第5話 チョコレートの風


「おや、これは――」


 小高い丘から、街を見渡す一人の人物がいた。


 黒色にも似た、深い蒼のコートを身に纏った、長髪の男。

 顔の一部を仮面で覆い、思考の読み取れぬ表情を浮かべた――ロキである。


 雪の女王の想区、その街を見下ろしたロキは……その表情は変わらずだったが、どこか意外そうに、顎に手をあてていた。


「こうして見てみると、思っていたより変化はありませんね。どうしたことでしょうか――」


 そこには、幾分の不可解そうな感情が滲んでいる。

 それはまるで、実験のうまくいかなかった科学者であるかのような……。


 と、不意にその後ろに、足音がした。

 ロキはゆっくりと振り返り……そこで一瞬だけ、目を見開いた。

 そして直後には、どこか嬉しそうな感情さえ浮かべている。


「――おやおや。これは、『調律の巫女』とそのご一行ではありませんか」

「……見つけたわよ、ロキ!」


 言って、既に空白の書を手に持っているのは……レイナ。

 そして、エクスにタオ、シェイン。

 四人が、警戒を浮かべながら、ロキを追い詰める様に近づいてきていた。


「予想通り、ってわけか」


 タオが好戦的な笑みを浮かべれば、シェインも粛々と、いつでも戦闘に入れるよう、準備を開始していた。


「やはり、あなたがこの想区に異文化を持ち込んだのですね」





 エクス達は、あれから、“他者”の姿を求めて捜索を開始していた。

 もっとも、それはあくまで可能性の段階であり……この想区にその姿があるかも、犯人が予想した人物であるかも、確証はなかった。


 ただ、いるとすれば、どこかで街の様子を観察しているに違いない――そんな考えを元に、四人はこの、街が見渡せる丘までやってきたのだった。

 そうして、その予感は的中した。


 ……エクス達四人を目の前にして、ロキは、小さく、ふっと笑った。


「なるほど、そういうことでしたか」


 それは、一瞬にして、全てを理解したかのような笑みだ。

 小さく首を振って、なるほどなるほど、と呟きを繰り返す。


「ヴィランの仕事が遅いと思って見てみれば……あなたたちが介入していたのですね。うまくいかないわけです」


 ロキは、自分の行ったことを隠すつもりもないかのように腕を広げて見せた。

 エクスは、導きの栞を手にしながら、一歩近づく。


「……なら、やっぱりお前がバレンタインをここに……! 目的は、混乱を広げるためか!」

「そこまでわかっているのならば、お望み通り、教えてあげましょうか」


 鷹揚に笑んで、ロキは街に視線をやっていた。


「……ゆっくりと文化が変遷すれば、いつか、想区が本来の趣旨とは異なるものへ変化するかもしれない――カオステラーのいない、調律できない混乱を伴って」


 そうして、その眼にかすかに鋭い光を浮かべた。


「……そうなれば、ゆるやかに想区を自壊させることも、可能だとは思いませんか? これはその、ほんの手始めですよ」

「……てめぇ……」


 タオは、ぎり、と顔に怒りを滲ませる。

 レイナも、静かに怒りを浮かべながら……口を開いた。


「想区の崩壊……本当に、そこまで目論んでいたのね……。一部の人間にだけバレンタインを伝えるなんていうのも、そのため――」


 ええ、とロキは頷いた。


「想区の“主役”の一人である、カイ様――彼から、歪みは非常に小さく、始まりつつあった。……まあ、それもあなた方のせいで、思い通りには運びませんでしたが」


 ただ、ロキの言葉には、満足げなものは含まれていなかった。

 街を見下ろしていた時のように、そこには多少、悔しさのようなものが感じられた。


「歪みは、思ったように広がっていないようです。おそらく、あなた方が、カイ様にも、雪の女王様にも……バレンタインというものを、“認めさせてしまった”ということなのでしょう。レイナ様、そして皆さん……どうやったのかは知りませんが、相変わらず、鮮やかなお手並みですね」


 それに一瞬、四人は顔を見合わせる。


 確かに、この想区にいる間、ヴィランの出現頻度はそれほど高くはなかった。

 戦力も強力なものはおらず……ロキが手を回していたにしては、被害は小さかったと言える。


 仮に、カイや雪の女王を放置していたとしたら、どうなっていたか――それはわからない。

 だが、ロキの言葉から推察するに、エクス達の行動が何らかの影響をもたらしたのは事実のようでもあった。


 ロキは感心したような声を漏らす。


「私の存在に気付いていた、というわけではなさそうですが」

「シェイン達は、歪みの原因を突き止めようとしただけです。そして、何より、カイさんやゲルダちゃんの幸せを、ちゃんとこの目で見たかっただけですよ」


 そこでシェインが、力強く言っていた。


「シェイン達のその目的が、結果的には想区を救うことに繋がるのなら――反対のことを望んでいたあなた自身の酷さが、よくわかるのではありませんか」


 シェインは、訴えるような声だった。

 想区を壊そうとすれば、何が起こるか。


 そこにいる人達。

 平和に暮らしている住人。

 幸せを感じている、カイやゲルダのような人間――その全てを、それは否定することだ。


 ロキは、それには動じずに答える。


「確かに、今はカイ様や想区の人々は、幸福のようですね」

「……バレンタインを持ち込んだあなたには、想定外かも知れないけどね」


 レイナは、ロキにびしっと指差した。


「せっかくの、いいイベントじゃない。これを利用して想区を壊すことなんて、させないわ!」

「……クク」


 しかし、そこでロキは、笑っていた。


「果たして、そううまくいくでしょうか?」

「何だと……?」

「確かにあなた達はうまくやりました。だが、バレンタインが異文化なのは、変わらぬ事実です。そしてそれはまだ街に存在する。わかりませんか。想区は、未だ不安定なのですよ。――だからこそ、こんなものまで生み出せる……!」


 突如、周囲に黒い霧が発生した。


 それは、魔物が生まれる瞬間……だが、この想区に来てからのどの魔物よりも、感じられる気配は濃厚なものだった。

 これまでに戦ったヴィランとは、格が違う――一瞬にしてそれが理解できるほどの、強力な気配だった。


 そして、霧より出でた魔物は――エクス達の数倍の大きさを誇る、巨大なドラゴン。


「こいつは……!」

「メガヴィラン……! こんなところで……!」


 エクス達は、栞を空白の書に挟み、コネクトを開始する。

 それを、ロキは悠々と眺めていた。


「あなたたちは実際、想区の歪みを矯正しつつあるでしょう。しかし、あなたたちがここで死ねば、どうなるでしょうかね。枷を失った歪みは、むしろ一気に波及すると思いますよ」

「……そんなこと、絶対にさせないわ」


 光に包まれ、アリスへと変身したレイナは、片手剣を構えた。


「カイも、ゲルダも。この想区も全て、私達が、守ってみせるわ……!」

「うん……! みんな、行こう!」


 モーツァルトへとコネクトしたエクスも、杖を構える。

 そして、その巨大な魔物と、戦闘を開始した。





 ドラゴンが最初に放ったのは、強烈な炎だった。

 眩しいほどの火力――だが、それを真正面から受け止めているものがいた。

 ヘンゼルへとコネクトした、タオだ。


「ぐっ……! おら、今だ! 行け!」


 その全てを防御しながら、タオは仲間に合図する。

 それに応じたように、地を蹴ったのはシェイン。

 グレーテルに変身したシェインは、低い姿勢と素速い動きで、ドラゴンの横へと回り込んだ。


「これでも、喰らってください」


 直後、生み出したのは、桃色の竜巻だ。

 見た目には可愛らしい技であったが、その威力は、苛烈。

 一時、ドラゴンの全身を巻き込み、その体を宙へと持ち上げるほどだった。


 体勢を崩したドラゴンを狙うのは、エクスだ。

 黒色の魔力弾を幾度も発射し、体力を削っていくと……ドラゴンが地についたところで、葬送曲を奏で始める。


 魔力のフィールドと共に展開されたその技は、一気にドラゴンの体力を奪い始めた。


『グガァアアッ!』


 悲鳴を上げるドラゴンは、藻掻くように再び、火を放つ。

 それは、さすがに躱しきれずに、四人を襲うが……。


「みんな! 大丈夫!?」

「平気よ、そろそろ、終わらせましょう」


 エクスに答えたレイナが、炎の中を、ドラゴンめがけて、駆けていた。


「このまま、全員で攻撃よ!」


 レイナが連続の斬撃を叩き込みながら言えば、皆も、追随して攻撃を開始。

 エクスが再び魔力のフィールドでドラゴンを包むと、タオは猛烈な威力の鎚での一撃を打ち込んでいく。


 ふらついたドラゴンに、最後に剣を向けたのは、シェインだ。


「バレンタインデーに、ドラゴンは似合いませんよ」


 そんな言葉と共に、肉迫して、一閃。

 その斬撃が、ドラゴンを真っ二つに両断し、消滅させた。





「……強さのほども、相変わらず、ですか」


 戦闘が終わり、静寂が訪れると……。

 ロキはそれ以上の戦意を見せず、佇んでいた。


「お前の計画は、終わりだ」


 元の姿に戻ったタオが、息をつきながら言う。

 ただ、ロキは、それには納得しかねるような声を出した。


「……この想区が不安定なのは、まだまだ変わりませんよ」

「……大丈夫だよ。きっと」


 それには、エクスが、街を見ながら言っていた。


「皆、幸せそうだった。カイも、ゲルダも、雪の女王も」


 一人一人の顔を、思い出すように。

 彼らは……異文化に出会いながらも、それぞれが、確かに幸福に向かっていっている――そんな表情をしていた。

 それを、改めて確認するように。


 レイナは、頷く。


「ええ。バレンタインは、新しい文化として、想区の一部になる。カイやゲルダが、そうするはずよ」

「そうです。それでダメなら、シェイン達も、手伝います。知らない人には、こんなイベントがあるよって教えます。想区を壊す道具になんか、させませんよ」


 シェインの言葉に、タオも頷いて、ロキを見た。


「今回はお前の負けだ、ロキ」

「……いいでしょう。これもまた、ひとつの結果ですから」


 ロキは、これ以上を無駄と判断したか……一歩下がると、跳んだ。

 丘から、飛び降りる形で――ロキは、四人の前から、姿を消していく。


「今回は、退散しましょう。また、次の機会に――」


 そんな言葉だけを、残しながら。


「待ちなさい、ロキ……! ……もう、また、逃げられた……」


 その姿を追おうとしたレイナだったが、既に、どこにもロキは見あたらなかった。


 はあ、と、レイナはため息をつく。

 ……結果としては、ただ、ロキを取り逃しただけの形になってしまった。


 けれど――


「みんなー! だ、大丈夫っ?」


 そこに、走ってくる女の子の姿があった。

 四人のあとについてきていた、ゲルダである。

 シェインは、気を取り直したように、ゲルダの方を向いた。


「ええ。ゲルダちゃん。みんな無事ですよ。シェイン達も、それに、街の皆さんも」


 そして、街の方を見た。

 平和な町並みには変わらず、穏やかな風が流れている――バレンタインというイベントを経て、ほんの少しだけ幸せな空気を増した、優しい風が。


「ゲルダちゃん。バレンタインを、イベントとして街に広めましょう。文化の一部になるように。皆さんが知るように。毎年、女性や男性が、大事な人達に贈り物をするように」

「シェインちゃん……」

「そうすれば、きっと、平気です。シェイン達も、手伝います。ここの人達の幸せな顔を、見たいですから。親友のゲルダちゃんの幸せな顔を、見たいですから」

「……うん!」


 ゲルダは、シェインを抱きしめた。

 直感的に――別れが近いことを、感じ取ったのかも知れなかった。


 シェインも、ゲルダをしっかりと抱きしめる。

 初めて会ったときの記憶は、ゲルダにはないだろう、でも……それは確かに、大切な親友を思う感情であったに違いない。


 一緒にいたカイも、頷いた。


「ぼくたちで、頑張るよ。それでこの世界が守れるなら、いくらでも」

「ええ。きっと、約束よ」


 レイナは答えながら……この世界は大丈夫、そんな確信にも似た思いを持っていた。


「みんな、一度、家に帰りましょ? おいしい料理を、沢山用意するわ!」


 ゲルダは、最後にそう言って笑った。

 きらきらとした、満面の笑み。

 エクス達はそれに頷いて、丘から街へと、歩き出す。


 ふわりと、優しい風が皆の頬を撫でた。

 それはほんの少しだけ、チョコレートの甘い香りがした。


〈終〉

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バレンタインデー・ハピネス グリムノーツ 松尾京 @kei_matsu

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