パワーズ・オブ・ラブ
山本弘
第1話
初めの三秒は唐突でした。
天気の話でもするように
悪びれた風もなくあなたが告げた
思いがけないそのひと言が
受け入れるにはいきなりすぎて
私の目の前 宙ぶらりんに
意味もなく浮かんでいたのです。
空っぽになった私の世界で
ウィンナー・コーヒーのカップがふたつ
白い湯気ゆらしていたのです。
三十秒が過ぎる頃
言葉が胸にしみてきました。
悲しみも怒りもまだなくて
こんなドラマをいつか見たなと
何だかちょっとおかしい気分で
喋り続けるあなたの唇
ぼんやり見つめていたのです。
だけど五分が過ぎる頃には
涙が世界をゆらめき溶かし
あなたを呪う気持ちがいっぱいで
それでも口先ではどうしてか
いいのよ気にしなくてもと
何度も何度も呟いていました。
五十分が過ぎた頃
私は冷たい窓に頬寄せ
ひとつ残ったガラスのコップに
ウェイトレスがぶっきらぼうに
水を注ぐのを眺めていました。
窓の外は晴れた午後
私以外はみんな 楽しそうでした。
八時間半が過ぎた頃
私はひとりベッドの上で
子供のように膝をかかえて
世界の終わりを待っていました。
蛍光灯の嘘っぽい白さと
やけに陽気なDJの声
私の周囲で踊っていました。
だけど三日半が過ぎた頃には
ようやく涙も区切りがついて
鏡に向かって作り笑顔が
できるようになりました。
ひと月と七日が過ぎた頃には
なぐさめてくれる友達に
結局ああいう奴だったのよと
強がりでなくすんなりと
言えるようになりました。
それでも時おり胸が痛んで
眠れない夜がありました。
そして一年が過ぎた頃
あなたとちっとも似ていない
男の人に出会いました。
その人がくれたまごころのお礼に
私は愛を演じてあげました。
それはあなたから教わったのです。
十年が過ぎた頃には
典型的な家庭の主婦の
演技もどうにか板につき
二人の子供や平凡な夫と
幸せごっこに耽っていました。
百年が過ぎた頃
私はすでに土の下
年老いた子供や孫たちの
思い出の中にだけ
生きて動いていたのです。
あなたへの想い あなたへの愛
すべては時の中に消えました。
一千年が過ぎた頃
かつて私であった分子の群れは
風と海流に吹き散らされて
この青い星の空と陸と海に
一様に広がっていたのです。
私の名前を覚えている人は
もう誰もいませんでした。
一万年が過ぎた頃
はりぼての文明は崩れ去り
都市は忘れ去られました。
あなたと別れたあの街も
とうに荒野に還っていました。
それでも注意深く探してみれば
あの時のカップの破片ぐらい
見つかったかもしれません。
十万年が過ぎた頃
地上から人の姿が絶えました。
青い空の下 ただ風が吹いていました。
百万年が過ぎた頃には
星座もすっかり形を変えて
あなたの天秤座 私の山羊座
みんな壊れて散っていました。
一千万年が過ぎた頃
名も知れぬ小惑星が堕ちてきて
大陸の端のちっぽけな島
あなたや私の生きた土地を
炎と雷鳴で打ち砕き
海の底に沈めました。
一億年が過ぎた頃
いつかあなたが冗談めかして
あの星の光のように
君への愛は揺るぎないと誓った星
老いさらばえたシリウスが
数百光年かなたの
寂しい闇の片隅で
ひっそりと燃え尽き 死にました。
十億年が過ぎた頃
大陸さえもうつろい崩れ
見知らぬ生きものたちの文明が
次々と光り輝き 燃え上がり
母なる地球を傷つけては
順に滅んでいきました。
百億年が過ぎた頃
醜く肥えた太陽が
自らの子供たちを炎で炙り
小さな弟から順番に
むさぼり食いはじめました。
地球は焼かれ 融け 煮えたぎり
絶叫しながら死んでいきました。
一千億年が過ぎた頃
宇宙はゆるやかに歩みを止め
年老いた幾千億の銀河たちは
再び原初の一点へと
ふらふらと堕ちてゆきました。
星々は塵に
原子はプラズマに
ハドロンはクオークに
そして より基本たるものに
百兆の百兆の百兆分の七秒で時は果て
そして……
こうして再び あなたと会えて
私 とても満足よ
だって必ず会えると
信じていたもの。
すべての時と空間がただ一点に集い
エントロピーが反転し
失われたあらゆるものが蘇る
この瞬間。
起こったこと 起こらなかったこと
何もかもひとつになる。
私もあなたも本当は
いなかったのかもしれないけれど
それはどうでもいいこと。
出会って別れた思い出がある
それで充分じゃないかしら。
一度はあなたを逃がしたけれど
今度こそはうまくやる。
あなたをしっかり繋ぎとめ
決して誰にも渡さない。
強い女になってみせる。
たとえ失敗しても
また次の機会がある。
何度でも 何度でも
あなたは逃げられない。
さあ 新しいサイクルがはじまるわ。
まばゆい光の洪水となって
宇宙が広がってゆく。
またしばらくお別れね。
百八十億年ほど経ったら
また会いましょう。
パワーズ・オブ・ラブ 山本弘 @hirorin015
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