Dix

 結果から言えばエルは間抜けじゃなかった。




「待たせたなナーシャ」




 怪我の一つも負わず、彼はいつものように飄々(ひょうひょう)とわたしの前に現れた。




「ん?なんだその顔は?この前は本部に行くのをあんなに楽しみにしてただろ?」




「エルがルパンに殺されてなくて残念だと思ってたところ。本部に行くのは…」




 わたしは顔を奇妙に歪めた。




 思わず楽しみだと口を滑らせそうになって慌ててきつく唇を引き結ぶ。どうかしている。憎悪は慣れ親しんだ感情でも、『楽しみ』だなんて今までそんなものとは無縁だった。これが浮かれていると言うことなのだろうか。




 それに、楽しみだなんてこの男の前で口を滑らせでもしたら最後、このサディストは嬉々として即座に今日の本部行きを取りやめるに違いない。わたしがこんなにわかりやすければ、とっくにばれてると思うけれど。




 わたしはそれを考えて思わず舌打ちをした。




「おいおいナーシャ。俺の前で舌打ちする女はおまえぐらいだぞ」




「その顔を前にしても今まで堪えてきたわたしの忍耐力に感謝して」




「つれないな」




 あっという間にわたしの腰をエルが浚った。




「あたりまえでしょ。触らないで」




「おまえは特別だよ、かわいい俺のナーシャ」




「やめて!」




 米神にキスされてあたしはエルを突き放した。エルはくくっと楽しそうに笑うと、わたしを腕に抱えて歩き出した。当然抵抗したけどいつもの如く無駄だった。




「本部は少し遠いぞ」




「…本当に連れていってくれるの?」




「おいおい、そういう約束だろ?俺は嘘はつかないぜ」




 どの顔でそんな言葉が出てくるのか神経を疑う。




「…嘘つき男(メンティローソ)…」




 スペイン語での皮肉も、この男にはもうどこ吹く風だ。




「メンティローソってのも、いい名だ。人の世界を生き抜くには嘘はつきものなのさ。常に人を疑え、ナーシャ。決して誰も信用するな。心を譲れば、喰われる。信じられるのは、自分だけだ」




 エルの親指がわたしの喉のやわらかいところを探った。




「ルパンの目をどうやってかすめたの、先生(ムッシュ)」




 頚動脈(けいどうみゃく)を押さえられながら、わたしは言った。




「ああ。ルパン怒り狂ってたぞ。おまえの指を折ったのが研究員の誰かだと思っているから今は何とかバレていないが、それも時間の問題だな。まぁどうせばれるならそのうち自分からばらすさ」




 命知らずな…。わたしは他の人間と違って、他人にとっての自分の命の重さを、主観に惑わされることなく正確に量れていると思う。多分。そしてなぜだか知らないけれど、ルパンにとってわたしの命は大層重いらしい。ちいさな傷でも見逃せないほど。




 エルもそのことを考えてたみたいだ。




「なんでだろうなぁ…ナーシャ、おまえルパンと寝たか?」




「バカ言わないで」




 怖気(おぞけ)が走る。




「だよなぁ。少女趣味とも思えないしなぁ…。あいつは俺と違って、正気の筈なんだが。哀れな男だ。おまえにああも執着するのかがわからんなぁ」




「ふうん。狂人の自覚はあったのね」




「あるさ。無知の知って奴だよ。俺は俺が狂っていることを知っている。それはそれだけで一つの武器だ。ナーシャ、おまえも人のことは言えないだろう?」




 わたしは笑った。




 もちろん、わたしは狂っている。




 他人を労り尊重し時には自分が犠牲になっても守る姿がこの世のあるべき姿なら、自分の目的のために犠牲を全く厭わないわたしは確かに狂っている。




 でもそれは「世界」基準で「わたし」を評価したに過ぎない。所詮わたしはここで今エルに抱えられて彼に喉の血管を押さえられながらも振り払うことすらできない無力なひとりの人間だ。わたしは決してエルの視点からわたしを見下ろすことはないし、エルもわたしが感じる首の圧迫感を味わうことは決してない。他者の感覚や感情は想像するしかないのだ。目の前の人間が切られて血が出て「痛そう」と思うのは、自分が同じ経験をしたことがあって、「痛い」のが「嫌なこと」だと予め知っているということが前提にある。だから、床に転がっている人形の腕がとれているのを見ても「痛そう」などという陳腐なことを思ってしまう。人形に心はないし痛覚もないということを世の常として知っているにも関わらず、だ。




 人形に痛みはない。常識だ。でもそれはどうしてそうとわかるのだろう。もしかしたら人形も、無邪気な幼児に腕を引きちぎられ中の綿を引きずり出されながらもんどりうつほどの痛みを感じているのかもしれない。ただ、人形には自分以外のものに感情を訴える手段もなく、それを人間がわからないだけで。しかし人形が感覚を持つそんなことはありえないことと、この世界では常識になっている。人形に痛覚はない。感情もない。それが、常識?いや、わたしはそれこそを疑問に思う。人形が人間のように感情がないと、誰が言い切れる?わたしたちは誰ひとり、人形になったこともないくせに。そう、だからその可能性はゼロじゃない。




 そして逆に言えば、腕をもがれて苦しみのたうちまわる人間も、その痛みを本当に感じているのだろうか。治療しようと駆け寄る人間も、その痛みは想像するしかできない。演技ということもあるわけだ。わたし以外の他者が、わたしと同じように痛みを感じ、苦しんでいると考えるのは早計だという考え方もあるとわたしは考える。




 と言うことは、究極の話、わたし以外のものはこの世界で、息をしていないのと同じだ。わたし以外の人間が、わたしと同じように痛覚を持ち、感情を携え、呼吸をしているだなんて、一体誰にわかるのだろう?他者のその痛みを、苦しみを、悲しみを、ただ想像するしかできないのに?この世界中で、実は生きているのがわたしひとりだけと言われてもわたしは驚かない。




 だから、わたしはわたしを一番大事にして、一番信じる。その他のものは、全てガラクタと同じ。人も、人形も、わたしにとってはかわらない。




 つまり何が言いたいのかと言うと、だからそんなことを考えるわたしは、世間一般から考えると確実に「狂って」いるし、でも世間一般なんて、わたしにしたら気にかける価値なんて微塵も見当たらないから、わたしの見地でわたし自身を判断すると、わたしはこの上なく「正常」だ、ということ。




「だからおまえは好きだよ」




 エルも笑った。きっとわたしたちは同じ顔で笑っているんだろうと思う。




 わたしたちは、「正常」で「狂っている」。それを自分でわかってる。




 だから多分、わたしはルパンが疎ましい。ルパンはちゃんと人間だから。




 生きるために進んで黒く染まったわたしには、わたしの傷に一喜一憂してしまうルパンよりも、自分を狂っていると言いきれるエルのほうが、やはり気安いのだ。

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