Deux

すべてが灰色に覆われた町だった。



つい前日まで、花は咲き、色は溢れ、人の笑い声が細やかながらも聞こえていた筈の町だった。



未だぶすぶすと燻っている炎の色すら無機質な灰色。崩れた家や背を丸め首を垂れている煤けた立木。



ここはどこか、わたしは知っている。決して知らない筈なのに、知っている。



幼い頃から、繰り返し、繰り返し見る夢。



決まって夢は灰色に瓦解した町から始まる。なぜかわたしは、どうしてその町がそうなったかを最初から知っている。




フランスの華やかな町。観光地としても有名で、煉瓦造りの高い建物の街並みが美しかったその町は、ドイツからの爆撃をうけてたったのひと晩で瓦礫の転がる灰色の町になった。町の名前はわからない。夢の町に名前も何もないが。



それを見ているわたしに悲しいという感情はない。景色に交じって覗く黒く煙をあげて炭になった人間も、最早いつもの夢の風景でしかない。



わたしの視点は常に動かない。まるで箱形カメラを上下逆に覗きこんでいるかのように、もしくは安全な部屋で窓の外で起こる出来事をぼんやり眺めているように、切り取られた町の一部の風景をただ見つめるだけだ。酷く現実感がなく、目の前のことは夢の中では現実の筈なのに、決してわたしが関与することができない事柄のように思える。




あちこちでゆるくたちあがる煙と視界を飛び回る烏以外動くもののなかった景色の右端から、人が出てくる。



白衣を着ている長身の若い男だ。灰色の世界だから白衣と言ってもやはり色はない。




瓦礫の山になったこの町に不釣り合いな革靴を履いた脚が、何かを探しながらふらふらと彷徨う。




視界の中央で、不意に男はしゃがみこんだ。細かく震える手で、恐る恐る何かを抱きあげる。




それだけが、無機質なこの夢の中で唯一色を持つものだ。




小さな赤子。ぷくりと健康的に膨れた肌色の頬に、色のない煤けた衣。その肌の色それだけが、灰色に埋め尽くされた世界の中でちいさくまぶしく視界に飛び込む。




赤子は男を見とめると大声で泣き出した。この夢に音はない。けれど、泣いているとなぜかわかる。




男は、何かに深く悲しみながら、強く赤子を抱きしめた。




そこで、いつもわたしの目が覚める。













「ナリョーシャ、具合はどう?」




例えば、そこが一体どこだとか、その男が一体誰だとか、そのあと一体どうなったのかなんて、そんなことは考えるだけ無駄だ。なぜならそれは所詮わたしの夢の中の話でしかないのだから。




時の人ジークムント・フロイトが数年前に発表した『夢判断(ディートラウムドイトゥング)』という本によると、夢とは睡眠中に潜在的な願望を充足させるためのものであると述べている。つまりわたしが心の奥底で望んでいるものや現象を、夢という形で仮実現させているということだ。学者間ではそれに賛否両論渦巻いたらしいけれど、もし信じるとするならあの、瓦礫の山がわたしの本当の願い?




心の中で失笑が漏れる。




けれど、フランス中があの町のように破壊しつくされた時の事を考えてみたけれど心は躍らなかった。




わたしが願うことは、ただ、帰りたい。




そのためにフランスを『灰色の街』にするのが必要であればするし、必要がなければしないだけ。




わたしにとっては、ただそれだけの事。




フロイトはこうも言っている。願望を明確化させるのを防げようとする意識のために夢は曖昧に湾曲されて表わされるのだ、と。




夢で見たものが、そのまますべて直接的にわたしの願望ととらえることは早計である、ということだ。




まぁ、もしわたしの見ている夢がフロイトの述べるようなものでないとするならば…。




わたしはキィと椅子を軋ませた。




目の前に座る白衣を着た男性が、返事をしないわたしに困ったように笑う。いや、この研究員はいつも困ったような笑顔でいるのだけれど。




くたびれた皮靴が、床と擦れてコツ、と音がした。




アベル・シュレッサー。




わたしの夢の中で赤子を抱きあげた男は、少し若いが目の前の男と同じ顔をしていた。




過去夢、または予知夢だなんて単純に思いこむほどわたしも子供じゃないつもり。




夢は夢現実は現実とわりきる強さをわたしはもう持っている。

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