとしたら私がアレを済ませている時も見られていたということになるだとかーーそんな些細なことは考えられても、肝心な部分が抜け落ちてしまっていたのです。


 もしかして今、看守さんに話しかけられました?


 私は一瞬、看守さんに何かを言おうと口を開きかけましたが、すんでのところで言葉を飲み込みました。おそらく無意味だと思ったからです。勘ですが。


 それでも、取っ掛かりを、得られたような気はしました。


 しかし、だからといって、それに手を掛けようとは思いませんでした。


 今現時点でそれをする意味をあまり感じませんし、下手に手を間違えると、小枝よりもか細い私ごときなど一瞬で制圧されてしまいます。なるべく情報だけは仕入れたいところですが、我慢我慢。


 単純に、恥ずかしいですしね。


 完全に会話が途切れてしまっているこの状況で、自分から話を切り出すのって、とても勇気のいることだと、私は思いますよ。


 ですので、私は黙って看守さんのあとをついていきます。まるでストーカーのように。もしかしたら私にはストーカーの資質があるのかもしれません。

丁度両手はお縄をいただいている状態ですし。何が丁度なのか、自分でもわかりませんが。


 私には、思ってもないことを思うきらいがありました。


 思ってもないことを、思う。


 なんとなく、哲学めいています。


 それすらも、思っていないことだったりして。


 看守さんは後ろに目でもついているかのように、常に私と一定の距離を保ちつつ前を行きます。その後ろ姿は一見無防備に見えますが、当然のように隙がありません。隙とはいっても、私は武道の心得など皆無に等しいので、あくまでなんとなくですが。敢えていうならば、パーソナルスペースでしょうか。人と、人との距離。それは本来、心理的な要素のお話ですが、この場合は物理的な意味合いも含みます。いや、あるいは本来の意味も孕むのかも。看守と囚人(?)。年齢と性別。差別と区別。人種と人格。考え方と捉え方。人間とーー化物。二人の間には、距離以上に長く遠い何かが渦巻きます。


 あるいは、人間関係なんてそんなもの。


 などと断ずるほどに、私は賢くもないし偉くもなく、かといって愚かであるつもりはありませんが、それでも、思うところはありました。


 そう。


 色々とーーありました。


 そんな毒にも薬にも、実にも錆びにもならないようなことをつらつらと考えていると、やがて。


 時間にして数分ほど歩いたでしょうか。気がつくと、長い廊下の終着点が見えていました。代わり映えの全くしない通路故に、どこまでも続くかのような錯覚を覚えていたところに、その扉は唐突に現れたようにさえ思えます。


 洗練された、機械仕掛けの扉でした。のっぺりとした、なんの装飾も施されていないその扉は、鈍い銀色をしていました。金属ともまた違う、不思議な材質です。形から見て取れる構造としては、左右開きの扉ですが、どこにも取手らしきものは見当たりませんでした。


 どうやって開けるのでしょうか。牢屋みたいにスイッチらしきものも見当たりません。


 そんなことを考えていると、突然、たくさんの赤い光が天井と壁から看守さんに向かって注がれます。びー、という形容しがたい音ともに一呼吸おくと、どこからともなく機械的な声が聞こえてまいりました。


「トウロクナンバー09461876、トウロクメイショウ『アイル・シアリス』、ニンショウカンリョウイタシマシタ」


 そして、扉が静かに素早く開きます。生体認証のようでした。どういう仕組みかは全くわかりません。過ぎた科学は、魔法と区別がつかないものです。原理不明。原因不明。解読不明。使用用途だけが解説され、確立され、行使される。大昔のーー“黄昏以前”に人類(われわれ)が所有していた技術体系は、とうの昔に断絶し、今の人類にとっての技術とは、未来に求めるものではなく過去から掘り出すものになっていました。


 “どんな危険を侵してでも”、できるだけ多くのそれを、手中に。


 それほどまでに、『黄昏の遺物』は人類ーーないし、それらが形作る“国”からすればとても魅力的なものなのでした。


 国の力とはつまるところ、どれだけの生産性を得られるかどうかに掛かっていますので、今の社

会では遺物をどれだけ有することができるかどうかが国力に直結します。


 先ほどまでの牢屋といい、連なるこの空間といい、今の扉といい、この国はどうやら遺物の発掘が盛んなようでした。


 ということは、つまり《耐性者》の数が多いということでーー。


 ふむーーなんとなくですが、少しずつピースは揃ってきているように思えました。嫌な予感が強まるばかりなのが、残念ですが。


「ーー何をしている。早くこい」


 ゲートを通過した看守さんが言います。先ほどの生体認証から、お名前はアイル・シアリスさんとおっしゃる様子。しかし、あまり親しくもない相手を名前で呼べるほど、私の保有するコミュニケーション能力は高くありません。あちらの口から直接名乗らないということは、名前を呼んで欲しくはないという可能性すら考えられるわけで。


「……看守さん、質問があります。よろしいでしょうか?」


 私はおずおずと言います。どうしても訊きたいことがありましまので、質問が採用されやすいように手をあげることも忘れずに。両手が拘束されているので、万歳のような格好になってしまいます。


「なんだ? 早くこい」


 ……え、と。


 これは質問を許されたのか許されていないのか、どっち?

 

 会話能力にも経験値にも乏しい私には、判断が難しい難題でした。……ですが、まあ、その答えが是にしろ非にしろ、訊かなければならないことが訊かなくてもいいことになりはしませんので、私は問いを投げかけます。


「あの……その、このゲート、生体認証……? になっているみたいなんですけど、私が通っても大丈夫なんでしょうか?」


 言いたいことがうまくまとまらず、しどろもどろな私。会話って、難しい。


 私が聞きたいことはただ一つ。


 すなわち、あの赤い線達が、“スキャン”ではなく、“照準”にならないかどうかです。


 当然、囚われの身である私の生体情報など登録されているわけもなく、通った瞬間、身体中穴だらけなのは勘弁願いたいところでした。ものすごく……痛そうですし。痛いのは、嫌です。絶対に。付和雷同、アイデンティティの欠落、個性の没落、日和見主義、人に状況に流されるままよの私に許された、唯一といっていい矜持でした。ーーそんな泡沫の矜持さえも、平気で侵すのがお前という人間だーーとは師匠の談ですが、今はそんなこと関係はないのです。とにかく、大切なのは今ここで、無事、私がゲートを潜れるかどうかなのです。


「俺が渡したIDカードは身につけているな?」


 私は、看守さんの言葉をなぞるように首元にぶら下げられたカードに触れます。


「なら大丈夫だろう」


 何故、だろう、なのでしょうか


「何故、だろう、なのでしょうか」

 

 珍しく思ったことがそのまま口に出る私です。



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「認証登録自体に携わっているわけじゃないんだ。“前の奴等”は大丈夫だった。それで十分だろう?」


 前の奴等。なるほど、これで私の他にも囚われの身の人間がいることが確実なものになりました。牢屋の数からして相当数?


 いやいや、そうとは限らないでしょう。牢屋の数から試算することは、あまり意味があるとは思えません。ならば少数?  いえ、それも否でしょう。看守さんの台詞からして、あまり管理体制に赴きが置かれているようには思えません。ということは、“何らかの目的で集められた私達”に、万が一事故が発生しても特に問題がないということ。そこまでは言い切らずとも、代替の数くらいは用意されているとみるのが妥当でしょう。


 つまるところ。


「いえ、十分ですよ」


 私は、迷わず足を踏み出しました。


 つまるところ、選択肢などはなから存在しないのです。従っても、従わなくても、結果は同じ。逆らっても、逆らわなくても、順序が違うだけ。強制的な二者択一。自由であるが故の、不自由。それはまるで、人生のような。痛いのも、痛くないのも、生きるのも、死ぬのも、それはーー同じこと。

 ならば、きっと迷う理由は無いのでしょう。おそらくは。


 先ほどの看守さんと同じ位置までくると、


 無数の赤い光が私の小さな身体を余すところなく撃ち抜きます。


 びーっと。


 またこの音で。


 そして、


「ゲストナンバー、88888888。ニンショウ、カンリョウイタシマシタ」

 

 あっさりと、許可が降りました。


 扉は看守さんが通ったまま開きっぱなしでしたので、私はすごすごとゲートを通過します。


 ついてこいと、短く看守さんは言いました。私は言われた通りに、後に続きます。


 牢屋の前と全く同じ様相の通路を行くこと暫し、今度は階段が見えてきました。とても長い階段、のように思えます。閉鎖的な空間に存在する階段ですので、目に見える範囲はあてにはなりませんが、なんとなくそう感じました。あるいは無意識に、今いるこの場所が地下深くであると認識しているからなのかもしれません。


 そして、その感覚は間違いではありませんでした。看守さんに続き、階段をのぼること幾星霜、途中ゲートをいくつもくぐり、また別の通路を通っては、再び階段へ、その繰り返し。一向に終わりが見えてきません。


「はぁ……はぁ……」


 自分の、体力の、無さが、恨めしい。

上に登るという行為は、平地のそれとは段違いに体力を消耗します。普段は使わない筋肉を稼働させるための代償。ふくらはぎの裏側は悲鳴をあげ、太ももは次の一歩を頑なに拒み、肺はまたとないペースで呼吸を駆り立てます。


 まるで、遠い国の神話にある、黄泉比良坂での行軍を連想させるような過酷さです。いえ、あれは一説には坂ではなく峠道であったような気もします。


「……どっちでも……いいですね……」


 本当に。


 辛さを紛らわせるための思考も、まとまりがありません。


 看守さんは、まったくもって全然平気そうでした。前を向いているので、顔色は伺えませんが、きっと、汗ひとつかいていないのでしょう。歩みは淀みなく、ペースに乱れなく、体幹にブレなく、平然と歩を進めています。


 さもありなん。


 何せ彼は、私の食事を運ぶ度にこの通路を往復していたという衝撃の事実があるのですから。


 ……いや、流石に運搬用の昇降機がどこかにあるのかもしれませんね。囚われていたのは私一人だけじゃないようですし、他にも看守がいると考えても、歩いて食事を運ぶのは無理がありそうです。


 ……無理、ですよね……?


 なんとなく、今私の前にいる看守さんは、そういった無理を平然とやってのけそうな方に思えました。恐ろしいことに。


「…………」


 と。何度目かの階段を登り終え、幾度目かのゲートをくぐり、待ちわびた通路を踏みしめていた、その時でした。私の心の声が聞こえていたかのように、いつの間にか看守さんがこちらを振り向いていました。足を止め、首だけでこちらを見ています。


 何かをしでかしたのかと心配になります。小心者の私。


「…………ふぅ」


 しかし看守さんはそんな私を意に介さないとばかりに、短く嘆息すると、いきなりその場に座り込んでしまいました。


「え、と……」


 どういうことなのか、どうすればいいのか、判断に困りました。


「俺は疲れた。少し休む。その間、お前は勝手にしてろ。逃走と抵抗以外は、俺の知ったことじゃない」


 どうやら、座って休めと言われているようでした。


「……いいんですか?」


「どうせ“お前で最後”だからな。それに、俺は休めとは言ってない。勝手にしろ、と言っただけだ」


 私は少しの間悩んでから、結局はその場に腰を下ろすことにしました。手を自由に使えないので、一旦前かがみになるようにし、両腕を床につけて、それを支えにゆっくりとお尻を下ろします。 


 閑話休題、の逆。


 本筋から一抹への休息へと、私は身を委ねます。


 一息。


 まずは乱れてしまった呼吸を戻そうと、意識的に深呼吸を繰り返します。そして少し落ち着いたところで、


「ありがとうございます」


 そう言葉にしました。この場には私と看守さんしかいませんので、視線を向ける必要はありませんでした。


 人の、目を見るのはあまり好きではありません。心を、見透かされるような気持ちになるから。心が、視えてしまうような心地になるから。存在自体が弱さの塊のような私にとっては、それは致命傷にすらなりかねません。


「礼は言うな。俺はあまり礼を言われるのが好きじゃない」


 看守さんは淀みのない声で言いました。おそらくそれは彼の本心なのでしょう。そして、続けます。


「例えば、殺処分される犬に、可哀想だからと餌をあげる行為が何になる? そこに意味も無ければ意義はない。あるのは、ただの気まぐれと、小綺麗なエゴだけだ」



 私はその通りだと思いました。

 その通りだと、思い出しました。


 過程がどうであれ、結果がどうであれ、その後がどうであれ、死んでしまえば、そんなものは皆等しく無意味です。いつだって死に意味を求めるのは周りの人間でしかなく、どんな行為も、どんな思いも、どんな物語も、当人が死ねばーーそこにあるのは、ただの無です。


 死んだ人のためとか。

 亡くなった方のためとか。

 死人を言い訳にして。

 自分のために。

 自分の心を守るために。

 それを認めるのが怖くて。

 誤魔化すのが精一杯で。

 逃げるしかなくて。

 逃げても堂々巡りで。

 ならばと、

 目を逸らしても。

 目を閉じても。

 何も変わらなくて。

 もがいて。

 あがいて。

 それでも、どうしようもなくて。

 壊れてしまえばいっそ楽なのにと。

 死んでしまえばいっそ楽なのにと。

 けれど、

 壊れるだけの弱さも、

 死ぬだけの強さも、

 どちらも持ち合わせてはおらず。

 中途半端に。

 曖昧に。

 続けた結果がーー私です。

 本来ならば続かないものが続けば、

 あり得ないことが、偶然に、

 起こり得ないことが、必然に

 成ってしまえば、

 存在しないはずのその先は、



 《私(ばけもの)》の、できあがり。


 

 私は、ぎゅっと、拳を握りしめました。拘束具が、かわいた音を立てます。


 それを見られたか、悟られたか、 はたまたたまたまか、


「まあーーつまりは、ただの気まぐれだ」


 と、看守さんは少しだけ、ほんの少しだけバツが悪そうに、そう、付け加えました。喋り過ぎた。そういうことなのかもしれません。実際には交わした言葉などたかがしれているので、私がいつまでも黙りこくっているのを見かねて、気を使っていただいたのかもしれませんが。


 しかし、


 どちらにしても、やはりここで言うべきことは一つしかないように思えました。


「ありがとうございます」


 私は言います。


 何に対してのお礼なのか、


 自身にも分かりませんでした。それはお礼を口にする上で大変失礼なことにあたるのでは、という理性ないし考えもあるのですが、何故だか言わずにいられなかったのです。不思議なことに。自分にこんな一面もあったのかと、まるで他人ごとのようにも思ったりして。



 はたして、看守さんは。


「ーーそうか」


 とだけ答えて、今度は、何も言いませんでした。

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