第3話
四月になるとクラス替えがあり、それまで知らなかった顔や名前を見ることになる。伊藤や矢沢、山崎のような野球部員たちと同じクラスになればと密かに思った俊也であったが望みは叶わず、関係を一から作ることになった。
最初の席順は出席番号に準じており、男女で別々に固められている。大きな番号であれば右側に女子が座ることもあるが、出席番号八番の俊也の席は前後左右が男子だ。それも見覚えのない顔ばかりで、授業の合間などはどう過ごせば良いか戸惑うばかりであった。
それは最初のうちで、徐々にクラスメイトと打ち解けていくと居心地の悪さもなくなっていった。新しいクラスになって二週間ほどは野球部へ行く時間が待ち遠しかったものだが、時にはクラスで過ごしていたいと思うことも増えていくほどであった。
それでも野球は疎かにできない。練習が始まるまでの短い時間をクラスで過ごしてからクラスを出ようとすると、
「この学校じゃ珍しいよな。そんなに部活に一生懸命なんて」
嫌みのない声であり、その生徒は引き留めることもなく送り出してくれた。それでも走り込みをしている間は、どうしてかクラスを出る直前の声が耳に残っていた。
新しいクラスになってから一ヶ月も経つ頃には、クラスメイトの事情もわかってくる。部活動をしている生徒は少数派で、運動部となると更に少ない。他にはサッカー部の部員がいたが、あまり話すきっかけは作れていない。
「スポーツの関心が薄いんだよな」
練習の合間に伊藤が漏らした言葉は、俊也がクラスに感じた気持ちでもあった。
「まあ、そういう環境なんだからしょうがないんだけど、何だか物足りなくてさ」
伊藤が言葉を継ぐ。俊也は再び頷いた。
「関心がないものを無理に引き込んだってしょうがない。そもそもが単独じゃ試合もできないんだから、関心がないのもしょうがないかもしれないけど」
言いながら俊也は情けない気分になった。それは、独力では何もできないと認めるようなものであった。
九人しかいないとして、控えもいないチームでは一つ勝つのがやっとだろう。今年の南原高校野球部には三人が入部したから全体で一一人になった。試合はできる。しかし何試合もこなすことはできない。だから同じ事情を抱えたチームと手を取り合うのだ。
「せめて応援してくれる部活ぐらいあれば良いのに」
「吹奏楽部だけでもあれば良いよな」
「去年はできなかったけど、青浜の応援を受けて試合をするのはちょっと楽しみだよ」
伊藤の笑みに俊也も応える。ベンチから応援をするだけであった去年の試合だが、何らかの形で試合に出てみたいという思いは最後まで消えなかった。
試合を優位に進める働きを期待されながらプレイがしてみたい。自分の力を発揮したいという思いよりも強い望みであった。
「それを受けたかったら、練習しないとな」
ちょうど休憩を始めて十五分が経つ頃であった。伊藤が立ち、俊也も続いた。
一ヶ月ほど経つとクラス内で何となく人間関係ができてくる。俊也は数人話をする相手を作れたが、そうでない者もいる。一つ前の席に座る小端大介がそうであった。
孤立がちの相手に話しかけるきっかけも掴めなかったが、本人は気にした風もない。それだけでも異質に思えて距離を感じてしまうが、一人でいる間いつも開いているのはノートのようなものであった。
気を紛らわすために勉強でもしているのかとのぞき込んでみたことがある。そこには五本の線がいくつも重なったページ、その上に鉛筆でいくつもの音符、約十分で一段を埋めているようであった。
それができていく過程を、休み時間のたびに観察していく。一日をかけて書き上がった様子であったが、楽譜をほとんど読めない俊也には曲の感じすら掴めない。
ふと、楽譜の書き手が振り仰いできた。
彼の眼差しは静かで、教室の喧噪が一瞬遠くなった。
教室にいながらにして、心だけを遠くに飛ばしているような、虚ろささえ感じた。
気味が悪くなるほどで、
「悪い」
とりあえず謝って自分の席に戻った。程なくして授業が始まった。小端大介はその後振り返ることはなかった。そして放課後、真っ先に出て行ってしまった。その時始めて、彼が教室の後ろに、黒い箱のようなものを置いていたことに気がついた。
いつもの通りの練習を終えて、いつものように着替えを終える。後は家路に就くだけであったが、ロッカールームから校舎を通って帰ろうとする時に音を聞いた。
立ち止まって音を追いかける。冬に聞いた音と重なっていく。音色も同じだった。
どこかにあの音の主がいる。そうとわかると薄暗い階段を上っていて、音の出所を目指していた。
短い音楽が繰り返されている。トランペットが一本だけの微かな音楽は、歩くごとに確かになっていく。
音の主を知ってどうする。伊藤はそう訊いたが、確かめたいと思う。去年の夏に青浜高校の応援団に一人だけ交じっていなかったか、と。
音が聞こえてくる教室の前に立つ。相手に気づかれないよう慎重に戸を開ける。硝子越しに見えていた夕日影が、直に見るといっそう鮮やかになる。その光の中には一瞬人影が見えたが、薄暗いながら顔かたちが見えてくる。
トランペットを吹くその相手は、曲が終わるたびに楽譜をめくるために演奏を止める。それに呼吸を合わせていると自分の方まで緊張を強いられてしまう。曲を聞いている間は息を詰め、幕間の短い時間では緩んだ息をつく。
それが聞こえたのか、相手は楽譜にばかり向けていた目線を上げた。
目が合う。それで顔かたちははっきり見えた。五線紙といつも向き合っていた小端大介に間違いない。
相手は光の届かない場所に潜む自分を見定めるような目で動かない。何かを言ってごまかしてはいけないような気がして、俊也も動かないでいる。
ややあって、相手の方から動いた。楽器を箱にしまって立ち上がり、歩み寄る。教室では気づかなかったが、彼の背は低い。一七〇センチもないかもしれない。それでも貧弱には見えない。目つきが鋭いせいだろう。夕日影を背にしたせいか、ほの暗い眼差しにさえ見えた。
「うるさかったのか」
彼はそう訊いた。目つきの険しさに似つかわしくない、柔らかな声であった。
「いや、でも気になったんだ。別にうるさかったわけじゃないけど」
「そう。でも今日はここで吹くしかなかったんだ」
深く訊く前に彼は立ち去っていった。冬の夕方にもここで吹いていたのか。去年の夏の応援席にもいたのか。訊きたいことは、背中が消えた途端に吹き出してくる。
訊けば良いのだ。同じクラスにいるのだから、いつでも話せる。
思いを胸に秘めて俊也は駅に向かう。改札に向かう階段の途中には立ち食いそば屋があって、何気なくのぞき込んだ俊也は、食べる気もないのに足を止める。のれんの向こうに灰色のスラックスと白いシャツ、それほど高くない背丈。鋭さがある横顔。さっき別れたばかりのクラスメイトがいる。
訊きたいことが胸に熱を持つ。店の中へ足を踏み入れた時、小端大介が目を向けて、切れ長の目を少し大きく開いた。
「何か用?」
相席を許しながら、大介が訊いた。怪訝さを含む声ではあったが、嫌がっている様子はない。
「訊きたいことがあって」
口にしてからもっと上手い切り出し方があったのではないかと思ってしまう。何となく自分のピッチングに似ていると思った。変化球に自信がないから、いきなりストライクを取るような力押しばかりをしてしまう。そんな不器用さが通ることもあるが、通らないことの方が多い。何にしてもそうであった。
それでも大介は、意外にも笑みを見せてくれた。
「それでこんなうどん屋に追いかけてきたのか」
「いや、それは偶然なんだけど」
「まあ、何だっていいけど」
短い遣り取りの後に俊也が頼んだきつねうどんが届けられた。大介が食べ終わるのとほぼ同じで、彼は外で待っていると言い残して立ち去った。
食べている間何度か振り向くと確かに彼の足が見えた。初めて言葉を交わした相手と、もう話すことを思いついたらしい。教室で見ると人を寄せ付けないように見えたが、本来は人とのふれあいを好むのだろう。思えば教室での姿しか知らず、学校が終わった後のことを知らない。あのトランペットを手がかりに、もっと広い世界と関わっているのかもしれない。
興味をかきたてられるまま、俊也は箸を進めた。食べ終えて外に出ると、大介は立ち尽くしていた。スマホも出していないためか背筋は伸びて凜とした印象さえある。
「悪い、待たせた」
何気なく言うと、
「良いさ。今日は帰るだけなんだ」
大介は言って歩き出した。
「それで、何か用なのか」
改札の前で立ち止まって彼は訊いた。
明るさの下で見ると、彼の目は決して虚ろなどではない。いつも後頭部や背中ばかりを目にしていて、正面から顔を合わせることはなかったが、目を逸らすこともない。クラスメイトとも、野球部の仲間とも何かが違うような気がした。
「何であの教室にいたのかと思って」
俊也が訊くと、一緒に吹く相手が今日はいないからだ、と事も無げに大介は答えた。
「いつもだったら知り合いと公民館で吹いてるんだけど、今日は都合がつかなかったんだ。一日でも練習を欠かすと下手になるし、家で吹くわけにもいかないから、教室で吹いてた。うるさかったら悪いけど」
「別に俺は気にしないよ。それより、冬にも吹いてたか」
「まあ、公民館が使えない時もあったから、そういう時は一人だった」
「夏も?」
大介は口ごもった。記憶をたぐるように目を逸らし、
「夏は教室では吹いてなかったと思う。明るいと気になるから」
「いや、野球場の応援席だ。違ってたら悪いけど、去年の夏青浜に交じってなかったか」
去年見たのは、一日たりとも楽器の演奏を欠かさない大介だったのだと確信があった。
果たして大介は頷いた。
「気づいていたのか」
「一人だけ服が違ってたから、もしかしたらって思ってさ。ずっと忘れてたし、顔も見なかったけど。よく一人でいられたな」
「楽器が吹けるんならどこだって良いんだ。去年は試合に出てたのか」
「ベンチ入りだけだよ。合同チームでも、下手はレギュラーになれない」
「下手なのか?」
大介の声が高くなった。謙遜のつもりで言ったことを真に受けながら、それを信じられないと言うようであった。
「あの頃に比べたら、今はましなはずだけど」
「なら、今年は出られるのか」
俊也は口ごもり、
「わからない」
そう応じた。去年と違い、今年はピッチャーとしての登録になるだろう。けが人の発生や采配上の問題が生じれば外野を守るかもしれないが、マウンドに立つこと以外に出場のチャンスはないと思っている。
そして二年生の自分は三番手だ。三年生の青浜高校の選手が背番号1を背負い、三年生ピッチャーがもう一人いる。最後の夏を迎える二人の陰で、来年も投げられる二年生ピッチャーの出番は少なくなる。
「出るなら、ちょっと楽しみだな。同じクラスの知り合いを応援するなんて、今までなかったことなんだ」
大介の笑みは思いの外人懐こいものに見えた。他人に腕を見せたいという野心より、知り合いの背を押してやりたいという純な思いを感じる。マウンドに立った時、抱いていたくなるような温もりであった。
「出るならマウンド上だよ。俺はピッチャーだからな」
「そう。夏に出られると良いな」
大介は笑みを残して改札の向こうへ消えた。去年の夏、南原高校で唯一応援してくれた少年なら、その言葉も信じられた。
二年生になって初めての試合は練習試合だった。夏の大会が始まるまで一ヶ月とあって。南原、青浜のチームから主に三年生が集まった編制である。スタメンは全員三年生だが、控えには二年生もいる。三人目のピッチャーとして俊也も参加した。
対戦相手のグラウンドを借りて行われた試合は六回まで二点差の接戦となった。序盤で記録されたスコアのまま動かないで七回に入る。俊也は脳裏に敗北がよぎるのを感じたが、七回表に一点が入ったのを見てまだわからないと思った。
俊也の出番は八回裏にやってきた。三年生のピッチャーが二人登板した後の出場である。一点差で負けているが、最後の攻撃は、この試合で三安打を打っている一番から始まる。無失点で終われば、まだ勝ち目があるのだ。
「川中。一点もやるな。そうでないと勝てない」
南原高校の監督は、険しい表情で送り出した。練習試合だから負けても経験が残る。しかし負けの経験より勝ちの経験の方が輝かしいのは間違いない。監督が言うように、その可能性を残すのは一点もやらずに八回裏を終えた時だけだろう。
マウンド上で出迎えたのは三年生たちだ。南原、青浜両方の高校から出てきている。
彼らは助言をそれぞれ言い、それを受け入れていく。青浜高校の選手たちは馴染みのない顔ばかりだったが、野球という一点でつながっているだけで物怖じしない。
「巣立っていった時のために、頼むぞ」
俊也には一瞬、どんな脈絡で出た言葉かわからなかった。それでもバッテリーを組む南原高校の三年生は違ったらしい。表情が変わった。
どうしてか曇らせたように見えたが、彼はすぐに決然としたものに変え、一点もやらないぞ、と気勢を上げた。
声で応じた内野手たちがそれぞれの守備位置に散っていく。マウンド上に残された俊也は最初の打者を打ち取ったが、二人目を歩かせ、送りバントを試みた三人目をアウトにする。ツーアウト二塁。相手は八番打者だったが、代打が送られた。
キャッチャーの指示に応じて、三人の外野手が守備位置を前にした。たとえヒットを打たれても簡単にホームインはさせない体勢だ。
加えてサインは低めへの直球、長打の危険が少ない。
初球はボールになったが、続く二球でストライクを取った。あと一球を投げて終わりにしたい。ここを抑えて、表の攻撃で逆転すれば、もう一回を投げるのだ。
そんな気持ちの中で出されたサインは、ボールになる変化球だった。焦りを見透かされ、諫められたような気分になった。
素直に頷いた俊也はサインの通りにボールを握り、キャッチャーが構えた場所を狙って腕を振る。ボールが手から離れる直前、巣立ちという言葉が思い出された。
公式戦の、敗北が迫っている瞬間ならともかく、練習試合のビハインドには相応しくない言葉だろう。
一瞬の思いが俊也の指の向きを変える。それが曲がるはずのボールをまっすぐ押し出す。
相手バッターの膝元に構えていたキャッチャーミットが、慌てたように舞い上がる。
それをバッターは見逃さない。澄みきった音と共にボールは遠くへ飛んでいく。本来の守備位置なら何とか捕れたかもしれないが、今回に限っては前の方に守備位置を変えていた。
センターが追いかけるが、到底追いつけない。俊也はキャッチャーの後ろに回る。フェンス沿いからボールが投げ返された時に二塁ランナーがホームインし、バッターは二塁に達した。
次のバッターにも代打が出される。その相手は抑えたものの、九回表の攻撃では一点を返したところでチームは力尽きた。傍から見れば最後まで諦めない粘りを見せたことになるのだろうが、三者凡退で終わっていれば自分の失点が目立たなかったという思いが否定できないところに自己嫌悪を覚えるのだった。
バッテリーを組んだ先輩からは、最後の一球について叱られた。あれがなければまだわからなかったのに、可能性を台無しにしてしまったと容赦の無い言葉が浴びせられる。先輩を恨む気持ちは起きず、
「公式戦では失敗しないようにします」
素直な返事をした。集中力が切れたのか、気持ちが逸れて不用意な投球になったという自覚はある。無関係のことを思い出さなければ良かったのだ。負けるより勝つ方が良い。自分のミスで負けたような試合だけに、簡単に忘れられない。
南原高校に戻って解散した時は五時を回っていた。日増しに夕暮れの時間が延びていて、昼間の暑さが身に堪える日も増えている。六月の割に気温が高い上、前日の雨で蒸し暑くなっていた。駅までの長い道のりが少し辛いほどだ。
駅に着くと俊也は立ち食いそば屋に寄った。空腹と喉の渇きが我慢できない。一瞬手持ちの現金が少ないことが脳裏をよぎったが、欲望にたやすく負けてのれんをくぐった。
それとほぼ入れ違いに小柄な相手が出ていく。俊也は思わず足を止めた。相手も同じにした。
「何してるんだ、今日日曜なのに」
出ていこうとした大介に素っ頓狂な声をかけると、
「練習があったんだ」
事情を察するにはわかりにくい答えが返ってきた。
「そこで待ってる」
彼は俊也の返事を聞く前に出ていった。教室ではあまり話をしない相手が、自分から関わりを持とうとしているのが意外である。それでも悪い気持ちはしない。今日の失敗について、誰でも良いから話したいところだった。まして彼なら理解してくれるだろう。一人だけ野球部の応援に来てくれる大介なら、クラスメイトの誰よりも親身になってくれそうだった。
うどんが五分もしないうちに運ばれて、それを十分足らずで平らげる。汁も残さない。水と一緒に飲み干した。
改札に向かうと果たして大介が待っていた。壁に体を預けて人の流れを眺めていた。
「本当に待ってたんだな。何か用なのか」
大介はおもむろに体を浮かせて向き直る。
「試合に出たのかと思って」
「知ってたのか」
「日曜日だし、道具持ってるし。日曜日にやることと言ったら練習試合だろう」
少し偏りがあるような気はしたが、練習試合の多くは日曜日に組まれるから間違いではない。俊也は試合に敗れたことと、自分の失投が勝ちを遠ざけてしまったことを話した。
「そっちこそ、何をしてたんだ。今日は日曜だぞ」
話をすると気持ちが軽くなって、言葉も滑らかに出てくる。練習だ、と大介は言った。
「公民館が使えた日なんだ」
毎週日曜日は、市民楽団の練習日なのだという。
「吹奏楽部がないせいか」
「そう。でも悪くない」
大介は笑みを浮かべた。高校の中に部活があっても、大介は外に居場所を求める気がした。
「そうまでして楽器が吹きたいのか」
「そうだよ。お前だって野球部がなかったら同じようなことをするんじゃないか」
大介が強気な態度に出たことに戸惑いながら、俊也は頷いた。南原高校に野球部はあるが、部活動自体が他の学校に比べて活発ではない。だから吹奏楽部もなく、野球部の応援も単独ではままならないのだろう。
「うちの学校は部活への理解がなさすぎる。だから俺は、外に行かなきゃいけない」
大介の声は大きく響いた。それだけに彼の抱える不満が感じ取れる。
「せめて応援団ぐらい作れるようにしてくれないと、試合だってやりがいがないじゃないか」
「その通りなんだ。今は青浜高校がほとんどやってくれてるけど」
「不満そうだけど」
「まあ、何だか自分の力でやってない気がするから」
部員不足という事情があるからやむを得ないと言えばそれまでだ。しかし現状では試合ができないほど少ないわけではない。自分たちの力だけでグラウンドに立って試合をすれば、たとえ負けても悔いは少なくなりそうだった。
「南原高校だけで出てみたいのか」
俊也の胸に浮かんだ思いを、大介がすくい上げた。頷くか、首を振るか迷って、首を振った。
「それも悪くないかもしれないけど、試合にならないかもしれない。去年は合同で出て、コールド負けだったんだ」
「だからって、弱いことにはならない」
その声は混じりけのない強さを持って響いた。
「あれは相手が強かったんだ。お前たちが弱かったわけじゃない」
深く訊く気持ちも失せるほど、大介の声には確信が満ちていた。
「スタンドで見ていて、それだけでわかるのか」
「わかるよ。実際、五回で終わりそうだったのに粘って結局七回まで続いたじゃないか。弱いだけのチームは五回で終わってるよ」
去年の夏は、ベンチから声を上げるだけだった。その試合は五回までで大差がついてコールドゲームの危機であった。そこから粘って試合が続くぎりぎりの点差を維持したが、七回で力尽きてしまったのだ。皆が五回終了を屈辱的なことと捉えていて、そうならないように必死だった。それは完全な形では報われなかったものの、少しだけましな形になってくれた。
「あれは決して情けない試合じゃなかったよ。俺も五回で終わりそうなところ、七回までトランペットが吹けたのは嬉しかった」
自分が出ていない試合である。それでも褒められている気がした。
「今年は俺もベンチ入りするよ」
「応援に行くから。ああいう演奏は、やりがいがわかりやすいんだ」
そう言って大介は手を差し出してきた。それが握手交換を求めているのだと、俊也は一瞬思い至らなかった。
遅れて握り返した手は、小ささに似合わない力強さがあった。
夏の大会でも二校が一緒に出場し、俊也は背番号10をもらってベンチに入った。
去年とは違って一回戦の八回、九回を投げる機会を得た。打席には立たなかったので応援を受けることはなかったものの、無失点で切り抜けてマウンド上で勝利の瞬間を迎えることができた。試合後去年と同じように応援団に頭を下げたが、意味合いが全く違う礼になったのは快かった。
去年と同じだったのは、大介が応援団に交じっていたことだ。南原高校の関係者はやはり彼一人のようだったが、知り合いが一人いるというだけで充分であった。
解散の後駅へ向かう間予感が強くなっていった。その予感は立ち食いそば屋の前で的中する。気軽な挨拶に応じる素振りも、お互いに堅さがなくなっていた。
「良い試合だったな」
大介と一緒に店へ入り、同じように注文する。俊也がきつねうどん、大介がたぬきそばだった。
「八回で五点差だったからな。それほどプレッシャーはなかったよ」
「逆転されたらどうしようとか思わなかったのか」
「その辺はほら、自分を信じてるから」
試合後のヒーローインタビューを受けているような気分で強気なことを言ってみたが、実際は五点のリードがあっても安心はできなかった。ピッチャーはもう一人控えていたが、リリーフしてもらったところで奪われた点がなくなるわけではない。自分のせいで負けたと思われないために必死で投げていたというのが本音であった。
「勝って良かったよ。応援のしがいがあったから」
大介は満ち足りた様子だった。去年の七回コールド負けを見届けただけに、喜びもひとしおなのだろう。
「負けるより勝った方が断然良いもんな」
「そういうことだよ。勝ってもらうために応援したんだから」
大介は言いながらそばをすする。教室ではあまり人間味を感じない表情の彼も、食べ物を前にすると和らいだ顔を見せるのは発見だった。
「次は一週間後か」
「山の方で遠いけど。それに次は平日だぞ」
「行くさ。一日ぐらいサボったって。俺にとっては応援の方が大事なんだ」
言い切った大介がとても頼もしく見える。野球部の応援を公欠にしてくれない学校の無理解が腹立たしいが、それにもめげない大介のために、次も勝ってやりたいと思った。
一週間後の試合は終盤まで同点で続いた。青浜の主戦投手の後を受けた二番手投手が二死二塁のピンチを招いたところで俊也が登板する。九回裏、一点を取られた時点で終わる。次の攻撃は全打席で出塁している一番の矢沢から始まるが、無失点で切り抜けることを期待されていることに変わりはない。
マウンドに立った俊也は、三塁側の応援席に大介を探した。宣言通り平日にもかかわらず彼はいる。相手の攻撃だからトランペットは吹いていないが、打たれるなと眼差しで訴えかけている。
サインを読み取る間にも汗が吹きだしてくる。延長戦は十五回までだから、両チームに点が入らないまま試合が進めば最長で六イニングスを投げることになる。辛い試合になると思って気を入れ直したが、幕切れはあっけないものだった。
ワンボールからの二球目が、快音と共に弾き返される。打球は右中間へ飛んでいった。
ボールが内野手に返ってきたところでランナーがホームイン、試合は終わった。
応援団に頭を下げ、試合後のミーティングでも重苦しい雰囲気を味わった後の帰路は足取りが重い。それでも駅には大介が待っていた。
「食べていくか」
大介は伺いを立てるように訊いた。俊也は頷いて券売機に代金を入れた。
「良い試合だったな」
一週間前と同じものを注文した二人の間に生まれた会話の糸口もまた、変わりがなかった。
「俺、二球しか投げてないぞ」
「それでも良い試合だった」
「ストライクを投げられなかった」
「良いボールを投げていた」
大介の声は硬い。気遣いは感じないが、下手に慰められるよりましだと思った。
「もちろん勝った方が良かった。そうだったら、こんなに湿っぽい思いをしなくて済んだ」
声音が変わったわけではないのに、大介の本音だろうと思った。勝つことを強く望みながら応援をしているのだ。記録の上では、自責点はランナーを出した二番手投手につくから敗戦投手にはならない。それでも、平日に学校を抜け出してまで来てくれた大介に申し訳ない思いが残った。
「まあ、負けたものは仕方ないよ。来年だってあるんだろう」
「そのことだけど、わからないんだ」
俊也は声を落とし、大介は上げかけた箸を止めた。
ミーティングでのことだ。南原と青浜の監督同士で話し合いが持たれ、来年は互いに単独チームで出ることが決まったという。それぞれ部員も集まってきたためで、互いに連携しながら練習するより効率的だという結論に達したらしい。
「青浜は良いけど、うちはわからないんだ。ぎりぎりの人数だし、来年一年生が入ってくるとも限らない」
「だけど青浜の方は南原を見限ったのか」
「そんな言い方はするなよ。自分の高校だけで完結した方が効率的なのはお互い様なんだから」
合同チームを組むことは部員不足に悩む南原高校にとってメリットがあるものの、部員が集まった青浜高校にとっては互いの高校を行き来する手間や時間を取られるデメリットが目立つことになる。
「俺たちは反対したけど、青浜がどう答えるかわからない。監督は話し合いを深めると言ってくれたけど」
南原高校の総意としては合同チームの解消に反対であったが、唯一伊藤が賛成した。いつかは独り立ちしなければならない。これは良い機会なのだと。
「そういうことだから、来年はわからない。応援団でも話はなかったのか」
「俺は聞いてなかった」
大介は不機嫌そうに唇を曲げた。
「チームが変わったら、応援もできなくなるかな」
何気ない俊也の声だったが、
「そんなことない」
大介は思いの外強い反応を示した。
「一人でも応援はやるよ。音楽の力がわかりやすく感じられる場なんて他にないからな」
思いがけない言葉は心強いものだった。その言葉に報いるには、何が何でも試合をやらないといけない。最低でも夏の一試合には出ようと決める俊也だった。
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