蠢く

 猛牛の魔人が腰に吊るしていた鍵で鎖を解く。頭に奔った激痛に顔を顰め、男は猛牛の魔人の遺骸の上に座り込んだ。頭頂部を指先で触れると、そこが大きく裂け血が溢れているのが分かった。

 痛みに慣れてはいるが、縫わずにこのままにしておいて、いつまで無事でいられるのかまでは自分でも自信がない。

「この牛頭、無茶苦茶殴りやがって」

 だがそう休んでもいられない。男にはここが何処なのか、その記憶すらもない。鎖で繋がれ囚われていた以上、少なくとも囚われる原因と理由があった人間であることは明白だった。

 猛牛の魔人は岩で殴られた際に絶叫を上げた。あの声が他の何者かに聞こえている可能性は少なくないはずだ。むしろこの場合、そうであると予め考えた上で行動すべきだ。

「ちっ……」

 男は巨大な戦斧を肩に担ぐとゆっくりと立ち上がる。そして壁際に備えられた松明を手に取ると、岩窟を進み始めた。

 何しろ記憶がない。名前すらも思い出せない。何の罪を犯しこんな岩窟に囚われ、あんな怪物に弄られていたのか。何よりもあの猛牛の魔人は何者だったのか。

 例えばあれが獄卒だったとしても、人外の怪物が獄卒をする物騒な監獄なんぞ聞いたことがない。そしてそんな人外が獄卒をするような場所に囚われていた自分は、とても普通の人間とは思えない。

 腰布以外に身に纏うものもない。猛牛の魔人が使っていた鉄塊のような戦斧があるだけまだいい。ここから逃げ出すにしても、あの悲鳴の女を探すにしても、敵対するであろう何者かを岩で殴るよりは何倍もマシだろう。

 ただ屈強なこの体躯をもってしても、長い時間を囚われ続け衰えた上、頭に裂傷を負っている今の体力では、どれだけこの鉄塊を振り回せるのかは怪しい。

「まずは頭を縫わにゃなあ」

 男の脳裏にはあの女の悲鳴が鳴り響いていた。男の意思に触れたそれはとてもあたたかく、そしてとても弱々しかった。男の意思に触れることを怖がってすらもいたというのに、その手は慈しみに満ちてすらいた。

 そして耳に響いたその悲鳴には、苦悩だけでなく官能的な喘ぎも混ざっていたようにも感じた。

「……ちっ」

 男は視線を斜め上に向ける。男には悲鳴がそちらから聞こえたように思えていた。だがそれも感覚的なものにすぎず、どこまで正しいのかは怪しい。

 少なくとも季節はまだ冬ではないらしく、この裸同然の格好でもさして支障はない。ただそれでも何かしら身に纏うものが欲しいのは事実だ。陽の射さない岩窟なのだから空気は冷たく湿っており、しかも重い。少しずつ熱を奪われていくようにも感じる。頭からの失血も関係があるのだろう。

 松明を掲げながら暗がりを慎重に進む。岩窟は延々と続いているように思えた。ただ只管に一本道であること、それが幸いし少なくとも迷うことはないが、問題はどれだけ進んだのかという距離感すらも曖昧になっている点だ。

 ただそれでも進んでいることには間違いないはずだ。

 暫く歩くと岩窟は上へと向かい始めた。途中に見掛けた幾つかの松明には火が灯っておらず、それは彼が囚われていたあの場所がある意味で見捨てられていた場所なのだと思わせた。

 腐りかけでも食えるものを与えられていただけよい、と考えるべきなのだろうか。それにしても人間の気配を欠片すらも感じられない。

 岩窟は上に向かい、左右へとうねりながらそれでも続く。やはり途中の松明は灯っていない。

「……ん、なんだ」

 男の鼻腔に感じられたそれは間違いなく死臭だった。ふと脳裏に浮かんだのは、蠢く無数の腐りかけた死体どもの頭を、その己が手に握る直剣で叩き潰している幻影だった。

 あの猛牛の魔人を見ても驚愕しなかった自分に覚えていた違和感。それはきっと自分が奴らのような人外と関わっていたからなのではないのか。

 松明を翳し慎重に歩を進めていると、唐突に岩窟が多少広くなった。足の指先に水が触れる。同時に猛烈な死臭が鼻を衝く。だがそれも当然だった。暗がりに幾つもの屍骸が折り重なっていたからだ。

 老若男女関係なく折り重なるその屍骸の多くは腐り始めており、無数の蝿と蛆が集っていた。

 不意に屍骸の山の頂上に、岩窟の上から何かが落ちてきた。屍骸の山を転がり落ちるそれは、赤子だった。見上げれば岩窟の天井には穴が開いており、そこから捨てられたことが分かる。

 落とされた赤子に視線を向けると、それは微かに動いていた。男は思わず駆け寄り、その赤子を抱き上げたが、その赤子の顔を見詰め、眉間に皺を寄せる。

 全身の至るところに黒色の斑点があり、その目は混濁し色濃く淀んでいた。

黒死病ペスト、か」

 周囲の遺骸をよく見れば、どうやらここに捨てられた遺骸は黒死病に罹った者達らしい。黒死病を患った者はそのほとんどが死ぬ。また感染力も非常に強い。こんな小さな赤子にはそれを抗うことなどできないだろう。

 それでも赤子は小さな息を吐き何かを吸う様に口を動かしながら、懸命に生きようとしていた。薄情な親は捨てたに違いないというのに。

 次の瞬間、不意に右肩に鋭い痛みが奔った。反射的に背に手を回しそれを掴み、岩窟の壁に投げつけた。投げつけられたそれは硬い岩の壁に激突しぐしゃりと潰れ転がった。腐肉、二つの目玉、無数の歯、どうやら人間の頭だったらしい。

 だが何よりも異様だったのは、その潰れた頭がそれでも獲物を求めるかのように動いていたからだ。

「ちっ、死霊アンデッドかよ」

 男は小さく舌打ちし、背に縋り付く首のない遺骸に戦斧を叩き付ける。巨大な鉄塊を叩きつけられた遺骸は吹き飛び、岩窟に叩き付けられ身体を支える背骨が砕けてしまったのか、立ち上がることができなくなった。

 怨念を抱いて死んだ者達に死霊術を施し、動く屍として蘇らせた遺骸を死霊と総称する。死して切れたはずである肉体と精神の因果を無理矢理に結び直し、使役するのだ。だが怨念を抱いて死んだ者達は往々にして何かしらの苦悩や苦痛を抱いており、強引に結び直された因果は、解放されたはずであるそれらに再び囚われることを意味している。そしてそれ故に彼らは怨嗟という妄執と、食欲という原始的な欲求に囚われることになる。

 無論例外もあり、例えばトランスルヴァニアの英雄であるヴラド将軍を始めとする吸血鬼ヴァンパイアもまた死霊と分類されているが、彼らはある意味では吸血鬼という一族とも考えられ、その意味合いとしては複雑なものとなる。

 強い苦悩や苦痛を抱いている為なのか、死霊と化した者達の多くには意識らしきものは薄く、術を施した者に統率使役されなければ、周囲の生きる者達を手当たり次第に襲うことになる。

 周囲に不穏な空気を感じ、男は肩に戦斧を担ぎながら遺骸の山から距離をとる。視線を向けると、積み重なる遺骸の多くが蠢き始めていた。無数の遺骸がゆらりと立ち上がり、死臭に濡れ淀み沈んでいた空気が動き始める。

 男は小さく舌打ちをすると松明を地面に投げ捨て、巨大な戦斧を両手に持ち大上段に振り被った。

 死霊と対する際に最も効果的な手段とされるのは炎によって燃すこととされているが、現実はそう安易な話ではない。火がつく程度に干乾びていればともかく、死霊となる遺骸の多くはまだ多分の水分を含んでいる場合がほとんどであり、実際に燃す為には尋常ならざる火力が必要となる。

 だが燃すという方法を実践することができれば、死霊に対して致命的な打撃を与えることができるのは確かだ。

 とはいえ男の足元に転がる松明程度の火では何の意味もない。むしろ、男の持つ戦斧で肉塊に変えてしまった方が手っ取り早い。特殊な種類を除き、肉体を持つ死霊は総じて動きも遅く、男の怪力をもってすれば相手をするのはそう難しくはない。

 むしろ厄介なのは死霊どもの数だ。目算しただけでも軽く二十体はいる。それらが一斉に襲い掛かってくれば、重いものではないにしろ幾つか手傷は負うだろう。

 まず間違いなく、ここに捨てられていた遺骸は黒死病を始めとした疫病に罹り捨てられている。つまり、この死霊どもから手傷を負えば、それらの疫病をもらう可能性がある。如何に男が頑強な身体を誇れども、黒死病に罹ればただではすまない。

「ま、今更か」

 男は口元を歪める。

 既に肩口を噛まれた。何よりも過去の記憶がない男にとって生死には何の意味もない。守るべき何かがない。捨てるほどの何かも持ちはしない。己が命の価値なんぞ一掴みの麦よりも低いと知っている。

 蠢き始めた無数の死霊どもは、餌を見つけた歓喜とも再び因果に繋ぎとめられた苦悶とも取れる呻き声を上げながら、男の肉を求め歩み寄ってくる。

 ゆらりゆらりと真正面に立つ若い女の死霊に躊躇いもなくその巨大な戦斧を振り下ろした。女の死霊はその巨大な鉄塊によって押し潰され、腐肉の塊と化す。

 男は無造作に戦斧を振り回した。その度に死霊は肉塊と化していく。動きが緩慢な死霊が相手である限りは、先程のように油断さえしていなければ問題はない。

 だが男の眼は鋭く尖り周囲に向けられていた。それは近くにこの死霊どもに施術した死霊術師ネクロマンサーがいる可能性があるからだ。

 使役される死霊には力がなくとも、死霊術師が無力という訳ではない。むしろ死霊術師は悪魔と契約し魔術を使う魔女とは別系統の独特な術を使う為に性質が悪い。

 基本的に悪魔の力を現世に具現化する魔女の術は契約した悪魔の力に依存するが、死霊術師はそうではなく、死んだ者の無念や怨念など負の思念に働きかけ施術、使役する。その為、その術は魔女の魔術のように具現化することは少なく、例えば対象の心に大きな負の圧力を掛け突発的な自殺に導くなど、精神的な術が多い。

 だからこそ、精神を集中し緊張感を保つ必要があった。隙を見せればそこにつけ込まれるだろう。

 二十体近くいた死霊は、淡々と振るわれる男の戦斧によって叩き潰され、残り数体に減っていた。戦斧を振る度に頭部の裂傷が激しく痛むが、それが返って男の緊張感を保つ手伝いをしてくれていた。

 不意に男の眼の端に飛び込んできたのは、先程天井の穴から落とされた赤子だった。赤子はそれでも必死に生きようと、その小さな身体を震わせながら、小さな泣き声を上げていた。

 その赤子に死霊の一体が手を伸ばそうとしていた。半ば死に掛けているとはいえども、死霊にとっては餌なのだろう。今の彼らに生前の道徳心や倫理観など残っているはずもない。

 もしも死霊に感情があるのだとしたら、その一つはきっと食欲を満たす瞬間の歓喜だろう。

 刹那、脳裏を過ぎったのは幼い自分に馬乗りになり血塗れの包丁を振り被る、壮年の女のおぞましい嗤い顔だった。女を押し退けようにもまだ子供だった男に何ができただろうか。振り下ろされた包丁は首筋に吸い込まれていく。

 次の瞬間、男の背中に幾つもの激しい痛みが奔り、呆然とした意識が戻る。視線を向けると、そこには男の首筋に包丁を振り下ろしたあの女が数人、包丁を突き立てていた。

「この糞が!」

 男は女どもを強引に振り払うと、横殴りに戦斧を叩きつけ神経を尖らせた。これが死霊術師の術だと理解しているからだ。

 だが死霊術師が何処にいるのか、それが分からなかった。死霊術師を見付けない限り、隙を見せれば術は繰り返される。

 男は忙しなく視線を動かす。何かしらこの死霊どもとの戦いから情報を得る必要があった。

 そこでふと気付く。岩窟の広間中央にある天井の穴に下に折り重なった遺骸が死霊と化していたというのに、穴の下にはまだ数体の遺骸が折り重なっていた。

 男は猛然と走り、その折り重なった遺骸に大上段から戦斧を振り下ろした。瞬間、その遺骸から何者かが逃げようとしたが間に合わず、胴体を真っ二つに切断され、その上半身は岩窟に転がり、次の瞬間にはその激しい痛みからか絶叫を上げた。

 死霊術師はまだ若い男のようだ。だが肌には艶があるが、妙に頭が大きく額が禿げ上がり左眼の上に大きな瘤があるという、一見すると不気味とすら思える姿をしていた。

 その瞬間、残り少なくなっていた死霊どもは糸が切れた人形のように倒れた。

「やはり、な」

 死霊術が使われたというのに、どうして数体の遺骸が残ったのか。ここに捨てられた遺骸は黒死病の感染者だろう。彼らに無念が残っていないはずがない。ならばどうしてそこに遺骸が残っていたのか。それは遺骸の中に紛れ、死霊どもを操る為だろう。

 背に手を回すと、三本の包丁が腹に突き刺さっている。手当てができない以上、これを抜くことはあまりにも危険だ。

 せめて針と糸があれば無理矢理でも縫えるが、それができない以上は抜くことはできない。

 それでも咥内に血の味がしないだけまだよいと考えた方がいい。痛みには慣れているものの、さすがに意識が朦朧としてきた。血を失いすぎた。

「で、てめえは何なんだ?」

 男はまだ息のある死霊術師の顔を踏み付けながら問い掛ける。胴体を一撃で両断された死霊術師は痛みと出血から呆然としていたが、頭を踏み付けている足に力を込めると、小さな悲鳴を上げながら弱々しい言葉を漏らした。

「あ、あんたこそ、何者だ。この奥には、人間なんぞ、おらん、はず、だぞ……」

「あ? どういう意味だ、そりゃ」

 男は更に足に力を込める。死霊術師は小さな悲鳴を漏らす。

「墓の、モン・トンブ……」

 死霊使いは小さくそう呟き、そのまま動きを止めた。男は小さく舌打ちすると、死霊術師の頭に唾を吐き捨てた。

 頭の裂傷と背中に深く突き刺さった三本の包丁。頑強を誇るこの大男も、これだけの深い傷を負えば歩くことすらも難しくなる。

 唯一の武器である鉄塊のような戦斧も、こうなると邪魔でしかない。だがそれでも男はそれを手放すことはなかった。ここでこれを失うことは決定的な意味を持つ。だがそれだけではなく、男にはこの鉄塊を持ち戦うことだけが己の存在意義のように思えたからだ。

 呆然とした意識を必死に保ち、男はただ岩窟を歩く。松明の灯の先は彼の運命とも思わせる無明の闇。

 だがそれも無駄な抵抗だった。それが所詮は人間という生物の限界ということなのか。

 視線が揺れる。気力は底を尽き身体から力が抜けていく。

 男は膝を付くと、岩窟の壁に寄り掛かりながら、意識を失った。

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奴隷蟻は蛮勇に吼える 秋口峻砂 @dante666

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