Sept

「気がついたか」




その声で目が覚めた。




重い瞼を持ち上げたら、天井が見えた。




「なんのつもり」




わたしは天井を見つめたままつぶやいた。




「さっきのことか?」




少し掠れたハスキーな声が笑いを噛みつぶしながら響く。




「この手よ」




わたしは額に置かれていた革のように堅い手を払い落とした。




横目で睨めば、わたしの横に座っていた男はやれやれとでも言うように、大げさに両手を開く。




「イイコイイコしてやってたんだよ。研究員にも嫌われてるかわいそうなナーシャに」




「…」




ふざけるなとでも言ってほしいのか。けれどわたしはいくらこの男が剽軽(ひょうきん)なことをしていたり、言っていても、瞳の奥は常に冷え切っていることを知っている。




黒い髪、浅黒い肌、彫りの深い顔、逞(たくま)しい体、危険とわかっていても抗えない魅力を持つ正統派スペイン人―…と、そう他称されている、エル。わたしは色恋に興味がないし、エルの男性的な魅力はわからないが、時折覗かせるこの男が持つ闇は、底冷えするほど恐ろしく暗くそして深い。でもそれが女性を引きつけてやまないのかもしれない。ルパンとはあらゆる面で光と影のように全く正反対な存在だが、この男もフランスのスパイだ。




わたしは痛む頭を押さえて唇を噛んだ。




さっき、すぐ背後まで迫ったエルの気配も、なにもわたしは感じ取れなかった。おまけに体術でも完敗だ。わたしはすぐのびてしまい、エルは傷一つ負っていない。




悔しい。




悔しいと思うことすら悔しい。自分の無力を感じるのが一番悔しい。




男と女、大人と子供、体格も力の強さも全然違う、負けるのは仕方がない、なんて、そんな言い訳、わたしは大嫌いだ。




力がほしい。誰にも、何にもねじ曲げられない力が。




わたしが悔しさに拳を握りしめていると、エルが嬉しそうに笑った。




「おまえのその目は好きだな、ナーシャ」




わたしはぞくりとした。気絶している間に、眼球をくり抜かれていなくてよかった。




「次に俺の前で寝たら、持って行くか」




至極楽しそうにエルは言う。わたしにはその言葉が嘘か真か判断がつかない。




「そう怯えるな。嘘だよ。痛めつけられるおまえの目を見るのが楽しいんだからな」




このイカれサディスト、わたしは心の中で吐き捨てた。




「怯えてなんてない」




「はは。ところでルパンが怒ってたみたいだが、何かしたかナーシャ?」




「なにもしてない」




「おまえの『先生』を探しているらしい」




「『先生』?」




「誰かがおまえによからぬことを吹き込んでいるんじゃないかと探し回っているよ」




「…ああ」




どうやら先日、ルパンの前で任務だの何だの言ったことが尾を引いているらしい。




わたしは痛むからだを起こして、肩を竦めた。




「ルパンがどうしようと関係ない」




「ナーシャ、おまえはルパンを甘く見すぎている。他人を過度に見くびると足下を掬われる」




そんなことはないと思ったが、わたしは頷いておいた。




「はい、『先生(ムッシュ)』」




エルはわたしの言葉を聞いて、ため息をついた。




そして笑った。




「俺がルパンに見つかったら、おまえのせいだぞ」




そうは言うけれど、エルがルパンに見つかることはきっとないだろう。




この男は残虐で非情な中身を隠して、親しみやすく明るい外面を被っている。ルパンとも仲が良い。




「あいつの中で、俺は『ゼロ』とまだ会っていないんだからな」




わたしがエルと面識があることを本当に気づいていないのならば、やはりルパンもそこまでの男だ。当然わざわざ気づかせるようなヘマはしていないが。




そもそもルパンだけじゃなく、ほかの誰もがわたしがエルとこうして会っていることを知らない。エルから密やかにたくさんのことを学んでいることを、知らない。




わたしは一秒でもはやく強くなりたいのに、この研究所でわたしがやることといえば、研究員の当たられ役になることだけ。寝て、起きて、また寝る。外にも出られない、やることもない、幼い頃のわたしはただ気だけが急いでいた。




なぜわたしがスパイ本部ではなく、研究所に預けられたのかは知らない。本部にこんな子供がいればただ邪魔になるからという単純な理由なのかもしれないがそれはわたしの知るところじゃない。きっとどのみち本部には送られるのだろうがそれまで悠長に待っている余裕はわたしにはなかった。



わたしにただ流れる日々を眺めるだけの時間は苦痛でしかなかった。何かしていないと、どんどんドイツが遠ざかる気がした。




ルパンはわたしを「子供らしく」在らせようとするから、ルパンに頼むのは気が進まなかった。




そんな中、エルが現れた。




この男にものを教わるのはこれまた苦渋の選択だったが、わたしにはほかに道がなかった。研究所に顔を出すスパイはそこまで多くない。わたしは、強くなるために、より強い『先生』を求めていた。




暇つぶしか、ストレス発散か、エルは胡散臭い笑みでほぼ初対面のわたしの願いを受け、こうして秘密の授業は続いている。最短距離を通るエルの授業は、いろんな意味でなかなか過激だが、それでも、何もしていないよりは良い。最短距離はわたしも望むところだ。またエルも先生役を楽しんでいる節がある。

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