第2話
その音を聞いたのはブラスバンドの演奏が最も盛り上がる瞬間であった。折り重なった音色に紛れそうな一瞬の音は耳の奥で特別な存在感を放つ。打ち上げられた打球の行方を顧みると、誰もいない芝生席へ伸びていくところであった。
ややあって、フェンスの向こうの芝生席でボールが弾んだのが微かに見えた。
三塁側が歓声に沸き立ち、バックネット裏の拍手がランナーを迎え入れる。ホームランを打った選手が帰ってきたのを見計らい、審判が新しいボールを投げ渡した。
次の打者は拍子抜けするほど簡単に打ち取れたが、相手の得点欄には『4』の数字が並んでいる。満塁ホームラン。打ったバッターはまだ興奮が収まらないような顔で外野へ駆け出していった。
下を向きそうになるのを堪え、俊也は一回裏と同じように全員を集めて円陣を組んだ。あと二点でコールドゲームの危機という点差をつけられて浮き足立つチームを、自責点八のピッチャーの声でどこまでまとめられるか不安もある。
「逆転するぞ!」
俊也は声が震えそうになるのを堪え、一回裏と同じ言葉で気勢を上げた。俊也の葛藤に応えるようにチームメイトたちも威勢の良い返事をしたが、わずかに消沈して聞こえた。
四番の山崎、五番の栗田がそれぞれの場所へバットを持って歩いていく。程なくして二人が凡退し、俊也に打順が回ってきた。
バッターボックスから応援席を見遣ると、相変わらず一人で大介はトランペットを吹いている。何十人も参加し、ちょっとしたオーケストラになっている相手のブラスバンドと比べれば迫力不足は否めない。
大介の眼差しはずっとバッターボックスに注がれていた。どんな結果になっても動揺は見せず、演奏も変化しない。
今年も合同チームで出ていれば、少なくとも応援だけは引けを取らないものになっていたはずだ。青浜高校には吹奏楽部があって、二年生の時はその応援を背にバットを振っていた。その吹奏楽部は今頃、別の球場で一回戦の応援をしているはずだ。青浜高校も自分の学校の生徒だけでチームを組み、試合に臨んでいる。
応援席からの演奏と、ベンチからの声援。去年に比べたらずっと少なくなった応援だ。正直な感想として、貧弱な印象さえ覚えてしまう。
それは青浜高校が去ったチームも同じだ。手も足も出ない。良いようにやられている。だからこそ二回表までに八点差をつけられてしまった。
練習試合で初登板した時の、不愉快な気持ちがわき上がってくる。それは真正面だけではない。両側から、遙か遠くから、背後から、心を絡め取るような粘っこさを伴う。
相手が投げる。外角低めへの速球、しかし打つ必要のないボール球だ。
見逃せばわずかに自分が有利になる。しかしこのボールは力を抜いている。
ホームベース上を通過する直前に俊也はバットを振った。打つと決めるのが遅れた分バットを振り抜くことができず、結果石が欠けるような音と共に打球は一塁側応援席へ飛んでいった。
ファウルを宣告する球審の声がやけに大きく聞こえたのは、応援席から届いていた演奏が止まったからだ。
打球の行方を目で追った俊也は、ピストンを抑えていなければならない大介の指がボールを掴んでいるのを見た。そのボールを見つめた後、投げ返してきた。
ボールは左バッターボックスの手前で弾んだ後、弧を描いて俊也の胸へ向かってきた。反射的に左手をかざして受け止める。ぱちん、と乾いた音が聞こえ、瞬間的な感触が手のひらに弾ける。暑さを忘れて一瞬頭が冷めたような気がした。
「君、ファウルボールは投げ返さないように」
タイムをかけた球審が応援席に歩み寄って大介に注意をしている。彼は頭を下げたが、堪えた様子はない。演奏を再開し、それに乗ってベンチからも声援が飛ぶ。投げ返されたボールを審判に渡した俊也もバットを握り直す。左手に痺れるような痛みが残った。
二球目も同じコース、同じようなボールだった。まるで何かを確かめているようだ。そうでなければ、全力を出すに値しないと思って手を抜いている。どちらにせよ、投球練習で見せたような速球を投げてこない時点で見下されている。
舐めるな。体が熱くなる。バットを振りかけた。痛みは消えたが、手のひらに生まれた音が蘇る。
声援の向こう、演奏の中、そして更に奥、大介の声が聞こえたような気がした。
集中しろ。
俺は俺の役割に集中する。だからお前も同じようにしろ。
動きを止める。その時ボールは曲がった。
投げ返されたボールを受ける時、マウンド上で相手は頭を前に傾けたように見えた。まるで術中にはまらず残念とでも言うようだ。
ストライクとボールが一つずつ。しかし相手の狙いを一つ潰した分有利でもある。
応援席から聞こえてくる演奏はトランペット一本分でしかない。その演奏自体は二年前から青浜高校吹奏楽部に混じっていた。何本ものトランペットに加え、大小の打楽器や管楽器を組み合わせた演奏の中では目立ちようもない演奏だった。
迫力は比べるべくもない。しかし冷静さを忘れかけた自分を、二年前大勢の中の一人であった少年が助けてくれた。
相手は三球目のモーションに入る。迎え撃つ俊也はバットをより強く握る。
仮にホームランが出たところで、七点差にしかならない。反撃ののろしと呼ぶにはあまりに頼りないだろう。それでも破れかぶれは許されない。勝つことを目指してバットを振らなければならない。
少なくとも、一塁側応援席で一心不乱にトランペットを吹く大介は、応援が報われることを信じているのだ。
夏の県大会直前にもらった背番号15に重みは感じなかった。二校合わせても選手は十五人しかいないため、体に問題がなければ確実にベンチ入りできることになる。チームの事情を冷静に見つめる一方で、監督から手渡された背番号入りのユニフォームを抱きしめたい気持ちにもなった。
他の一年生もそれぞれ控え選手として背番号入りユニフォームを着てベンチ入りすることになり、何人かは途中出場も果たした。俊也も彼らに続けるよう準備を整えて待っていたが、結局最後まで出番はなく、ブラスバンドやチアリーディングと一緒になってベンチから声援を飛ばすだけで終わった。ユニフォームを着てグラウンドに出たのは、試合前後の挨拶の時だけだ。
試合終了後、応援を担当した吹奏楽部やチアリーディング部の部員たちの前で監督を含めた野球部一同は頭を下げた。力が及ばなかったことを謝ると同時に、最後まで応援してくれたことに感謝する礼であった。応援団も拍手で健闘をたたえてくれたが、すっきりしないものを感じたのは、薄茶色のスラックスしか見当たらなかったせいかもしれない。南原高校の男子がスラックスは灰色なのだ。
出番なく夏が終わったことの失望感より、生徒や学校側の無関心さの方が俊也には堪える。野球をすること自体は自分の望みだが、応援がないのでは道に迷ったような心許なさを抱えそうだった。
俊也の不安など知る由もなく、応援団は解散し、野球部も短い反省会の後それぞれ帰路に就く。帰り支度を終えた俊也は、ちょうど応援に参加した生徒たちが帰っていくのを見かけた。
駅へ続く夕暮れの道に、半袖シャツと薄茶色のスラックスの集団が歩み出していく。その中に一人だけ灰色のスラックスを履いている生徒がいる。背は高くないが、集団の中でも目立つのは背筋を伸ばして前を向いている姿勢の良さからだろう。彼はやがて人混みに消えたが、灰色のスラックスは他に現れることはなかった。
やがて野球部も人数が集まりだして、それぞれの方向へ帰っていく。駅に着いた時青浜高校の生徒たちはそれなりにいて、俊也は灰色のスラックスを探したが、結局見つけられないまま家路に就いた。
その日の放課後、二校の選手たちが集まって三年生の引退式を行った。これで南原・青浜高校の合同チームの選手は十一人、特に投手は控えがいなくなる。秋季大会から俊也の背番号は10になり、マウンド上での練習も増えた。
秋季大会を二回戦負けで終えた後は、日ごとに短くなっていく練習時間との戦いが始まる。部活への予算が少ないのか、グラウンドにはナイター設備がない。日が沈めば走り込みかミーティングぐらいしかできることがなくなってしまうので、秋から冬にかけての練習は非常に密度が濃くなる。
「来年の夏はお前、ピッチャー専門かな」
その合間の休憩で、伊藤が話しかけてきた。バッテリーの練習は他の部員とは時間割が違うので、ノックの打球音やかけ声を聞きながら休むことになる。
「そうなるのかな、やっぱり」
「嬉しくないのか。一回戦は良いピッチングしてたじゃないか」
「ちゃんとプレイできたのは嬉しいけどさ。でも内野は難しいよ。俺ずっと外野だったから、守ってて結構戸惑ってたんだ」
強い打球を捕ることは少なかったものの、送りバントで転がったボールをどこへ投げるべきなのか、瞬時に判断しなければならないのはまだ慣れたように思えない。伊藤とバッテリーを組んだ時は、彼が素早く指示をしてくれたのでミスをすることはなかったが、彼に頼り切りではいられない。
「まあ、練習するしかないよな。きっと外野に戻ることはないから諦めろ」
これから何度失敗して監督に怒られても、ピッチャーとして残りの一年半を過ごすしかないと思うと気が重い。それでも自分の手でアウトを積み重ねることは思いの外快感だったし、伊藤が褒めてくれた直球にも自信がついてきた。狙い通りの場所に投げることができれば、下手に変化球を投げるより効果的だとキャッチャーの経験が長い彼は教えてくれた。
「あと一人ピッチャーがいれば良いけどな」
「上の方へ勝ち進むチームは、良い選手をたくさん抱えているものだからな」
公式戦では最近やっと一勝したぐらいで、勝ち進んだ時のことなど想像がつかないのが本心だ。県大会上位に入賞するチームは毎年決まっていて、南原・青浜高校合同チームの名前を中学時代に聞いたことはない。その理由の一つは、選手が集まりにくいことだろう。負担を分散できなければ、チームとしての持久力は生み出せない。
「そりゃ来年の心配だよ。でもちゃんとやらないと、いつまで経っても南原は自分の名前で試合ができないぜ」
伊藤の言葉は何気なかったが、現状への問題提起に聞こえた。
「伊藤、お前合同チームがいけないと思ってるのか」
長年続いてきた流れに抗うような言葉を聞かされて、我知らず声は硬くなった。
「悪いとは思ってねえさ。試合ができなくちゃ意味がないからな。たださ、せっかく勝ってもこの学校の連中無関心じゃん。それも自分の学校が自分の名前で出たら変わるかなと思ってさ。自分のためにやってる野球だけど、やっぱり応援されたいじゃん」
地元の野球チームには誘われて入ったが、中学以降の野球は自分の意思で続けてきたものだ。軟式ではなく硬式を選んだのも、誰かに言われたことではない。他人の思惑とは関わりのないところで続けてきた野球だが、応援のない競技を空しく感じる気持ちは理解できた。
「合同チームだったら応援があるぞ」
「そうだけど、あれに南原の連中はいないからな。別の学校に応援されてるみたいで、何だか違和感があるんだよ」
夏の大会で一人だけ見た南原高校の生徒を思い出したが、学年さえわからない相手のことを話すことはできない。それに大勢の中に紛れるたった一人の応援など、あるかどうかもわからないほどだ。
いつしか伊藤の家の近くまでたどり着いた。駅へ向かおうとする俊也は、
「チームのことは俺たちが考えても仕方ないよ。青浜と試合に出たから、秋の大会だって勝てたんじゃないか」
「わかってる。でも、もし単独で出ることになったらどうする」
伊藤の声に笑みは含まれていない。俊也もそれに応じるように表情を消した。
「どうしてもそうするしかないなら仕方ない。でも俺は気が進まないし反対するよ」
南原高校だけで九人を揃えられたとしても、控え選手がいなければアクシデントを怖れて消極的なプレイに終始するかもしれない。無理をしてでも合同チームを解消するメリットは薄かった。
伊藤は笑みを取り戻す。対立する意見ではあったが、説得する素振りも見せずに、
「ピッチャーの負担が一番問題だからな」
気が軽くなるような明るい笑みを見せて言った。
伊藤と別れた後、それまで考えもしなかったチームの形が脳裏に描かれる。部員がそれだけ集まるかどうか未知数であったし、何よりピッチャーの自分が一番辛い。控え投手がいないということは、何があっても自分がマウンドに登らなければならないということだ。
勝ち進めば連投しなければならない。あるいは、どんなに打ち込まれてもマウンドを降りることはできない。
青浜高校との合同チームを組んでいる今でさえ、一勝するのがやっとなのだ。単独のチームになってチームとしての力が落ちたら、勝利から大きく遠ざかってしまう。
電車の席に座ると睡魔に絡め取られる。うたた寝をしている間に自分がマウンドに登っている夢を見た。
その夢の中では投げるボールが全て打ち返され、長短打、ホームラン、全てを浴びる結果になっていた。フォアボールやデッドボール、エラーまで記録されたのにアウトカウントが一つも点灯しない。そして監督はいつまで経ってもベンチを出ない。他にマウンドに立てる選手がいないからだ。
悪夢は車内アナウンスで消えた。目覚めると背筋の冷たさに気づく。相手の猛攻が現実でなかったことに安堵する。息をついて力を抜いている間に電車は止まり、車内の客は入れ替わる。俊也は慌てて外へ出る流れへついていった。
翌日、ノックを受ける内野手たちを横目にしながら伊藤を相手に投げていると、電車の中で見た悪夢が浮かび上がって感じた。細かな内容は思い出せないが、スコアボード上の、有り得ないほどの点差と一つも点灯していないアウトカウントだけが脳裏にこびりついている。
現実にはいないはずのバッターが一瞬見えた気がして、俊也は最もバットが届きにくそうな外角低めを狙った。伊藤は大きく体を動かして受け止める。ボールは左打席の真ん中に弾んだ。
「どうした」
返球する伊藤の声は何気ない。むしろ会話のきっかけを掴めそうな嬉しさを感じているようだった。
「嫌なこと思い出したんだ」
ボールを受け、長い練習の末に作り上げた投球動作によってボールを投げる。今度は伊藤のミットは動かなかった。
「何だ、明日小テストか」
「それもあるけど、夢を見たんだよ。試合で投げてて炎上する夢」
「そりゃ、嫌な夢だな」
一度会話は途切れる。伊藤のミットが音を立ててから再開した。
「何点取られたか忘れたけど、一つもアウトが取れなかったんだ。だけど降板できない。他にピッチャーがいないからな」
「本当に合同チームが解消されたらどうなるのかって、気にしてるのか」
伊藤はボールを投げ返しながら顔を曇らせた。
「だったら悪かったな。無神経だった」
「良いって。そんなこと起きないだろうし」
俊也のボールは再び思い通りの軌道で伊藤のミットに収まる。指に残る感触や、ミットが発した音は満足のいくものではない。それでも、
「ナイスボール!」
伊藤の張りのある声に心が躍る。一定の調子で投げていくと、炎上の悪夢を忘れていく。ナイスボール、ナイスボールと伊藤がミットの立てる音に合わせて声を上げる。こんなピッチングが相手に通じれば、一人でも平気だとふと思えた。
日暮れが日を追う毎に早くなっていく。すると外での練習時間も短くなっていく。グラウンドにはナイター設備がないため、ボールが見えなくなってくると後始末をして校舎へ引き上げる。残る時間は各自でトレーニングをするが、俊也は伊藤と共に配球の勉強やフォーム矯正の時間に充てていた。
十二月の一ヶ月間は、グラウンドで練習できる時間が二時間もないため、ボールを使う練習は少なくなる。日が沈んだ後は学校の周りを走るぐらいしかできなくなるが、週に一度は伊藤と投球について話し合う時間を持つことにしていた。試合で使えそうな変化球はカーブぐらいしかなかったが、それをどのタイミングでどこに投げれば良いか、互いの意思を確認しておく必要があると伊藤に言われて続けてきたことだ。
その二回目に俊也はどこかから楽器の音色が流れてくるのに気がついた。伊藤が何も言わないのでその時は話題にしなかったが、次の機会でも同じように聞こえたので、
「前から気になってたんだけど、誰が吹いてるんだろうな」
音の聞こえる方向を見遣りながら言った。
「ああ、何か聞こえるけど。気になるのか」
「うちの学校吹奏楽部ないじゃん」
青浜高校のグラウンドで合同練習をしていると、吹奏楽部の練習を聞くことができる。聞き覚えのある曲も練習していたから印象に残っている。それだけに南原高校の静けさは寂しいほどで、聞こえてくる音が際立つ。
「ないからこそ、じゃないのか。一人でも楽器吹きたい奴がいるんだろ」
伊藤はあまり気にしていないのか、話している間もノートに何事かを書き込んでいた。
そして俊也の関心を引き戻すように話しかけてくる。ランナーがいる時やそうでない時、相手が強打者であったりそうでなかったり、考えられる状況はいくつもある。それに対して俊也が答えを出す。立場を変えて、伊藤が答える側に回る。いつしか俊也は伊藤との会話に没頭していったが、ふとした拍子に関心が外れると音色を聞く。聞き覚えはなかったが、それは確かに旋律であった。
ふと、夏の大会で一つだけ見つけた灰色のスラックスを思い出した。それから程なくして演奏は終わってしまい、伊藤と共に帰る頃には学校全体が静まりかえっていた。
次の週は冬休み直前であったが、やはり同じように音楽は聞こえた。冷え込みの厳しい冬らしい空気であったせいか、音はどこから聞こえているのか読めないほどよく響く。
「気になるのか」
ふと、伊藤が言った。
彼の眼差しに咎める様子はない。思い切って、出所が知りたいと俊也は言った。
「知って、どうするんだ。やめさせるのか」
「そんなことしない。ただ、気になるんだよ。もしかしたら夏に、俺は見てるかもしれないんだ」
俊也は試合の後に見た灰色のスラックスのことを話した。それが楽器の主である根拠はないが、可能性はある。ただ、どうするつもりかと重ねて訊かれ、俊也は言葉に詰まる。
「行くのは止めないけど、やることやってからにしてくれよ」
その一点だけは譲る気はないようだった。やがて演奏は終わって校舎は静まりかえる。冬休みの後は音色を聞くことがなく、その奏者の正体は掴めないままであった。
四月になると春季大会の準備で青浜高校と合同練習をする機会が増える。放課後南原高校を留守にすることが増えると、奏者の手がかりを掴む機会もなくなって、いつしか関心自体が薄れていく。二校の新入部員を応援席に置いて臨んだ春季大会に、夏の大会のような応援はなかった。俊也の出番もなく、チームも一回戦で敗れて春季大会は終わった。
「負けたものは仕方ない。それより夏だ。今年はまず初戦突破が目標になる」
試合後はそれぞれの高校ごとにミーティングが開かれた。南原高校の顧問は屈託のない様子で言い、部員たちも張り上げた声で応じる。一勝がとても大事というのは情けない気もするが、現実なのだから仕方がない。
「今年は応援団にも一度ぐらいは良い報告ができるように、青浜高校と力を合わせて頑張ろう」
キャプテンのそんな言葉でミーティングは締めくくられた。ここ数年チームは一回戦負けが続いていて、夏の大会では応援が報われるような結果が出せていないという。去年俊也はベンチ入りをしただけで勝敗に関わることもできなかったが、それでも応援団に頭を下げた時は申し訳ない気分になった。
今年はあの灰色のスラックスが見られるだろうか。それはまた、一人だけだろうか。
同じ学校のどこかに、冬の校舎で聞いた音色の主がいる。今年も彼は、一回戦を突破するのも難しいようなチームのために、他校の応援団に混じって駆けつけてくれるだろうか。
見知らぬ相手である。しかし彼が、来て良かったと思えるような試合がしてみたい。それには、ただ勝つだけでは満足しない。自分がマウンドに立って、相手打線を凌駕するピッチングができなければいけない。見ず知らずの、それも男のために奮い立つのも妙な話であったが、キャプテンの言葉に返事をする声には力がこもった。
小柄な相手投手が投じた三球目は、一転して体に近いコースに向かってきた。とっさに俊也は腕をたたみ、バットを引き寄せるように振る。うまくバットに当たればレフト線へのヒットになるはずのスイングだったが、速いボールにバットを振り切ることができず、打球はマウンドの横で弾んだ。
打球はショートのほぼ正面に飛んだ。落ち着いてボールを受け止めて、ファーストへ投げる。ベースまでの距離を半分ほど残したところでアウトが宣告された。
俊也がベンチへ引き上げるまでに応援席から聞こえていた音楽はやんだ。三回表が始まると、三塁側の応援席が活気づく。一人の独奏に対し、数十人の合奏である。迫力不足は否めない。聞き慣れた音楽ばかりであったが、それを何本もの楽器を集めて演奏すると圧力を感じるほどのものに生まれ変わる。圧倒されているのも感じた。
キャッチャーの伊藤が出すサインを覗く前、俊也は一塁側応援席を見遣る。二回表、満塁ホームランを打たれる前のように、大介は静かな面持ちで戦況を見つめている。二回までで大勢が決した試合なのに、最低でも五回までは投げなければならない自分に付き合ってくれる心づもりを感じた。
迫力のある相手の応援の中で、確かに大介の応援が聞こえる。声ではない、胸に響く震えだった。
言葉にはできないものだったが、伊藤の要求に応える力を生む。
足を引く。足を上げる。腕を上げる。腕を振る。
ボールを弾き出す。
指から離れる瞬間、確信があった。これは伊藤が受け止める、と。
果たして俊也の投じた初球は空振りを奪った。この試合では初めてだ。
更に五球を投げてフルカウントまでもつれたが、六球目のストライクに手が出なかった相手から三振を奪うことができた。ワンアウト。ここまでの内容が芳しくないだけに、幸先の良い滑り出しが嬉しい。
応援席を見遣る。三塁側からの音楽に動じた様子もなく大介は座っている。
スコアボードを振り返る。一回と二回に四点ずつ取られて、八対ゼロ。しかしワンアウトが灯っている。
大介が見ている以上、諦めずに最後まで投げていく。あの点差がどれほどになっても、最後まで腕を振れば、恥ずかしい試合にはならないだろう。
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