2016年12月 終点の海(後)
仙台駅前で着替えと鞄、化粧品などを買う。実家にはしばらく帰りたくない。置いてきた荷物はそのうちヨウに送ってもらおう。
岩手県の新花巻というところまでは東北新幹線。もうビール飲んじゃうぞ。つまみは車内販売ワゴンの定番、ほやの燻製だ。
ぐいぐい飲んで新花巻から釜石までの鈍行区間は寝て過ごした。眠ると脳内で嫌な記憶を整理する、と昔何かで読んだ。仕掛けた本人はほんの他愛もない悪戯だと思ってるのだろう。嘘つきでほら吹きの父にとって、あんなのは挨拶に過ぎない。知ってる。わかってる。でも、私の胸は痛い。
釜石で数井さんと合流して、飲みに出かけた。仙台より一段寒い。夕闇に製鉄所の姿が浮かぶ、コンビニ、観光案内所、バス停がいくつか。釜石駅前はこざっぱりとしたところだった。
「釜石って、けっこう大きい町だと思ってたんだけど」
「港の方が市街地になってるみたいですよ」
古い町によくある、駅前のほかに繁華街がある土地らしい。
「で、その繁華街を目指して?」
「そういうわけではないんですが」
見上げた街燈に鮭のオブジェがついている。釜石、鮭推しか。五分も歩くと「呑ん兵衛横丁」という看板があった。プレハブ二階建ての飲食店長屋、いわゆる復興飲食店街だ。
数井さんに促されて寿司屋に入る。立派な一枚板のカウンター、大将の背後には神棚と伊万里焼の大皿。
日本酒を、と頼むと、女将さんが籠に盛ったたくさんのお猪口から好きなのを選ばせてくれる。数井さんと地酒浜千鳥の熱燗をいただく。
「うー! いいね!」
「いやあお疲れ様!」
前菜に塩辛、つぶ貝の煮たやつ、煮凝り、赤なまこの酢の物。木の芽と独活を添えた柚子味噌がけ大根、そして鱈のきく、白子をこれでもか! と入れたお吸い物。数井さんは馬鹿の一つ覚えみたいに「はじめて食べましたけど美味しいんですね」と繰り返している。
刺身の盛り合わせを堪能し、締めは軽いお寿司とあらの味噌汁。酔っぱらった数井さんが、「先輩が、すごく出張の多い人なんですけど、ここが岩手で一番お勧めだって言ってまして」と熱く語っているのを、大将と女将さんがニコニコ聞いてくれる。いい人たちだ。酒杯を飲み干す。いくらでも飲めそうだけど、数井さんがだいぶグダグダだから引き上げよう。飲み足りない分は、コンビニで買えばいいのだ。
真っ白い息を吐きながら暗い裏道を帰る。飲み過ぎて冷えてしまった。
「今日のホテルはですよー、せり子さーん」
「うん」
「すごく、新しいんです。できて一年くらいです」
「ほう」
数井さんがペットボトルのお茶をぐいぐいと飲む。酔っている、という自覚はあるようだ。
「だからですよー、いわきの時みたいに、なんか聞こえたりはしませんー」
「ああ」
いわきでは、隣り合った数井さんの部屋からテレビで鑑賞している作品の音声が丸聞こえという事件があった。
「石巻の時みたいにー、よその人の声も聞こえませーん」
「よその人の声?」
石巻の宿で聞こえたのは、たしか犬の鳴き声だった。
「あれはですよ、犬じゃないんですよーもー。せり子さんは変なところ天然ですよねー」
「じゃあ、何?」
「だから、人の声ですってば」
「あんな犬の声みたいなのが?」
「ずいぶん派手にやりやがってって感じですよねー。ギシギシうるさいし」
ぎしぎし?
「僕ね、今日、せり子さんが来てくれて嬉しかったんですよー。ほんとー。話したかったこともありますし」
数井さんに最後にあったのは夏の餃子パーティ。だから半年ぶりになるのか。業務が忙しくて、数井どころではなかったのだ。
「ほれ、続きは宿で聞くから」
「ちゃんと聞いてくださいよー?」
酔っぱらった数井さんは、だいぶ面倒くさい人だった。ホテルが近くて良かった。
数井さんをホテルラウンジのソファに座らせ、ホットコーヒーを持たせる。私は缶ビール。まだ飲み足りない。新幹線で飲んで、寿司屋で飲んで、まだ酔いが回る感じがない。昼間の嘘が腹の中で溶けていかない。
私が数井さんに泣きつきたかったのに、なんでか私が数井さんの愚痴を聞いている。
「僕、異動になるんですよー」
「じゃあ、うちの会社に常駐しなくなるの?」
「そうです、今度は回ってない現場に応援要員として入るんです、もう明らかにダメなやつです……土日がなくなる……」
「そうなんだあ」
じゃ、こうして旅行に行く機会もなくなるのかな。
「社畜ですし? こういう事態に抵抗を覚える心ももうないですけどねー」
「いつから異動なの?」
「年明けから」
「すぐじゃん」
「だから、なんかこの連休も急に惜しくなっちゃって。思いつきで釜石に来ちゃいました」
数井さんがコーヒーの紙コップをもてあそぶ。
「誘って、くれてもよかったのに」
「だって弟さんから、関係がハッキリするまで一緒の旅行禁止って言われてるんでしょう?」
それはそうなのだが。
「明日はどこ行く予定?」
「一応、決めてはあるんですけどねー」
「また早起き?」
「八時二十分のバスに乗ります」
「仕事と変わらねえな」
「僕は異動したら朝七時の電車ですよう……いーやーだーなー!」
「転職とか考えたことは?」
「どうせIT系なんてどこ行っても一緒ですよ。いいんです、理不尽と仕様変更をうんざりするほど繰り返す毎日にも、たまに楽しいことがあれば」
「楽しいこと?」
「酒蔵めぐりとか、自然薯堀りとか。そして……それを一緒にやってくれる人がいるなら、なお、いいです」
「誰でも?」
数井さんが首を横に振る。
「僕、一人って名前なのに、やっぱり、一人で生きるのが上手くないみたいで。時折、無性に人恋しくなる。でも一緒にいて心削られる人は嫌だ。選ぶんです、僕、人を」
数井さんの酔いは未だ醒めていない。誰でも思いそうなことを、さも自分だけの致命的な欠陥みたいに言う。一人で生きられるようにと願ってつけられた名前は、呪いでもあるように思える。私のように「一月七日に生まれたから……ごぎょう子、はこべら子、……よし、せり子!」とノリでつけられたのとは違うのだ。
「さ、そろそろお風呂入ってお酒抜いて。明日が楽しいかはわからないけど、少なくとも、明日は一緒だからさあ」
数井さんに手を差し伸べる。握り返される。しっとりと熱を発している。人間の身体だ。
翌朝、朝食を終えた私たちは北へ向かうバスに乗った。バスは釜石の市街地を抜けて、すぐ山側の国道四十五号へと入っていく。トンネルがずいぶんと埃っぽい。
「あれね、あそこに水門、作り直してねえ」
後ろの席のおじさんが、私たちに向かって急に話し始めた。右手側の窓を差す。
それから、しばらくおじさんが語るのを、数井さんと二人ずっと聞いていた。
せっかく建てたのに空きの多い復興住宅。地元のスーパーと政治家の話。
「あそこの浜がねえ、全部なくなっちゃって」
と指さす先には、ただ鉄杭のような堤防や、屏風のような堤があるばかり。
斜面が四角く段々に切り広げられている。あるいは盛り土の地面。
「この道も、あれからだいぶ盛ったんだわ」
下の工事現場と比べると、たしかに道路の位置が高い。
線路が見える。長い長いヘアピンカーブをゆったり回るように上がっていく。やがて、右下に自分がさっきまでいたらしい道路が見えた。
電線にピンクのリボンが等間隔にたなびいている。たしか深沼でも見た。何か意味があるのだろう。
右を見ても、左を見ても、茶の荒野。深沼海岸の色とは違う。あっちは均されてから時間が経ち、落ち着いた草交じりの茶。ここは、今まさに掘り起こされている、あるいは新しく盛られたばかりの、馴染みを待つ土の色。いわきの久ノ浜で見た色。
「この辺に、住んどったんだわ。鵜住居っていうんだけど」
思い出したようにおじさんがつぶやく。浜言葉のイントネーションは少し聞き取りづらい。
「うちも、なんもかんも、みんな流れてな。隣近所、みんな死んでしまって……ほんと、俺は運が良かったんだ」
数井さんと二人、おじさんの顔を見て、ただ返事ができずにいた。
それでも、そこの工事は再び住まうための施工だった。深沼海岸のある荒浜は行政によって災害危険区域として居住禁止となっている。住民はみな移転したと聞く。バスは帰るかもしれない、だけど人はもう帰れない。その一方で、ここはこれからも人が住む。
苛烈な被害を受けた土地を離れる。戻って暮らす。どっちがいいということじゃない。それは猫の都合とは何か、猫のしあわせとは何か、といった問いに似ている。
おじさんは「見舞いでなー」と言って、大槌病院で降りて行った。
マスト、というショッピングセンターの前を通る。この辺は大槌町。住宅街を十人以上のサンタクロースが歩いているのが見えた。
「あ、今日、クリスマスイブだっけ」
「忘れてたんですか」
「わりと」
バスはくすんだコンクリートの元町役場前を通っていく。ガラスもドアも何もない。ここもまた津波を受けたのだろう。真新しいお地蔵さんが千羽鶴や花束に埋もれている。女川交番と同じように震災遺構として残るのだろうか。
橋を渡り、バスの屋根と同じくらいの盛り土の中を走っていく。やがてガタガタに荒れた道を抜けて、バスは終点へたどり着いた。終点まで乗ってきたのは、私たち二人だけだ。
バス車庫から道を下っていく。新しい家、そうでもない家、重機、更地。
「数井さん、どこへ向かってんの?」
「ひょっこりひょうたん島です」
「へえ?」
「なんでも、田代島もひょっこりひょうたん島のモデルらしいんですが、これから行く島もやはり、ひょっこりひょうたん島のモデルという説があってですね」
「へー」
浜の近くまで降りると、背の高いコンクリートの壁に遮られてほとんど海が見えない。
「ところでさあ、数井さん。ひょっこりひょうたん島って……何?」
「知らないんですか!」
数井さんがスマホの地図から顔をがばっと上げる。
「えーと、アニメだっけ?」
「人形劇じゃないんでしたっけ?」
二人で顔を見合わせる。コンクリートの壁に、ぐしゃり、と潰れたままの金属階段がくっついている。
「なんかこう……有名な作品なんですよね。昔CMで見たような」
「なんか有名なんだよね」
ひょっとして、私ら元作品もよくわからないのに、そのモデルを見に行こうとしているのか。とんだ聖地巡礼だ。
時間をかけてコンクリートの壁を回りこむと、やっと海が現れた。幅三メートルほどのコンクリートの道が海に向かって長々と突き出している。その先にこんもりとした島。島の右端にアンバランスなほど大きく見える真っ赤な灯台が突き出している。てっぺんには薄緑の小屋のようなものが見えた。
コンクリート埠頭には釣り人が数人。二人で延々と歩く。見た目より長い。そして島に近づくにつれわかったことがある。
「島、めっちゃ小さくない?」
「言われてみれば」
島というか丘? そう、閖上の日和山くらいのこんもりした丘が海の上に浮いてる。
埠頭から島本体に乗る。上陸というよりも、何か乗り物に乗った、というほうがしっくりくる。波しぶきの舞う細い道を回って、大きな石の階段をよちよちと三十歩も登れば、そこはもうてっぺんのお社だった。上陸から登頂まで所要時間二分弱。
薄緑の小屋だと思ったところに「弁天神社」とある。いかん、これ男女で行くと嫉妬されて仲を引き裂くっていう神様だ。まだ付き合ってないから大丈夫なのかな。
「どうですか、数井さん。ひょっこり感ありますか」
「ひょっこり感……」
島には社と鳥居と灯台しかなかった。ぞんぶんに見ても所要五分。
戻ってきて、二人で浜からぼーっと島を眺める。島とはいうけど、立派な岩ならもっと大きいのがありそうだ。
「島と岩の違いって、どこにあるんだろう」
「でも、あれを岩っぽいというには、島っぽすぎるというか」
「そういえば」
ふと思い出して、昨日父親に騙された話をした。あの変にバランスの悪い島を見ていたら、不思議に口をついて出てきたのだ。
「それ、ねえ、ひどくないですか」
「まあねえ」
「人の思いをおもちゃにして、ひどくないですか!」
「うん、まあ」
おかしなもので、他人が憤っていると私の怒りはかえって小さくなっていく。それほどに、数井さんは怒っていた。
「でもさあ、数井さん」
「なんですか」
「心のどこかで、なんか妙な納得も、あったんだよね」
大槌の海は、深沼より心なしか色が濃い気がする。
「私には……やっぱり、そんなに大して東北の思い出なんかないんだよ。そりゃあ十八年住んでたけどね? でも、それだけなんだ、もう東京へ移民しちゃった人間で、東北のことを思って、苦しくなったり、ぼんやりしたり、……その、悼む資格なんかないってことを、父の嘘があぶり出した、そんな感じがするんだよ」
ずっと海を見ていた数井さんが、私に向き直った。
「せり子さん、やっぱり、その、僕と結婚しませんか」
「待った! どうやったらその話になる」
数井さんは、眼鏡の弦を支えながら、うん? と首をかしげる。自分の言ってることのおかしさに気が付いていない。
「わかるように、順番に説明して」
「今こそ、僕、歩道橋になりたいです。せり子さんの歩道橋に」
前に仙台のアーケード街で言ってくれた言葉だ。
「お父さんの嘘っていう、ひどい出来事を避けられる歩道橋になりたい。具体的には、僕、せり子さんのお父さんにガッと強く言ってやりたいんですよ。お前何をしてくれたんだ、って。でも……お父さんに強く言える立場の人って、親族か、もしくは家族、じゃないですか?」
「つまり、うちの父に強く言う権利を得るために、結婚すると?」
「それが筋が通るかなあ、と思いまして。百歩譲って婚約者でもいいです」
いや待て、即座に結婚は無理だから、譲らなくても婚約者が限界だ。
「ほんと、あの島みたいに変な人だね」
でもまあ、いいか。数井さんは私じゃなくてもいいかもしれない。私は数井さんじゃなくてもいいのかもしれない。でも別に、唯一無二の人じゃなくたっていいんだ。ひょっこりひょうたん島のモデルはいっぱいあるけど、今となってしまえば、目の前にある島がそれでいいじゃない、という納得のようなものだ。もしかしたら数井さんの運命の人は世界のどこか他にいるのかもしれないけど、これはもうタイミングであり、早いもの勝ち、なんだろう。
ゆったりしたオルゴールの曲がスピーカーから流れ始めた。聞き覚えのあるメロディ。湾の中で響いては、何重にも木霊している。
「……こともあるだろさー、……こともあるだろさー、だけど、僕らはくじけないー」
数井さんが小さく歌っている。ああ、これ、ひょっこりひょうたん島の歌なんだ。
「いいよ、数井さん、いいよ」
「えっ、何が?」
「とりあえず、結婚を検討材料に含めたお付き合いっていう態で」
数井さんがすっと手を伸ばしてくる。笑っている。昼間の手はさらっとして冷えていた。でも、悪い感触ではない。
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