2017年3月 羽衣の浜
二〇一七年三月十一日、仙台市営地下鉄東西線荒井駅。また、ここに来た。こんなにすぐ、来ると思わなかった。もう二度と来たくなかった。なのに。
「聞いてくださいよせり子さん。今週末、休みが取れたのです」
炎上案件に追われて、太陽が出るより前に出勤して、日が変わる頃帰ってくる暮らしを繰り返しているという数井さんがメッセージを送ってきた。
「たっぷり寝るがいい。おまえには睡眠が必要だ」
白目を剥いた猫のスタンプも添える。寝ないと白髪が増えるよ数井さん。
「行きましょうよ、仙台に」
「なんで?」
「なんでって、今度の土曜日は……三月十一日ですよ」
三月十一日。重たく、軽い数字。あれから六年か。
「ねえ、僕に今年の三月十一日をください。せり子さんのその日を」
そうまで言われては、私に断る言葉はない。私たち、そういや付き合っているわけだし。といってもクリスマスイブにひょっこりひょうたん島の前でそういう段取りになってから、会うのはこれで二回目くらい。年度末の忙しさは何もかも奪う。
そして私たちは仙台にいる。荒浜は今日もよく晴れ、風が強かった。荒井駅のバス停にはいろいろの人が並んでいた。花束を提げた人。地図を見る人、なぜか楽器のケースを持った人。県外の人、市内の人。
「数井さん、あの日何してたんだっけ?」
「献血してましたね。会社の前に献血バスが来てたでしょう。献血終わってジュースとタオル貰って、エレベーター待ってたら揺れたんです。貧血かと思いましたよ」
「針の刺さってる時じゃなくてよかったねえ」
「でも、エレベーターがすぐ止まっちゃったから、僕、十七階まで歩いて登ったんですよ」
「なぜ避難しない」
数井さんが目を伏せた。
「たいしたことない、って思ってたから」
ああ、そうだった。最初はそうだったのだ。私は十八階のフロアで机の下に潜っていた。長い長い振幅周期。大きな船の揺れのようだった。誰かが「震源は宮城らしいよ」と言ったときも、「ああ、宮城県沖地震が来たんだな」とだけ思った。宮城県沖地震は三十年に一度くらい来ると言われていた。前回が一九七八年、とっくに三十年過ぎてるな、と思ったのだ。
五分かそこらは机の下にいたと思う。でもすぐに席に戻った。仕事が煮詰まっていたのだ。
私が悠長にパソコンに向かっていた頃、数井さんがやっとフロアにたどり着いた頃。浜には水が押し寄せていたのだった。
仙台市営バスはIC乗車券に対応していて、東京のICカードがそのまま使える。快適さが不思議だ。
荒井駅前の工事は数ヶ月分だけ進んでいた。五月には大きなライブハウスができるらしい。
「痛くない 鼻から入れる 内視鏡」 字余りのアナウンス。農業センターを過ぎれば、再びの茶の野。
「閖上のあたりに、似てますね」
「そんなに離れてないでしょ。車ならすぐじゃない」
南長沼で降りる。二度目だから迷わない。深沼海岸へ向かう細い道は車でいっぱいだった。交通整理の人が何人も出ている。様々な会場を知らせる看板がある。モニュメント完成式典、能楽、希望の名を冠した催し。車の脇をすりぬけるように歩く。荒浜小学校の前には真っ赤なバス停がある。
「これね、これ、例の偽バス停の一個」
荒浜小学校 ようこそ いってらっしゃい
経路や時刻表は手書きで、わかって見ればすごく偽物に見える。
「上手に工作してますねー」
数井さんが写真を撮りまくっている。ネットで話題にしやすそうだもんな、これ。
「あれ、なんか綺麗になった?」
荒浜小学校は数ヶ月前と比べて少し変わっていた。柵や真新しいトイレが増えている。震災を後に伝える施設として、人を受け入れる準備が進んでいる。今日は中に入れるようで、屋上に人の姿が見える。駐車場に車が入っていく。入り口にイベントの告知があった。花の種を入れた風船をみんなで飛ばして、その後、教室でライブをするんだそうだ。
「見てく?」
数井さんは腕時計を見て首を横に振る。
「このイベント、三時の予定でしょう。時間の頃には海のほうにいたいので」
小学校の隣あたりに脇に黄水洗の花束が置いてある。そこは誰かの家だったところ。ただ胸のあたりを掴んで歩く。
「でね、あそこに見えるのが観音様」
観音像の方を指さす。
「大きいけど……小さい……」
「あれと比べるな、あれと」
波の高さに合わせて九メートルの背を持つ観音様は、間近で見れば迫力の威容だ。しかし、仙台市民が大観音ときいて真っ先に思いつくのは中山大観音なのだ。中山、という山の住宅街にどんとそびえる百メートルの大観音像。
正面の堤防にたくさんの人が集まっている。車の渋滞がいつまで経っても解消しないなあ、と思ってたけど、よく見たらみんな路上駐車だった。奥まで迷い込んできた車を誘導員のおじさんが「もっと奥! もっと前! 空いてるから!」と詰めている。
カメラを持った大学生たちが歩いている。おもちゃを持った子供がはしゃいでいる。自転車でおじさんが走っていく。みな、一心に海を目指している。私たちもその一人だ。県外から来て、カメラやスマートフォンであちこちを撮る人間だ。
貞山堀の手前に新しい碑ができていた。フルカラーで荒浜地区のことを紹介している。遠くから、カン、カン、とよく響く鐘の音。堤防の左手前に、これまた真新しい鐘ができていた。貰ったチラシには「荒浜記憶の鐘」とある。帆船のマストのように腕を広げたモニュメントに小さな鐘が備え付けてあって、誰でも鳴らせるようになっていた。観音様の前には黒衣の人たちが集まっている。誰かが話をしている。もうすぐ時刻だ。
人でいっぱいの堤防に上る。ごうごうと風が体を押す。今日もやっぱり風が強い。堤防の海側にある階段にたくさん人が座っていた。即席の客席、その前にはまっ平らな砂舞台。浜を長方形に均して流木を置いてある。真ん中に椅子。
「あれ、ひょっとして能舞台ですか?」
「たぶん?」
黒い和装の男性がスピーカー片手に何かを話しているが、風の音でさっぱり聞こえない。
数井さんに手を引っ張られて、人だかりから少し離れたあたりに座る。砂が時折目を打つ。薄目で数井さんを見る。数井さんも涙目だ。
「せり子さんは、今でも、自分に悼む資格がないって思ってますか?」
「まあ、その、うん」
こんな日に、ここに来るなんて、今だってすごく後ろめたい。気楽な様子で浜に来た人を見れば少し気は楽になるけど、その一方で喪服を着て観音像前にいる人たちを見れば胃がえぐれる思いだ。
「そこでこれです!」
ばん、と目の前に突き出されたのは、かの有名な結婚情報誌の仙台版だ。どうしよう、これほどまでに目の前の人の考えていることがわからないのは初めてだ。
「うーん、どの辺に入ってんですかねえ……あ、あった」
数井さんは雑誌の中から紙を引っ張りだして、スマートフォンを見ながら何か書いている。風で紙がバサバサバサ! とあおられてすごく書きにくそうだ。紙の隅を押さえてあげる。
「できた!」
渡されたのはピンクの婚姻届だった。うっ。すごく汚い字で夫となる人の欄に数井さんの名前がある。そして。
「この、本籍のとこに、宮城県仙台市若林区荒浜中丁って書いてあるのは?」
「ここです!」
数井一人、史上最大のドヤ顔。
「意味がわからない」
「いいですか、せり子さん。結婚するとき、本籍は好きなところを選んでいいんです!」
「初めて知りました」
「だから、好きなところを選びましょう。ここを縁あるところにしましょう。資格がなければ取得すればいいんです!」
そして、と数井さんは私の手を握った。
「悼んでよいんです。祈っていいんですよ、せり子さん」
浜の舞台から、黙祷、の声がした。ポーンと柔らかな電子音が鳴る。
二時四十六分。目を閉じる。あの日のことを思い出す。私は、職場のテレビの前で立ち尽くしていた。テレビに映る理不尽の情景から目が離せなかった。みるみる土を覆っていく黒い水。交差点で惑う車。高台で誰かが撮ったらしき瓦礫の渦。それは瓦礫というにはあまりにも暮らしの形をしていた。黒煙上げて燃え盛る浜辺の集落。流されていく飛行機。私の、故郷が、どうして。今、見ている光景はなんなの。「メールマガジン配信止めて!」「サーバ影響は?」「あっちの営業所と連絡取れた?」背後で飛び交う声が、ぼんやりとしか聴こえなくて。
胸がつぶれそうな思いというけれど、あの時、私はすっかりつぶれていた。不安と混乱に全身が塗り替えられて、心はすっかりつぶれていた。職場で泣くこともできず、上司が皆に帰宅を命じるまで、私は立ち尽くしていた。
薄目を開けて横をちらと見る。数井さんは真摯に目をつぶっていた。
「皆様、ありがとうございましたー」
黙祷の終わりを告げる声とともに、周りの空気が再び動き出す。
浜の舞台では能楽が始まった。きらびやかな朱と金糸の衣装、長い鬘に面。演目は羽衣、自分の羽衣を返してもらった天女の喜びの舞だ。
砂の舞台を足袋で押し割って天女は歩み、回る。強風の中でも届く浪々とした声。かそけき横笛と太鼓。
遠くで鐘がカンカン、と鳴っている。観音像前の人たちが「君が代」を歌い始めた。真っ青な空に時折ぽろり、ぽろりと風船が飛んでいく。能の舞台のすぐ後ろで、犬を連れた人が歩いている。浜で手を合わせる人がいる。スマートフォンでぐいぐい天女を撮る人がいる。
鎮魂、慰霊、そういう言葉の似合わない雑多な空気。でもここにいる誰もがそれにふさわしい。そんな気がした。
十五分ほどで舞は終わる。冠を外し、錦の袋に面をしまう。神様が人間に戻っていった。
「浜へ降りたい」
「行きましょう」
数井さんと手をつないで砂まみれの堤をゆっくり降りる。今までで一番自然にできた。
「せり子ちゃん」
呼び止められて振り向く。そこには弟の姿があった。
「その人がせり子のお婿さんなんだ?」
ヨウと一緒に堤を降りてくるのは父。
「大葉くん、ありがとうね、お父さん連れてきてもらって」
「いーえー」
ヨウの渋面だ。可愛いなあ。
数井さんが父に向き直る。なに、なんで私、何も知らされてないの。
「はじめまして、僕、せり子さんとおつき合いさせていただいてます、数井といいます」
うわっ、なんかいい始めた! これ、ここでやること?
「いいぞー数井ー!」
「やれー!」
堤の上からヤンちゃんと門間先生が姿を見せた。ヤンちゃん、ずいぶんと歩くのが遅いなあって……腹がでかい!
「ヤンちゃん、なにそれ!」
「いやー、私旧姓遊佐幸恵、恥ずかしながら予定日は五月でございます」
「マジか!」
「なんだかにぎやかねえ」
アメさんまで来たぞ。脇に女の子と男の子をそれぞれ連れている。
「大葉くんが呼んだの」
数井さんも戸惑っていた。
「すんません、俺はヤンちゃんさんに連絡しただけだったんすけど」
「はーい! アメさんは私が呼びました!」
「なんかあ、せり子のお父さんとカズオさんが決闘するって聞いて?」
誰だよカズオって!
周辺を散歩している人も、なんとなくこっちを見ている。なんなんだよこの空気!
「あのう……お父さん」
「わしは、君にお父さんと呼ばれる筋合いはないっ!」
父は元演劇部、滑舌のいい大音声に周囲がどっと沸いた。あのぎらぎらと笑う目。あーあ、ダメだ、嘘つきスイッチが入ってるよ。とにかく場を盛り上げておもしろくさえすればいいと思ってる顔だ。
「せり子は大事な娘だ、どこの馬の骨ともしれぬ男には渡せんッ!」
あんまり大事にされてる覚えないんだけどなあ。
「婿負けてるぞ!」
「いいぞ親父ー!」
なんぞこれ。いつの間にか小さな人だかりができて、みんな口々にいい加減なことを言っている。
「……おっ、お父さん! これにサインしてください!」
風の中、数井さんが父に紙を手渡した。ピンクの婚姻届だ。
「認めろというのか、娘との結婚を」
「僕は、僕たちは……ここを本籍にします!」
「そうなんだあ」
アメさんのつぶやきが妙によく聞こえた。
「いいぞ! 荒浜に帰ってこい!」
知らないおじさんが数井さんの肩を叩いた。ごめんねおじさん、私ら職場東京なんだけど。
「そこまで言うなら……きっと、死んだ母さんも認めてくれるだろう」
父が三十年ものの決め台詞を言った。父はしょっちゅう母を殺すのだ。
まばらな拍手が起きた。ああ……これ、絶対結婚しないとダメなやつだよなあ。
「あ……空」
アメさんの息子が空を指した。風船の一群が空を渡っていく。陸から海へ吹く風に乗って、風船は海へ、高く、高く、まっすぐにひとかたまりに流れていった。誰もが黙ってそれを見送った。現代では、天女は羽衣ではなく風船で帰るのかもしれなかった。
あの日から、自分に悼む資格があるのだろうかと、何度も考えていた。東北の情景を見るたびに生じるこの痛みや後ろめたさは、自分が抱いて良いものかとずっと悩んでいた。記憶の薄さに罪悪感があった。
だけど、数井さんが私のために土地との縁を作ってくれた。東北のことを考えて、わけもなく苦しくなっても良い、と認めてくれた。私は泣く。私は祈る。資格はある。もう、誰の都合も気にしない。
猫の都合をきいてきて 斉藤ハゼ @HazeinHeart
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