Quatre

無機質な白い廊下を歩く。




白なんて大嫌い。




廊下の、白。研究員の、白衣の色。わたしのこのワンピースも、その下の肌まで嫌になるくらいの白。




白、白白白白…誰が決めたのだろうか、この建物には白が溢れかえっている。虫唾が走る。




唯一の救いは、わたしが与えられている部屋の壁は土の色そのままだということだ。




そんなことを考えていたら、私の視界は、一瞬にして飛び出してきたもので鮮やかな赤に染まった。




こんなところに似つかわしくない甘いにおいがワッと溢れる。




それは、一抱えもある赤いバラの花束だった。




「お誕生日おめでとう(ボナニヴェルセール)、ナリョーシャ」




「…ルパン」




返事のかわりに優雅な白い手がすっと伸びてきて、わたしの腰をすくいあげた。抱きあげられるのは嫌いだと、言ってあるにも関わらず。もちろんその花束をわたしに押しつけることも忘れない。わたしは必然、大きな薔薇の花束を受け取るしかない。淑女に断る暇も与えず情熱の証を受け取らせる手法は見事だ。




目の前のこの男はすべてがスマートだ。いつも紳士然としている。相手を尊重する態度の中に、抵抗しても無駄だと思わせる何かがある。ふわふわと緩くうねって首までを覆う金の髪、二重の瞳、甘いマスク、引き締まった体、淑女が焦れるほどの適度な距離感、この男が王であったなら、国民はさぞや熱をあげて集い、我先にと頭を垂れただろう。




それが天性のものなのか、成らざるを得なかったのか、わたしは知らない。この男に骨抜きにされた女が狂うほど知りたがることも、わたしにとって知る必要もないこと。




…いや、何らかの取引材料にはできるかもしれない。スパイにとって情報は命だ。どんなに無意味なものも、いつか、価値があるものに変わるかもしれない。




たとえば、そう。わたしがここから出るときに、わたしを目障りだと思う人間、特に、ルパンに傾倒している女を騙すもしくは手を組む時にはー…。




「ナリョーシャ、久しぶりに会えたのに、なにを考えている?その物騒な顔」




ルパンの指がとんとんと私の頬を突く。




…訂正。紳士は淑女の頬を突くなどということはしない。最も、わたしのことを子供と思っているのか、いないのかこの男は時折わたしに向かって自分こそ子供のような真似をする。もう成人して久しいと言うに。




そうだ。いいことを思い出した。つい先日学んだ授業の復習、といくとしよう。




わたしはいつも一文字に引き結ばれているくちびるを釣り上げると、意識して嫣然(えんぜん)と笑った。




「ルパンのことを、考えていたの」




声に媚びが混じる。…間違ったかもしれない。わたしはまだ「子供」だから、最初からそんな風にしては疑われてしまう。




しかし、本当のスパイ活動の際には、「間違った」なんて甘ったれたことは言っていられない。間違ったなら、その先をどうするか。




「わたし」は、貧しい家の子で、小さいころから街角に立たされてきた。今のご時世、そんな子は珍しくない。だから、男にも慣れていて、こんな仕草も、声の甘えも、自然にでてしまう。そう、思い込むのじゃ駄目。わたしが本当に貧しくて体を売って生活するような中にいたら、「思い込む」わけがない。だってそれが、経験してきた「過去」であり「事実」なんだから。わたしはそういう人間だったと、何ていったらいいんだろう、過去に呑みこませる、ようにしている。現実の時間は流れていて、綸言汗のごとし、一度口にした言葉は取り返す事が出来ない。辻褄は、どこかで合わせなければならない。疑問も消し飛ぶくらいの、偽りで真実をつくって。




「…本当に?」




すぐに見破るかと思いきや、予想に反してルパンの声に真剣さが滲んだ。顔つきがすっと変わる。緑(グリューン)の瞳に熱が揺らいだ。




抱きあげられているせいで顔の位置がずいぶんと近い。シミひとつないルパンの肌を拳ひとつぶん程の距離で見つめる。




はにかんで頬を染め、瞳を伏せる、「わたし」。




「わたしのこと、すき(テュメーム)?」




ルパンの頬から顎を、人差し指で辿りながら聞く。




「…心から愛している(ジュテムデュフォンドゥモンクール)」




「ルパン」




わたしは左腕をルパンの首にまわした。薄い爪で髪と一緒にルパンの首筋を弾く。




「キスして(アンブラッセモア)」




一呼吸置いた後、細い指に顎をすくい上げられる。




わたしはルパンの瞳を見詰めたまま、ゆっくりと首を傾け瞼を伏せた。唇に、ルパンの吐息がかかる。わたしはじっと待つ。薔薇の匂いが一層強くなった、その時。




「私の負けだよ、愛しいひと(マシェリ)」




その場の甘ったるい雰囲気をがらりと変えるような苦笑がルパンから漏れた。同時に、気配も離れる。




「いけない子だ。こんな悪いこと、どこで覚えてきたんだ?けれど…ナリョーシャ、動揺ぐらいしてくれないか。きみが引かないから、ついやりすぎてしまった」




「離して」




私は途端に無表情に戻ると、ルパンの胸を押した。




ルパンはゆっくりとわたしを冷えた床に降ろす。




「ナリョーシャ、この前渡した、靴は?」




「さぁ?」




気がついたら消えていた。大方、わたしをやっかむ女職員の仕業だろう。そんなこと、別に今に始まったことでもないし、気にする事でもない。




恋とは本当にくだらないものだ。そして恋をしている女ほど愚かなものはない。




12歳のわたしと、23歳のルパンの仲を疑い嫉妬する。この男が愛しいひと(マシェリ)だの愛している(ジュテム)だのと言うのなど挨拶代わりで誰にでもしていることだろうに。




この男もフランスのスパイだ。




具体的になにをしているのかは知らないが、この男の美貌を任務に使わない手はないだろうから、マタ・ハリのようにハニートラップを駆使しているとみて間違いないと思う。




しかし人間は、「どこかの誰か」より「目の前にいる個人」のほうが、目に見えている分感情を籠め易いものだ。愛情も、嫉妬も。遠くの火事より背中の灸、というわけだ。




そして手近にいる自分より弱いものに、鬱憤をぶつける。




人間なんて、こんなものでしかない。




「また買ってこよう。何足でも」




「いらない」




「私が買ってきたいんだ」




なぜ、この男はこんなにわたしに構うのだろうか。




いつも浮かぶ疑問。




研究員はみんな、わたしを持て余している。愛想もない、子供らしくもなく、表情も出さない。喋らない。




当然だ。わたしも好かれなくていいと思っている。その方が、いざという時に殺しやすい。




けれど、この男は違う。




子供が好きなわけでもない、この男は、わたし自身を見てる。さっきの瞳もそうだ。わたしは、ルパンのあの瞳がすべて冗談だったなんて思えない。




この男は、この男なりの理由でもって、わたしに何か執着しているみたいだ。強く深い想いで以ってわたしの知らない、わたしを見ているみたい。たまに、恐怖を感じるほど。




恋愛なんて薄っぺらい感情じゃなくて、なにか、もっと違う…。




曖昧なままの思考はここで止まる。考えても、結論は出ない。本人に聞けばいいのだけれど、わざわざ聞くほどのことではないといつも流してしまう。

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