Neuf

 ルパンにわたしの折られた指が見つかったのは、あともう少しで治りきるという時だった。




「ナリョーシャ」




 研究所の中で、その声が聞こえた瞬間、私は常とは違う理由で舌打ちしたくなった。




 いつもだったら単に面倒だという理由だけだけれど、今はこの目敏い声の主に逢うのは不味い。なにせ、わたしはエルに折られた指が治りきっていなく、そしてルパンは私の怪我にやたら敏感だった。彼はわたしをただの子供にさせたいようだが、それはわたしの望みに逆流すること。だからわたしを子供として扱わないでいてくれるわたしの「先生」が見つかると困る。ただでさえ、次は本部に連れて行ってくれると言っているのに。ここで下手なことして、取り消しにされでもしたらまたわたしの国が遠のく。まぁ、わたしもあの男の言葉を全面的に信用しているわけじゃないけれど。それでも期待してしまうのは、仕方がない。




 ルパンもエルも国境を跨ぐ仕事がある筈なのに、わざわざ来る必要もない研究所にほいほい顔を出すのかが理解できない。まさかただ私に逢いにきているほど暇でも頭がおかしいとも思いたくないけれど。エルはまぁ置いておいても、ルパンは…。いや、ルパンの心はわたしにはつかめない。彼に利があるとどうしても思えない不可解な言動ばかりしている。




「ナリョーシャ」




 ルパンは常のように微笑んでそこにいた。




「会いたかったよ。マシェリ」




 わたしは無表情で二つ瞬きをした。




 大丈夫。手から視線をそらせて、いつものようにバカみたいな応酬にほんの少しつきあえば解放されるはず。




「わたしもよ、ルパン」




 わたしはぱっと花が咲いたような笑顔をみせると小首を傾げた。




 ルパンは一瞬だけ驚きの表情をのぞかせたけど、すぐにそれを笑顔の仮面に隠した。




「嬉しいね。きみがそう言ってくれる日が来るなんて」




「いつも言ってるじゃないの。変なルパン」




 わたしはおかしくて仕方がないというようにくすくすと笑った。




 そしてそのままくるりとルパンに背を向ける。




 いくら愚かにみえても、今は道化に走るに限る。ルパンはきっとわたしの真意を探っているはず。その間は、きっとルパンの目をそらせる。




 そう信じて、わたしは忙しなく口を動かす。




「会えない間、あなたが命を落としてもうここにこないんじゃないかと思って、夜も眠れなかったわ。もしそうなってしまったら、つらくてつらくて、食事も喉を通らなくて、わたしも死んでしまうかもしれないわ」




「いいや」




 わたしがはっとするほど静かで強い声がした。思わず振り返って、わたしは芝居も忘れて息をのんだ。




「きみは、生きるんだ」




 ルパンは笑っていなかった。いつも微笑みを絶やさず貴公子然とした彼が、感情を顔に浮かべていなかった。振り返るわたしを待っていたかのように、その緑の視線は真っ直ぐにわたしのもとへ届いた。




 いつも笑顔な人の無表情は、決して「無」表情なんかじゃなくて、それ自体でひとつの感情を表しているんじゃないだろうか。現にルパンは、表情を消してもその喉の奥で何らかの感情が渦巻いているようだ。でもそれがなんなのか、他人のわたしには理解できない。




 なぜ、あなたはそんな目でわたしを見るの。




 ルパンは瞬きもしなかった。言葉が消えたわたしたちの間に、空気すら同席を拒否したかのようだった。




 そして、わたしは更に驚くものを見た。




 ゆっくりと、重たげにルパンの左の目尻から涙が流れたのを、わたしは信じられないような驚きと、ちいさな失望のようなものに揉みくちゃにされながら見ていた。




 目を逸らすことも、言葉を発することも、動くことも、呼吸すら忘れて、わたしたちは見つめ合っていった。




「きみは、生きるんだ。ナリョーシャ。どんなに、辛くて、苦しくても」




 ぷつんとなにかが途切れた音がした。ルパンのその言葉で、空気が激しく荒くれる洪水のように戻ってくる。わたしは自分の感情に押し流されないように、大きく息を吸って足を踏ん張らねばならなかった。




 「辛く」て、「苦し」くても?「生きる」?わたしにそれをいうの?フランスの犬でしかない、あなたが。




 わたしは怒りで頭が煮えそうだった。




 わたしは、このフランスで、辛くて苦しくなかったことなんて、たったの一度だってない!




 でも日常のそれはわたしにとって本当の意味での「辛くて苦しいこと」ではないから。今がどんなに暗闇でもわたしには光が見えているから。目印さえあれば、わたしはどんな手を使ってでもどれだけ時間がかかっても、きっと辿り着いてみせる!




 本当にわたしが絶望する時は、その光を失った時。




「あんたになんて…」




 声が内包する怒りで震えた。




 辛くて苦しくても生きろと、わたしにいうのは、わたしを下に見て侮辱することだ。




 わたしは生きている。誰に言われずとも、わたしは生きて、泥を啜ってでもドイツへ帰る。愛しい生まれ故郷へ。




 そのためだけに、わたしは生きている。今。




「きみを守りきれない僕を許してくれ、ナリョーシャ」




「触らないでっ!」




 金切り声を上げてわたしはルパンの手を振り払った。後ろ手に壁に手をつき、垂れ下がった髪の間からルパンを見た。




「ナリョーシャ」




 ルパンは悲しそうに微笑んだ。




「きみを愛している。心から」




 聞きたくない!この男の台詞は、どれもこれも、本来わたしに向けられるようなものじゃない。他の女に言えば、喜びのあまり身を投げ出す者さえいるだろうに、どうしてこの男はわたしにばかり構うのか。




 本意でも、偽りでも、どっちだってどうでもいい。そんな綺麗な言葉、わたしは欲しいと願ったことすらない。反吐が出る。




「あんたを、殺してやる…」




 体に収まりきらない苛立ちをどうにもできないまま、わたしはぎりぎりと歯を噛みしめながら言った。




「あんたを、殺してやる!」




「いいよ、ナリョーシャ」




 ルパンはかすかに微笑んだまま、言った。寂しさと諦めがまぜこぜになった、そんな顔で。




「君がそれを望むなら」




 ルパンは懐に手を入れた。わたしは一瞬何が出てきてもいいように身を縮こまらせたが、取り出されたのは装飾も美しい綺麗な銀の短刀だった。やけに古い。




「これはきみのものだ。きっときみを守ってくれる」




 ルパンはわたしにそれを差し出した。わたしはルパンの本意がわからず動けない。




 ルパンが素早くわたしに近づいて、わたしの手を取ると短刀を持たせようとした。しまったと気づいた時には遅かった。ルパンはわたしの手を引いたまま、短刀を持たせることもなく、まじまじとわたしの治りかけの手を見た。その瞳が冷えていくのを、わたしはどうにもできずただ見ていた。




「…ナリョーシャ」




 わたしの名を呼ぶ声は恐ろしく静かだ。




「これは、誰に?」




 エルがルパンに見つかるような間抜けじゃないことを、わたしは願うしかなかった。

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