第3話 あのね、あのね

翌日、祭りの最終日。僕は美沙の素っ頓狂な声で目が冷めた。


「ちょっと!見た?恵梨香のお父さんから、新しい動画がシェアされてる!」


電話の向こうの彼女は、かなり興奮していた。本当に起きたばっかりだったらしく、頭にはまだしっかり寝癖が残っていて、あまりこっち見るなと言いながら、早口に、「私もちょっと見たけどなんかかなりはっきり映ってそう!今日暑くなるらしいから、駅前のどっかの冷房効いた店で秋介のでっかいタブレットで見ようよ!」

と一息に言って、割と勝手に電話を切った。

朝ごはん食べたら即集合という、なんだか忙しない約束を取り付けられ、僕は母も呆れるほど慌ただしく朝食をすました後、自転車で15分ほどの最寄り駅前のファストフード店まで疾走した。


「ほい!こっちこっち!」

店に入るなり、奥の席から美沙の声がした。秋介も、先ほど着いたところらしく、まだ汗が完全に引いていなかったが、

「いや、ちょっと見はじめてたんだけど、これはいいかも」

と、早速かなり興奮していた。


僕等三人に当てられた、恵梨香のお父さんのメッセージによると、僕らが帰った後、恵梨香が犬のサトちゃんにもライフログのアカウントを割り振っていたのを思い出し、昔教わったパスワードでアクセスして、僕らにシェアしてくれたらしい。そういうのを、逐一メモしているところも、生真面目な恵梨香のお父さんらしいと思った。


シェアされた動画は、恵梨香が浴衣を着て、家を出たところから始まっている。サトちゃんは恵梨香の前を歩いているので、彼女の姿はほとんど映らない。


だが時々、恵梨香のことを一瞬振り返ることがあって、その時に、彼女の姿が画面に映る。喜び勇んだサトちゃんの早足に、慣れない下駄で必死に追いついている恵梨香の姿が微笑ましい。カラコロ カラコロと下駄が小気味よくアスファルトの路面を擦る音が、時々早まったり遅くなったりつまづいたり、どこか生めかしく、不確実に揺らぎながら聞こえている。まだ残暑厳しい時期とはいえ、お盆の空は冷え冷えと高く、夕暮れが近いので、まるで溺れそうに深い藍色で、カメラが広角なのもあって、より広く、何もかもが獏として切ないほど遠くに見える。


ひつじ雲が空に広がっている。お祭りに来た人達の路上駐車が、道のそこここに見え、明滅するパーキングランプが、暗くなり始めた道では随分鮮やかな黄色に見える。あたりは静かだが、しかし、どこか落ち着かない。見慣れた街の、いつもと違う祭りの日の路上の雰囲気が、画面から伝わってくる。


「あ、懐かしい、これ、あそこの中華料理屋さんの昔の車だ。私がバイトしてた頃の」恵梨香が、画面に一瞬移った、豚のイラストの中華料理屋の車を見つけて、思わずそう呟いた。恵梨香が歩いている間に、辺りはさらに暗くなり、そして、次第に神社の階段と一番下の鳥居が見えてくる。街を彩る提灯にふっと明かりが灯り、あたりの人をひときわ高い場所の社へと誘う。


「良二はのづっち迎えに行かなかったのか」

秋介が画面から顔を上げて僕に尋ねた。僕は頷く。

「...たしか、向こうから現地集合って言った気がする」


あの時は理由がわからなかったが、おそらくは浴衣を着て少しびっくりさせたかったんだろうと思う。


長い階段を登り終わり、サトちゃんが後ろを振り向くと、恵梨香は少し息を切らせてちょうど上がってくるところだった。境内の時計が見える。この時点で午後7時。花火の始まる一時間前だ。


「のづっち!」

美沙の声がする。画面の中からだ。本人はそれを見てにやけている。部活が終わってそのまま来たのだろう。見慣れた、僕らの中学のジャージのまま、道着を右手に下げている。

「わー!すごい!やばい!可愛い!」

相変わらずの大きな声が画面から聞こえ、美沙は思わず、タブレットの音量を下げた。「...ちょっと騒ぎすぎ...私」


「ちょっと、男子!こっち来なよ」

あまり効かなくなった男子という言葉に、懐かしさを感じる。


「おー!すげえ!浴衣だ!」秋介が軽薄な感動の声を上げる。

「いいよね!いいよねー!いいなー!」美沙は同じ事をずっと言っている。


「おばあちゃんちで見つけたやつ、可愛かったから直してもらって、着てきた」

恵梨香の照れの混じった高い小さな声が聞こえる。

「...ちょっと大きかったかもしれない」

「いや!そんなこと無い!ぴったり!」

押し売りのような美沙の声だ。

「ほらどうよ、男子!こんなの滅多に見れないぞ!」


「いやー、似合う似合う」

秋介が相変わらず、本心がこもってるのかはっきりしない声でそう褒め称えている。それは感動していないわけではなく、彼の癖だ。

「ほれ、どうよ良二!惚れなおしたべ?」

美沙がいたずらっぽい顔で僕の方を見る。僕の声は聞こえてこない。


でも、僕は、ただ笑ってうなづいていたと思う。


それ以上、なんと言ったらいいのか、あの時も僕は、言葉を持ち合わせていなかった。綺麗だ、とか、可愛いとか、それでよかったのかもしれない。でも、どの言葉もうまく言い表せなくて、ただ、恥ずかしく、笑って頷くだけが、僕のできる彼女への表現だった。彼女は、終始微笑んでいた。彼女もまた、肝心なときに率直な言葉を、人前では使えない人間だった。


「...花火、もう行く?」

恵梨香の声が聞こえる。

「あ、うん、ちょっと早めに行かないと、場所取れなくなるよね」

美沙の声がする。


「あー、でも、サトちゃんはちょっと置いてったほうがいいかも。人いっぱいいるから、踏んづけられちゃうし」

あ、そっか。恵梨香の声がする。


「...金魚すくいのおじさんに頼んでみようか。犬飼ってるから、多分、面倒みてくれるよ」

「あ、俺行ってくる。俺、今年あそこ手伝ってるから」

秋介がそう言って、画面の向こうの金魚すくいの方までかけていった。


「ゴメンね、サトちゃん、置いてきぼりだね」

美沙の顔が画面いっぱいになる。サトちゃんが、フン、と鼻を鳴らすのが聞こえる。


おじさん、いいってさ!と秋介が遠くでそう言っている。

「いいって!」美沙が言う。

「行こ!」


僕らは、金魚すくいの店の前まで移動した。人の出が多く、いい匂いがあたりに漂っているためか、サトちゃんは始終興奮気味で、鼻を何度も鳴らしている。


金魚すくいのおじさんに紹介し、ロープを裏の木にくくりつけたところで、恵梨香が「ちょっと先行ってて」と切り出した。

「トイレか?」秋介の声の直後、痛ぇ、という微かな声が聞こえた。


「待ってるよ?」

美沙が恵梨香にそう尋ねた。


「...ううん、いい。先に行って場所とってて。サトちゃんに水だけやっていくから」


何度か美沙が待っているというが、彼女は折れなかった。最後には美沙が少し根負けして、「...うん、わかった。じゃあ、いつもどおりのところで待ってるから」とだけ言い残し、先に暗闇の中へと消えていった。


「花火で感動して、忘れてたけど、そう言えば、こういうやりとりちょっとあったね...」美沙が、画面を見ながら言う。

「俺は、覚えてないな...」秋介がポツリと言った。


恵梨香は、金魚掬い用の器に水をもらって、サトちゃんの前においた。サトちゃんは、それをしばらく舐めた後、また恵梨香の方を見た。恵梨香は、少し離れたところで自分のカメラを前において、何やら語っている。


『私.....言おうと....、いえないんだ。それでも...、ごめんなさい』

「うーん、惜しい」美沙が言う。


「恵梨香、声小さいから、ちょっと離れると、マイクに入んないな」秋介も言う。


少しボリュームを大きくする。屋台のスピーカーからのまつりばやしが聞こえてくる。


『....、だから....、ごめんなさい。でも....、そのために....』


「何かをお願いしているみたいだね」美沙が言う。「...ますますわかんないな」


画面の中から、ドーン、と花火の音が聞こえてきた。恵梨香は驚いたように空を見上げる。そして、少し急いで話を終わらせると、携帯を掴んで、少し駆け足で、僕らの向かった方へ、消えていった。


「うーん...」

僕等三人は思わず唸った。これではますますわからない。

「そもそも、誰に向けたものなのかも結局わからなかったな」秋介が言った。

「前半はいい感じだったんだが」

「恵梨香、綺麗だったね」美沙が言った。「..やべ、少し泣けてきたぞ」


僕らはそれから、恵梨香が話した内容についてしばらく話し込んでいたが、一向に結論は出なかった。話はそれから、あの頃の恵梨香の話題に移り、今日の花火の事になり、集合時間を取り決めて、そして一度解散となった。



僕は家に帰り、もう一度あの動画を見てみた。全体的に薄暗く、声も小さいが、恵梨香の必死さは伝わってくる。おそらくはとても大切なことを、彼女は話していたのだ。しかし、誰に向けて?僕らの誰も知らず、親すらも知らない大切な人が、彼女にはいたのだろうか。


僕には、想像もつかなかった。よく理解していると思っていた人の、意外な一面は、僕を安心させるどころか、心をかき乱した。解決するのなら、早く解決して欲しかった。永遠に解決しない可能性も考えると、溜息だけが漏れてくる。


僕や、友人たちと、多くのことを共有していたと思っていた彼女は、それでも、本当に大事なことをずっと隠していたのだろうか? 



一時間後、僕は駅のホームで、町の山手方面に向かう各駅停車を待っていた。上下二本がすれ違うだけの、田舎の駅だが、住宅が多いこともあって、利用客は多い。


向かい側の1番ホーム、県の中心の方へ向かう上り快速列車には、一足早く里帰りを終えた家族連れが、カラフルな旅行かばんを下げて乗り込んでいた。すっかり疲れた父母と兄とは対照的に、弟さんはまだ目をキラキラさせて、窓の中から、僕の方を珍しそうに見つめている。


僕は、その屈託のない視線に笑を送り、どんなふうに見えているんだろうと思いながらも、ご両親には気づかれないくらいにそっと、右手を上げて挨拶した。少年は、その挨拶に恥ずかしくなったのか、慌ててくるりと背を向けてしまった。隣の母に、何やら話しかけている。お父さんは、どうやら早速、寝始まったようだ。


僕の乗る下り各駅は、快速列車とすれ違いにするりと入ってきた。休日の日中の路線で乗る人も少なく、2両編成のディーゼルは、カラカラと、軽快に音を立てている。


「...あれ?良二君?」

後ろから、聞き覚えのある声がした。振り返ってみると、そこには、中学の時の同級生だった佐野が立っていた。佐野は今通っている高校の野球部の名前の入ったバックを肩に下げてにこやかに笑っていた。


「...ああ、佐野君、久しぶり」

僕も笑顔で応じた。


おそらく、部活の帰りだろう。彼の家は、そう言えば、この路線の終点近くに合ったはずだ。小学校までは校区が違い、中学では一緒だった。高校も一緒なのだが、クラスが違うこともあり不思議と接点のないやつだった。だが誰にでも礼儀正しく、印象のいい彼は、比較的誰からも好かれるタイプではある。


「...部活の帰り?」

誰にでも見てわかるようなことを質問した。

「ああ。休みなんだけど、自主練みたいなもん」真っ黒に日焼けした顔で笑った。

「そっちは?」「ん...」特に、言うほどの用事でもないと思ったので答えに詰まった。「気分転換」何となくそう答えた。


向かい合わせの席に座り、彼は隣にドサリとカバンをおいた。見た目よりずいぶん重いらしい。

「グローブでも入ってんの?」と聞くと、

「...ああ、ちょっと手入れしなきゃないかなと思って」といい、カバンを開けて、グローブをひとつ取り出した。


茶色の、すっかり使い込まれた、くたびれた皮のグローブだ。手首のロゴマークのところに、「南中 佐野」と名前が入っていた。

「中学の時から使ってんだ」僕がそう言うと、

「うん、試合では使わないけど、練習用」と、言って、パタパタと、閉じたり開いたりしてみせた。見た目より軽く、乾いた音がした。


「試合用はこっち」

と、カバンの中から、もうひとつ、それよりはまだ新しいグローブをとりだす。

「こっちはまだ固いから、使い込まなきゃな」

頼れる親友を見るような目で、そのグローブを見つめながら、彼は言った。


「そっちはどうなの?秋介が、毎日古本屋のバイトしてるって言ってたけど」

「うん、思ったより長く続いてる。3日で飽きるかと思ってたけど」

秋介は至るところにつながってるな。そう思いながら苦笑いを浮かべる。


「うちにも何冊か、おじいさんの残した紙の本があるけど、ほんと見なくなったよね」

彼もそう言って笑う。

「どういう人が買ってくの?」

「概ね、得体のしれない感じの人かな」そう言ったあと、佐野が真に受けて真面目な顔をしているので、

「なんか、学者っぽい雰囲気の人」と、少し付け加えた。実際、いまどき紙の本を買う人など、そういう収集目的でもなければ、ほとんどいない。


「あー、なんかわかる気がする」佐野は、快活に笑った。

「俺も、もらったことはあるけど、自分では買ったこと無いしなあ」

そう言いながら、手に持っていたグローブを大切そうにカバンに戻した。



あれは、中学に入ってすぐ位の事だったか。佐野は恵梨香のことが好きなんじゃないか、との憶測が、少し流れたことがあった。どこにでもよくある、そんなたぐいのうわさ話だったが、そんな記憶が、不思議なことに今でも、僕の中にわだかまっている。僕と恵梨香の関係は、恋人というには、幼馴染の延長のようなもので、全く赤の他人同士が、好き同士になるそういう恋とは、おそらく質が違っていた。僕には未だに、それがどういう流れを経て、進んでいくのか、よくわかっていないところがある。知らない同士から、友人になるだけでも、大変と感じることは多いのに、そこから、恋人となるのは、どれほど大変なのだろう。佐野と恵梨香の間の噂は、それほど事実無根というわけではなく、実際、彼と彼女が、一緒に話している場面は、比較的よく見た気がしている。あるいは、それも、多少なりとも心をかき乱された男が抱く、少し誇大な印象なのだろうか。だが、小さい頃から見ている恵梨香の、小さい頃は見たことのない表情に、僕が戸惑っていたのは事実だ。あれは、相手によく見られたいと意識する少女が作る表情なのか。はたまた、あまり話したことのない相手に少し緊張しているだけだったのか、僕はついに、彼女に聞けずにしまった。



「...佐野君」僕はぼんやりと窓をの外を見ていた佐野に、恐る恐る切り出してみた。「実は一昨日、俺と秋介と美沙の三人でお祭り行ったんだけどさ...」


僕があらましを話している間、佐野は、いつもと変わらぬ真面目な表情で僕を見ていた。

「...どうも恵梨香はメッセージみたいなものを録画してたみたいなんだけど、少なくとも俺ら3人と、お父さんお母さんにもシェアしてないんだよね...」


ここで佐野が「ああ、僕が持っている」と答えてくれることは、僕も十分予期していた。だが、そうなった時の心構えまで、出来ているとはいえなかった。ほとんど見切り発車のまま、知りたい気持ちだけが先走り、僕はこの話を切り出してしまっていた。彼にすっかり尋ねてしまってから、その際に訪れる残酷な結末をありありと想像して、僕は自分の膝が萎えてしまっているのに気づいた。


だが佐野は、ひと通りの話を聞いたあとも、「不思議だね...」と言ったきり、自分が持っているとも、持っていないとも言わなかった。どちらかと言うと、なぜこんな話をしたんだろう、という表情をしているように、その時僕は見た。


田園風景の向こうに、付近よりやや高い山の峰が見えている。稲の穂は、まだどちらかと言うと青い。


「誰に送ったんだろうね。野口さん」

彼は窓を見ながらポツリとそういった。


「僕、正直、彼女は好きだったけれど」彼は静かに吐き出すように語った。


「シェアしてくれたことも、してくれなかったものも、そこには、彼女の意志があると思うんだ。僕は、あえて、彼女が見せなかった部分までは、知りたいとは思わないな」彼は小さく、息を吸った。


「彼女が僕に見せたかった彼女が....、贈り物みたいなもんなんじゃないだろうか。彼女が、自分のために作ってくれた」

彼はそう言うと、窓の外の景色を見たまま、少し口数が少なくなった。


僕は、その列車を、佐野が降りる数駅前で降りた。

平凡な名前の、特に目につくもののない田園地帯の駅だ。だが、ここに、恵梨香がいる。僕の父も、恵梨香のお父さんも多少地域は違うが結局地元の人間なので、墓も、同じお寺の中にあった。彼岸などで、自分の家のお寺にお参りするときには、一緒に、恵梨香のところにもお参りすることにしている。


わざわざ、墓まで来る必要など、なかったかもしれないとも思っている。昨日も仏壇に御挨拶したばかりだし、恵梨香も「また来たの?」と笑っているかもしれない。僕も、それほど信心深いほうじゃないから、仏壇よりも墓参りが、とか、そんなことはちっとも思っていない。


でも、こうやって、電車に乗り、恵梨香のことを考え、思い巡らし、そして帰ってくるという一連の作業そのものが、今の僕には必要な気がしていた。気が回らず、花など持ってこなかったから、とりあえず駅前の商店で、好きだった酢昆布を買って、田んぼの中のあぜ道のような道を通り、小山の麓のお寺に向かう。


『ちょっと!え!お墓参り?』駅で降りた時、ライブ映像をシェアしておいたので、ちょうど見かけた美沙が、驚いて参加してきた。「そう」画面の中の彼女に、そう言って笑う。見たところ、彼女は今、家にいるようだった。


兄か弟か、カメラの後ろでバタバタ走り回る音がしている。


『言ってくれたらよかったのに!あたしお墓どこにあるか知らなかったんだよね。うちのお寺、別だから』

「俺も、急に思い立ったもんだから」

まさに気分転換で、それほど考えがあっての行動ではないので、僕も笑って答えるしか無い。

「まあ、あと10分も歩けばつくから、画面見ながら拝んでて」

「はいはい。いきなり過ぎて全く呆れた」

そうは言いながら、美沙もこういう突発的な出来事は嫌いでない。ちょと先にトイレ行ってくる、そんなどうでもいいことを言い残し、彼女は一瞬画面から消える。


時計を見れば午後一時。太陽はすこぶる高い。緑色の稲穂は、まだ頭を垂れるには少し早く、青々とした実を、そびえるように、天に向けている。遮る物のない、田園の太陽が、真夏のジリジリとした暑さを、僕の皮膚に刻みつけている。水は鏡の破片のようにギラギラと日光を反射し、あたりを取り囲む、


山々からは、注ぎこむようなセミの合唱が聞こえてくる。狭い階段を上り、境内に入る。お寺はひっそりとしている。人影はない。砂利の敷かれた庭を抜け、裏手の墓地に入る。


山の斜面を切り開いて作られた、急峻な墓地の、恵梨香の墓は真ん中辺りにあった。登って行くと、それでも結構な高さがあり、思わず後ろを振り返れば、ずっと歩いてきた広々とした田園が海のように、広々と広がっていた。僕の利用した鉄道の高架橋が、その向こうに、西から東に向けて、まっすぐに走っている。


その向こうには、並行する有料道路が見える。真夏の暑い盛で、お彼岸には多いカラスも木陰で眠っているようだった。強靭なツクツクボウシの鳴き声が、ジージーゼミを背景に、ここまで来るとはっきりと聞こえる。


恵梨香はあれから二年間、こんな広々としたところで眠ってたんだな、と改めて思う。この緑の景色は、彼女も嫌いではないと思う。墓の脇に刻まれた名前の中に、恵梨香の名前もある。70とか、60とかのご先祖様のなかで、「15歳」の文字が痛々しい。


「学」の文字が入った戒名は、そういえば彼女が学生だったからだろうか。そんなことを考えながら、お墓に向きあう。買ってきた酢昆布を、お墓に備えた後、少しの間、心を空っぽにして、彼女の墓前に手を合わせた。


考えたいことはいくつもあった。教えてもらいたいものも、聞かせてほしいこともたくさんある。でも、墓前で手を合わせながら、それをするのは、なにか抵抗があった。僕らの、今を生きる僕等のことはどうでもいいから、この開けた景色の中で、せめて安らかに彼女には眠っていて欲しい。


『途中から間に合ったよ』

拝み終えた頃合いを見計らって、美沙が言った。


『...ずいぶん長かったなって言いたいの?』

「いや」僕は笑った。

「しかし、暑いな」墓石に手を触れる。やけどしそうに暑い。


何度か触ったり、手を離したりを繰り返しながら、僕は石の奥に、彼女の存在を探った。

『恵梨香も、アイスの一つも食べたいだろうね...。なにかお供えした?』

「酢昆布」僕は、お供えした酢昆布を食べながら言った。


うちの地方では、お供えしたものは食べるものとされていると、母が言っていた。『え!酢昆布!?地味!』美沙が笑っている。


『おー、何だ、墓参りか良二!』秋介が参加してきた。

『暑い中よく行ったな〜!のづっち!どうしてるー!』

画面の向こうの墓標に語りかけるように彼は言う。

『あー、俺も行けばよかった。実は俺も行こうかと、ちょっと考えたんだが、やっぱやめてたんだわ。あとで結局行くしな』


『私もこれで場所わかったから、後で行ってみる』美沙が言う。

いつの間にか、手にアイスを持っている。


「いい物食ってるな」僕は画面に向けて言う。

『弟からもらった、暑いでしょ、食べたいでしょ』

『実は俺も、ちょうど食ってたんだ』

秋介も、透明なカップに入った、かき氷を画面に近づけて見せた。

『わりいな、超うめえ』


こんな会話をしているうちに、僕はふと、背中に恵梨香の気配を感じたような気がした。振り向けば、彼女は照れたように控えめに歯を見せて、笑って立っているに違いない。彼女にも聞こえただろうか。この今の僕等の、シェアしたかった日常が。



あの日、彼女が登った階段を、僕は再び登っている。2年の時が過ぎても、石積みの階段は、時の流れを感じさせない。おそらくはあの時より、多少はすり減ってもいるのだろう。だが、それは、そこを登る人間の変化に比べれば、些細なことだ。神社という場所は、変わらないことで、自分自身の変化を痛く感じさせてくれる場所でもある。


「お、来たな!」

階段の一番上では、秋介と美沙がすでに待っていた。真昼の強行軍から帰ってきたばかりで、まだ体中の皮膚が火照っている僕は、また随分とくたびれていたが、秋介はそんなことはお構いなしに僕と肩を組み、半ば連れ去るようにして、あの日の特等席に―4人で花火を見上げた、あの場所へ連れて行く。


あの丘に向かう雑木林の道では、浴衣姿の幼い姉妹が、じっとしていられないのか、両親に伴われて、我先にと、駆けていた。白地に淡い青系の染料で描かれた百合が、薄暗くなった小道を走る中で、おぼろげになり、そして、闇の中へと溶けるように消えていく。待ち切れない姉妹の歓声と、父親の「あまり走るなよ!」という声が、樹齢の古い鎮守の森の林間に、涼しげにこだましていた。


花火の見える丘の上は、すでに人でいっぱいだった。ブルーシートを引いている人、立って待っている人。2年前は生まれていなかった子供たち。まだ結婚していなかった人たち。仕事を変えた人、病気で見れなかった人....。大勢で、同じ方向を見上げて、同じ花火を待ちわびている。


「こういうのもいいもんだよな」秋介が言う。「雑多な人が、みんな同じ方向向いて、同じ物を待ってるっていうこの感覚」


「一つ屋根の下っていうか」美沙が笑う。

「だから何だって感じなのに、妙にうれしいよね」

「だよな」秋介が笑う。

「花火って大切なんだな。ただうち上がって消えるだけなのに、みんななんか寄ってくるし、妙にニコニコしちまうんだから」


小一時間にも思える、待ち切れない時間の後、西に流れる川辺から、ヒュルヒュルと、最初の一発が上がった。そしてそれを皮切りに、次々と色も大きさも様々な花火が、断続的に打ち上げられていく。


田舎の花火故に、それほど豪勢ではない。それでも、みんなちょっと大きいのが上がるたびに、口々におー、とか、わーとか、感嘆の声を上げている。星のよく見える夏の暗い夜空に、皆ぽかんと口を開けて、次に来る花火を口の中に捕らえでもするかのように、ぼんやりと待ち望んでいる。


花火もいよいよ大詰めとなった。大型の花火が、小さいものに混じって、どん、と打ち上げられ、花火の煙で霞み始めた低層を突き破って、夜しかない高い高いところに、大きな大輪を咲かす。

「わー、スターマインだ...」美沙はすっかり感心してしまっている。秋介は、ただ静かに、空を見つめている。僕も、時折口をついて出る、美沙の無邪気な反応に時々苦笑しながら、ただただ空を見上げ、みんなと一緒に過ごすこの時間にすっかり身を任せていた。


その時だった。僕の携帯が、腿の上でブルブルっと小さくバイブした。家からだろうか?反射的に、ポケットから取り出して見てみる。画面の記述を確認し、そして、一瞬、星のめぐりが止まった。「....えっ」声を漏らしたのは隣の美沙だ。彼女は驚いた顔で、こちらを見ていた。秋介も、自分の携帯を見て、ニヤリと笑っている。

「俺も来たわ....」彼は暗闇で目を輝かせて言った。「恵梨香から」


それは、予定投稿だった。二年前の恵梨香から、僕らに向けた、動画の。



『私....、今日こそはきちっと言わなきゃいけないと思って出てきたけど、やっぱりみんなの顔見てたら....、言えそうにない。いずれ、わかることだと思うけど、多分結局、うまく説明できないんだと思う。また、急に言っちゃった感じになって美沙を怒らせるかもしれない。いつもこんな形の伝え方になってゴメンナサイ。こういう大事なことは、ちゃんと人の顔見て言うのが、たいじなんだろうけど』

恵梨香は、少し神経質に、髪の毛を直している。

そして、人呼吸おいて、続けた。

『二年後の夏祭り...、高1、多分私は、みんなと一緒に花火を見てないと思う』

彼女は、再び言葉に詰まり、息を整えるように、数秒待って、続けた。


『夏休みに入る前、担任の先生と進路指導があったでしょ?あそこで私、この町出て、市の高校に行きたいですって言ったんだ。実は、まだお母さんにも、お父さんにも相談してないんだ。担任には、じゃあ、一人暮らしか寮ぐらしになるぞ、って言われたけど....。親はたぶん、大学からでもいいんじゃないかって、言うと思う。でも、私、そこまで何もできないわけじゃないし、いつまでも甘えててもいけないと思ったんだ。この町にしか住んだことなくて、他のこと、よくわからないから、なおさら...、いろんな所に住んでみたいってのは、あるんだけど』


『ずっとこの町にいるのも、いいと思う。そういうのが悪いって思ってはいないんだけど、なんか、今見ないと、よその世界は見れない気がして...。大人になって、結婚したりとかしたら、きっと簡単に引越しもできなくなるし、好きなように、自分の好きなことをやったり、しにくくなると思う。私何がしたいのか、まだ自分でもよくわかってないんだけど、でも、だからこそ、それを早く見つけたいんだ。したいことが決まらないうちに、時間だけどんどん過ぎてしまうのは、何かいやだから....。見つけないといけないと思うんだ。いろんな所に言ったり、いろんな人にあったりして、私なら何がやっていけるのか。まだ良くわからないし...。一度しか、無いのにね、』


『市の高校に行って、大学入って、違う世界を見てみたいんだ。地元の高校はたしかに、みんなともっと長く過ごせるだろうけど、違う環境で、違う考えの違う人たちと、そういうのはどんなふうなんだろうって、ちょっと興味が湧いてきたんだ。私にできるかわかんないんだけど....、でも、なんというか、しなくちゃいけないような気がして、そう思うと、なんでか怖くないんだ』


『でも私、やっぱダメで、途中で、もしかしたら、その道もあきらめちゃうかもしれない....。やったこと無いことだから、よくわかんない。でも、そうできないように、今、私の思っていることを、こうやって喋ったやつを、高1になった頃のみんなに送っておこうと思ったんだ。急に届いてたら、ごめんなさい。これはみんなへの悪戯と言うか、私への悪戯みたいなものなんだ..。こうしておいたら、私、恥ずかしくて、途中で、簡単に放り投げたりできないと思って。きっと秋介とか美沙とか、冷やかしてくれると、思うし、良二にも笑われそうだし。...あ、でもどっちみち笑われるかな。それも恥ずかしいな』


画面の向こうで、彼女は吐き出すように一気に言って、そしてようやく笑った。今まで、ずっと言いたいのを溜め込んでいたのかもしれない。今までの日常を急に壊すようなこの告白を、彼女はずっと僕らにできずに、悩んでいたのだろう。話すだけ話したことで、少し安堵したのか、後半は、少し表情が落ちついてきた。暗いのでわからないが、興奮気味に話していたから、息が上がって、顔はきっと真っ赤になっているだろう。一呼吸おいて、彼女は続けた。


『私は、みんなと離れて一人でやるとか、実はいまも、ちょっと想像できない。兄弟いないけど、兄弟みたいなもんだったし。ずっと一緒にいたいし、良二とも、ほんとにずっと一緒にいたから、美沙と秋介にもさんざん冷やかされてたし』


彼女は、首を心なしか傾けて、心持ち顎を引き、恥ずかしそうに笑った。

『でも、私は何も知らないし、このまま年を取って、例えば人の奥さんとかお母さんになったりすることが、いいことなのか悪いことなのか、ちょっとわからない。一度しかない世界を一度も知らないまま、年を取ってしまうのも怖い気がする。ねえ、良二や美沙や秋介なら、わかってくれると思うんだ。なんかさ、ずっと何かしなくちゃいけない気がしてるんだ。だから、こうして送ろうと思ったんだけど』


彼女はちらりと、カメラの向こうの空を見上げた。花火の音が聞こえ始めた。彼女は再び、言葉を急ぎ始める。


『何かわからないんだけど、わからないことをしたいんだ。こんな気持、思ったのは最近だけど、わかっていることより、よくわからないことを、してみたいんだ。それは今じゃなくてもいいのかもしれないけど、少なくとも今はそう思うんだ。よく知らない環境に行くより、ずっとこのまますっかりお母さんになるほうが怖い。なんかそう思えてきたんだ。いや、そういうのに憧れがないわけじゃないんだけど....、このままのなんにも知らない私で、当たり前みたいにそうなるのが怖いんだ。私達は今、ほとんど私達しか知らないんだし。それでも小さな時から一緒なんだし、また何度も合うよね、たぶん。いろんな外の事知ったあとでなら、改めて、いかに大切なのか、わかるんじゃないかと思う。家族も、友達も』


『正直、たぶん私、わざわざ面倒な方を選んでるんだよね。うちのお母さんも、町から出たことのない人だし、それでも何とかなってるから、そんな無理しなくても、いいものなのかもしれない。ずっと考えてるけど、結局何が正しいのか、よくわからない。言葉も、言えば言うほど、ごちゃごちゃになる。色々読んでも、人に聞いても、やっぱりわからなかった。でも、今のこの気持だけは良二と美沙と秋介にだけは伝えたい。たとえだめでも、笑っても、冷やかしても、馬鹿にしても、この三人だけは、必ずどこかで理解だけはしてくれるから』


『だから、ホントは、ちゃんと説明するべきなんだ。ごめんなさい。こんな感じで。でも、これから親になんて言われれて、結局どうなるかわからないけど、今の私の本心が、みんなに少しでも伝わったらやっぱり嬉しい。なんか面と向かって言う機会もなさそうな気がするし。じゃ、今はいないかもしれないけど、また一緒に花火見ようね。またね』

ぐらりと画面が揺れた。彼女は、カメラをあくせくとつかんで取り上げ、おそらくその後、携帯を操作し、僕らの見上げる花火の下へ、下駄を引っ掛けて急いだのだった。



花火はまだ、打ち上がっては夜空に散っている。夜に満ちてきた煙の中、乱反射した街の明かりで、ぼんやりとした燐光がその発射口あたりの低地を覆って、花火と夜空の境界はますます曖昧に光り輝く。明白な音響の原理で、それが夜空に咲く音は、いつも炸裂から寸刻遅れて耳に届く。それよりも前に、集まった観衆の感嘆の声が響いている。僕の心のなかには、彼女の映像を見終わって、何かもやもやとしたものが、まだわだかまっている。それが何かを言い表す言葉が見つからないが、ああこれは彼女が感じていた何かなんだろうなと、僕は気づく。割とインドアな彼女を、外に引っ張り出した何か。彼女はいつも、僕達より、半歩先を行っていた。僕らはまた、もういない彼女に引っ張られるように半歩遅れて歩み始めるのだろう。


美沙の目も、秋介の目も、ディスプレイの光を受けて、暗闇でかすかに光っている。予定投稿を見終わって、僕らは互いに目を合わせたが、この騒ぎが静まるまで、会話はできそうにない。


【終】

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