Six

壁越しのくぐもった声を聞き取る。石の壁というものは、案外音を通すものだ。




そして人の耳は、他の哺乳類の例に洩れず耳介(じかい)がついているというそれだけで集音器の役目を果たすようにできている。




耳に意識を集中させつつ、決して「聞いている自分」を忘れないこと。得るのが目的ではなく、あくまで情報は然(しか)るべきところまで伝わらなければ意味がない。集中しすぎて後ろから襲われでもしたらそれで終わりだ。まぁ今は見つかったとしても、ここは研究所内だし、わたしはまだ子供と思われているから、せいぜい痣が増えるぐらいだろうけど。




この場合、情報を必要としているのはわたしであって、聞くことが「情報を持って帰る」

ことと同義になるわけだが。




それでも、見つからずに部屋までたどり着くことが今回の目的だ。




『やっぱり実験動物(スーリ)じゃねぇ』




この部屋の扉があいた所を以前少し見たことがあるが、狭い部屋だった。わたしの部屋の2倍ぐらいの大きさ。部屋の片面にはわたしの身長より高い棚があり、その中に大小様々で古びた洗面器のようなものがずらっと等間隔で置いてある。その全ての中に液体が入っているようだった。ひとつひとつの洗面器の前には紙が貼ってあった。具体的な中身は見えなかったが、想像はつく。その洗面器は一様に飾り気のない薄い桃色をしていて、一瞬見えただけだったけれどもあつく網膜に焼きついた。




『大きい実験動物(ラ)は?うちのぶんまだあったんじゃない?』




思ったより中にいる人数は多そうだ。三人…四人、いる。少なくとも。




『大きい実験動物(ラ)は、うちに回ってるのは今の分で全てだ』




『外にあんなにごろごろしてるのに?とってきて貰いましょうよ、何体か。可愛い可愛いうちの愛玩動物(シュシュ)に』




『愛玩動物(シュシュ)に大きい実験動物(ラ)を?そりゃいい』




『いるかいないかもわからない奴らだ。ぴったりじゃないか。犬(シアン)は犬同士、ってね』




つまり、中の研究員はこう言っている。




スパイに、被検体としての人間を浚って来いと。




そもそもスーリとはフランス語で二十日鼠のことを指す。ラはモルモット。奴らには人もモルモットも一緒に見えるのだろう。ただの実験道具。ビーカーやメスとの区別すらつくまい。




愛玩動物(スパイ)に大きい実験動物(人間)、なかなか洒落が効いている。それなら中の奴らは死体を貪るハイエナ(イエヌ)か。




『いるでしょ、もう一体。研究所の中に大きい実験動物(ラ)が』




『研究所の中?いたか?』




『ゼロを使えばいいじゃない』




『いや、それはだめだ』




『殺しさえしなきゃいいんでしょ?あの子、ここにいたって何するわけでもないじゃない。上も荷物だと思ってるんでしょ?何考えてるんだか…研究所を教会と勘違いしてんじゃないの』




『ゼロもせめて笑うなりすればな』




『やめてよ!あんな子供、何考えてるかわからないし、今更笑われたって気持ち悪いだけだわ』




『いっそ一生笑わなくしてやる?』




『いいね』




下品な笑い声が響く。




ハイエナ(イエヌ)どもの言っていることは、妥当な意見だ。無表情な子供と表情豊かな子供が並んでいたら、誰だって笑顔で駆けよってくる方がいいと思うだろう。




しかし、今度は何をされるやら。抗体がついている毒ならいいが、新薬は程ほどにして欲しい。解剖もわたしの利益にはならないから毒が望ましい。身体の中のことはどうにかなる。どうにもならなくても、どうにかしてみせる。わたしはこんなところで死ぬわけにはいかないのだから。でも腱(けん)を切られたり、顔や体がずたずたにされれば、今後に影響が出る。それはできれば避けたい。




『おい程ほどにしておけ。ゼロがここにいるのは、俺たちがどうこうできることじゃない』




『それがムカつくのよ!ルパンだって、あんな子供に…』




『おいおい、嫉妬か?まさか、子供だぞ』




『そりゃあ、ルパンは相手になんてしてないけど、ゼロは絶対に色目使ってる。許せない』




『それに、ルパンだけじゃない。エルだって』




「女冥利に尽きるな、ナーシャ?」




わたしはさすがに驚いた。耳元で男の声がする。耳元、ということはすぐ後ろに立っているということだ。黒くてごつい腕が伸びてきて、わたしの横の壁に腕をついた。全く、気がつかなかった。全く。




「チェックメイト」




笑いを含んだ声がして、男の人差し指がとん、とわたしの喉に触れた。動けない。冷や汗がどっとでる。男はさして力も入れていない風なのに、その指はどんどんわたしの喉にめり込んでゆく。呼吸が詰まる。




下から男の顎を突きあげようとしたが体制が悪くその腕をとられてしまった。とられた腕を関節を意識しながら捩じると男の手は容易に外れた。ふ、と息を突いたとき、大きな影が。




ゴガン!という音を遠くで聞いた。




「あ」




頭を石の壁に思い切りぶつけてしまった。痛い、いたい。今、わたし、どうなってる?




「やりすぎた。中の奴らも出てきそうだし、とりあえず他行くぞ」




多分、首を掴まれて、壁に、わたし、叩きつけられた、んだと、思う。まずい、目が見えない。抵抗、しなきゃ、抵抗…。

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