第12話受け継いだものたち

 「本当にいいのだね。」

 ティユールが確かめる。俺は躊躇うことなくうなずく。

 迷いはない。

 俺とシアンの利害は一致している。

 人になりたい俺。

 大人になりたいシアン。

 願いを叶えるために、俺達は同じ事を望む。

 ティユールが俺の中にシアンの記憶を送り込む。外見もシアンへと近づける。青い合成眼球は、すでに作成されている。

 ああ、これが育つということか。

 シアンの記憶は十四年の間、少しづつ視点が変わっていく。感情は最初はっきりせず、成長に従って複雑になる。

 渦巻く記憶の渦の中に、俺の意識が交わり溶けていった。


 僕が抱きしめていたもの。

 僕が守りたいもの。

 全部、全部、あなたにあげる。

 だから連れてって。

 世界の果てまで連れてって。

 生命も、

 記憶も、

 名前も。

 全てあなたのもの。

 ―シアン。

 

 鏡の中の青い瞳。

 左の小指の二重螺旋の指輪。

 目が覚めて、沢山の違和感を覚えて、

 でも

 鏡を、指輪を見たら違和感は消えていった。

 僕はシアン。

 シアン·ガリマール。

 大きすぎた指輪は小指の太さになり、背は叔父さんよりも大きい。

 「おはよう。シアン。」

 叔父さんの隣には青い目の男の子がいる。僕の一番古い友達、カエルム。

 「おはよう叔父さん。おはようカエルム。」

 こんなに小さかったのかと思った。

 叔父さんも、カエルムも。

 叔父さんはとても歳をとっていて、カエルムはとても幼かった。

 世界がまるで違って見える。

 それは驚きと同じくらい、寂しいような変な気持ちを沸き起こした。

 ピノはいない。僕がピノだから。

 ピノの心と記憶は僕の中に不思議にしっくり収まっている。

 微かに擦れ合う違和感もだんだん薄れて行くだろう。

 そう思った。

 僕はピノだから、とても気がかりな場所がある。

 「ねえ、叔父さん。」

 ベッドからそっと起き上がる。

 身体を大きく動かすと、そっと助けてくれるピノを感じた。

 「研究所に行きたいんだ。行っていいんだよね。」

 湖の対岸にある、春にすみれの群れ咲く場所。ピノがお父さんや兄弟と過ごしたところ。

 「もちろん。お前はシアンだからね。私も行こう。旧友を尋ねるのもいいものさ。」


 細かな調整とチェックを終えて、叔父さんと二人研究所に向かったのは、風の冷たい日だった。僕は覚えている限り初めて炉辺荘の外に出た。炉辺荘から出られないカエルムはお留守番だ。

 二人で車のシートに並び、外を眺める。風が湖にさざ波をたてていた。

 大きな街があるのとは反対側の、静かな道を進む。やがて研究所が見えた。

 懐かしいという思いが胸に広がる。

 それは同時に刺すような痛みを伴っていた。 

 中に入るまでもなく、研究所は荒れていた。

 中に入ると明らかな狼藉のあとがあった。

 壁や床を引き剥がし、沢山のものを持ち去った痕跡。

 そのくせみんなで集まったリビングのソファや、クワトロがお菓子を焼いたオーブンはそのままに残っている。

 ディチョットの部屋は荒れていたけれど、なにもなくなってはいなかった。読みかけの本、ベッドの足元に放り出してあったはずの寝間着、父がくれた万年筆。

 「炉辺荘が見えてるな。」

 叔父さんが窓から外を見ていた。湖の向こうに金木犀の生け垣迷路と天球儀が見えている。

 生まれてから毎日目にしていた景色だ。それがどんな場所であるのかも知らずに。

 僕は本と万年筆を拾うと、そっと上着のポケットにしまった。

 一番気になっていた父の棺はなかった。

 持ち去られたのかとも思ったけれど、すみれの群生地の隅に掘り返したあとと、文字の彫り込まれた石が残っていた。石には見覚えがあった。庭に置かれていた石の一つだ。

 名前と生没年を書き込んだだけの簡素な墓標は父にふさわしいように思えた。

 ディチャセッテがやったのだろうか。

 たった一人で。

 叔父さんが温室育ちのすみれの花束を墓に供えた。

 よほど気を使って掘ったのだろう、すみれの群生地はほとんど傷ついていなかった。だから春になれば父の墓標はすみれに包まれる事だろう。たとえ誰も花を手向けには来られなくても。

 一日かけて、ひとつひとつゆっくりと確かめて、僕は研究所をあとにした。

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