第三章

 九月十五日の月の明るい夜、内裏だいりでの宴遊えんゆう後にそのまま宿直とのいをした権中納言ごんちゅうなごんは、特に興味があったわけではないが、帝の寝所しんじょに向かう梅壺うめつぼ女御にょうご藤壺ふじつぼへ通じる塀の辺りで隠れて見た。

 夜更けの月がくまなく澄み渡る中、濃いあこめに透けて見える薄物うすもの汗衫かざみを羽織り、髪を美しく垂れ掛からせた女童めのわらわが火取り香炉こうろを手に歩み出て来た。女房たちも皆、きぬたで打ってつやを出した衣の上に薄物の唐衣からぎぬを脱ぎ掛けているのが、今宵の空のように優美に見える。几帳きちょうを麗しくさし巡らし、とてもかしずかれている様が何とも奥ゆかしく見事だった。

「ああ、わたしの身体からだと心が人並みであったならば、きっとあの女のように今上きんじょうのもとに出入りしていたであろう。それが人前に顔をさらし、しかも男の姿で世に出ているとは、まったく正気の沙汰ではない」

 悩み続けていると目の前が暗くなってくる。


  月ならばかくてすままし雲の上をあはれいかなる契りなるらん

  (わたしが月であったなら、雲の上で澄み渡った心で過ごすこともできるのに、どうしてこのようにつらい宿命なのだろうか)


「つたない宿世すくせのため、わたしはこのように生きるしかないが、せめて姫君だけでも宮仕えができればどんなにうれしかろう。自分の不幸を嘆くとも、姫君が普通の女性として生きることができれば、参上・退下たいげの世話もできるのだが」

 我が身の悲しさを考え続けていると、ここから抜け出して深い山に姿を隠してしまいたい気分になってくる。女御にょうごを見送りながら、先ほどの独り言を思い返していると、「蓬莱洞ほうらいどうの月」の句が自然に口をついて出た。その声は何とも形容できないほど美しく、夜空へと澄み昇っていった。

 宰相中将さいしょうのちゅうじょうも今宵のうたげに参加していた。今はただ一途いちずに権中納言の妹に恋い焦がれ、いつものように嘆いていた。

甲斐かいはなくとも権中納言に恨み言を言って、世にまたとない姫君の容姿や仕草を見たい気持ちを慰めよう。帰宅してしまった様子もないが、どこかの物陰に隠れているのだろうか」

 尋ね歩いたところ、歌を口ずさむ声が聞こえたので慌てて探すと、程なく権中納言を見つけた。織物の直衣のうし指貫さしぬきの上にあでやかなくれないの打ちぎぬを肩脱ぎにし、とても小柄だが若く美しく、月の光に輝くばかりに素晴らしく見えた。いつもよりしんみりとした様子で、涙に濡れた袖の辺りから普段とは異なる、珍しいこうの匂いが漂ってくる。

「男の身である自分でさえ立派だと思うのに、まして女が声を掛けられたら、知らぬ振りをすることはできまい」

 うらやむ宰相中将は我が身が情けなく思ったが、権中納言を引きめて理不尽な恨み言を言う様は実につややかで風情があり、好ましく見えた。

 権中納言は他人に対していつも打ち解けて話をしようとせず、よそよそしい態度で接したが、宰相中将だけは突き放しにくく、不憫ふびんに思って話をした。

「そうは言いますが、言葉巧みで露草つゆくさのように移り気なあなたの心が心配です。気の毒ですが、わたしの意のままにはならないことなので、ただ話を聞くことしかできず、本当に申し訳なく思っています」

 身の上の不幸を悩んでいた名残なごりで、ひどく思い沈んでいる権中納言を眺めながら、宰相中将は考えた。

「これほど何の悩みもなさそうな身分なのに、何の不満があって嘆いているのか。あまりに身を慎んでいるのも、きっと思うところがあってのことであろう。四の君に対して不満があるとも聞いていないが、彼女に見慣れてしまうとは、どんなに素晴らしい女性に恋い焦がれているのか。最近、東宮とうぐうになった方だろうか。そうだとしても、この人なら難しい話ではない。それにしても、心に秘めたことがある人はとても情趣じょうしゅがあるものだ」

 女が原因だと推測した宰相中将は、気を回して仲介しようとした。

「悩み事があるのでしたら、我が身に代えてでも先方に取り計らい、説得して願いをかなえて差し上げましょう。わたしとあなたとの間で他人行儀は無用です」

「わたしになり代わって相談したら、容易に解決するとお思いですか」

 権中納言は笑いながら答え、歌を詠んだ。


  そのことと思ふならねど月見ればいつまでとのみものぞ悲しき

  (特別な理由があって嘆いているわけではないのですが、月を見ているといつまでこの世で生きていられるかと悲しくなります)


 とてもつややかで親しみ深く感じられる声に、宰相中将はほろほろと涙を流して返歌を詠んだ。


  そよやその常なるまじき世の中にかくのみものを思ひわぶらん

  (あなたが言う通り無常な世の中で、どうしてこのように悩まないといけないのでしょうか)


「わたしも罪深いと思い知らされていますので、あなたの悩みを見届けた上で、深山みやまに姿を隠そうと考えています」

「もし、あなたが世を捨てるときは、どうかわたしを残さないでください。このまま現世にいたくないという気持ちが年月とともに強くなっていますが、さすがに決心できずにいるのです」

 互いに心中を打ち明け、二人はしみじみと夜を語らい明かした。

 それぞれ別れた後も、宰相中将は権中納言のことを思い出し、慕わしく思った。

「あの権中納言は万事に優れているが、中でも際立っているのは繊細な雰囲気だ。女として世話をしたいと思うほどの美しさで、誠に素晴らしい」

 ますます妹の姫君に思いをせ、心を尽くして恋い焦がれたが、相手は一向に聞き入れる様子もないため、どうしたらいいかと思案に暮れた。


 院は今や一人娘の東宮とうぐうと別居し、近くで世話をすることができない上に、乳母めのとなどといってもしっかりと気の利く人も仕えておらず、東宮自身も幼く頼りないのを心もとなく不安に思っていた。そのような折に、左大臣家の姫君が結婚や入内じゅだいを考えていないという噂を耳にして、東宮の後見役にすることを思いつき、左大臣が参内さんだいした際に話のついでに尋ねた。

「権中納言の妹はどうするつもりなのか」

 左大臣はまだ入内させる気があったのかと驚き、泣きながら答えた。

「どうしたらいいのか決めかねています。親であるわたしにさえもあきれるほどよそよそしく恥ずかしがり、顔を合わせるだけで汗をかき、気分が悪くなるような娘ですので、いっそのこと尼などにして仏の道を歩ませようかと考えているところです」

 涙を流す左大臣を見ながら、本心から出家させるつもりではないのだと院は不憫ふびんに思った。

「それはまったくよろしくない。実を言うと東宮にはしっかりした人がそばにおらず、自分も離れて暮らしているので色々と心配している。彼女の遊び相手として参内させなさい。ともかく世にとどまってさえいればきさきにもなれるだろう」

 左大臣は権中納言のことを思い浮かべながら、「姫君もしかるべき運命なのだろう。確かにその程度の宮仕えならば可能だ」と、思ってもみなかった申し出にうれしい気持ちで心が乱れた。

「妻と相談して参ります」

 退出すると早速、この話を姫君の母親に伝えたが、「さあ、わたしにはどうすべきなのか分かりかねます」としか言わなかった。

「権中納言の様子を見ていると、姫君も宮仕えに出すのがよさそうだ。院の上の話の通り、本当に后の位につくことがあるかもしれない。もしそうなったら願ってもないことだ」

 左大臣は将来を想像するだけで胸が騒ぎ、あれこれと祈祷きとうをした。


「同じことなら早く」

 院から催促があり、左大臣は十一月十日頃に姫君を参内させた。支度を万全に調え、女房四十人、女童めのわらわ八人、下仕しもづかえ八人を華麗に着飾って付き添わせた。通常の入内じゅだいではないが、身分もなく仕えるのはおかしいだろうと、尚侍ないしのかみと称した。また、東宮が梨壺なしつぼにいるのに合わせ、その西北にある宣耀殿せんようでんが尚侍のつぼねとなった。

 尚侍は夜伽よとぎで東宮と同じ帳台ちょうだいで寝ているうちに、東宮の若々しく上品でゆったりとした気配や肌触り、無心に打ち解けた愛らしい様がいとしくなっていった。あれほどひどく恥ずかしがりで内気な性格であったのにもかかわらず、自分を抑えることができなくなり、やがて東宮と契りを結んだ。

 尚侍が男だと知った東宮は、あさましく意外だと思ったが、見た目や態度に微塵みじんも嫌な感じがなく、この上なく美しく穏やかな人柄なので、何か理由があるのだろうと騒いだりはしなかった。それどころか、いい遊び相手としていつもそばに置いてくれるため、尚侍もいとおしく思った。

 尚侍は昼間もそのまま梨壺なしつぼとどまり、手習いや絵描き、ことの演奏などをして、起きし共に暮らしたが、何事にも気後れがして恥ずかしいと閉じもっていた頃と比べて気が紛れる思いがした。

 一方、宰相中将は権中納言の妹君が尚侍となった今でも、恋愛を禁じられているわけではないので、離れずに機会を狙っていた。左大臣家の厳しい監視下にあったときは近づくすべもなかったが、こうして宮仕えに出たのを喜び、昼夜を問わず宣耀殿せんようでんの辺りに張り付いて様子をうかがった。気高く振る舞う様子や世間の評判が麗しく、いつになったら思いがかなうのだろうかと悩み続けた。


 その年の五節ごせち中院なかのいんへの行幸みゆきがあった。人々は皆、小忌衣おみごろも姿で参列したが、中でも宰相中将と権中納言の青摺あおずりの衣が一段と見事だった。宰相中将はすらりとした背丈で男らしく、堂々として凜々りりしい上に優美な風情があり、色めいた雰囲気が素晴らしく見える。一方の権中納言はいつまで見ていても見飽きないほど華やかで、つややかでこぼれるばかりの愛嬌あいきょうは比類なく、男の振りこそしているが身のこなしや様子も柔らかくしなやかで、誰よりも優れて目映まばゆい姿に、後宮の女房たちは目を奪われた。

 宰相中将は少しでもいい女がいそうな所は素通りせず、必ず立ち止まって言葉を掛けたが、権中納言は見掛けと異なり、宰相中将がなかなか先に進まず止まりがちであるのを横目で見ながらどんどんと先に進んでしまうため、女房たちは「ここが檜隈川ひのくまがわであったなら、馬をめてしばし水を飲ませ、その間だけでも姿を見ていたい」と恨めしく思った。

 見送った人々の中に権中納言のことを強く慕う女がいた。遅れて来た一人の随身ずいじんが何か言いたそうにしているので、「何事ですか」と尋ねると、上品な手紙を取り出した。

麗景殿れいけいでん細殿ほそどのの一の口で呼び止められ、預かってきました」

 身に覚えがないのを不審に思いつつ、権中納言は手紙を読んだ。


  ふことはなべてかたきの摺衣すりごろもかりめに見るぞ静心しずこころなき

  (逢うことが難しいあなたの青摺あおずりの衣を偶然目にし、わたしの心はひどく揺れています)


 実に見事な筆跡で書いてあるのを見ながら、「いったい誰だろう」と微笑ほほえんだが、気ぜわしい場所なので返事をしなかった。しかし、冷たくつれない態度は気の毒と思い、行幸みゆきが終わって人々が寝静まった後、夜更けの月が明るく澄んでいる時分に、麗景殿れいけいでん細殿ほそどのの辺りでたたずみながら歌を詠んだ。


  逢ふことはまだ遠山とほやま摺目すりめにも静心しずこころなく見けるたれなり

  (逢うことはまだ先だとしても、遠くからわたしの摺衣すりごろもを見て心乱れた人が誰なのかを知りたいのです)


 人の声もしないので誰もいないのだろうかと思っていると、やがて手紙を渡されたという一の口から声がした。


  めづらしと見つる心はまがはねど何ならぬ身の名のりをばせじ

  (あなたを美しいと見た心に偽りはありませんが、取るに足らない身の上ですので名乗ることはできません)


 興味をそそられ、権中納言は近寄って再び歌を詠んだ。


  名乗らずは誰と知りてか朝倉あさくらやこの世のままも契り交はさん

  (名乗ってくれなければ誰だか分からず、現世で契りを交わすことができないではないですか)


「これが『かたきの摺衣すりごろも』ということなのですね」

 とりとめもない冗談を言いながら近づくと、ひときわ慕わしく魅力的な女の様にいよいよ心に染みて見事だと思った。しかし、ただ立ったままどうしたらいいか分からず、恥ずかしいほど心苦しく感じたものの、世間の男のように無理に押し入る真似はできない。

 話によると、麗景殿の女御にょうごの妹に当たる人らしい。普通の身分の女ではないと分かったので冷たくしない程度に言葉を交わし、人々がやってくる気配がしたのを機にひっそりと別れた。

 このように一目でも権中納言を見て、心を込めて待っている妻がいることも、周囲から冷淡な人だと噂されていることも構わず、言葉を掛ける女は大勢いた。だが、軽んずる身分ではなく素晴らしいと思う人には、つれなくならない程度に言い交わし、身分が低い相手は知らぬ顔で聞き流し、よそよそしく身を慎んでいるのを玉にきずだと不満に感じている人々もいた。

 一方、宰相中将が女と見れば機会を逃さずに言い寄り、様子をうかがい歩くのを風流だと思う人も多かった。

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とりかへばや物語 水谷 悠歩 @miztam

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