第11話 さようならとごめんなさい

 窓から外を眺めて、俺はすぐに階下に下りた。裏口から外へ出る。

 花の散った生垣迷路を抜けると彼女がいた。

 シアンの天球儀のそばに。

 俺の、すぐ上の姉、十七ディチャセッテ

 すみれの瞳が俺を見る。

 俺と全く同じ、全ての兄弟が全く同じ、すみれの瞳。

 ああそうか。

 俺はこの瞳を捨てるのだ。

 シアンの青い瞳を選んで。

 すみれは父が好んだ花だ。庭には一群れのすみれがあって、春には庭の隅を染めて可憐な花を咲かせる。

 金木犀に比べれば本当にかすかな香りだけれど、ほんのりと庭に広がるすみれの香りが、俺達にとっての春の香りだった。

 父の死は秋だったから、棺にすみれを手向けることはできず、姉たちがせめてもとすみれの刺繍を施した枕を父に作った。

 あのすみれはどうなったろう。

 あの夜、踏みしだかれてだめになってしまったろうか。

 「ディチョット、迎えに来たよ。」

 十七が微笑った。

 十七は少女の外見をしている。

 特別な美貌ではない、普通の顔。とても自然な表情なのに、なぜか違和感がある。

 「家に戻るの?」

 尋ねると十七が首を横に振った。否定の動作。

 「他のところ。でもみんないるわ。」

 では、十七も捕まったのだ。

 俺の中に静かに苦い感情が広がる。

 失望?

 いや、もしかしたらこれは悲しみだろうか。

 「俺は行かない。」

 俺の言葉に十七が傷ついた顔をする。

 嘘だ。

 十七はこんな事で傷つかない。この答えを予想しない十七ではないはずだ。

 しばらく炉辺荘での俺の様子を、モニターしていたはずなのだから。

 俺は、どんな表情をしているのだろう。

 鏡が欲しいな、と思う。

 こんな時どんな表情が正しいのか知らない。でも、せめて自分が浮かべている表情を確かめれば、それが自分にとって正しい表情なのかどうかはわかる気がする。

 「私達を切り捨てるの?」

 すみれの瞳が俺を見る。

 俺はすみれの瞳で見つめ返す。

 「俺は行かない。」

 他になんと言って返せば良かったんだろう。

 俺の中に渦巻く色々なもの。

 父とかシアンとかカエルムとかティユールとか。

 十七対のすみれの瞳とか。

 金木犀の生垣迷路や天球儀。

 すみれの咲く庭。

 歩いて渡った湖の水底。

 研究所を出るときに、一瞬かすめた十七の影。

 もしかしたらそのすべてを表すことのできる気持ちが、言葉が、あるのかもしれない。でも、それはあまりに遠く、俺には見つけ出すことが出来ない。

 「俺は行かないよ。ディチャセッテ。」

 十七の表情が消えて、身を翻した。

 それから水音と静寂。

 「さようなら。」

 俺は誰にその言葉を言ったんだろう。

 おそらくは捕縛者の調整を受けて、俺を捕縛する命令を帯びて現れた十七。

 十七と行けばもしかしたら、あの、兄弟が揃って暮らす生活が待っているのかもしれない。

 でも、それでも。

 父は俺が人らしくある事を望んでいた。

 俺には十七と行って捕縛者の調整を受けるよりも、すみれの瞳をすてて青いシアンの瞳を選ぶほうが、いくらか人らしいように思えるのだ。

 だから。

 俺は振り切るように湖から視線をそらし、部屋に戻った。


 ふと、目が覚めた。

 予感がして、部屋を出る。

 廊下の突き当りの窓から外を見た。

 そこからは金木犀の生垣迷路が見える。

 シアンの天球儀は、生垣に隠れて見えない。

 しばらくそうしていると、生垣迷路からピノが出てきた。

 ああやっぱり。

 きっと、あの人が来たのだ。

 ピノの姉妹だという人が。

 そして、ピノは戻ってきた。

 たぶんその人を振り切って。

 ありがとう

 そしてごめんね。

 会ったことのないピノの兄弟にも、心の中で呼びかける。

 僕にピノを下さい。

 ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 僕が、ピノをもらいます。

 僕が生きたいから。

 僕が、誰も知らない場所へ行きたいから。

 だから、ピノをもらいます。

 僕の大切な、何より大事な望みのために、あなたの大切なものをもらいます。

 ごめんなさい

 ごめんなさい

 ごめんなさい

 声が届くはずがない。

 身勝手で、傲慢な謝罪。

 きっとこんな言葉は、届かないのが正しいのだろう。

 ピノの姿が裏口に消える。

 僕は足音を忍ばせて、そっと部屋に戻った。

 

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