Onze
「ナーシャ。今からおまえに目隠しをつける。場所を覚えて勝手に遊びに来られたら向こうが困るからな」
そう言うエルの声は愉悦を含んでいる。言葉とは裏腹に、まるでわたしが視力を奪われても尚本部の場所を探り当てることを期待して楽しむかのような。
…期待?いや、この男のこれは「期待」なんて、良いニュアンスを多分に含んだ優しさの上にある感情ではない。
試しているのだ。わたしを。使い道があるから生かす。使えなければ捨てる。ヘドロのようなしがらみの上に形作られる彼の思考は至ってシンプルだ。
わたしがどこまでできるのか。
彼は、試している。
わたしはエルを見た。わたしの視線を掴まえたエルの目が奇妙に歪む。
…正解だ。目だけでわかる。エルはそう言っている。
ああ、面倒くさい。
「・・・エルはできるの?」
「おいおい。俺を誰だと思ってる?これぐらいわけないな」
エルは声にまで悦楽を滲ませて、わたしをにたりと見る。
「ふうん?ならわたしにも『できる』」
「大した自信家だ。誰に似たんだか・・・」
エルはそう言いながらも、口の端をつりあげて笑った。間違いなくこの男は、わたしを手の平に乗せて、眺めて楽しんでいた。かわいいおもちゃ。いつだったか、エルはわたしのことをそう呼んでいた。誰かの意のままになるというそれはわたしにとって当然屈辱ではあるが、幸か不幸か悪いことばかりでもない。わたしには譲れないものがある。その為に、多少の犠牲はつきものだ。だから、今のところエルの興味を損なうことは避けたいのだ。例え彼の、数多ある暇つぶしの、替えが効くひとつでしかなくても。わたしはくちびるを噛みながら、大人しくされるが儘になっていた。エルは手慣れた仕草で呆れるほどはやくわたしの瞳の上に布を巻く。
「手慣れてるわね。最低」
「おかげさまで。最近の女はこういうのがいいらしい」
この男には皮肉なぞ意味を成さないのはわかっていたがそれでも言いたくなるのは仕方が無いだろう。こんな最低な男を相手にしなければいけない女には心から同情するが、エルに言わせれば腐った肉に集(たか)る蝿の如く女の方から寄ってくるようだ。エルの男性的魅力はさっぱりわからないが、男女の機微についてもわたしはわかるようにしなければならない。これからのためにも。
しかしそこでわたしは自らの瞳を覆う布からの光にふと気づいた。薄布一枚を隔てて見える景色。エルの顔。
「・・・エル」
「ん?なんだ?」
わたしは不機嫌さを隠しもせず乱暴に言った。エルは確信犯なのだろう、にやっと笑ってわたしに顔を近づけた。
「呼んだんじゃない」
わたしはすぐさまエルの腰のあたりを蹴り上げて距離を取った。それもエルにとっては子猫に噛まれたぐらいでしかないのだろう。蹴ったわたしの足の方が痛い。彼が至く楽しそうにくっくっと笑っているのが見える。
何なのだろうこの男は。意味を成さない布も、この男も、本当にイライラする。どういう意図があるのだろう。わたしを、甘やかしている?
自分で考えてすぐさま首を振る。
いいえ、それはあり得ない。この男が、わたしを甘やかすなんてことをする訳がない。
「ナーシャ。俺はつくづくおまえには甘くなってしまうなぁ。こんな醜態、他の女には見せられん」
しゃあしゃあとそんなことをほざくエルの腰をもう一度蹴ろうとして、素早くエルに足首を掴まれた。
エルは変わらずにこにこと笑っている。わたしはさっと青くなった。
しまったと思って藻掻いたがもう後の祭りだ。エルの手はわたしの骨と皮だけの足を捕らえたまま、空に縫い付けられたようにぴたりと動かない。そこから伸びるわたしの膝が、まるで蜘蛛の巣から逃げようと足掻く蜂のように、見苦しく跳ねまわる。
「しかし、だ。俺はルパンほど優しくはないかも知れないな?ほら、こんな風に」
「…!」
ぐ、とエルの手にもの凄い力が篭もる。思わず食いしばったわたしの歯の隙間から堪えきれない息が漏れる。
「本部見学ツアーは子供用の杖が必要になるな。連絡しておこう」
エルは、どうでもいい世間話をするような調子でそう言うと、わたしの片足を掴んだまま歩き出した。わたしは引きずり倒され、地面に膝をつける。そのままずるずると引かれ、足の皮が地面で擦りきれる。
それはそう長い時間ではなかった。血の線が道を作る前に、わたしは放り投げられ、乱暴に車に乗せられた。シートに背を強かに打つ。
「楽しいデートの始まりだ」
エルが楽しそうに言った。
わたしは何を言っても無駄と諦め、目を閉じた。視界を遮断すればじんじんと足の痛みが身体に響く。エンジンの音を皮膚で感じる。
そう、きっといつか本当にこんな日が来るのだろう。男に痛めつけられ、車に連れ込まれ、視力も身体の自由も奪われるような日が。今日は、それの練習だ。わたしは運が良い。こんな、命の危機さえ覚えるような場面の予行練習が出来るのだから。「先生」には感謝しよう。少なくともこの男は今のところ、わたしをどれだけ痛めつけても、殺すのは惜しいと思っているから、命を奪われるような最悪の事態にはなり得ない。それさえわかっていれば、わたしは思う存分わたしのやれることをするだけ。
枷は多い方が良い。目をつぶり、耳を塞ぐ。わたしは「わたし」だけで、目指すものに辿り着いてみせる。
車の振動が身体を揺する。ドクドクと鳴る傷の痛みが自分の鼓動を強く意識させる。
わたしの体の中を、血が流れている音だ。生きようとしている。わたしはまだ。
だから、わたしは、なんだってやれる。
暗闇、耳から聞く音すらも体から追いやった中でふと思う。
エル。
本当の悪魔というのは、エルのことを言うのかも知れない。
なぜ、彼はわたしに見える目隠しを渡したのか。
この目隠し、なんてことない、たった一枚の布きれ。それ以上でも以下でもない。それだけ。
それが。
わたしの背筋に、冷たい汗が伝う。エルの心から楽しそうな笑顔がふと眼裏に浮かぶ。
そう。
一体誰が気づける?これが、彼の悪意の塊、アダムとイヴが齧った、真っ赤で美味しそうな林檎だと…。
きっと、彼は今まで幾度もそうやって、ひとの心の悪魔に囁いてきたのだろう。
ひとは弱い。楽な方へ、楽な方へと流れゆく。
真面目な聖職者が、性的な興味を惹かない同姓に囲まれている内は汚れない顔をして他人に教えを説けるだろう。
けれど、そこにひとり異性がいたら?自分に好意を持っていたら?その異性がどうしようもなく自分の好みだったら?その場所が絶対に他人には知られ得ない状況だったら?
果たして、何人の人間が誘惑を退けられるだろう。自分に失うものが少なくて、得るものだけ多い、そんな誘惑に負けない人間は極少数だ。重ねて言う。人間とは欲望に弱い生き物なのだ。
エルはその、人間ひとりひとりの弱さを嗅ぎ分けて、そっと優しく囁くのだ。どうしてあの林檎を食べないのか、と。とてもとても美味しいしみんなも食べていると。あとはただ待てばいい。獲物は自ら堕ちてくる。気がつけば誰もが身動きのとれない泥沼にはまりこみ、日常だった幸せなエデンは最早夢でさえ触れられない遠くだ。
わたしが今目を開けるのは簡単だ。目隠しをしていると言っても、意味が無い程外の景色は見える。手も拘束されている訳でもない、自由だ。この目隠しをすぐさま自分で取ることだって出来る。
そうして、流れる景色を覚え、道を振り返り、本部への距離や方角、地図を頭に入れることはこれ以上ないくらい簡単だ。
しかし、それをしたら最期、エルは忽(たちま)ちわたしから興味を失い、わたしは容赦なく殺されるだろう。少なくともエルの中の「かわいいおもちゃ」は死ぬ。命を奪われないにしても、どの道わたしは貴重な「先生」を失い、わたしの求めるものがまた遠ざかる。
拒絶をするのなら、わたしは目隠しをつけられる前に断固とした姿勢で暴れまわるべきだったのだ。大人しく目隠しを巻かれた時点で、選べる道はひとつしかなく、わたしはもうエルの舌の上だった。賭けてもいい。エルはわたしが目隠しの意味を成さないと気づき、弱い自分が簡単な道を選び取ろうと揺れ動き迷うところまで予想していたぶっている。なんて男。
悪魔だ。彼は正しく、人を堕落させる悪魔なのだ。
もしも、わたしが選択を誤ったら。エルはいかにも悲しそうな顔でわたしにこう言う。
「ああ、かわいそうなナーシャ」
そして躊躇無くわたしの胸に短剣を突き刺すのだろう。
わたしの身がぶるりと震えた。
車を運転する隣の悪魔がにやりと笑った、気がした。
Nalesha 50まい @gojyumai
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