Trois

「体調が悪かったらすぐに知らせて。自分を大事にするんだよ」




ばかばかしくて最早笑えもしないが、この愚かな研究員はわたしにいつもこう言う。




スパイに仕立て上げようとする子供に向かって身体を大切になんて。




どうせ使い捨てなのに。




サラサラと万年筆を滑らせているアベルの手元には「No.0 S(異常なし)」と書いてある。




スパイは、「スパイ」というものが仕事じゃない。忍び込んだ敵国で確固たる地位を築き有名であることも少なくない。そのほうが疑われにくいからだ。




スパイとは、どれだけ相手の油断を誘えるか、これに尽きる。




相手の懐に忍び込み、警戒心を完全に解いたその後は赤子の手を捻るようなものだ。警戒されず、油断させ、必要な情報のみを引き出す。




そういう表だって的に接触する者もいれば、もちろん脛(すね)に傷がある者もいる。人には、経歴にあったやり方というものがある。顔が知れているものは動きづらいもの。掴んだ情報がいくら貴重でも、上の情報機関員(ケースオフィサー)まで伝えなければ何の価値もない。よって伝達に人を介す事もままあるが、その時には暗号や隠語が使用される。




スパイ同士はお互いをコードネームで呼ぶ。大体が数字や記号だ。




9年前に処刑された世界一有名な女スパイ「マタ・ハリ」のドイツでのコードネームはH-21。当時は世界大戦争(第一次世界大戦)の真っ最中だった。ハニートラップを得意とする高級娼婦でもあった彼女が、スパイとばれて銃殺刑に処せられたのは同情に値する。




スパイは、なんのために生きるのか。




マタ・ハリはフランスによってドイツとの二重スパイを疑われて殺された。




しかしその真実は、ただのフランスの切り捨てだ。二重スパイすらフランスからの命令だった。なのに、素知らぬ顔でフランス軍は「ドイツの二重スパイをしていた悪女」として彼女を処分した。




スパイの末路なんて、こんなものだ。忠誠を誓い、フランスの為に立ち上がり、フランスの為に死んだのだ。彼女が裏切られたと祖国を恨んだのか、それとも納得の上で喜んで死んだのかは知る由もないが、他人ごとだと笑ってはいられない。




ここから逃げられない限り、近いうちにわたしも第二のマタ・ハリとなるだろう。




わたしはフランスの為なんかに絶対に死なない。今習っているスパイの技術も、全部ドイツに帰るため。そのために今は力を蓄えるんだ。




「アベル?試験体073のことだけど、っとゼロもいたのね?ごめんなさい邪魔したわ」




ノックと同時にドアが開いて、グリーンの瞳がのぞいた。最近入った若い研究員だ。




「ああ、もう少し待ってくれないか?後で行くよ」




「了解。DBにいるわ」




すぐに扉は閉まる。




No.0。わたしみたいな子供の諜報員なんて今までいなかった。だから、わたしのコードネームはゼロ。




「…検査は終わったでしょ?」




わたしは冷たく言った。




「そうだね。でも」




アベルは笑う。




「今日は、君の誕生日だから」




誕生日?




呆気にとられる私を尻目に、アベルはポケットからくたびれたリボンを出した。色は赤だ。




「これ、気にいるといいんだけど」




「受け取る理由がない」




「誕生日はお祝いするものだ。産んでくれたパパとママと、生まれてくれた君と、主に感謝して」




アベルは無理矢理わたしの手にリボンを握らせた。




「ナリョーシャ。12歳のお誕生日おめでとう」




それじゃあ僕は行くね、とアベルはドアから出て行った。




誕生日、だって?




わたしの誕生日なんて、わかるはずがないのに。わたしは赤子の時にここの誰かに拾われた、親なしの子なのだから。




座りの悪い安い椅子に腰かけたまま、わたしは暫くじっとしていた。




12歳。ということは、この研究所に来て少なくとも12年が過ぎたということだ。




12年。無力な自分を痛感して、過ぎるのを待つ日々は長かった。そしてそれはまだ終わりじゃない。




わたしは自分の骨ばった細い腕を見た。女は力で男にはかなわない。スパイに過剰な筋力も必要ない。むしろそれは警戒される材料になるからだ。




わかっていても、悔しい。時には力が何よりも勝ることを知っているから。




いや、自分の無力さを知っているということは、それだけで1つの武器なのだ。自分を客観的にで見つめられるのは大事なことだ。無力さを知っているがゆえそれを補うことができる。




自らの欠点をプライドで目を曇らせて見ようともしない人間は愚かだ。敵を知り、己を知らば百戦危うからずと孫子も説(と)いている。先人に人類はもっと学ぶべきだ。




こんな小さな手でも望むものを掴めると、いつか心から笑ってやる。

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