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@Aoshima-yo

第1話 夏祭りだし、見えたりするものだよね

『プライバシーとは?』


―『自分の何を誰とシェアし、あるいはシェアしないかを、自分自身で決めること』

20XX年、ある男子高校生の回答より。



よしみや古書店の在庫一掃セールは、先月から始まって、未だ続いている。僕の引き受けたこのアルバイトも、本当は先月のうちに終わっているはずだったのだが、なかなか在庫が一掃できないという理由で、8月第2週も継続されることになった。


僕等の生まれるずっと前に、電子書籍というものが出来て、紙の本は世の中から消えてなくなると誰もが思ったが、実際には相当数を減らしたものの、未だに新刊の発行が紙媒体でも行われている。レコードからCDに、そして、メモリープレーヤーに変わっていく中でも、カセットテープはある一定量、売れ続けていたというから、新しいものはそう簡単に、古いものに取って代われないものらしい。


小中学校でも大学でも、テストの時はやっぱりシャープペンシルが禁止というところが未だにあって、鉛筆という、もうこういう時以外見なくなった、ちょっと古臭い文房具で、削りクズを作りながらマスを塗りつぶすのだ。そういう懐古的な作業にふけっている時は、鉛筆を作っている工場というのは、一体どういうところなんだろうと、おもむろに考えてみる。


きっと、もう僕らの思い描くような、ロボット満載のハイテク工場とはかけ離れた、老境のおじいさんが、旋盤操って一本一本手作りするような、いわゆる町工場という環境なのかもしれない。もう、そういった産業では...、産業と言うよりも、社会貢献、伝統芸能を守るような、真摯で謙虚な気持ちを抱いて、毎日一本一本、鉛筆を制作しているのではないか、と想像する。


そうやって作られている鉛筆は、かつて全盛期に、大量生産されていた時代の鉛筆とは、やはり同じものなのだろうか。ある程度、技術が行き着くと、思いなんてものは、もう製品に宿らなくなってくるような気がしているのだが、それでもなにか、違うところがあるのだろうか。


少なくとも僕が、鉛筆というものを使わされていたあの頃には、そんなことは一切考えず、指の股を器用にくるくるとくぐらせる友だちの妙技に、ただただ共感するだけのツールとして見ていた。


本の話に戻せば、正直、こんなコピープロテクトもかけられないアナログな本というメディアが、どうして今だに生き残っていられるのか、僕にはわからない。学校の図書館でも、保管が大変だから、もう本の実物はほとんど置いていない。


学校の図書館には、国立国会図書館のデータサーバーにつながった端末が、一応おいてあるが、それだって、学内ネットワークからどこからでもアクセスできるわけだから、わざわざあんな所に行く奴は、勉強しているという空気を味わいたいか、家の環境がよほどまずいか、友達が少ないのか、はたまたアンニュイな司書の伊橋さんに恋い焦がれているかの、いずれかだ。


祖父が残していた古いかびくさい本が、遺産のように父の書斎の容積を食っていたので、僕は小さい頃から本は好きだった。それでも、せいぜい百数冊であり、書店を埋め尽くす、これだけの量の本と棚に挟まれて、レジの前に鎮座するのは、生まれて初めての体験だった。地震でも来たら一体どうするのだろう。


いつか、農業体験で嗅いだ腐葉土のような、なんとも言えないにおいが鼻の奥を刺激している。もしかすると、今、本を買う人達というのは、実際には本の中身ではなくて、この臭いを買いに来ているのかもしれない。そんなことを考えてみる。


携帯を取り出して時計を見た。もうすぐお昼だ。午後からは、この店のご主人と交代することになっている。奥さんが先月倒れられて、その介護があるので、ヘルパーさんが来てくれるまでの間、僕が店番するという事になっているのだ。正直、3時間のバイトだし、給料も安い。


でも、おじさんもおばさんも小さい頃から知っている人だけに、そういう事情があると断りにくい。長居してると、必ずお昼を食べて行けと言われて、すごく申し訳ないので、お昼丁度になったら、いつもお暇するようにしている。


時計をチラチラ見ながら、秒数をカウントしていると、画面にポップアップが出た。

「忘れてない?午後から神社行くよ!」

美沙から僕へシェアされた予定投稿だ。時間になったら、自動的に通知されるように設定されていたのだ。あいつは大雑把なようで、意外と気が回る。


「...了解」

ボツりと呟いて僕はレジ前の席を立つ。おじさんはまだ店に降りてこない。慣れない痰の除去とかしてるみたいだから、大抵まごつくのだ。おじさんに、おばさんの様子を聞きに行く。ついでに何か手伝えるなら、少し手伝って帰ろうかと思う。



午後になって、夏の太陽がジリジリと照りつける中、僕は美沙に連れられて裏山の神社を訪れた。神社はちょうど、今夜から始まる3日間の夏まつり準備の真っ盛りだ。長い石造りの急な階段を超えると、大して広くもない境内には、収まり切らない程の屋台がすでに立っていた。美沙のおじさんもここで店を出すということだった。アルバイトがてら、美沙が準備だけ手伝うことになったので、ついでに僕も誘われるはめになっていた。


「焼きそば屋...、手水鉢の前あたりの、すごくいい場所取ったって言ってたけど」

美沙はキョロキョロしながらあたりを見渡している。


元々それほど長い方でもない髪を、後ろで固く束ねた彼女は、小学生の時から母方の祖父の影響でずっと空手をしている。とにかくいつでも身のこなしが軽く、現に先ほども、階段を一段一段登ってきた僕を尻目に、彼女は風のように、二段飛ばしに駆け上がって行ったのだった。一年目の高校総体で、2回戦敗退とはいえ、いきなりインターハイまで出場し、来年はさらに良いところまで行くのではないかと言われている、じつは県の注目選手だ。


「良二、もしかして息切れてる?」

そんなことはない、と僕は片手で遮りつつ、ごまかすように深く深呼吸した。子供の頃より体も大きくなって、体力もついたはずだが、やはり彼女には勝てない。

「いや....、しかしもうけっこう人が出てんな」

ろくに周りを見もしないで僕は答える。


「うん...、ずいぶん少なくなったよね」

咬み合わない言葉を返しながら、美沙はまだ周りを見渡している。


たい焼き、とうもろこし、わたあめ、りんご飴、焼きそば...。おなじみの屋台を組み上げる顔ぶれの多くは、地元の商店街のおじさんやおばさんたちだ。昔はよく、こういうのを生業にしている専門の人達が入ってきていたそうだが、最近ではほとんど見ることがない。


その代わりに入っているのは、僕達、地元の高校生だ。小さいころ、このお祭りの屋台で見かけた若い知らないお兄さんたちは、今の僕らのような高校生だったのかもしれないと考えると、なんだか少し感慨深い。今日遊びに来る子供たちには、きっと僕らが、あの頃の見慣れないお兄さんお姉さん達に映っているんだろう。


「おい、ミサ!良二!」

向こうから僕らを呼ぶ声が聞こえる。よく見ると『金魚すくい』と書かれた屋台の下に、秋介がいた。

「秋介!」

美沙が手を振り駆け出す。ぼくは後からゆっくり歩いて行く。


「どっかの彼氏と彼女かと思ったら、何だお前らか」

「悪かったな」

僕は秋介の頭にチョップをかました。このやろ、と秋介もボディーブローで応じる。

はたから見れば気味の悪い、ニヤニヤした相変わらずの男同士の挨拶。


「あんたらこそ、もう付き合ったらいいんじゃない」

そういう美沙もニヤニヤしている。

「秋介、今年も金魚すくいやるの?」

「ああ、今年は殆ど俺一人だ、山田の爺さん腰悪くしちまってさ。長いこと座ってられないらしいんだ」


山田の爺さん、というのは、秋介のおばあさんのお兄さんにあたる人だ。となり町で金魚とカメしかいない小さなペットショップをやっていて、毎年この場所で金魚すくいの店を開いている。


「え~、最近見ないと思ったら、腰痛めたんだ。結構高齢だったもんね」

「70は過ぎてたかな。確かに今までよくやってたよな」

秋介も正確な年は知らないらしい。

「あれで、若い頃は結構やんちゃしてたらしいぜ」

意地悪そうな顔で言う。


「ほんとに?今見たら信じらんない!」

美沙が大笑いした。

「あ、写真見せてやるよ、確かに、『昔のやんちゃ』って感じがする」

「ほんと!見たい見たい!」

秋介がポケットから携帯を取り出そうとした途端、

「こら!秋介、遊んでていいのか?」

隣の隣の屋台を組んでいたおじさんの一人がこっちを見て笑っていた。

美沙のおじさんだ。


「あ!おじさん!」

「ようミサ!良二くんも来たか」

「お久しぶりです」

「秋介ごめん、あたし達も、あっち手伝わなくちゃないんだ」

美沙が申し訳なさそうな顔をしていった。


「了解、『シェア』しとく。あとで見てくれ、ほんとすごいから」

「わかった。手の空いたときでいいからね!」

おう!秋介はそういうと、早速、金魚を泳がせるための子供用プールをふくらませる作業に取り掛かった。


「良二くん今日は悪いな。最初の準備だけやって貰えればいいから」

「はい、分かりました」

美沙のおじさんは、やきそばの屋台に似合わず色の白い人だ。実は本職は銀行員なのだが、町内会の役員もやらされていて、毎年焼きそば屋を出していた中華料理屋の主人が今年は病気で出られないため、急遽代役を頼まれたということだった。美沙に聞いたところ、昔から何でもそつなくこなせる人で、頼まれたら断れない、要するに器用貧乏らしい。だが、焼きそば屋の屋台はさすがにやったことがなく、正直あまり勝手がわからないので、その店で一時期バイトした経験のあった美沙に頼ったらしい。


「ミサは野菜を切っててくれ」

「いいよ~」

返事をしながら、美沙はすでに、ダンボールに入った袋の中から、大玉の白菜を取り出していた。中華料理屋から借りてきたらしい、幅の広い、四角い中華包丁を持ちながらこっちを見て、にっと笑う。万が一料理が上手でも、料理上手とは言われないタイプだな、と僕は思う。


「ほれ、軍手」おじさんが、よくわからない木くずのようなものがいっぱい付いた、使い込まれた軍手を差し出した。それを受け取り、軽く背伸びして、僕もテント張りにとりかかった。


夢中で作業したせいか、準備は30分ほどで終わった。僕とおじさんの目の前に、「やきそば」と、オレンジ色の文字で書かれたテントが、堂々と立っている。内部の明かりの配線も終わったし、発動機もつないだ。あとはガスボンベさえこれば、いつでも開店できる。美沙の方も、あらかた野菜を切り終えたようだった。大きなボウルに、見たことのない量の白菜が山盛りになっている。


おじさんが僕らに、レジ袋に入った3本のラムネを差し出す。

「町内会長さんからの差し入れだ、一本は秋介にやってくれ」

ありがとうございます、と受け取って、僕と美沙は結露したレジ袋を下げて秋介の働く金魚すくいの屋台の方へ向かった。


彼はまだ準備が終わらず忙しい様子で、あとで飲むから置いといてくれ、ということだった。手伝うか、と言ってみたが、すぐ終わるから気にするな、という。僕らは先に、屋台の裏手にある木陰に座り、薄いフィルムのカバーをはがして、ラムネの栓を勢い良く開けた。


ぽんっ、と小気味よい音がして、一呼吸置いて泡がするすると沸き上がってくる。美沙は慌てて、かぶりつくようにラムネの口を口でふさいだ。

おかしかったのか、ふふっ、と笑った拍子に、端から泡が数滴漏れた。彼女は少年のように、半袖から伸びた腕でそれを拭った。う、鼻から出た。小さな声でそんなことを言って笑った。


「いや~、久しぶりに飲んだラムネなんて」

部活用のハーフパンツから突き出た足を伸ばせるだけ伸ばして、清々しく彼女は言った。


僕も本当に久しぶりだった。最後に飲んだのが具体的にいつだったのか、正確に思い出せない。でもなぜか、この見慣れた透明感のあるラムネの瓶が愛おしく感じるから不思議だ。レトロなものは、生まれながらにしてレトロなんではないか、そんな気さえもしてくる。まるで前世の愛着をどこかからつつき出すような、個体を超えた感覚がある。


「最後っていつだったっけね」

美沙も同じ事を考えていたようだった。

「去年は飲んでない気がするから、中2か、中1のころかな。のずっちがさ、あのビー玉集めてて」


そう言うと、美沙の笑みが、かすかに陰った。夏の空を、ちぎれ雲がかすめる。木陰は明るくなり、また暗くなり、少し遅れて吹いた風が、境内の鎮守の森の高い緑の杉林の梢をくすぐっていく。


一瞬の静寂に皆がふっと空を見上げる。しかし、一瞬暗くなっただけで、雨の振りそうな気配はない。再び作業を再開する。風はまだ静かに吹いている。


「そうか、もう2年経つのか、のずっちが、いなくなってから...」

そうだね、と僕は合わせる。早いよね。

「早いよね」彼女も言った。

「良二はもう慣れた?」

慣れない。僕は言った。


「慣れるのも、なんかいやだよね」

彼女も言った。そして、瓶の底に残ったラムネを一気に飲み干した。


「よし、あたしちょっと今から家に戻って着替えてくる!今日は浴衣着るんだ!」

彼女はすっくと立ち上がると、高らかにそう宣言した。

おっ!まじ!?浴衣?遠くの方から、膨らんだ水槽に水をはっていた秋介の調子の良い声が聞こえた。



彼女の言う「のずっち」こと、野口恵梨香が亡くなったのは、僕らが中学2年生だった夏のことだった。恵梨香の家は僕のところから近くて、両親もほとんど幼馴染といっていい関係だった。僕ら4人は幼稚園から中学までずっと一緒に育ったが、その中でも恵梨香は一番早く仲良くなった友達だった。いつ初めて出会ったのか、もちろん覚えていない。母によれば、僕を産んで、病院を退院してすぐに、恵梨香の家にはあそびに行っていたから、その時にはすでに会っているという。その時、僕より少し遅れて生まれた彼女は、まだ母親のお腹の中にいたはずだ。


恵梨香はこの田舎町では珍しく(と言うと美沙に怒られそうだが)、色白で、おとなしい少女だった。僕の知っている限り、最初に本を勉強以外で読むことをしていたのは彼女だった。あの時恵梨香の読んでいた小説は今でも覚えている。彼女は紙の本を好んで読んだ。特に昔の本は、ページを捲って読者の視界が切り替わるという効果を考えて、文章が作られていると彼女は言っていた。紙の色も、本の厚さも、物語を演出してるんだと。彼女も多分、僕のバイト先の店に現れるお客さんと同じように、あの腐葉土のような熟成された古書の匂いを好んでいたに違いない。僕はその、恵梨香の読んでいた本を貸してもらったことがあったが、しばらくして、なくしてしまったことに気づいた。恵梨香には結局そのことを言えずにいたが、それは今思い出してもほろ苦い気持ちで胸が締め付けられる。あれから、僕らはずいぶんいろいろな小説を読んだ。正直、恵梨香の興味とは違うものも多かったはずだが、彼女はいつでも不思議そうな顔をして、僕の話を聞いてくれた。彼女の癖なのか、そういう時、いつも首を右に傾けていたのを僕は思い出す。「ほら、傾けてる!」と僕が言うと、「傾けてない!」と恵梨香が言い、そしてまた傾ける。みんなとの集合写真でも、一人で写るときでも、彼女はいつも首を右に傾けていた。


恵梨香の教えてくれる本は、今思えばいつも僕より半歩先を行っていた。絵のない本を先に読み始めたのも恵梨香なら、純文学を最初に読んだのも恵梨香だった。太宰治も、村上春樹も、みんな恵梨香に教わった作家だった。



家に帰って、夏まつりが始まるまでの間、僕は部屋のベッドに寝そべって、枕元に転がした端末から天井にディスプレイされた『ライフログ』を見つめていた。


L2という会社の始めたこのSNSは、『人生すべてを記録する』という謳い文句で成長した会社だ。自分の父親たちがはまった、昔のSNSとやっていることは大きくは変わらないが、情報量が全く異なる。古い情報も基本的に削除されず、動画の形でどんどん蓄積されていく。


今の携帯は、みんな『ライフログ』対応になっていて、カメラは常に、僕の場所と、見ている光景を、ライフログに送り続けている。もちろん、あとで公開しない限り、他人から見られることはない。


この機能のお陰で、僕等は時間を指定すれば、いつでも自分の過去を遡ることができる。また、友人と映像の一部分を切り取って共有すれば、それが自分のライフログにも組み込まれる。誰かが撮影し、僕とシェアした映像の中に、偶然、僕が写っていれば、それが僕のライフログにも挿入されるのだ。買い物をしている時の僕自身の映像、その時の店員側の映像、偶然通りかかった母からの映像。こんな感じだ。


こうして、僕自身の『人生の記録』は、多方面からのカメラ映像を組み合わせて、3次元、4次元と、視座をふやしながら、どんどん密度を増していく。


美沙はよく、カエルの缶バッジのようなカメラと、小さな花のついた髪留め型のものを使っている。ぼくのように眼鏡をかけている人間は、眼鏡のフレームに取り付けるか、内蔵されているものを使うことが多い。秋介のは、最近出た全天型だ。イヤホン型で、魚眼カメラがついており、前後左右の画像を記録できる。美沙に言わせると、あいつは本当に新しもの好きだから、浮気性に違いないというが、正直ぼくも、今あれが欲しいと密かに狙っている。


僕の天井のライフログは、今、先ほどの美沙の笑顔を映し出している。ラムネを飲み、こぼしそうになる彼女。思わず手で口を拭った表情。通り過ぎた小さなちぎれ雲の影。


こうして、いつでも過去を振り帰られることが、はたして自分のためにいいことなのかどうか、それはよくわからない。現に、これが可能になってから、現代人はますます引っ込み思案になって、過去ばかり見て積極性がなくなったと猛烈に批判するコメンテーターもいる。


ああいう血の気の多い人から見れば、現代人はそりゃあ引っ込み思案だろう。父はそんなことを言って笑っていたが、こうやって膨大な過去を記録し、これからも貯めこんでいって、将来、僕が年取った頃には、本当に過去ばかり見て一日を潰すようになっているのではないかとちょっと恐ろしくもなる。


そういう一日は、ログに何も記録されない日だ。僕の行動履歴は点線のようにどんどん断続的になり、最後は実際には生きているのに、過去ばかり振り返って、記録上は何もしていない状態に陥るのだろうか。そうやって、映画のフェードアウトのように消えていく、遠い破線のような僕のタイムラインを想像していると、僕は少し眠りたくなってきたが、美沙からの唐突なメール通知がそれを許さなかった。


『出撃用意!』

タイトルにはそう書いてある。過去など振り返っているうちに、帰宅して、もう1時間が過ぎていた。



「じゃん!」

金魚すくいの屋台の前で待っていた僕と秋介の前に、屈託の無い明るい声で美沙が現れたのは、約束通り午後7時だった。すでにあたりは夕焼け色に染まり、昼間の晴天の色素が沈着したような深い青と、星瞬く夜の闇と、茜色の残光が入り混じった紫色の空を、僕らは思わず仰ぎ見ていたのだった。


「おおお!いいいじゃん!」

秋介が、屋台のバイト中であることを忘れて立ち上がる。今時期の夜空のような涼しく深い紺色に、伝統的な金魚の柄が浮かんだ浴衣だった。

「似合うしょ。東京の染物屋にお父さんの知り合いがいて、せっかくだから頼んでもらった」

美沙は自分の着ている浴衣の柄を確かめるように見ながらそういった。

「予想以上にかわいいよね、...あ、あくまでこの浴衣がね」

「いや、似合ってる、似合ってる。マッチョな二の腕もきれいに隠れるし」

「うるせー」

美沙は笑いながら秋介に正拳突きをかます仕草をした。


美沙は襟元を正すと、一瞬、僕の方をちらりと見た。秋介の勢いに負けて、僕は意見を言いそびれていたので、ちょっと気になったのかもしれない。それでも僕は気が付かなかったふりをして笑っていた。似合っているな、と思った。こんなことを本人に言ったら怒られるかもしれないが、女武者のようなりりしさのある美沙には、こういう少し抑えた伝統的な柄がほんとうによく映える。


「ねえ、金魚すくい、何円?」

通りかかった小さな子どもが僕に尋ねた。

「300円」

そういうと、子どもはすでに握っていた300円を僕の手の上で広げた。秋介が美沙の前から動かないので、僕は仕方なく、屋台の棚から、金魚すくいの網を取って、しゃがみ込んで子どもに渡した。


子どもは、ありがとうと言う間もなく、心細く金魚の泳ぐ子供用プールの生け簀に向かい合う。目はこういうことのために付いているのだと言わんばかりに冷たい水の中をすばしこく泳ぐ金魚に向けられ、闇雲に振り下ろした網は、ただ水を切るばかりのようだったが、母親らしき付き添いは、少し離れてその様子を面白そうに見守っていた。


「わりいわりい、お客さんまかしちゃって」

秋介が申し訳無さそうに僕の方を向いて笑った。気にすんな、という意味を込めて左手で合図した。隣で客の子供の様子を微笑ましそうに見守る美沙は、久しぶりに浴衣を着たせいか、心なしに上気した笑みを浮かべて、いつも以上によく笑っている。いつもより少し大きめのモーションを取るたびに、袖の金魚も右に左にひらりひらりと夕暮れの闇を泳ぐのだった。


数人の客をとったあと、秋介はこれ以上は悪いからと僕らを店から追い出し、美沙と僕はそれから少し、神社の境内を歩いて回ることにした。小さな田舎町の、さらに言えば、普段は無人の特に有名でもない神社なので、全部回るのにそう時間はかからないはずなのだが、出店の人達がいちいち知り合いなので、いちいち挨拶しているうちに、あっという間に時は過ぎてしまった。


携帯を取り出して時計を見れば、もう8時を過ぎていた。


ひと通り、境内の出店を回ったあと、僕等はまた、昼間ラムネを飲んだ樹の下に来て、石の上に腰掛けて休んでいた。美沙の手にはまだ食べきれていない味噌おでんがあった。味噌の載っていたトレーは、僕が持っている。彼女は、下駄で指の間が痛くなったらしく、あいた方の手で握り締めるように、しきりにさすっていた。


「おう、どうだ、楽しめたか」見上げると、美沙のおじさんが立っていた。どうやら、今日の分の焼きそばは売り終えて、焼きそば屋は早々に片付けを始めたらしかった。出店のライトの下でもわかるくらいにすっかり汗をかいている。


「うん」美沙がにっと笑って微笑む。ぼくも笑って答えた。

「なにより、なにより。祭りってのはやるまではちょっと億劫だが、やってみると楽しいもんだよな」

おじさんはそう言って、額の汗を首から掛けたタオルで拭った。今日一日で、色白のおじさんもだいぶ日に焼けたような気がした。明日にはすっかり、真っ赤になっているだろう。


「今日はとにかく天気が良かったから、お客さんも入ったよ。あとは花火の日も晴れるといいけどな」

花火の日、というのは、祭りの最終日、3日目の土曜日のことだ。


「天気予報では晴れって言ってたよね」

美沙が携帯を取り出しながら言った。

「晴れてくれないと困るな~」


「ああ、おれも困る」おじさんは笑いながら言った。

「去年は結局、雨で中止だったし、その前も雨だった」


「え~?そうだっけ?二年前は花火見たよ」美沙が口を尖らして言う。


「んなことはない。すごい雨で、テントが潰れそうでひどかったんだ」

「それって、もっと前じゃない?おじさんの勘違いだよ」

美沙はそういうと、取り出した携帯でライフログを開き、過去の記録を遡っていたが、その時、ふと思い出したように顔を上げて、

「そうだ、おじさん、写真撮って!」と言って、携帯を彼に差し出した。


おう、とおじさんは気前よくふたつ返事で答え、美沙の携帯を受け取った。とは言え、おじさんは美沙の機種をよく知らないらしく、しばらく右に傾け、左に傾けして格闘していた。見かねた美沙が助け舟を出そうとするが、「ああ、大丈夫、大丈夫」と言って、自分で何とかしようとする。


そうやって何度か試みている間に、「ああ、こうだこうだ」とようやく使い方を解した様子だった。そして、どこかへっぴり腰でカメラを僕等に向け、「はい、チーズ」と言って、やにわにシャッターを切った。僕らの表情は、おじさんの、どこかノスタルジーを感じる掛け声に、笑いをこらえた中途半端な表情になってしまったのは、言うまでもない。


「ほれ、とれたぞ」おじさんは、得意げにそう言って、まだカメラが起動したままの携帯を美沙に手渡した。美沙が写真の写りを確認しようとしている間に、店の方から呼び声がかかり、片付けの途中だったことを思い出したらしく、撮れたか確認すらできずに、わりい、と言って、あわてて店に戻ってしまった。

「ありがとうございます」

ぼくはおじさんの背中に向けて礼を言った。喧騒に紛れて、彼には聞こえていなかったかもしれないけれども。


おじさんの背中が消えたのを見送り、ふと振り返って美沙を見ると、彼女はまだ携帯の画面を見つめていた。夜の暗闇の中で、ディスプレイの薄白い明かりに照らされて、美沙の顔の線が、おぼろげに浮かび上がっている。反射するディスプレイの中身が、はっきりと見えそうなほど、彼女の瞳は黒く、大きかった。


「撮れてた?」僕はそう彼女に話しかけてみたが、周りの音にかき消されたのか、返事はなかった。だが、よく見ると様子が少しおかしい。それは、単に写りを確認しているだけでは無いようだった。美沙は僕に声をかけられたことに少し遅れて気づいて、さっと顔を上げてこちらを見た。その目には助けを求めるような、不安げな色が浮かんでいた。


「どうした?」僕は少し心配になって、彼女に駆け寄った。美沙は怯えていた。誰よりも強い彼女は普段、こんな表情はめったに見せない。

「これ...」

彼女の手が、僕のTシャツの裾を握り締めた。左手に持った携帯を、彼女は僕に見えるように傾けた。僕はその画面に見入った。思考が一瞬固まった。そこには、3人の人影が映っていた。僕と、美沙と...。


「この浴衣着てる子....、恵梨香....だよね」



それは紛れも無く恵梨香だった。僕と美沙の並ぶそのさらに右隣に、色白の顔をまっすぐこちらに向けて微笑を浮かべていた。淡い色の浴衣を着ている。模様は、折り紙の鶴だろうか。繊細な小紋の柄だ。首は心なしか、やはり右にかしいでいる。


「え....、なんで....」

美沙の顔がこわばっている。もう居ないはずの人間が、並んで隣に写っていたのだから。無理もない。


僕も少し混乱していた。恵梨香は2年前に亡くなったはずだ。僕らが写真をとった周囲を見渡してみても、もちろん、恵梨香の影などどこにもない。お化けの出た後なら、床が濡れている、なんて迷信も聞いたことがあったが、ここ数日の晴天続きで、あたりはどこを歩いても、カサカサに乾いていた。


美沙派の右手はまだ、僕のシャツを固く握ったままだ。僕はどこにもいけないまま、少しづつ、状況を整理しようとした。


そして、ちょっとした事に思い当たった。


「ちょっと、携帯見せてみて」

美沙は、不安そうな顔のまま、僕に携帯を差し出した。僕は、先ほどの恵梨香の移った写真を開き、その『撮影情報』のタブを開いた。


「...ああ、そういうことか...」

僕は、少しホッとした。

「何?何?」美沙は、わらにもすがるような目で僕を見た。


「...AR(拡張現実)だ」

僕がそう言うと、美沙もはっと思い当たったようだった。


美沙は、おじさんに携帯を渡す直前まで、ライフログで2年前の祭りの最終日の天気を調べていた。おそらくおじさんは、そのまま、ライフログのカメラ機能を使って撮影してしまったのだろう。おじさんが撮った写真に、2年前の、祭り最終日、恵梨香が偶然ここに立っていた時の映像が重ね合わされたのだ。


「...そっか...」美沙は少しうつむき、恥ずかしそうに笑った。見せたくない顔を見せてしまったからかもしれない。そして、改めて、僕等と、そして、2年前の恵梨香が写り込んだ写真を、眺めた。


「のづっち、ちょっと笑ってるね....」

美沙は、画面を見つめながらそう言った。偶然写り込んだだけだから、視点は、よく見ると、少しずれている。でも、偶然撮ったにしては、あまりによくできた『記念写真』だった。


他の誰でもなく、恵梨香が、僕らがこっそり休んでいるこの金魚すくいの裏に、二年前のこの日、立っていたというのは、心霊現象でなかったら、ただの奇跡といったところかもしれない。お盆には昔から、死んだ人の魂が里帰りするという話も聞くから、彼女もこっそり、様子を見に帰ってきたんだろうか。そんなことを考えた。


表情を見る限り、恵梨香はちょうどこの時、この位置で僕等のように記念撮影をしてもらっていたのかもしれない。どこか照れているような、でも彼女らしい何かちょっと必死さの入った表情だ。恵梨香は、本をよく読むだけ会って、文章を書かせると、とても上手だったけれど、人前で話すのは、ひどく苦手で、いつも途切れ途切れの、うまくまとまらない話になってしまう癖があった。


それは、僕らのように、彼女のことをよく知っている人間からすれば、時々冷やかすこともあるような、愛すべき弱点だったけれど、本人は実は意外に気にしていたらしい。みんなで恵梨香のうちに上がった時、いろんな本に混じって「上がり症克服!10のヒント!」という実用書がおいてあって、それも大いに笑ったものだった。そういう時、彼女はいつも、まゆを少し寄せて、困ったように笑うのだった。相変わらず、首を少し傾けたまま。


「のづっち、こんなところで何してたんだろう」

美沙がそんなことを言った。確かに、当時も祭りのはずだし、一人でこんなところに立っている理由はないだろう。写真の画面では切れているが、恵梨香の更に右隣には、だれか他の人たちが立っているのかもしれない。


「ちょっと、見てみようか...」

美沙はライフログの画面を切り替えた。画面の中に、2年前の、この場所の様子が映し出される。先ほど僕等が立っていた位置にカメラを向けると、やはり恵梨香が立っていた。やや遠くから撮影した動画しか、美沙にシェアされているものの中にはないらしく、浴衣を着ていることで恵梨香とようやくわかる程度の解像度しか無い。彼女はまっすぐ、何もない中の方を見ている。その先には一台の、おそらく屋台で余った、幅の広い机があり、彼女はその机に向かって、何かを話しているようにも見える。


「誰か机のところにいる感じでもないよね」美沙が不思議そうに言った。


彼女は机に向けて、時々恥ずかしそうに微笑み、何かを話しているようではある。しかし、その音声は辺りの賑やかさにかき消されて全く聞き取れない。彼女の両隣には、誰も並んではいなかった。少し離れて、屋台で働く大人たちの姿は見えるが、僕や、美沙、秋介の姿すら無かった。


「...変だね」美沙はポツリとそういった。「何してたんだろ。恵梨香」

僕らはもう一度、映像をひと通り見た。奏しているうちに、ふと美沙が、「ああ、自撮りしてるのかも」と気づいた。


「多分机の上に携帯かなんかがあって、カメラになんか記録してたんだよ」

そう言われてみると、たしかにそのように見える。美沙はカメラに向けて、何か、時折少し手振りも交えながら、何かを伝えようとしているようだ。

「でも結局、何を言ってるんだろうね....」


わざわざ、お祭りの最中に人ごみを抜けて、自分の携帯に向けて、自分を『自分撮り』する理由は僕にはわからなかった。あの日も僕らは確か4人で祭りに来たように記憶していた。恵梨香はそれなのにわざわざ、僕等から一度離れて、一人で何かを記録する時間を作ったのだろうか。


「良二に来てない?この画像」美沙は僕の方を向いて言った。

「...もしかしたら、良二に向けたメッセージ、撮ってたのかもしれないよ」


言われて、僕も自分の携帯を取り出した。美沙と同じように、あの頃、この場所のログをたどってみる。僕はあの時の恵梨香の立っていた方向にカメラを向けてみた。だが、そこには、ほとんど何も写っていなかった。携帯に向かって話す恵梨香どころか、祭りの一部すら。かろうじて、遠くの方に、花火が見える。その程度だ。


「あ~....」脇から見ていた美沙が力なく笑った。「これは...、シェアされてる画像が殆ど無いんだね....」参考になる元画像が少なければ、当然こういう結果になる。ああ、わかっていたことだ。僕は、そもそも、友だちが少ない。


「落ち込まない、落ち込まない、友達少ないって言ってないよ」

美沙はそう言って、励ますように僕の肩をポンと叩いた。

「秋介なら...」美沙がふと言った。

「秋介なら、みれるんじゃないかな。あいつとにかく顔広いし」


「確かに」僕も同意した。「...あいつはとにかく友達多いからな」

「...でも、どうする?」美沙は、そう言って、暗闇の中で薄く光を放つ大きな瞳を、試すように僕に向けた。


「この、のづっちの真面目になって話している動画、もし、秋介にだけシェアされていたら、どうする?」

彼女はそう言って、目を細めた。


「...どうもしないよ」僕は努めて冷静に答えたつもりだった。が、返答は思いの外ぶっきらぼうになってしまった。口から出た返事を引っ込めることもできず、僕が内心、少しまごついているのを、浴衣の彼女は見透かしたように、ふふっと笑って答えた。印象より長く繊細な睫毛が一瞬、陰るように伏せられた。


「よし、聴きに言ってみようか!」彼女は高らかにそう言って、僕の前にたって金魚すくいの屋台の方にかけ出した。固く握りしめたままだった僕のTシャツの裾は、いつしか手を離れていた。



「へ~、まじで!」

僕等の話を聞いた秋介は乗り気だった。金魚すくいも、もうお客さんのピークは過ぎたらしく、店は殆ど開店休業状態だった。子供達にさんざん攪拌され、そして急に静かになった広いプールの中で、数匹の金魚がまだ不安気に泳ぎ回っている。


「たしかに俺は、屋台のおじさんおばさんに知り合い多いし、シェアされてる率は高いな」そして僕の方を向いて、「...何より意外に、のづっちが携帯で撮影した映像そのものが俺にシェアされている可能性もある」と言った。

「だよね」美沙もそう言って、僕の方をちらりと見て、いたずらっぽく笑った。

「そんな映像来てたのに気づいてないなら、ひどい話だろ」

僕も負けじと言ってみる。


「いや~、どうかな」秋介はニヤニヤしながら言う「あの頃は、僕も他に夢中で、のづっちの美しさに気づけてなかったからな...」

「いよっ、浮気者!」美沙が素っ頓狂な合いの手をいれた。


いや~、さて、どうかな。そんなことを言いながら、秋介もそわそわと自分の携帯を取り出し、先ほど僕と美沙の覗き込んだ、あの樹の下までやってきた。そして自分の携帯をその方向に向けてみる。

「あ...」「...すごい」「くっきりだ」


そこには、僕と美沙の映像よりより鮮明な恵梨香の姿が写っていた。しかし、やはり、というべきか、それは恵梨香の携帯そのものの映像ではなく、より恵梨香に近い位置の屋台のおばさんからシェアされた映像によるものだった。先ほどより、恵梨香の表情の細かい部分までは見えるが、何を言っているのかは聞き取れない。

「なんだ....」秋介は内心かなり期待していたのか、思わずそう漏らした。

「残念だったね、ホント残念」美沙が秋介の肩を叩いた。


だが、しばらくその様子を見ていると、映像はこれまでにない展開を示した。恵梨香は、何かを携帯に向けて話し終わったあと、それを手に取り、手に持った手提げのようなものに入れた。そして、境内を神社の方へかけ出したのだった。

「おっ...、どっか走っていったな」

「追うか」


僕等は秋介の携帯画面に映る恵梨香の後ろ姿を追いかけるように境内を横切り、走っていった。慣れない下駄で、そそくさと走る恵梨香の走り方を、僕は久しぶりに見た。恵梨香の脇を、まだ結婚する前の近所のお兄さんや、赤ん坊の頃の近所の女の子、少し髪の毛の多い美沙のおじさんなどが通りすぎていく。だが、せいぜい2年前の映像なので、他の点に関しては、今と大きくは違わなかった。店の配置も、提灯の位置も、面白いくらいによく似ていた。


でも、画面から目をそらせば、そこに見えるのは、恵梨香のいなくなった縁日の姿だ。それは近いようでいて、やはり決定的にかけ離れた、2つのパラレルワールドだった。恵梨香が人ごみに入ると色々なカメラの映像が重ね合わされ、輪郭はくっきりする。走る度に、浴衣の裾から、彼女のくるぶしが見える。彼女の折り紙模様の浴衣は、育ち盛りであったはずの彼女の背丈にぴったりと合っていた。


それは、彼女がこの日のために真新しいものを着てきたことを意味していた。先ほど携帯をしまった小さな手提げも、よく見ると浴衣と同じ図柄で、あわせて買ったもののようだ。僕は、おそらくこの日の恵梨香に会っているはずだが、彼女がどんな図柄の浴衣を着ていたか、覚えていなかった。どんな様子で、どんな表情をしていたのかすら、あいまいにしか覚えていない。あの日が、僕等にとって特別な...、最後の夏祭りになるとは、まったく考えもしていなかったから。これから何度も夏がやってきて、僕等が夏まつりを一緒に過ごすことなど、わかりきったことだったから。


「お、人ごみを離れていくぞ...」秋介が画面を見ながら言った。

恵梨香は境内の東側、鎮守の森のちいさな散歩道の方へ入っていく。人ごみを抜けると恵梨香の姿はまたおぼろげになり、解像度が落ちて今にも消えそうになる。しかし、散歩道をぬけ、開けた丘の上に出ると、急にまた、はっきりとした輪郭を取り戻した。

どーん、とスピーカーから大きな音がして、漆黒の彼女の周りがパッと七色に浮かび上がる。


「...花火だ!」美沙が言う。

恵梨香は、花火に驚いて、丘の入り口で一瞬立ち止まっていたが、ふと我に返ると、意を決して人ごみに飛び込み、花火の方を見上げる群衆を、かき分けるように進んでいった。そして、しばらく進んだ所で、ふと立ち止まった。誰か知り合いの背中を見つけたらしい。うれしそうに微笑んで、両手で覆うように、ぱっと背中を叩いた。その背中が振り向く。僕だ。

「ひゅ~ぅ...」秋介が僕を見た。僕はその顔を睨みつけた。

「ここから先はぁ...、良二くんのカメラで、ぜひみたいな...」

「わ、わたしも...、見ちゃおう、かな...」美沙の顔が心なしか赤くなっているように見えた。

「ダメ」

僕は即答した。


「だよな...」秋介はにやにやしながらそう言った。

「結局、あの時のづっちが何を言っていたのか分からなかったな」


「良二にもシェアしなかった内容ってなんだろう。私達以外の誰かに伝えたかったのかな...」美沙はまだ真剣に考えているようだった。


「誰かって誰だよ?」秋介が尋ねた。「ん...」美沙も心当りがないようだった。「でものずっち、ずいぶん真剣そうに見えた。...前髪とかも、何回もいじってたでしょ。誰かを意識してたんだよ、多分」神妙な顔をしてそういった。

「何を伝えたかったんだろう...」


「今となっては、もう分からないな」僕が言った。「恵梨香の両親にでも聞いてみないことには...」

「両親?両親に聞けばわかるの」美沙が驚いた様子で言う。


「...ああ、『ホール・シェアリング』か」秋介が言った。僕がうなづく。

「『ホール・シェアリング』?」美沙は知らなかった様子で、不思議そうな顔で僕等を見た。


「...誰かのアカウントの情報すべてを、他の誰かと全て共有してしまうことさ」秋介が答えた。「...『人生の引き継ぎ』だ」


「そんなこと出来るの!?」美沙が驚いた顔で秋介を見る。

「プライバシー上の問題があるから、幾つかの場合を除いて許されていない。ひとつは、ペットや家電、車とか、人間以外のカメラが、持ち主のライフログと映像を共有する場合。これはよくあるよな」

うんうん、と美沙がうなづく。


「2つ目は、小さい子供の場合。たしか...、10歳以下、だったかな。これはいざという時、こどもを守るためだ」


「なるほど」

「3つめは、当人が亡くなった場合...。ただ、これは一番微妙で、遺言で、本人が引き継いで欲しいという意思を残している必要がある」

「へ~」


「意思を示している証拠と一緒に、ライフログの会社に提出して、審査でOKが出たら、いいそうだ。でも、結構厳しいらしいぜ」

「だから、のづっちがお父さんとお母さんに『記録』を引き継いでいれば、聞けばわかるってわけか」


「せっかくだし、明日あたり、久しぶりに行ってみないか、あいつのうちに」秋介が言った。「おれもずっとご無沙汰してたしな、葬式以来...」

「わたしも....。なんか、足が向かわなくって」美沙が言った。「行こうよ。お盆だし。この前、街で会った時、今度遊びに来てって、のづっちのお母さん言ってたよ。友達が来なくなったから、少し寂しいって」


「...行こうか」僕も言った。「確かに、たまにはお線香でも上げに行かないと」


僕は携帯から、その場で恵梨香のお父さんにメールを打った。ご近所同士で、事あるごとに一緒に出かけたし、僕にとってはもう一人の父親のような間柄の人だが、考えてみればあの日以来、一度もメールを打っていなかった。彼の娘の名前の入った、懐かしいメールアドレスを僕はアドレス帳から選択した。


返事は直ぐに来た。ぜひ遊びに来てくれ。うちの母さんも喜ぶと想う、という内容だった。


僕等は美沙の朝練が終わったあとの、明日の昼過ぎに恵梨香のうちに集まる約束をして、その場は別れた。

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