第13話 誰も知らない場所を目指して

 僕がシアンであった頃、シアンはいつも外を見ていた。

 炉辺荘の外。

 出ていくことのできない場所。

 シアンの部屋は青い。

 雨の夕暮れには青い光のさざなみが、シアンの部屋を太古の海へと変える。

 シーラカンスの置物はいつも静かに眠っている。

 でも、僕は知っている。

 シーラカンスはいつか水面を目指すのだ。

 そして太古の眠りから光の中で目を覚ます。

 ううん、本当はシーラカンスは眠ってなんかいなかった。

 深い深い海の底で、いつか水面を目指す時を待っていた。

 時は来た。

 シアンは窓の外を見ない。

 今のシアンにはすることがたくさんある。

 勉強して、書類を整えて、大学の入学資格を取って。

 ずっと他所ごとだった外の時間が、炉辺荘に流れこんでくる。

 それが、僕にはとても嬉しい。

 シアンは炉辺荘を出て行く。

 僕は叔父さんと炉辺荘に残る。

 どこまでもどこまでも

 シアンはきっと行くだろう。

 誰も知らない場所を目指して。


 炉辺荘を出たのは、金木犀が咲くにはまだ早い夏の終りだった。

 月世界大学に提出した論文が認められて、僕は新年度からの入学を許された。

 昔、父が叔父さんと共に学んだという大学で、僕も学ぶことになる。

 叔父さんやカエルムの事を気にしないではなかったけれど、僕は前に進みたかった。

 ずっとずっと憧れ続けた外の世界。

 どこまでもどこまでも

 いつか誰も知らない場所を目指して。

 そのために僕はたくさんのことを学びたい。たくさんの事を知りたい。

 弛められていたものが弾けたように、憧れを止めることは僕自身にも出来なかった。

 一番近い宙塔までは叔父さんが送ってくれた。

 「軌道エレベーターは外が見えないのが難点だな。見えたところで時間がかかりすぎて退屈かもしれんが。」

 叔父さんはそう言っていたけれど、おじさんの乗らないうちに多少の改善があったらしくて、軌道エレベーターの庫内には外を映すモニターが設置されていた。

 しばらく登ったころ、遠くに湖がみえた

 湖はとても小さかった。

 あの小さな湖の両岸の小さな世界を僕は知ってる。

 春にすみれの咲く研究所。

 秋に金木犀の生け垣迷路に迷う炉辺荘。

 すみれに囲まれた墓標。

 金木犀の降り積もる天球儀。

 研究所から持ち出した本の裏表紙には「エスタンシア」と読める走り書きがあった。

 前にそんなものを見た記憶はない。

 もしかしたらディチャセッテからの伝言ではないかとも思えたけれど、意味まではわからなかった。

 本も、万年筆も、手荷物の中に入っている。本は進化論の本だった。シアンの愛読書の一つと同じ。不思議と言えば不思議だ。

 いや、そうでもないのかもしれない。

 人になりたいピノキオも、太古の夢から覚めたいシーラカンスも、結局同じ未来への光を目指すものなのだろう。

 湖はやがてモニターの範囲から外れて見えなくなってしまった。

 宙塔は大気圏の外まで伸びて、そこに月までのシャトル乗り場がある。月は地球と同じ行政圏で、他宙域を目指す宙港は月にあるのだ。

 遠くなる青い星。

 近づいてくる白い月。

 右手でそっと左の小指の指輪に触れる。

 受け継いだ二重の螺旋。

 僕はどこまでもどこまでも行こう。

 誰も知らない場所を目指して。

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深海魚-シーラカンス- 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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