Cing
「ルパン」
「ん?」
「さっきのわたし、どこがダメだった?」
「…なぜ、そんなことを?」
微笑は消さないまま、ルパンの声が不快を表すように少し低くなる。
「必要でしょう」
わたしは疑問形ではなく、断定で返す。
わたしが、ドイツに生きて帰るために。
「何に必要だというんだ。いらないよ」
「任務に、必要でしょう」
ルパンの歩みが止まる。
「…ナリョーシャ。きみはそんなこと、考えなくていいんだ。任務なんて…そういうのは大人に任せておけばいい」
「わたしはもう大人よ」
「そう言っているうちは、まだ子供だよ」
「じゃあ、わたしが本当に子供か、試してみる?ルパン」
わざと精神を逆なでするように、ルパンの前に回って首を傾げて笑ってやった。
「ナリョーシャ」
諌めるようにルパンから固い声が漏れる。
「そんなこと軽々しく言うものじゃない」
「そう?確かにわたしよりも、そういうことはルパンの方が得意だものね」
ほんの一瞬空気が冷える。
「なんのことだかわからないな」
けれど、次の瞬間にはそんな空気などまるでなかったかのように、飄々とルパンは言った。
本当に、喰えない男だ。
う、そ、つ、き、とわたしは唇の動きだけでルパンに伝えるとくるりと踵を返して先に歩きだした。
ルパンも後ろからついてくる。
「淑女のお尻を追いかけるなんて紳士の名に反するんじゃない?」
「レディ・ファーストだよ」
「暗殺の心当たりでも?」
レディ・ファーストはその名の表す通り、女性を立て、女性を尊重した行為の名称だ。
道路を歩くときは女性が家側、馬車や自動車に乗るときはドアを開けて待ち、降りるときは手を差し伸べる、座るときにイスを引く、部屋に入るときは女性から…すべて、レディファーストに基づく思念だ。
それは一見女性を尊重しているように見えて、その実男性の身勝手から来た以外の何ものでもない。
起源は中世の騎士道に遡る。中世では貴族がお互い憎しみ合っていて、暗殺・毒殺が横行していた。そのなかでレディファーストとは、先行させた女性を犠牲にしてその間に自分は助かろうと言う男性の自分本位の考え方だ。
「それなら私が先を歩くさ」
「そんな必要なんてない。対処方だけ、教えてくれれば」
「対処法は、教えよう。でもそれは、きみ自身を傷つけるためじゃないということを、覚えておいて」
その言葉が終わらないうちに腕をとられて、腰に手が回る。軽々わたしはルパンに抱えあげられた。
「降ろして」
「任務とか、そんなこと考えなくていいんだ。ナリョーシャ。子供は、子供らしく、かわいいおもちゃに喜んで、美味しいごはんを楽しみにしていればいい」
は!とわたしは嗤った。
「こんなところでずっと生きてきたわたしにそれを言うの?」
「どんなところでも、自分を見失わなければ生きていける。ナリョーシャ。例えフランスの、自由がない研究所の中でも」
「わたしはドイツ人よ!」
堪らず私は叫んだ。
「ナリョーシャ!」
わたしの口をルパンの手が覆うと同時に、鋭くルパンが遮った。
「きみはフランス人だ」
ちがう!
私はその手に思い切り噛みつく。いっそ噛み切ってやる勢いで。ごり、と歯がルパンの手の筋にあたる。骨かもしれない。どっちでもいい、わたしの気持ちはこんなものじゃおさまらない。
ルパンは顔色一つ変えずに私に顔を寄せた。
「ナリョーシャ。何度も言うようだが、きみのことをドイツ人だと知っているものはこの研究所でも少ない。迂闊なことは言うんじゃない。いいな」
わたしは噛みついたまま獣のように唸った。
ルパンは私が噛みついている反対の手で、優しく私の髪を撫でた。
「今のは私が悪かった。きみに残酷なことを言った。許してほしい」
わたしは返事のかわりに足でルパンを思いっきり蹴った。
当然痛いだろうに、それでもやはりルパンは顔に出さない。
気にくわない。顔を顰めて痛がる様を見れたら、少しは溜飲も下がるのに。
わたしは、謝ってほしいなんて思っていない。そんなものいらない。
欲しいのはそんな上辺だけの謝罪や、同情なんかじゃない。
この男は、今わたしをドイツに帰そうとすればきっとできる。それだけの力がある。でも、しない。
結局上に逆らうことはできないのに、口先だけで甘いことを言うのなんて、わたしをあからさまに嫌ってる研究員より性質が悪い。
わたしがドイツに帰る一番の近道は、笑顔を振りまいてこの男を誑かすことかもしれない。けれど、本当の意味で誑かす事などできないのだろう。悔しいが、今の私よりもこの男の方が一枚上手なのだ。
「ナリョーシャ、機嫌をなおして。きみに嫌われると、私は辛い」
わたしは両手でルパンを突き飛ばした。ルパンは心得たようにわたしから一歩さがる。
ああ、もう!今のわたしには、ルパンのその仕草も何もかもが癪に障る。
「私だからいいけれど、他の人間にはこんなことをしてはいけない」
「じゃあ、次はナイフを持ってくる」
「なら私はまた花束でも持ってくるかな」
ルパンはそうおどけると、腕の時計を見た。
「時間だ。名残惜しいけれど、また会いに来るよ、愛しいひと(マシェリ)」
わたしは無言で踵を返した。
ルパンは立ち去らず、じっとわたしの背を見ていた。
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