第4話

「今、何て言った」

 自分の声が怖いほど低くなっているのを感じる。それは相手も同じなのか、凡退してベンチに戻ってきたばかりの田島は鼻白んだ。

「だから、応援をやめさせてほしいって言ったんだ」

 田島は俊也の視線から逃れるように顔を背けたが、口ごもることなく言った。

「このまま行ったらコールドゲームで、それだけでも恥ずかしいのに、応援まであんなに差をつけられて、やってる方は情けなくなるよ。あれだったらない方がましじゃないか」

「お前、そんな失礼なことが言えるか」

 普段より甲高くなった田島の声を、最後まで聞かなかった。詰め寄った俊也に監督が立ちはだかる。試合中だぞ、と絞り出した声こそ恐ろしい。我慢しているのがありありとわかったからだ。

「喧嘩だったら後にしろ。試合中だぞ、わかっているのか」

 重ねられた声は今にも爆発しそうな迫力があった。

「コールドだろうがなんだろうが、最後までやるんだ。まだ十点差だ。五回までに一点でも取れば、まだ試合は続けられる。喧嘩なんぞしてる暇があったら、伊藤がホームランを打てるように応援してやらんか」

 監督は言って、憤然とベンチに腰を下ろした。自分の両腕が上がろうとしていたことに気づく。幸い審判はベンチでの悶着に気づいていないようだった。

 俊也は田島と距離を取って試合に目を向ける。打席には八番の伊藤がいる。

 スコアボードの表示はワンボール、ツーストライク。アウトカウントは一つ点灯している。点差は十点。三回表の先頭打者を三振に打ち取ったものの、その後をなかなか抑えられず二点を取られた。

 伊藤は一度だけ快音を響かせたが、打球は左へ逸れてファウルとなる。最後はセカンドゴロで、三人目の打者は三振に終わった。これで一巡したが、まだ誰も出塁できていない。

「強すぎるよ……」

 後ろの方で誰かが呟いた。十点差がついたにも関わらず、少なくとも五回までは試合を続けなければならない。監督が言うように、それまでに一点でも取れば試合は続けられる。しかし点差をいくら縮めたところで、総得点で上回らなければ負けに変わりはない。そしてその可能性は小さい。

 俊也は最初に飛び出していった。そうしないと誰もついてきてくれない気がした。

 マウンドに登った俊也だったが、それを伊藤が追いかけてきた。

「俺の打席の時、何かあったのか」

 伊藤の目は真剣だった。

「見てたのか」

「いや。でも何かもめてる感じがしたんだ」

 俊也は大介を肩越しに振り返り、田島との悶着を話した。

 伊藤はため息をついた。どちらが悪いとも言わない。

「ここまで来ちまったら、最後までやるしかないんだ。だけど仲間割れの方が恥ずかしいぞ。あそこでトランペット吹いてるお前の友達にも失礼だろ」

「そうだよな。でも、お前は惨めにならなかったか」

 失礼は承知だった。しかし歴然とした力の差を野球で見せつけられた上、応援もまるで数が足りていない。田島の気持ちもわからなくはなかった。

「だったらあんなすごい当たりが打てるかよ」

 相手の応援席が活気づいてきた。その圧力に負けない力が、俊也の胸を揺さぶった。

「お前も相手の力がすごいことぐらいわかるだろう。それでも俺は、ファウルになったとはいえスタンドまで飛ばしたんだ。それは俺だけの力じゃない」

「大介に後押しされたって言うのか」

「俺たちは九対九で戦ってるけど、お前の友達は一対何十人だろう。それを思えば、力が及ばないから恥ずかしいなんて言ってられるか。来てくれたことに報いるようなプレイをするまでだ」

 一塁側の応援席で、大介はじっとマウンド上を見つめている。大差がついた試合開始当初から変わらない眼差しだった。

「良いか、俺はあの打席で、自分が惨めだなんて思わなかったし、今だってまだ少しでも長く試合を続けたいんだ。それにはお前が、これ以上点をやらないことが絶対条件だ。何が何でもゼロに抑えろ。それが報いるってことだろ」

 伊藤はミットで胸を突いた。そしてボールを俊也に託してホームベースの後ろに陣取る。

 今の点差で五回が終わればその時点で終わる。しかし残り二回の攻撃で一点を取れば、少なくとも七回までは続けられる。

 大量点差をつけられた負け試合には変わりない。それは大介にさえわかっているだろう。それでも当事者である伊藤は、まだ続けたいと言った。応援を受けてバットを振ったから、鋭い当たりを飛ばせたのだ。

 自分はどうか。惨めだから、恥ずかしいからと言って、大介が見ている試合を放り出せるのか。

 足を引く。足を上げる。腕を振り上げる。ボールを弾き出す。

 バッターはほとんど姿勢を崩さずにスイングしたが、ボールはミットに収まった。

 空振りの理由がわからないのか、相手はわずかに首を傾げた。

 二球目、三球目と投げる。ゼロで抑える。その目標に向かって腕を振るう。立て続けにストライクを重ねて最後は三振に打ち取った。

「ナイス!」

 伊藤の声は、相手の音楽に負けない。だからこそ心強い。

 二人目、三人目はそれぞれ鋭い当たりを飛ばしたが、上手く内野手がさばいてスリーアウト、初めて三者凡退で表の攻撃を終えることができた。

 裏の攻撃で一番の矢沢が打席に入ると、応援も入れ替わる。トランペット一本の応援は、圧力などない。ボールがミットに収まる音、審判の声、打球音が鮮やかに響く。

 矢沢の放った打球は痛烈だったが、ショートの真正面だった。勢いに押されたショートがよろめくほどの勢いだったが、グラブから落とすことなくワンアウト。二番もアウトを重ねたが、俊也にはこれまでほど相手ピッチャーの速球が脅威に思えなくなっていた。

 三番の打席で俊也は投球を凝視した。腕が上がってからボールを投げるまでの時間を数え、最後に手を叩く。その瞬間、バッターも初球攻撃、痛烈なピッチャー返し、顔を背けながらもボールは掴み、アウトが宣告された。

「タイミング、合ってきてるのか」

 俊也の呟きに、

「次の回で一点が取れる。タイミングを合わせてやりさえすれば」

 伊藤が答えた。

「わかってるな。それもお前が一点もやらずに終わらせてこそなんだ」

 今度は伊藤が先に飛び出していった。一点もやらなければ、それだけ試合続行のチャンスが近づく。危ない当たりもあったが、五回表も俊也は三者凡退に抑えることができた。

 タイミングが合っていると感じたのは錯覚ではなかったのか、先頭打者の山崎が初めてヒットで出塁した。次の栗田の打席では送りバントのサインが出される。六番の俊也の打席ではワンアウト二塁と状況が変わった。

 主軸打者が速球を打ち返したことでベンチの雰囲気が変わった。一矢報いる気概がベンチに生まれて広がろうとしていた。

 俊也が打席に立つと外野手は前進してきた。ただのヒットでは、セカンドランナーの山崎は生還できない。

 一瞬バットを長く持って長打を狙おうかと思ったが、思い直して単打を狙う。自分のバットで山崎を返すのが理想的だが、現実的なのは自分が生きて山崎が三塁まで進むことだ。ワンアウト三塁の状況を作れば、七番の田島、八番の伊藤に望みをつなげる。ヒットだけでなくスクイズで一点を奪う可能性も生まれる。

 それでも試合に勝てないだろう。しかし少なくとも七回まで続けることはできる。

 二年前の夏も、五回コールドゲームになりそうだったところを、先輩たちは七回まで続ける粘りを見せた。同じことをするのだ。

 プレイ再開、俊也はバットを短く持ってピッチャー返しを思い描く。

 それまで聞いたことのない音楽が聞こえてきたのは、マウンド上で相手がセットポジションの構えを取った時だった。

 アップテンポの、ロックバンドのナンバーのような曲だった。一人の演奏では迫力が足りないのは否めないが、気分が高まっていくのを感じるのは、曲自体の魅力だろう。一点につながるチャンスに相応しい雰囲気があった。

 三塁側の応援席を見遣ると、一部の生徒が何事かを囁き合っているのが見えた。声が聞こえたわけではないが、あの曲は何だと声を交わしているように思える。それぞれが興味深げな表情を見せていた。

 交わされているはずの言葉に、俊也は呟き声で応えてやった。

「ジ・オンリー・エールっていうんだ」

 あの場にスマホが持ち込めるなら、何事かの言葉を打ち込んで調べているのだろうが、出てくるはずはない。打席に立つ自分を後押しするために初めて奏でられたこの音楽が完成した瞬間を知っているのは、自分と大介だけなのだから。


 三年生に上がった時に不安だったのは自分の進路より野球部のことだった。新しいクラスでも進路のことを今まで以上によく考えるようにと担任から言われた時も、部員をどうやって勧誘しようかと思いを巡らせていた。黙っていても部員はやってこない。現在の野球部員は九人しかいないため、勝ち進んでいけばどこかでひずみが表れるだろう。今年からは単独で出場しなくてはならないのだ。

 去年の夏の大会が終わった後、青浜高校の野球部と話し合いが持たれることになった。それまで続けてきた合同チームを解消し、次の大会からはそれぞれ単独で出場してはどうかと提案があった。秋の大会を不参加にせざるを得ないほど議論は紛糾したが、年明けになってそれぞれ独自に出場するという結論に達した。下手をすると部員不足で大会に出られなくなるかもしれないが、互いに歩調を合わせるより練習時間を確保しやすいという理由で決まった。

 青浜高校と決別すると決まると、春の新入生をどれほど勧誘できるかが関心事になった。野球の経験がなくても良いという姿勢で、部員総出で新入生を勧誘する。その甲斐あってか五人を入れることができた。野球経験者は二人だが、知らないことは教えれば良い。

 春の大会も出場を辞退して練習に専念し、夏の大会に照準を合わせる。その間に持ち上がった問題もあった。

「応援をどうしたら良いのかわからないんだ」

 練習の帰り道に立ち食いそば屋で出会った大介に打ち明けると、彼は納得したような顔をした。

「今までそのあたりのことは青浜に任せきりだったからな」

「応援団まで集める余力はなくて」

 自分で言うのも情けない気がしたが、知り合いに楽器ができる者はいない。夏の大会が始まるまでの三ヶ月程度で人を集めるだけでも難しいだろう。

「確かに人は集められないだろうけど、演奏だけだったら俺がやるから問題ない」

 事も無げに言った大介を俊也は振り向いたが、彼が以前一人でも応援をしてやると言ったことを思い出す。その場の雰囲気から出た言葉かと思っていたが、大介ならばそれでも不思議はない。スタンドで一人、トランペットを吹いていても違和感はない気がした。そして本人も、一人の応援を気にしないだろう。

「多分相手は応援団が来るだろうけど」

 そのことで引け目を感じないかどうか、それだけが心配だった。

「それはそうだろう。うちがおかしいんだ。でもせっかく単独のチームで出発するなら、応援も自前でやらないと意味がない。来年以降、何かが変わるかもしれない」

 大介が喋っている間に互いの頼んだものが届けられた。同時に割り箸を割って食べ始める。遊びの話が弾むような相手ではない。立ち食いそば屋で出会えた時、あるいは待っていてくれた時に安心する。

「前にも言っただろう。一人でも応援してやるって。あれは嘘じゃなかった」

 大介の言葉に気負いは感じない。勝つにせよ負けるにせよ、来てくれた人への礼を尽くすために全力で戦わなければならないと思った。

 店を出てからすぐに改札へ向かう。帰る方向が反対の二人は階段前でそれぞれの方向へ足を向ける。

「今のうちに訊いておきたいんだけど」

 ふと思いついて俊也は声をかけた。

「どうしてここまでしてくれるわけ?」

 青浜高校の応援団に交じって応援をする理由はわかる。大介は音楽が好きで、それで誰かの後押しをするのが好きなのだ。

「俺のやる音楽が力になっているとはっきりわかるからだ。一番やりがいを感じる。前にも言わなかったか」

「それはわかるけど、一人になってまでやるのはどうしてかと思って。普通はやらないと思う」

「俺は普通じゃなかったのか」

 大介は苦笑した。つられて俊也も笑う。

「状況が変わったから何もしなくなるんじゃ、申し訳ないじゃないか」

「でも一人じゃないか。相手は何十人もいるのに」

「俺は応援団と戦うわけじゃないよ。自分の音楽をするだけだ。そんなに心配要らない」

 大介は飄々としたもので、一人でスタンドに立つことも辞さない様子だった。

 翌日学校に楽器を持ってきた大介は、俊也を練習に使っているという空き教室へ誘った。そこで楽譜を広げ、曲の感想を求めてきた。

「俺に音楽はわからないけど」

 そう言って尻込みすると、

「これを聞いて、一点を取ろうって気持ちになれるかどうかを知りたいんだ」

 俊也の答えを聞かずに大介はトランペットのマウスピースに口をつけた。伸びやかな音は幅の広い音階となって躍動する。一瞬一人で吹いていることを忘れるほどの激しさが響いた。

「どうだ」

 大介は微かに息を切らしていた。

「すごいよ」

 それ以外の感想が出てこなかったが、大介は不満そうに顔をしかめた。

「それで、試合で助けになるのか」

 ランナーが二塁にいることを思った。相手は前進守備を敷いてきて、相手バッテリーも低めにボールを集めるだろう。長打を打つことを封じられた状況下で、それでも相手の野手陣を抜くような打球を放つ気分になれるのか。そんな力を自分自身に信じられるか。

「なるさ」

 飛び抜けた打力を感じたことはない。それも、間髪入れず背中を押し続けるような力強い音があれば勘違いから生まれてきそうな気がする。そしてそれを吹いているのが、ずっと応援に通ってくれた少年だと知っていれば、その勘違いは本物になりそうだった。

「これはチャンステーマなんだ。チャンスにならないと吹かない。一度ぐらいは吹かせてくれ。そうでないとせっかく作った甲斐もないからな」

 音楽を奏でる時の真剣さを説いた大介は、安らいだ表情で再びトランペットを吹き始めた。すぐ近くに、背を押すことに腐心する人がいることが何より心強いことに気づく。それは数の問題ではないのだ。


 あの曲を聴くのは、この瞬間が最初で最後になるかもしれない。五回裏で一点を取って試合が続行されたとして、四回まで完璧に抑えた相手投手を何度も攻め立てることができるとは思えない。

 春に聞いたのと同じ、力強い音が打席へ届く。体が安らいでいたあの時と違い、得点のチャンスに緊張している。ともすればボールを見ることも怖くなりそうだったが、力強い音は何度も背中を押してくる。

 緊張感は気分の悪さを引き起こす。何でもないボールに手を出して内野ゴロでも打てば試合は終わって解放される。十対ゼロという、手も足も出なかったことを示すスコアに、五回コールド負けというおまけ付きの記録がつく。そして大介の応援に報いることができなかった情けなさも残るだろう。

 負けは避けられなくても、抵抗の跡ぐらいは残しておきたい。そのためには一点が必要なのだ。俊也はバットを短く握って相手の速球を迎え撃つ。

 伊藤から速球のタイミングの取り方は教わった。それに従って打ちたいところだが、相手もこちらの作戦を察したのか、なかなか速球を投げてこない。それまでに比べるとかなり遅い変化球を多投する。速球より軌道は見やすいが、下手にバットを振ると内野ゴロになってしまいそうでうかつな動きはできない。

 俊也が動きを見せないでいるとフルカウントになった。自分がマウンドに立っていれば、六番打者を歩かせることも一案と考えただろう。打力の落ちる七番打者でダブルプレイを狙う方が確実だ。実際七番の田島は、前の打席でセカンドゴロを打っている。似た配球をすれば狙い通りにできる可能性は高い。

 しかし仕留めようと思えば、自信のある球種を選ぶはずだ。

 相手の狙いを読み取ろうとするうち、ピッチャーが動き出した。その動き、視線の先、俊也は直感する。歩かせるつもりはないと。

 ボールが放たれる。この打席で何度も投げてきた変化球ではない。力の差の象徴のように投げ込まれてきた速球だ。

 同じ考えに至っていたことに内心でほくそ笑みながら、俊也はバットを引き、思い切り振った。それまでの高校生活で聞いたこともないほど清々しい音が響く。鋭い打球が左中間を襲い、

「ランナー!」

 俊也は叫んでいた。相手のキャッチャーと声が重なる。

 セカンドランナーの山崎は、塁から何歩か離れたところから急反転する。左中間へ抜けたと思ったボールが、ショートからセカンドへトスされる。

 頭から突っ込んで手を伸ばす山崎、塁審が宣告を下す一瞬の間、大介の音楽だけが聞こえた。

「アウト!」

 そして高らかな声で宣告が下る。緊張から一転、ため息が球場に満ちる。勝利目前の危うい場面を切り抜けた安堵の気持ちがほとんどであったが、わずかに試合を打ち切られたことへの哀れみも含まれて聞こえた。

 その雰囲気に包まれたように、俊也は肩を落とした。会心の当たりが、ショートのファインプレーでアウトになったとは信じたくない。それでもライナーが捕られたのは目で見た通りで、セカンドランナーへの宣告も事実だ。だから認めるしかない。十対ゼロ、五回コールド負けという事実を受け止めるしかないのだ。

 試合が終わったらホームベースを挟んで挨拶を交わすことになっている。道具を置いてその規定に従おうとしたが、審判がその指示を出さないため、両チームは動けない。

 敗戦の事実を少し受け止められるようになると、その理由に気づく。一塁側の応援席から聞こえる音楽が終わらないのだ。

 既に試合は終わっていた。応援するチームも敗れ、応援の意味を失っている。しかし曲は終わっていない。三塁側の応援席では戸惑いがちの表情も見て取れる。

 試合中、大介に向かってボールを投げ返さないよう注意した球審も、大介に何も言わない。彼は察しているのかもしれない。応援のために作られた音楽にも始まりと終わりがあって、その終わりに向かっていることを。

 試合中なら始まりへ戻るところで、大介の演奏は止まった。マウスピースから口を離すと、球審が選手をホームベース付近へ集める。挨拶を交わした後に応援席の大介を見遣る。楽器をしまい込んだ彼は、引き上げていく相手の応援団や選手たちを見ていた。

 全員がベンチの裏へ引き上げた後も大介はいる。俊也は立ち去る足の向きを変えて外へ出て、応援席を見上げた。

 そして頭を下げた。顔を上げると、大介が小さく頷くのが見えた。

 笑顔を見せたわけではない。応援席で一人見届けた少年の前で、恥ずかしくないプレーができたと本心から思えるわけでもない。それでも何かをやりとげた気分になれたのは、最後まで大介が真剣な眼差しで見ていたからだ。

 俊也はベンチの裏へ引き上げる。その瞬間、頭上で人が立ち上がる気配がした。


 一人で駅に着くと、その入り口には大介が佇んでいた。軽く挨拶を交わして、構内の立ち食いそば屋へ向かう。注文の後は口を開かずにいて、それぞれにうどんが届いても無言だった。

「負けたな」

 不意に大介が口を開いた。事実を静かに告げるような声だった。

「ああ。終わったんだ」

 俊也も応じる。野球をやっていて一番避けたかった結果を自分の口で紡いだのだが、不思議と心は波立たない。

「情けない試合になって悪かった」

「それでも、良い試合だった」

「そうか、そう見えたんだな」

 大介が気遣いを見せたのかどうか、全てが終わった後はどうでも良くなった。五回コールド負けという結果は動かせないが、一番近くで見ていた人が良い試合だったと言えば、一つ報われたような気になった。

「四回と五回は完璧だった。それまで打たれ続けたのに、急に良くなった。あの二回だけは、きっと相手より強かった」

「俺もあの時だけ、良かったと思うんだ」

 自分が磨いてきた技術が通じていた。あの二回だけだったとはいえ、今までの成果が通用したのは今でも覚えている嬉しさだった。

「あとは、あの打球が抜けていたら良かったな。あれは惜しかったと思う」

「完璧に捉えたつもりだったよ」

「でも相手が上手かった」

「そう思えば諦めもつくよ」

 互いの注文が運ばれてきた。それぞれ割り箸を割って麺を口に運ぶ。体はまだまだ熱かったが、空腹を癒していく快感が優った。

「青浜の結果を見たか」

 大介がスマホを操作しながら訊いた。

「ああ、同じ時間だったっけ。どうなった」

 大介に画面を見せられ、俊也は軽く息をついた。

「残念かな」

 青浜は九回まで試合を進め、二回戦に進んでいた。今年も合同チームを続けていたら、次は二回戦へと目標を切り替えられていたかもしれない。

「残念だよ。やっぱり勝ちたかった」

 良い試合と褒められたり、情けなくはなかったと慰められたりして、悪い気持ちはしない。それでも本当は勝ちたかった。勝ちたかったからこそ練習を重ねてきた。ただの温かな拍手で敗者の席へ送り出されるより、勝利という結果を携えて先へ進んだ方が断然良いはずだ。

「でも、良い試合だった。俺は覚えてる」

 大介の声は力強い。一人の応援席から響いた音と同じく、強い存在感がある。

 その声の、音の持ち主が覚えていると言う。負けた記憶の情けなさを超えることができる気がした。

 これ以上無い負け方だった最後の夏を、俊也もまた覚えておきたいと思った。近くで見続けてくれた人と共に記憶を持っていれば、時にまばゆい光を放つだろう。そう思えば、さっきまで重かった肩もわずかながら軽くなるようだった。

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