「いってきまーす!」
日紅(ひべに)の元気な声が聞こえる。
「昨日やってた宿題持ったの?」
「もったー!」
日紅は後ろを振り返りつつ答えている。
その笑顔は明るい。太陽のように、きらきらと輝いたままだ。
家を出るのが、少し遅くなってしまったようだ。日紅は少し早足で歩く。
「ヒベニ」
いつもの道。光を反射して眩しい屋根。心地よく冷えた空気。
日紅はスキップでもしそうな勢いで、真っすぐ続く白く塗装された道を歩く。
「ヒベニ」
ふいに明るい朝には相応しくない、全身黒づくめの着物を着た男が道の端に現れた。けれど、日紅は彼の姿も、かけられた声も、まるで気がつかぬように、急ぎ足でせわしなくその横を通り過ぎる。
そして男など一瞥(いちべつ)もせずに、そのまま去ってゆく。
男はじっとその後ろ姿を見ていた。その間通りかかったサラリーマンや学生が、ぎょっとしたように男を凝視するのをまるで気にもかけず。
日紅が見えなくなってから、男はゆっくりとヒトに見えぬよう姿を消した。
わかってはいた。
もう、日紅が男を見ることはない。ウロと、その名を呼ぶこともない。虚だけではなく、日紅の瞳は二度と妖(あやかし)を映す事はない。当然、声も聞こえるはずなどないのに。
日紅は、奇妙なヒトだった。本当に。妖と関わるヒト。日紅と同じヒトを喰らうと知っても、日紅は虚を優しいと言った。
足の横を小さな妖がころころと転がってゆく。右を見ればいいところに来たと、日紅の家の隣にある大木がざわめいた。
最近、ここ一帯にいる妖が言うことはひとつだ。
「…なんだ」
用件は分かっていたが、虚はあえて尋ねた。
「花を」
やはり内容は一つだ。
「大樹(たいじゅ)お主は動けただろう。なぜわたしに頼む」
「もう動けぬ」
大樹はそっけなく言った。そうかと虚は頷く。命の終わりは誰にでも来る。そう、誰にでも。
「どの花だ」
「ワシの花を」
「命を縮めるぞ」
「構わんよ。勿体ぶる程のものでもない」
はらりと虚の足元に薄桃色の花が落ちてきた。
「嬢ちゃんの優しい色だ。青更(せいふ)にこれ以上な花はあるまい」
「では預かる」
虚はそれを拾った。懐にしまう。
「ワシはな、黒いの。昔、嬢ちゃんと青更に会いに行ったことがあってな。その時に祝言(しゅうげん)には呼べと言ったのだ。あれは、あながち狂言でもなかったのだが」
大樹は独り言のように、ぽつりと零した。
「よかったなぁ!ツミ!」
「よかったよかった!太郎!」
「わーっ!?」
「にぎゃっ!?」
虚は足元で踊っている妖どもを蹴散らした。
「食人鬼!こらなにをする!」
「大樹の花を持ってきた」
「それにしても我らをよけて通ればよいであろう!」
「そうだそうだ!せっかくの祝い事を…」
ぶつぶつ言う猫の妖を尻目に虚は公園に足を踏み入れた。
古ぼけた遊具。奥へと進む。
一番奥に、木があった。その根元は、花で溢れかえっている。
見ている間にも、はらりはらりと花が降り積もる。
その上に、虚は大樹から預かった花を置いた。花は喜ぶように綻(ほころ)んだ。
「お主とヒベニの祝言を大樹が見たがっていた」
『彼』はもういない。そんなこと、ここで言っても詮無いことだ。わかってはいたが、虚の口をついて言葉は落ちた。随分、ヒトに毒されてしまったようだ。虚も、ここにくる妖たちも。
『彼』は長い時間を生きてきた。故に『彼』の事を知らぬ妖はいなかった。
誰にともなく、ここに花を飾るのが、『彼』への餞別となっていた。ヒトは大切な人が死ぬと、墓を作り花を飾る。
所詮(しょせん)ヒトの真似ごと。しかし、ヒトと逢(あ)った妖には相応(ふさわ)しかろう。
風もないのに花弁は揺れる。歌うように、楽しげに。まるで、『彼』に日紅が寄り添っているかのように。
「馬鹿者が」
虚は呟く。
愚かだ。『彼』は自らが消えるのと同時に、日紅と犀(せい)から『彼』の記憶を消したのだ。妖と関わりすぎてしまった日紅が、もう面倒なことに巻き込まれないよう、ご丁寧に二度と妖を見ることも、声を聞くこともできなくしてしまった。
そんなことを…あの太陽のような娘が喜ぶとでも思っているのだろうか。
「よかったなー楠美(くすみ)!」
「いやあよかった!よかった!」
そこかしこで妖が宴会を繰り広げている。公園はいつになく賑やかだ。勿論ヒトの目には映らないが。
妖は『彼』が消えたことを喜ぶ。死ねない『彼』がただ一人、真名(まな)を明かしてもいいと思える相手に出会ったことにただ喜ぶ。妖とヒトは生きる道が違う。本来交わってはいけないものだ。いくら心を添わせても一緒に生きていくことはできない。
「おい、食人鬼。次は俺の番だどいてくれ」
ぬっと人型の細長いものが横から顔を出した。虚は横にずれた。妖は握っていた蒲公英(たんぽぽ)をそっと添えると両手を合わせた。
「…なんだそれは。何をしている」
「食人鬼、知らぬのか。ヒトはこうして手を合わせる。いなくなった者の幸せを願うのだ」
「願うだけか。無意味だな」
「ヒトは意味のないことが好きなんだろう」
がくんがくんと妖は首を振った。頷いているつもりらしい。人型に慣れてはいないようだ。
「そういえば、食人鬼、おまえなぜあのヒトの子を食べぬのだ。おまえの印が付いているぞ。食べぬなら印を消してくれ。旨そうだ」
「ヒベニはわたしのものだ」
「ならなぜ喰わない。遊ぶにしても長すぎじゃないか」
「ヒベニが寿命で死ぬときに喰う。そう約束した」
「なに」
妖は虚をみた。
「寿命とは、気の長い話だ」
「お主は短気だからな。ヒトの寿命など、あっという間だ。その間ぐらい生かしてやってもいいだろう」
「俺より気の短い奴が何を言う。印はひとつしかつけられないのに…おまえ、そうやってあの娘を守っているのか」
風が吹いた。虚は答えない。さわさわと花が揺れる。雲間から光が差す。花弁はなおも降り積もる。
「梢」
「三郎」
「宵闇」
「尊人」
「水流」
様々な妖が口々に『彼』の名を呼んでいく。いろいろな花が折り重なる。けれど答える声はない。
『彼』の望む名を呼ぶものはもう、いないから。
彼 50まい @gojyumai
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