ジ・オンリー・エール

haru-kana

第1話

 三つ目のアウトによってスコアボードのアウトカウントが消えた。バックネット裏から聞こえるまばらな拍手を聞きながらマウンドを降りた俊也は、一回表の得点欄に表示された『4』という数字に歴然とした力の差を感じた。

 強豪と呼ばれるほどではないが、ここ数年初戦敗退がなかったチームとの対戦が決まった時、俊也は落ち着かない気持ちを味わった。負けるだろうという諦念の一方、勝てたら話題になるかもしれないと密かな期待を抱いていたものだが、ボールを投げるたびに目が覚めていくような気がした。

 相手のベンチを見る限り、サインを出していた様子はほとんどなかった。相手打線は奔放に打つだけで四点を奪った。数年間の最高成績が三回戦進出という、県内ではそれなりでしかない強さの相手の、大ざっぱな戦い方さえ抑えられないという現実は、投手として過ごしてきた三年間を踏みにじられるようで胸が締め付けられた。

 試合開始の十四時にマウンドへ登った俊也は、激しく突き刺さる日差しの中で投げることを強いられた。スリーアウトを取るまでにかなりの球数を費やしてしまったこともあり、俊也は今すぐベンチに座り込みたいところだったが、反撃の前に覇気の無い姿をチームメイトに見せるわけにはいかない。俊也は全員を集め、円陣を組んだ。

「逆転するぞ!」

俊也が気勢を上げ、チームメイトもそれに応えた。落ち込んだ気分は仲間たちの士気に満ちた声で上向いたが、相手チームのウォーミングアップに高揚感も冷めていく。投球練習を始めた相手投手は外野まで飛ばすのも難しそうな速球を投げていたし、内野手たちの動きにも隙はない。工夫がなければ誰も出塁できずに終わりかねなかった。

 ウグイス嬢が打席に入る一番打者の名を読み上げ、それに応じてレフトを守っていた矢沢が右打席へ向かう。それを送り出すように、ベンチの真上からはトランペットの音色が聞こえてきた。

 約十秒間、一本のトランペットがプレイ再開直前の静謐な空気を震わせる。伴奏も通奏低音もなく、主旋律しかない演奏には、球場全体に響き渡るような音の大きさがない代わり、力強さが備わっていた。力の差に打ちのめされていたさっきまでの自分に恥じ入るほど、応援席から聞こえる音楽には迷いがなかった。

 矢沢が打席に入り、プレイ再開が告げられる。初球がストライクになる。

 その直後に演奏が再開される。聞こえてきた楽曲には、やはり一本のトランペットしか参加していない。

 氷水で冷やしたタオルで汗に濡れた顔をぬぐうと、試合中なのを忘れて気持ちが安らいだ。ずっとのぼせたようだった頭も冴えを取り戻す。

 額を冷やしながら、俊也は三塁側の応援席を眺めた。相手の攻撃中は声援を送るぐらいの控え目な応援に留めている彼らは、向かい側を面白がるような眼差しだった。隣同士で囁き合うような素振りを見せる女子生徒たちのところへ飛んでいって、何がおかしいのかと怒鳴りつけてやりたくなる。

 高校野球の常識からすると、一塁側の応援席で行われていることは妙かもしれない。ブラスバンドやチアリーディングなどの部活から構成される応援団が、音楽や踊りによる応援をするのが一般的だが、自分たちを応援するのはただ一人のトランペット奏者だ。演奏の迫力はブラスバンドと比べるべくもないが、音を聞く限り一人きりの演奏に臆する様子はない。その気持ちが伝わることで士気を保っていられる選手がいる以上、彼がしていることは立派な応援であった。

「本当に一人でやってるんだな」

 クーラーボックスから取り出したスポーツドリンクで喉を潤していると、バッテリーを組んでいた伊藤が天井を見ながら言った。音の聞こえ方から察するに、彼の真上に奏者はいるようだった。

「うちの学校にもっと理解があれば、一人でやることはなかったんだけどな」

「それでもやってくれてるなら、ありがたいじゃないか」

「ああ、頭が下がるよ」

 二番の藤井は追い込まれた後、一球ファールを打ったが、それ以上の粘りは見せられず見逃し三振に倒れた。次の打者が入ると再び曲目が変わる。奏者なりの工夫を感じた。

「お前が頼んだんだろう、何て言ったんだ」

 俊也にとっては不意打ちのような質問だった。最初に応援の話を持ちかけたのは自分だが、相手をその気にさせるように働きかけた覚えはない。一人きりの応援になるかもしれないという話もしたが、彼は超然としていた。

「応援をしてくれって頼んだだけだよ」

「何の見返りもないのに、日陰もない応援席で、たった一人でトランペットを吹き続けるっていうのか。変わった奴だな」

「ああ、ちょっと変な奴だから」

 俊也は顔をほころばせた。

「友情に報いることが大事なんだとさ。強いて言うならそれがあいつの中では理由なんだろうけど」

 自分が言ったわけではないのに、口にすると気恥ずかしくなる言葉であった。今時何かの行動を起こすには弱い動機だと思ったが、彼はそれに突き動かされてただ一人の応援に身を投じているのだ。

「何にしても、応援してくれるならありがたい。応援は派手さでも規模でもない、やる気になれるかどうかが大事なんだからな」

「そうだな。それで、どうだ」

 少しためらい、俊也は訊いた。

「早く打ちに行きたいぐらいだな」

 三番の岡田が倒れた今、八番打者の伊藤の打席は持ち越しになった。

 それぞれ守備につく準備をしてグラウンドに散っていく。マウンドへ駆け上がった俊也は、一塁側の応援席を振り仰いだ。

 応援の権利を相手に譲り、椅子に腰を下ろした彼は膝にトランペットを乗せてじっとグラウンドを見つめている。その背後にも周囲にも人の姿はない。南原高校野球部の初戦を応援しようと来てくれたのは、本当に小端大介一人であった。

 相手のバッターが打席に入り、球審が高い声でプレイをコールする。待ちわびたように三塁側からはブラスバンドの演奏が始まる。さすがに大介一人の演奏とは比べものにならない迫力がある。偶然だろうが、曲目は大介が演奏したものとほとんど同じだった。

 伊藤の出すサインを読み取る直前、俊也は大介を見遣った。

 自分が大介の立場なら、と思った。トランペットを上手く吹くことができても、人数も迫力も足りない状況に臆して最後まで演奏ができないかもしれない。まして試合も劣勢だ。初回から四点差をつけられた上、攻撃においては良いところがない。応援に嫌気が差しても仕方ない。

 大介が睨んだ気がした。

 切れ長の、どこか冷たい双眸がマウンド上を見据えている。その眼差しには突き放すような厳しさを感じたが、そのおかげで打者との対戦に集中できる。

 きっと大介ならどんな状況に陥っても最後までトランペットを吹き続けられるだろう。たとえば自分が、歴然とした力の差を恐れながらも再びマウンドに登ることをためらわなかったように。

 俊也はマウンド上で大きく息をつき、伊藤の出すサインをのぞき込んだ。去年まで組んでいた他校の捕手はあまり直球の力を信じてくれなかったが、校内でボールを受けてくれた伊藤は違う。試合前から、直球を主に投げてもらうと言っていた。リードはその言葉通りのものだった。

 変化球より軌道の変化が少ない分、直球の方がストライクを取りやすい。後ろにいる選手たちも、応援席の少年も、全て南原高校の生徒たちだ。相手の力に立ちすくむ自分の背を、それぞれのやり方で叩いてくれる気がした。

 いきなりの劣勢ではあったが、去年とは違う試合状況に俊也は大きな価値を感じた。


 俊也が毎日使う駅に隣接する商業施設は有名で、休日練習で学校へ向かおうとすると朝から親子連れとすれ違う。客待ちをするタクシーがいつも停まっているし、平日でも賑わいを感じるが、全て北口での話だ。学校へ向かおうとすると、その賑わいに背を向けることになる。

 南口を出てから進むのは、上り坂も含む徒歩二十分の道のりである。片側三車線の県道を渡りきると、山裾へ向かう道を横目にして正門に向かう。霊山としての歴史が深い山の麓にあるおかげで、全校生徒は年に二回のゴミ拾い登山をしなくてはならない。一日中夏山登山をさせられた後にいつも通り走り込みをする羽目になった時などは、南原高校に入学したことを後悔した。

 高校選びを失敗したと悔やんだのはその時だけではない。高校で硬式球を握ろうと思った俊也が行きたかったのは県内上位常連の学校であったが、一般入試に落ちてしまい、滑り止めの南原高校に行くことになった。その高校の野球部が、新入部員を入れても八人にしかならない弱小チームだと知ったのは入学後であった。

 南原高校では部活動に参加する生徒が少なく、どこの部活も部員不足に悩まされている。グラウンドを共有するサッカー部やソフトボール部も同じ事情を抱えており、部員不足で廃部になった部活もあるという有様であった。

 限られた広さしかないグラウンドでは、軟式球を金属バットで打つ音や、革製ボールを蹴り上げる音が混ざり合う。その中の一つに、硬式球がグラブに収まる音がある。俊也は一緒に入部した伊藤のボールを受けるたびに声を上げ、投げ返す。伊藤も同じようにした。

「お前ピッチャーの方が向いてるんじゃないか。良いスピンがかかってるよ」

 中学ではキャッチャーを務めていたという伊藤は、初めてキャッチボールの相手をした時に人懐こい笑みを浮かべて言った。俊也はほとんど外野手として過ごしてきて、ピッチャーとして試合に出たことは数えるほどしかない。その限られた機会においても良い思い出はなく、降板するたび二度とマウンドには登りたくないと思ってきたほどだ。

「俺はライトが良いよ。そっちの方が向いてるし」

 十八メートルあまりの距離で精密な投球をするより、数十メートル先のカットマンやサードに送球する方が得意だった。それだけの強い肩があると自負していたし、内野の複雑なサインプレーもこなす自信がなかった。

 十球ほど投げて肩がほぐれてくると、お互いに距離を離す。その直前に伊藤は、

「もったいないな。受けてみたいのに」

 少しため息が混じって聞こえる声を出した。それ以降はお互いに何も喋らない。口を開いても声が聞こえる距離ではなく、球数を重ねるごとに距離も開いていく。

 キャッチボールの相手は決まっておらず、先輩と組むこともある。入部してから半月ほどで全ての部員とのキャッチボールを経験した。新入生と上級生ではこなすべき練習の内容が違うものの、キャッチボールと走り込みだけは共通している。

 その基礎練習は、それぞれの人柄や野球の技量を推し量れる機会でもあった。伊藤とキャッチボールをした翌日に組んだ先輩は寡黙だったが、経験の差がある分技術面での指摘は的確で、教わった通りに投げると速く正確なボールが投げられた。

 キャッチボールと走り込みから始まる日々の練習は、参加するたびに自分の力が伸びていく感じがして楽しかった。滑り止めで入ったことを忘れて、落ち着くべき場所に収まったような気分にもなれた。

 青浜高校のことを知ったのは入部してから一ヶ月を過ごしてからで、野球部以外での生活にも慣れた頃であった。五月の連休も当然のように練習を重ねるが、初日の集合場所は県道沿いを二十分ほど歩いたところにある青浜高校であった。

 部員不足の両校が協力して一つのチームを結成して県大会に出場するという事情を聞いたとき、俊也は訳もなく物足りない気持ちになった。それでも、試合に出られるとは限らないまでも、ベンチ入りなら確実にできるというのは魅力的であった。実際には両校の先輩たちがいるため、補欠の補欠と呼ばれるほど出番は遠かったが、背番号入りのユニフォームは勝利の喜びを味わうに足る選手と認められたようで快かった。

 県大会が始まるのは七月初旬のことで、それまでに三試合の練習試合が組まれた。六月までに二試合が終わり、一勝一敗で最後の試合に臨む。その間俊也を含めた一年生たちに出番はない。ただ大声で応援することを求められるだけだ。

 グラウンドに出て体を動かせないことは不本意であったが、高校生たちの試合を間近で見ると自分の未熟さがわかったし、そのまま試合に出るよりは声を枯らして応援する方が気楽だった。

 七月最初の日曜日に行われた三試合目の練習試合は、終始南原・青浜合同チームのペースで進んだ。一度も相手にリードを許すことなく最終回を迎える。九回の表一死の段階で六対一のスコアは、ほぼ勝利を手中に収めたと思って良いものだ。

 楽観的なムードを感じながら、マウンド上の選手を盛り立てる声を上げていた俊也は、快音で一瞬言葉を詰まらせ、センター前へ向かったはずのボールがセカンド方向へ飛んだのを見て全身が粟立つのを感じた。

 セカンドがボールを処理してツーアウトとなったが、プレイは中断される。センターへのクリーンヒットになるはずだった打球は、ピッチャーの足に当たっていた。偶然それがセカンドの方へ飛んで難なくアウトを取れたが、ピッチャーはマウンド上に座り込んでいた。

 監督は迷わず交代を告げた。練習試合であり、あと一つアウトを取れば試合は終わる。そして五点差があるのだ。今更誰が投げても結果は変わらないだろう。

 一応投手の経験もあったので、六月に入ってから投球練習も始めた。監督は緊急時のためだと言ったが、全体の八割は外野手としての練習だった。高校に入ってからまだ出場すらない自分が必要とされる場面ではない。気楽に構えていた俊也は、呼びかけに最初気づかなかった。

 試合中ずっと隣で声を張り上げていた伊藤に小突かれて気づいた俊也は、

「川中、交代だ。お前マウンドへ行け」

 監督がしかめ面で告げたのを呆然と聞いた。

 再び伊藤が陰で小突く。実戦でマウンドに立ったのは軟式野球をやっていた中学以来で、その成績も芳しくない。練習でしかやっていないことをいきなりはできない。そんな抗議は、小学四年生から叩き込まれた上意下達の精神の前に飲み込まれる。気づいたら反射的に返事をして、グラブを着けてマウンドへ走っていた。

 マウンドではキャッチャーも含めた内野手が待っていた。彼らの表情は様々だが、緊急で登板したピッチャーを信頼する顔は一つもない。

「まあ、あと一人だ。気楽にやれば良い」

 マスクを被る青浜高校の三年生が笑みを浮かべて言った。それにきっかけを得たように、他の選手たちも口々に勇気づけてくれる。南原高校の先輩は最初ファーストとサードにいたが、二人とも途中交代で退いており、今の内野手は普段顔を合わせない上級生だけだ。戸惑いがちになりそうなのを我慢して、俊也は声を張った。

 キャッチャーとサインについて話をしてから選手はそれぞれの守備位置に戻る。プレイ再開、俊也はキャッチャーが出すサインをのぞき込む。

 地面に向けて突き出される指の本数や手の動きで、投げるべき球種やコースがわかる。最後にマウンドに登った中学時代と同じだ。しかしサインの動きは速い。うまく読み取れず、もう一度出すようにサインを送る。二度目でもわからず、三度目で何とかキャッチャーの意図が読み取れた。

 中学時代、マウンドでは振りかぶっていたが、高校では両腕を胸の前で止めるようにした。そうでないとなかなかストライクが入らないからだ。練習を見てくれた監督や先輩にも勧められたフォームで一球目を投げる。キャッチャーミットが大きく動いてボールを受け止めたが、バッターも動かなかった。判定はストライク、まだ一球しか投げていないのに足の力が抜ける。自分でも良く打たれずに済んだと安堵するようなすっぽ抜けだった。

 二球目、三球目とボールになり、四球目はストライク。あと一球のところまで追い込んだが、五球目にバッターが動く。鋭いスイングと澄んだ音、俊也は縮み上がった。ボールの行方を追おうと振り返った時、三塁側のファウルゾーンを駆け抜けたボールがフェンスにぶつかっていた。

 川中、と呼びかけられて我に返る。審判が新しいボールを投げてきた。

 ヒットにならなかったのは偶々だろう。スイングに揺らぎはなかった。投げたボールが遅かったからファウルになったのだ。

 ボールを受け損ね、地面に落ちそうなところを何とか掴み直す。

 五点差、あと一人、あと一球。負けることなどほとんど有り得ない状況だ。それでもあと一人をアウトにできないまま出塁を許し続けたら、相手に逆転の可能性を与えてしまう。

 練習試合だし、自分は本来外野手なのだ。今回マウンドに登ったのは緊急でしかない。失敗しても、二度とマウンドに登れなくなるだけだ。外野手としての自分が傷つくことはない。

 一つずつ不安を慰めるように考えていくと気楽になった。サインは変化球だった。

 頷いた俊也はサイン通りのボールを投げる。直後にキャッチャーミットは動く。見逃せばボールになる位置だ。

 フォアボールを覚悟した。それなのに再び打ってくる。今度は一塁側へのファウル。

 審判から投げ渡されたボールを受け取った時、俊也はバッターの、舌打ちするような顔を見た。ご馳走を逃したとでも言いたげな表情だった。

 他人を納得させられるような確証を得たわけではない。それでもわかる。自分は相手より高い位置にいながら、気持ちの上では見下されている。

 バッターにしてみれば、フォアボールよりヒットの方が実力はアピールしやすい。ボールになりそうな外角球を強引に振り抜いたのは、打席に留まっている限りヒットを打つチャンスがあると思ったからだろう。自分は与しやすい相手だと見られているのだ。

 失敗しても痛くないと自分をごまかしたことが、急に恥ずべきことに思えてきた。ヒットを一本打たれたぐらいでは点差は変わらないし、ただ一つのアウトぐらいどこかで取れるだろう。しかしこのバッターに見下されたという気持ちは残る。今すぐ消してしまいたいほどの不快感だ。

 それを成し遂げるのは今しかない。このバッターを逃したら、永遠に機会は失われる。

 キャッチャーからの要求は内角高めの直球だった。六球のうち四球は外角球で、直前も含めて全て変化球だった。相手の裏をかける可能性はある。

 しかし五球目のように、鋭い打球を許すようなボールではいけない。力強く、しかしストライクゾーンに収まるようなボールを投げる。キャッチャーミットはストライクとボールの境目に構えられた。

 腕を振り抜いて、ボールが指から離れていく。その瞬間、キャッチャーミットは動いていない。

 バットが動く。両腕がたたまれ、見るからに窮屈な体勢になった。

 音が聞こえた。しかし鈍くへなへなと響く金属音であった。スイングにはさきまでの鋭さがない。白球が視界から消えたと思った時、キャッチャーが上空を指さした。

 ボールがふらふらと上がって、落ちてくる。その落下点はマウンドとホームベースの中間地点だ。

 外野フライと違って、途中で加速するかのような飛び方はしない。素直な放物線だが、力がない分吹き付ける風で横に揺れて見える。それも惑わされるほど大きな動きではない。キャッチボールで、すっぽ抜けたボールを受け止めるようなものだ。

 ボールをグラブに収めた時の感触も軟式球より軽い。本当に受け止められたのかどうか不安になったほどだ。

 球審がアウトを宣告した。グラウンド全体の雰囲気がわずかに緩んだ。マスクを取ったキャッチャーが笑みを浮かべていた。自分のグラブに薄汚れた硬式球が収まっている。

 一塁の遙か手前から引き返してきたバッターは、ため息をつくように消沈した表情で肩を落としていた。

 見下される不愉快さが消える。代わりに力の自覚が快感として体を巡る。

 ゲームセットの宣言で、俊也はようやく自分が取ったアウトを実感した。

 整列して相手選手と挨拶を交わした後、グラウンド整備と片付けを終えてから帰り支度をする。四時を過ぎていたが、まだ水が欲しいほど熱っぽかった。

 グラウンドを去る前に監督から試合の総評を聞いた。六点のうち四点は三回までに取った点数で、失った一点は大勢が決した八回のものだ。終始自分たちのペースで進められた試合だと思ったが、俊也には気づかない点での指摘がいくつもあった。全てに納得できたわけではないが、傲るなという言葉が隠されているのはわかった。

 いくつか監督が褒めてくれたところもあって、特に一失点で終えた守備は高く評価してくれた。最後にマウンドに立っていた俊也への言葉はなかったが、アウトを取った事実だけで充分満たされた。

 自分の投げたボールで相手をアウトにする。その瞬間の気持ちは試合が終わってもなお快感として残る。中学時代は味わえなかった感覚に、俊也は初めてもう一度マウンドへ登ってみたいと思った。

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