第2話 シェアとプライベートの間で

よしみや古書店の店頭には、今日もお客は現れなかった。


僕は午前中の間、携帯端末をいじって、自分のライフログを見返していた。あの恵梨香との最後の花火の記録だ。恵梨香が僕の背中に触れ、僕が振り返ったあと、しばらく二人で会話していたが、案の定、というべきか、美沙と秋介も直ぐやってきて、僕等はまた四人になった。


「なにが、ひゅ~ぅだよ...」

記録を見ながら僕は思わず苦笑せざるを得なかった。僕等は結局、いつでも四人だったのだ。僕等はそれから、大した会話もすること無く、1時間半あまり、ただぼんやりと花火を見上げている。浴衣を着ていたのは恵梨香だけで、秋介も僕も、Tシャツにいつも着ていたジーンズを履いている。美沙にいたっては、相変わらずの部活のトレーニングウェアだった。でもそれが一番彼女らしく、似合っている感じがするのが、面白いところだ。


時々の会話も記録されていた。

へ~、とか、ほ~、とか、意味のない感嘆詞がほとんどで、花火のクライマックス、大玉のスターマインが夜空に炸裂すると、お~!とか、すげ~、とか、金かかってんな~、などの無粋な褒め言葉を贈っている。


最後の花火と知っていたら、と僕は今思う。

もう少し、ましな会話でも、していただろうか。恵梨香は花火のあいだじゅう、美沙と一緒に歓声を上げながら、いつもと変わらぬ笑顔で花火を見ていた。彼女もこの時、よもや自分が数カ月後に亡くなるなどとは、思っても見なかったはずだ。


僕はもう、画面の中で無邪気にはしゃぐ自分自身と同じ目線では、あの彼女の笑顔を見つめられなくなっていることに気がつく。古書店のレジの奥、一歩斜め後ろに引いた目で、いつも以上に可愛らしくきめてきた彼女を見つめているうち、いつしか僕の頬を涙が伝っていた。



「ああ、いらっしゃい!」

僕らが玄関先に現れると、恵梨香のお母さんは待ちかねたように、扉を開けてくれた。その明るい声に、彼女の家の小さなダックスフントまでもが、キャンキャンと歓迎の声を上げる。


「おじゃまします。こんにちは!サトちゃん」

サトちゃんと呼ばれた犬は、ますます喜んで尻尾を振っている。


「おー!覚えてるかー、私のこと」

美沙が顔を近づけると、犬はしきりに彼女の鼻を舐めようとした。

「おっ、そうは行くか」

彼女はそう言いながら、犬の顔をすんでで引き止めている。あれから、しばらくぶりに見たサトちゃんは、以前より少し丸くなったように見えた。


「いらっしゃい」

居間の方から、恵梨香のお父さんが姿を表した。地元の役場に務める方で、実直さが、顔にも現れているような方だ。温厚で、決して怖い方ではないのだが、僕はこの方の前に立つと、未だに少し緊張するし、背筋がぴんとする。うまくは言い表せないのだが、尊敬と、畏怖と、入り混じった、そんな存在の方だ。


「お久しぶりです。すいません、急にお邪魔しちゃって」

いつになく丁寧に、僕は挨拶した。

「いやいや、いいのいいの、ほら、うちのワンコまでこんなに喜んじゃって」

「上がってって、ほら、玄関狭いから」


心なしか上気した奥さんに促されるまま、僕ら3人は、もうしばらくお邪魔していなかった、恵梨香の家の居間に上がらせていただいた。椅子の配置や、飾ってあるものは少し変わったけれど、最後に上がった時の印象のままの彼女の家だ。


あのときに比べると、子供の頃の恵梨香の描いた絵とか、随分小さな頃の写真とかが、だいぶ多くなった気がする。居間の椅子の数は、相変わらず4つあった。そのうちひとつは、彼女が小さな頃に貼ったシールが、まだ貼ったままになっていた。


居間に腰を下ろす前に、彼女の家の小さな仏壇に手を合わせる。3人で膝を付き、慣れているとは言えない手つきで線香をとり、点った炎が消えるのを待って、平たく均された灰の上に、そっと立てる。3本の煙は、北向きの取り立てて対流のない部屋の中で、はじめまっすぐに立ち上って、やがて、フラクタルな乱流を宙に描いて、部屋の空気に混じっていく。


この煙は、天国の恵梨香に、つながっているのだろうか。柄にもなく、そんなことを考えてみる。

昔、よく遠くから家にやってきて、同じように線香を供えていった親戚のおじさんたちが、なにか懐かしそうに、仏壇の周りの空気を眺める様子が、幼い僕には不思議でならなかったのだが、僕はその時、思わず自分たちが、あのころの彼らと同じように、周りを眺めていたのを知って、彼らの行為の理由が、少しわかった気がした。


あれは、手を合わせている時、本当に心の底から、亡くなった人のことを考えているから、思いを伝え終わったあと、ふっと現世に戻された自分を認識した、そんな瞬間だったのだ。


僕らの気持ちだけでも、亡くなった方の世界へ行っていたのかもしれない。

隣を見ると美沙はまだ、目を閉じて、恵梨香に祈り続けている。秋介はすでに終えて、静かに笑みを浮かべながら、僕らの祈りが終わるのを待っていたようだった。恵梨香のお母さんは、仏壇のある部屋の入口にたって、仏壇に祈る美沙の様子を少し悲しげに微笑みながら、暖かく見守っていた。


「ここは暑いから、居間に行きましょうか」

彼女がそう促してくれたので、美沙もようやく、ふっと顔を上げた。


居間では、恵梨香のお父さんがPCをいじっていた。ちょうど接続したところだったのか、居間のテレビに、ディスプレイと同じ物が映しだされている。


「夏祭りの頃の恵梨香の動画を探してるんだっけ?」

彼はPCの画面から少し顔を上げて尋ねた。

「はい」

「...僕もあの後、久しぶりに自分のライフログにログインしてみてみたんだが、君たちが探してるような画像は無さそうだった」彼は端的にそう言った。

「僕はあの時、運営事務所に詰めてたから、あんまり外に出てないしね。恵梨香のアカウントから、僕の方に自動的にシェアされる機能があるって話も聞いていたんだが、あの子は手続きしてなかったみたいだな。知らなかったのかもしれない」


「...そうですか...」

「...済まないね」

恵梨香のお父さんは、付け加えるようにそう言った。そういう記録があるのなら、まっさきに見たいのはご両親だろう。僕等をこの家まで駆け込ませるような強い力が、今ご両親の中でも渦巻いているはずだ。


「でも...、僕も諦めきれなくて、せっかくだから、昔の写真を掘り出してたんだ」

彼は言った。

「...いざとなると、意外と整理されてなくて、僕もとった覚えのない写真や動画が出てきたりしたものだから...、もし、いいのがあったら、遠慮なくもらってくれ」


そう言って、操作していたPCを、僕らに預けた。

「ありがとうございます!」


美沙は、恵梨香のお父さんのPCを貸してもらうと、早速僕らの生まれた年の名前がついたフォルダを開け、中に入った動画を再生した。生まれた頃の、産衣も着ていない恵梨香が映る。おむつを変えてもらう時にとったのだろうか。両足を何度も持ち上げて、とても上機嫌なように見える。


「生まれたときは、予定より少し遅れてね」

お父さんが、画面を見ながら静かに語りだす。

「僕も、彼女も、もちろん子供の経験なかったから、すごく心配したよ。そういうのは、よくあることらしいけど、親にとっては、他人との些細な違いでも、心配の種なんだよね」

「恵梨香、お父さん似だと思ってたけど、子供の頃は、お母さん似ですね」

美沙が言う。「本当?」恵梨香のお母さんが、嬉しそうに言った。

「そう言ってくれる人あんまりいなかった」

恵梨香のお母さんの笑い方は、少し娘と似ている。恥ずかしそうに、顎を引いて静かに微笑むのだ。


保育園入学前の恵梨香。近所の保育園の制服を着て、すましてピースしている。控えめな彼女は、このあと、ピースなどほとんどしたことがない。彼女はいつも、画面の端に立ったので、僕らの持っている彼女の写真では、彼女が真ん中に来ているものは本当に少ない。


家族の写真で、そして、彼女を誰より愛した両親がとった写真だから、彼女は真ん中で、そして、いつもより、心なしか穏やかな表情をしているように見える。

「このへんはまだ俺は会ってないな」秋介が言う。

「...なんかどれもこれもすごい新鮮だ」


「私が恵梨香と遊ぶようになったはこの頃からかな」美沙が言う。

「親の話だと、保育園の入学説明会で会って、それからだからって言うから」

「そうかもね」恵梨香の母が言う。

「美沙ちゃんのお母さんは、二人目だからもう慣れたもんで、私は随分教えてもらったわ」

「うちのお母さん、でしゃばりですから」美沙が恥ずかしそうに言った。

「多分、兄の時にも、もう知ったかぶりして教えてたんだと思いますよ」


小学校1年生ころの恵梨香の動画があった。ランドセルが背中より広い。直前何か嫌なことでもあったのか、少し口をへの字にしてカメラの方を見ている。でも、ムズって、隣の母親に顔を隠してしまう。

「ふふ、怒ってる怒ってる」

「最初の授業参観の朝だな」恵梨香の父が言う。

「恵梨香は僕も行くもんだと思ってたらしいんだが、母親だけだと聞いてむずってるんだ」

「お父さん子だったんですね」

美沙がそう言うと、恵梨香の父はまんざらでもなさそうに微笑んだ。

「このあと、機嫌直してもらうために、みんなでお出かけする約束させられたり、ほんと大変だった」母が言う。

「この頃はホント気むずかしい子だった...。将来どうなるのかと、本気で心配して」


運動会、学芸会、そしてまた運動会....。記録を紐解くたびに、恵梨香は、僕らの覚えている恵梨香に近づいていく。中学に入ってからの、彼女の印象が特に残っている僕らとしては、それまでの恵梨香は、『あの』恵梨香に至るための、すでに決まった道筋をたどっているように見えた。

でも、実際には、恵梨香という人は、こうやって、家族との一日一日を経る中で少しづつ積み重なって生まれていったのだ。あまり見覚えのない、怒ってぐずっている恵梨香も、すましてピースする恵梨香も、恵梨香なのだ。


「人一人の歴史って不思議だな」秋介が感慨深げに言う。

「こうやって見てただけでも、おれはのづっちのこと、あんまり知らなかったんだなって、よくわかったわ。知ってるのは、ほとんど学校ののづっちだもんな。家族の一員としてののづっちとか、見ること無いもんな...」

「私も、小さい頃から遊んでて、もう全部知ってるつもりでいたけど...、なんか今日は新しい恵梨香に会えたな」美沙がそういった。僕も頷いた。


そして、記録はいよいよ、最後の年...、最後の夏祭りの時期に入った。僕は時計を見た。時間はすでに、夕方6時を過ぎていた。思ったより時間がたってしまったらしい。


「あの...、この夏祭りの写真と動画、僕等でシェアしても、いいでしょうか」

僕はそう切り出した。

「見始まったら、遅くなってしまいそうですし」

「いいのに気にしなくても」恵梨香の母が言った。「ついでにご飯食べてって」

「でも....」

「まあ、いいじゃないか」

恵梨香の父親が、母親にそう言って、ゆっくり立ち上がった。

「たしかに、もう日が短くなってるからな。みんなご家族が心配するだろうし」

「実はこの他に、この年の記録は未整理なのが結構あるんだ..。もし良ければ、あとで送るから、それも君らのうちでシェアしていい......。今日はありがとう。僕らも懐かしい思いを共有できた」

「二人だけだと、なかなか、見ないしね」

恵梨香の母が静かに微笑みながら言った。


玄関先で、口々に、別れと御礼の言葉を述べて、僕らは恵梨香の家をあとにした。ご主人はすぐに居間に戻られたが、奥さんは、僕らが見えなくなるまで見送ってくれた。薄暗くなり始めた町で、その後ろ姿が、ずいぶん小さく、遠くに見えた。


また,、ここにお邪魔するのはいつだろう。そう思うと、僕はいたたまれないほど苦しい気持ちになった。用がなければおじゃましないというのは、マナーとしてはありうることかもしれないが、同時に薄情でもある。亡くなった親友の家のご家族と、今後どう付き合って行ったらいいのか、僕には、最善の答えと言えるものは思いつかなかった。


疎遠になっていってしまうのが、目に見えていながら、何の対策も取れないのは、川を溺れて流れていく人を対岸からただ指をくわえて見ているかのように、とても歯がゆく、辛い現実だ。これを当然のことと受け入れるほど、僕は割りきってしまっても、いいものなのだろうか?


「ありがとね、良二」美沙は帰り道、そんなことを言った。

「...正直、最後の年が近づくたびに、私どうしたらいいかと思って心配になって。あそこから先は、ご両親、どんどん落ち込んでいくだろうし...」

「おれもだわ」秋介が言った。

「さすがに、亡くなった年の写真は、泣くしか無いだろうからな...。そうなると、ちょっとみんな気が重い」


「...まあ、何というか、俺自身があまり、みんなの前で見たくなかったのもある」

僕は言った。

「なんか、こういうことは、あまり大勢とおおっぴらに見るようなことではない気がするんだ...。心の中で静かに、振り返るものというか」

「...難しいけどね」美沙が言った。

「みんなで見られるものと、そうでないものは、やっぱりあるよね」


「みんなそれなりに傷ついて、隠してるところはあるからな」秋介が言う。

「自分が落ち込んで、ついでに周りも巻き込むのは、なんだか、悪い気がするし」

「ご両親も、きっとそうだったんじゃないかな」美沙が言った。

「私達に楽しく来て、そして、帰ってもらいたかったんだと思う。恵梨香のいい思い出を抱えて」


他人と悲しみを共有することが、悲しみを癒すのには有効だと、何かの本に書いてあったのを思い出す。


だが僕らにとってそれは、多分こういう、僕等3人のあいだであって、恵梨香のご両親はまた別なのだと思う。


ご両親しか知らない恵梨香があるからこそ、ご両親だけの悲しみもあり、僕らの持っているこの喪失感とは、また質がきっと違うのだ。


どちらが重い、軽いではなく、ちがう質のかなしみを持っている同士が、同じ場で悲しんだところで、どこまで相手の思いに寄り添うことができるだろう。

相手を理解できる、できないの違いを感じただけで、無力感に苛まされるのが、関の山なのではないだろうか。


共有できる悲しみと、できない悲しみと、その文字にできない質の差が、シェアと、プライベートの間に大きく横たわっている。


僕らには、ご両親を気遣い、時折こうして遊びに行ったりして見守ることはできても、その回復の過程に積極的に関わることは少し難しいように感じている。だが、積極的に関わらないながらも、見守っていることを、関心を変わらず持ち続けていることをさり気なく相手に伝えることは難しい。


二人に孤独を感じさせず、かつ、面倒でもない付き合い方といのは、どういうものなのだろうか。僕には、正直、わからない。



家に帰り、夕食を済ませたあと、僕は駆けこむように部屋に戻り、恵梨香のお父さんから頂いたローカルの記録を僕のライフログにアップロードした。そして、その記録は、すぐに美沙と秋介の間で共有した。


僕のライフログの中の、恵梨香の記憶がどんどん補完されていく。空白となっていた、長い長い時間が、両親の記録に寄って埋め合わされていく。お祭りに出かける前、父の前で浴衣姿を披露した恵梨香の、少し上気した顔は、彼女の母に驚くほど似ていた。あの浴衣は、彼女の母の実家で見つけた古いものを、綺麗に仕立て直したものらしい。職人さんのところから帰ってきて、まだビニールに包まれているそのピカピカの浴衣を、体に当ててみている恵梨香の姿もあった。こんな子供のように無邪気で幸せそうな恵梨香を見たことは、僕はついぞなかった。両親だけが見てきた恵梨香の笑顔や仕草は愛らしく、中学生の割にはちょっと幼く、それだけに、余計に胸が締め付けられた。


僕は、ご両親の協力で随分補われた恵梨香の記録をずっと遡っていた。だが、どんなに記録が埋め合わされても、あの時、彼女が残したメッセージはやはり、そこには含まれていなかった。彼女は誰のために、あの時メッセージを残していたのだろう。純粋に、自分のためなのだろうか。なにか日記をつけるような要領で、彼女は記録をつけていただけなのだろうか。あまりに進展がないので、僕はそんなことを考え始めていた。


冷静に考えれば、僕の心を支配している、この、亡くなった人の些細なことを知りたいと強く願う気持ちは、単なる自分本位の、偏執的な行為と言われても、しょうがないのかもしれない。誰にでも、知らせたいことと、知らせたくないことがあり、どんなに中のいい友だちにだって、教えずにしまっておきたいことというものは、必ずあるものだ。僕の知りたがっていることは、ひょっとすると、その彼女のプライバシーの領域に踏み込むような下世話なことなのかもしれない。

果たしてそれを知ったところで、僕はどうだというのだろう。彼女が、あのメッセージの中で僕に告白でもしているというのだろうか?それは、楽天的な、自分勝手な、妄想にすぎないじゃないか....。


一人ベッドの上に寝転がって、そんなことを考えているうちに、僕は頭にいっぱいになった記憶と感情とともに眠りに落ちた。

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