第2話

 目の前の男は銃口をこちらに向け、すでに撃鉄を上げていた。彼は古く汚れ穴の開いた布切れのような白い衣服を着ている。目から上をフードで隠し、肌の色は浅黒く右腕にはひどい火傷痕があった。

伸びきった真っ白い無精髭が彼を50代くらいに見せる。

ああ、僕は死ぬのか。死に際だというのに、僕はいたって冷静である。


辺り一面が荒野に覆われていて妙に殺風景だ。砂埃が舞い上がり目に入り眼球を傷つけようとやっきになっている。


 


目が覚めるとまだ真夜中で、アインは寝室で普段通りに眠りについていたことを思い出した。祖父がいなくなって八年が経ち、あの頃に比べアインはずいぶんと大人の容貌になった。幼いころはよく死を連想する悪夢を見て恐怖したが、いつの間にかその恐怖を克服していた。

朝起きたら新学期、高校生になるアインの胸は高鳴っていた。未知の世界に対してアインは恐怖心よりもむしろ好奇心が勝るタイプだからだ。


結局寝れずに気づくと朝日が登っていた。アインはリュックに学習道具と財布を詰め家を出た。夢や希望とやらも一緒に。


アイリス国立高等学校。アインが通う高校の名である。アイリス共和国の中でも五指に入る名門校であり、有望な若者が集う。卒業後はアイリス国軍兵士になる者が大半であるが、政府の役人になる者や大企業に就職する者がいたりと努力次第で自分の将来を自由に選択できるまさにエリート街道と言える。


中には大学に進学する変わり者がいるが年に100人いるかどうからしい。進学校というわけではなくどちらかといえば専門的技術を学ぶ場で、全校生徒生徒1500人の非常に大規模な学校である。


何故アインがそんな学校に進学できたかというと完全に両親のコネクション頼りであったという他ない。父母共にアイリス高校出身者で非常に優秀な学生であったそうだ。アインは取り立てて学業優秀であったとは言えないごく普通の生徒であったのにも関わらず、ぜひ本校に入学してくれないだろうかと学校長直々に頭を下げられた次第である。


七光りでごめんなさいと後々謝る羽目になるであろう。それでもいい。アイン・クロスフォーはアイリス高校へ参ります。アインは即座に「ハイ」と、1つ返事で学校長に応えてみせた。


学校長はこれ以上ないほど屈託のない笑顔で「君の活躍に期待している」とおっしゃった。


学費は父の貯金の8割を食い潰すほど高額であったが父も母も快く了承してくれた。唯一の難点は遠く離れた都市部への交通手段であったが、電車で毎日通うよりかは近くのアパートを借りた方がいいと1人暮らしを許可してくれた。少し大人なった気分だ。


故郷コックル村ではまるで英雄のように崇め奉られた。家の外では祝アイリス高等学校御入学と書かれた横断幕が掲げられ、昼夜とわず立食パーティが執り行われた。実に1週間にも及ぶ祭り騒ぎもようやく鎮静して、アイリス共和国首都ベルベアへと移動したのが1週間前のことである。


そして、本日が初登校日。自宅から勢いよく飛び出していきなり、前を歩く女性に体当たりしてしまうという展開も後に笑い話になるだろう。


倒れてしまったその女の子に手を差し伸べてごめんよと言ってその日から僕たちの恋物語が始まる。今時の物語には古くさくって仕方ないが、事実そうなっていきそうな気がする。これは運命の出会いだ。そうに違いない。だって目の前の女の子がとても綺麗な顔をしているのだから。


アインの淡い思いは儚さなど感じる間も無く散っていく。


「いってえなあ。ちゃんと前見て歩けよ。鈍臭い」


男が思い描く女性像とは裏腹に、理想と現実には如何ともし難い距離感が存在する。その距離感は自分自身の経験によってしか埋められないであろう。女性とはこうあるべきだ。尽くすべき生き物が女性である。女性は産む機械だ。こういったフェミニズムを持ち得ない思考は酷く罵倒されて然るべきだ。


「すみません。ちょっとはしゃぎ過ぎてしまって。怪我はありませんか」


女の子はアインの言葉を無視して睨みつけ、さっさとその場を離れていった。女の子にきつい言葉をかけられたのはこれが初めてだ。予想だにしていなかった出来事が重なったことでアインはぼうっとその場に立ち尽くした。顔立ちの整ったアインと同い年くらいの子で、ナシャ・ツヴァイ・エリオスハーツという長たらしい名前らしい。


彼女とぶつかった時に落として行った生徒手帳を拾いアインはその名を知った。どうやら彼女もアインと同じアイリス高校に通うようだ。


後でこれを渡してもう一度謝ろう。「さっきはごめん。これ落としていたよ。ナシャって言うんだ。いい名前だね」


実に単純すぎる思考回路は治るようなものではなく先天的な病のようだ。この後数時間後にレヴェルの低い会話能力を披露することになりそうだ。アインはナシャにどう話しかけるかのリハーサルに夢中で、全く恥ずかしいほどにコミュニケーション能力の低さを理解していない。自分では気づかないことこそ本来の自分であり、自分という個は他人という個があってこそ存在しうる。


俺は1人で生きてきたぜ。などと轟々してみたところでそれは、路上に捨てられバナナの皮ような虚しさを帯びた言葉だ。



あれこれ考えているうちに、自宅から徒歩10分ほどのアイリス高等学校の正門前へと到着した。校舎とグラウンド、その他施設を覆う煉瓦造りの塀には何箇所もスプレーで装飾され、(一般的には落書きというべきであろうか)正面にある正門は縦幅おおよそ5メートルはある立派な門である。


ここを通ると新生活が始まる。そこにはありとあらゆる試練が待ち受けている筈だ。貴様にはそれらに立ち向かう勇気があるのか。と、この門に試されているような気がする。


「もちろん」


アインは大声で叫んだ。周りにいた数人の若者が驚いてこちらを見ている。おそらくはここの生徒だろう。








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鏡界戦線 神田 稔 @k_m103

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