Huit

「収穫はあったのか」




「なんの」




「さっきスパイの真似事してただろう。マシェリ」




 にやりと口の端をあげてエルが言った。




 わたしのことを愛しい人(マシェリ)なんてふざけた呼び名で呼ぶのはルパンだけ。それを知ってこの男は時折こうやってわたしをおちょくる。それはわたしを不快にさせる。とても。




「あれはただの練習、っ触らないで。エルが帰ってたとは思わなかったから、この前習ったことの練習をしていただけ」




 髪に伸びてきたエルの手をわたしは払った。




「おっと、悪い。いつもの癖で。でも見つけたのが俺だから良かったが、ルパンならお仕置きだぞ」




 弾かれた掌をわたしに見せるようにエルは笑った。




 ルパンもエルも似たようなものだと思う。エルに見つかれば面白がって肉体的にいたぶられるし、ルパンに見つかれば執拗に怒られて精神的に疲れる。願わくばどっちにも見つかりたくない。




「癖になる程いつも淑女の髪を触っているの」




「ん?なんだ、嫉妬か?おまえは特別だよ」




「冗談じゃない。巫山戯(ふざけ)ないで」




「ナーシャ。エレストドパラミ」




 わたしはため息をついた。




「…スペイン語はわからない」




「教えてないからな。もう少ししたら教える。覚えといて損はない。ちなみに今のは『きみは僕のすべて』。ルパンの言葉を代弁してやった」




 わたしはエルをじっと見た。




「どうしてエルはスペイン語を使うの」




 エルは訳がわからないという風に笑った。




「おいおい。スペイン人の俺が母国の言葉を使うのはおかしいことか?おまえだってフランス語を話すだろう」




「メンティローソ」




 一瞬でエルが動いた。わたしが飛び退く前に、腕に大きな手が張り付いた。力は籠もっていない。普段のエルならこの時点でわたしの腕は折られている。




 わたしは真正面からエルを見た。




「母国の言葉を使うのはおかしいことじゃない。だから、エルはおかしい。ずっと思ってた。なんで、スペイン人じゃないのに、スペイン語を使うの」




「スペイン語は、わからないんじゃなかったのか」




「わからない」




「『嘘つき男(メンティローソ)』…スペイン語だろう嘘つき女(マントゥーズ)」




 エルの顔が近付く。




 わたしの顔の、5ミリ前でとまる。互いの呼気がかかる位置。




「わからないふりをして盗み聞きをするのはスパイの常套手段でしょう。自分の身分を偽ることも。エル、あなたのように」




「ナーシャ、おまえ、俺に殺されたいのか」




 あまりに近すぎて、エルの更に低くなった声が頬骨に響く。




「スペイン語がわからないのは嘘じゃない。聞き取れる程知らない。喋れもしない」




「ナーシャ」




 ぐいとエルの顔が近づく。エルの唇がわたしの唇に、触れるか触れないか、呼吸をするだけでも触れてしまいそう。もしくは、もう触れているのかもしれない。




「なぜ、わかった。外見は言うまでもないが、俺のスペイン語は発音まで完璧だ。今まで誰にも気づかれたことはない」




「なんとなく。でも別に言いふらしたりなんてしない。そんなことをしてもわたしに利がないから」




「なんとなく?そんなもので…」




 エルは一旦言葉を切った。わたしの瞳を探り、そこに嘘がないとわかったのだろう。ゆっくりと顔を離した。わたしとエルの間に空気が戻る。




「勘で?恐ろしい女だな、ナーシャ。良いスパイになれる」




「名前も胡散臭かった。『エル』なんて。スペインの英雄からとったでしょう」




 レコンキスタ(国土回復運動)で活躍した貴族ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール。通称エル・シッド。絵本にもなり、国民には馴染み深い。




「できすぎと言いたいか?本名だよ。結構気に入っている」




 その言葉が本当かはわからない。




「本当に誰にもばれたことはないの?」




「名前の件は女に聞かれることはしょっちゅうだ。大抵『俺のヒメーナになってくれ』と言えば黙る」




 ヒメーナはエル・シッドの妻だ。虫酸(むしず)が走る程気障ったらしい。こんな男に女は引っかかるのか。




「わたしを殺すの?」




「いや今はやめておく。運が良いなナーシャ。少し前の俺だったらさっさと殺してた。これでもおまえは俺の楽しいおもちゃだからな」




 にこにこ笑いながらエルはわたしに近づいた。




「でもなぁ」




 わたしは身の危険を感じて逃げようとした。エルがこういう顔をする時は大抵ろくなことじゃない。けれどエルは図体に似合わず驚く程機敏な動きでわたしを床に取り押さえた。




「また痩せたか?これじゃあ治りが遅くなるぞ」




 心の底から嘆くようにエルが言った。言葉とは裏腹に、俯せに投げ出されたわたしの肘の関節の上に、エルの膝がのった。




「細いな。ちゃんと食え」




 エルが、わたしの腕を、膝を載せたところを軸にして、関節と反対側に捻った。




 わたしの全身に力が入り、冷たい汗が滲んだ。けれど、その瞬間はやってこなかった。




「やめた」




 また気紛れにエルは言ってわたしの腕を放り出した。わたしの上の重みがなくなる。




「今日は世情を教えてやろうと思ったが、残念ながら時間だ」




「そう」




「だが、次は本部に連れて行ってやる」




「本当!?」




 思いも寄らなかった言葉にわたしの気分は弾んだ。おかげで、反応が遅れた。




「ああ」




 エルは笑顔でわたしの右手首を掴むと中指から小指までを一気にへし折った。




 自分の骨が折れる音なんて、何度聞いても慣れるものじゃない。




「その指が治る頃に迎えに来てやる」




 脂汗でべとりと張り付く髪の隙間から見上げたエルは、いつものように冷えた瞳で笑っていた。

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