第三章
九月十五日の月の明るい夜、
夜更けの月が
「ああ、わたしの
悩み続けていると目の前が暗くなってくる。
月ならばかくてすままし雲の上をあはれいかなる契りなるらん
(わたしが月であったなら、雲の上で澄み渡った心で過ごすこともできるのに、どうしてこのようにつらい宿命なのだろうか)
「つたない
我が身の悲しさを考え続けていると、ここから抜け出して深い山に姿を隠してしまいたい気分になってくる。
「
尋ね歩いたところ、歌を口ずさむ声が聞こえたので慌てて探すと、程なく権中納言を見つけた。織物の
「男の身である自分でさえ立派だと思うのに、まして女が声を掛けられたら、知らぬ振りをすることはできまい」
権中納言は他人に対していつも打ち解けて話をしようとせず、よそよそしい態度で接したが、宰相中将だけは突き放しにくく、
「そうは言いますが、言葉巧みで
身の上の不幸を悩んでいた
「これほど何の悩みもなさそうな身分なのに、何の不満があって嘆いているのか。あまりに身を慎んでいるのも、きっと思うところがあってのことであろう。四の君に対して不満があるとも聞いていないが、彼女に見慣れてしまうとは、どんなに素晴らしい女性に恋い焦がれているのか。最近、
女が原因だと推測した宰相中将は、気を回して仲介しようとした。
「悩み事があるのでしたら、我が身に代えてでも先方に取り計らい、説得して願いをかなえて差し上げましょう。わたしとあなたとの間で他人行儀は無用です」
「わたしになり代わって相談したら、容易に解決するとお思いですか」
権中納言は笑いながら答え、歌を詠んだ。
そのことと思ふならねど月見ればいつまでとのみものぞ悲しき
(特別な理由があって嘆いているわけではないのですが、月を見ているといつまでこの世で生きていられるかと悲しくなります)
とても
そよやその常なるまじき世の中にかくのみものを思ひわぶらん
(あなたが言う通り無常な世の中で、どうしてこのように悩まないといけないのでしょうか)
「わたしも罪深いと思い知らされていますので、あなたの悩みを見届けた上で、
「もし、あなたが世を捨てるときは、どうかわたしを残さないでください。このまま現世にいたくないという気持ちが年月とともに強くなっていますが、さすがに決心できずにいるのです」
互いに心中を打ち明け、二人はしみじみと夜を語らい明かした。
それぞれ別れた後も、宰相中将は権中納言のことを思い出し、慕わしく思った。
「あの権中納言は万事に優れているが、中でも際立っているのは繊細な雰囲気だ。女として世話をしたいと思うほどの美しさで、誠に素晴らしい」
ますます妹の姫君に思いを
院は今や一人娘の
「権中納言の妹はどうするつもりなのか」
左大臣はまだ入内させる気があったのかと驚き、泣きながら答えた。
「どうしたらいいのか決めかねています。親であるわたしにさえもあきれるほどよそよそしく恥ずかしがり、顔を合わせるだけで汗をかき、気分が悪くなるような娘ですので、いっそのこと尼などにして仏の道を歩ませようかと考えているところです」
涙を流す左大臣を見ながら、本心から出家させるつもりではないのだと院は
「それはまったくよろしくない。実を言うと東宮にはしっかりした人がそばにおらず、自分も離れて暮らしているので色々と心配している。彼女の遊び相手として参内させなさい。ともかく世に
左大臣は権中納言のことを思い浮かべながら、「姫君もしかるべき運命なのだろう。確かにその程度の宮仕えならば可能だ」と、思ってもみなかった申し出に
「妻と相談して参ります」
退出すると早速、この話を姫君の母親に伝えたが、「さあ、わたしにはどうすべきなのか分かりかねます」としか言わなかった。
「権中納言の様子を見ていると、姫君も宮仕えに出すのがよさそうだ。院の上の話の通り、本当に后の位につくことがあるかもしれない。もしそうなったら願ってもないことだ」
左大臣は将来を想像するだけで胸が騒ぎ、あれこれと
「同じことなら早く」
院から催促があり、左大臣は十一月十日頃に姫君を参内させた。支度を万全に調え、女房四十人、
尚侍は
尚侍が男だと知った東宮は、あさましく意外だと思ったが、見た目や態度に
尚侍は昼間もそのまま
一方、宰相中将は権中納言の妹君が尚侍となった今でも、恋愛を禁じられているわけではないので、離れずに機会を狙っていた。左大臣家の厳しい監視下にあったときは近づく
その年の
宰相中将は少しでもいい女がいそうな所は素通りせず、必ず立ち止まって言葉を掛けたが、権中納言は見掛けと異なり、宰相中将がなかなか先に進まず止まりがちであるのを横目で見ながらどんどんと先に進んでしまうため、女房たちは「ここが
見送った人々の中に権中納言のことを強く慕う女がいた。遅れて来た一人の
「
身に覚えがないのを不審に思いつつ、権中納言は手紙を読んだ。
(逢うことが難しいあなたの
実に見事な筆跡で書いてあるのを見ながら、「いったい誰だろう」と
逢ふことはまだ
(逢うことはまだ先だとしても、遠くからわたしの
人の声もしないので誰もいないのだろうかと思っていると、やがて手紙を渡されたという一の口から声がした。
めづらしと見つる心は
(あなたを美しいと見た心に偽りはありませんが、取るに足らない身の上ですので名乗ることはできません)
興味をそそられ、権中納言は近寄って再び歌を詠んだ。
名乗らずは誰と知りてか
(名乗ってくれなければ誰だか分からず、現世で契りを交わすことができないではないですか)
「これが『かたきの
とりとめもない冗談を言いながら近づくと、ひときわ慕わしく魅力的な女の様にいよいよ心に染みて見事だと思った。しかし、ただ立ったままどうしたらいいか分からず、恥ずかしいほど心苦しく感じたものの、世間の男のように無理に押し入る真似はできない。
話によると、麗景殿の
このように一目でも権中納言を見て、心を込めて待っている妻がいることも、周囲から冷淡な人だと噂されていることも構わず、言葉を掛ける女は大勢いた。だが、軽んずる身分ではなく素晴らしいと思う人には、つれなくならない程度に言い交わし、身分が低い相手は知らぬ顔で聞き流し、よそよそしく身を慎んでいるのを玉に
一方、宰相中将が女と見れば機会を逃さずに言い寄り、様子をうかがい歩くのを風流だと思う人も多かった。
とりかへばや物語 水谷 悠歩 @miztam
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