奴隷蟻は蛮勇に吼える

秋口峻砂

覚醒

 大柄な男が鎖で繋がれているその場所を知る者は少ない。信仰と権威を司るその巨大な建物がある島が、元々は別の信仰の聖地だったという事情もあり、その権威に平伏した信心深く盲目な者達の他に、そこへ向かう者などなきに等しかったからだ。

 その様々な建築様式が混ざり合う奇妙で巨大な建物の地下深くには、更に巨大な岩窟が迷路のように広がっている。男はその深淵に両手首を鎖で繋がれ、もう随分長い時間をここに捕らえられていた。足元には腐りかけた食物が転がっている。深淵は男から時間の感覚を奪い、それは徐々に記憶すらも曖昧にし、遂には意識すらも奪い去ってしまった。

 長く伸びた黒髪から覗く男の目は薄く淀み、だらしなく開かれた口からは涎が流れている。半裸の身体には無数の傷が奔り、それは男が歴戦の戦士であることを示していた。痩せ細っていたが、むしろ無駄な肉が落ち、それは男の持つ頑強な筋肉と骨格を顕にしていた。

 不意に暗闇から巨大な何者かが姿を見せた。岩窟の壁に備えられた松明の薄明かりに照らされたその姿は、少なくとも人間のそれとは思えない。

 背丈は成人男性の倍近くあり、屈強な上半身に獣のような下半身をしており、その手には人間の背丈ほどはあろう両刃の戦斧を持ち、何よりもその頭は猛牛のそれだった。

 例えばその頭が猛牛の剥製だったとするならば、どうしてその口から生臭い異臭が漏れ、涎が垂れ、舌が蠢いているのだろうか。その血走った眼がぎょろぎょろと動き、爛々と輝いているのだろうか。

 その風体は魔人と呼ぶに相応しいものだった。

 その猛牛の魔人は、ぎょろりとその眼を男に向けるとゆっくりと近づき、唐突にその巨大な右拳を振り下ろした。

 拳は男の頭に落ち、何処かが裂けたのかその額に血が流れた。猛牛の魔人は巨大な拳を何度も振り下ろす。その度に男の頭は右へ左へと弾かれ、血が飛び散り、遂には右手首を繋いでいた鎖すらも切れた。だがそれでも男の目は薄く淀んでいた。

 男には最早、何の感情も残されていなかった。深淵の孤独が与え続けた心への重圧は、男の感情を心理の牢獄に捕らえてしまっていた。

 感情があるからこそ、そこに苦しみや悲しみ、憎しみが生まれる。延々と続く苦悶から逃れようとするならば、心を殺すしかない。この男もまた、そうするより他になかったのだろう。

 散々男を殴り付け満足したのか、猛牛の魔人は大きな鼻息を吐き出すと男に背を向け、洞窟の奥へと去ろうとした。

 不意に、何も感じていなかったはずである男の心に、あたたかい何かが触れた。それは男に対して恐怖を感じているのか、小さく震えていた。だがそれでも勇気を振り絞り男に触れ、何かを伝えようとしているように思えた。言葉にもならぬその意思は、ゆっくりとした旋律を刻みながら男の心を優しく包み込む。その穏やかなあたたかさに包まれながらも、男には何の感情も戻らなかった。

 だが次の瞬間、男の心に触れていたそのあたたかい旋律が大きく乱れた。それは激しい不協和音でありながらも、どこか甘美な響きを持っていた。

 その悲鳴とも喘ぎとも感じる不協和音は、深淵の奥底に沈んでいた男の心を大きく揺さぶった。そして次の瞬間、心理の牢獄から解き放たれた男は、頭に激しい痛みを覚え、大きな呻き声を上げた。

「ぐっ……」

 そしてその呻き声と共鳴するかのように、男の脳裏に「誰かたすけて」という女の悲鳴が轟いた。

 男の目に光が戻る。記憶は何一つ残されてない。頭に走る激しい痛みと、男の呻き声に気付き振り向いた猛牛の魔人の拳が血に塗れていること、そして何よりも脳裏に響いた女の悲鳴だけは真実だった。

 男は足元に転がる拳大の岩を握り、拳を太股の裏に隠すと力なくうな垂れて見せ、わざと荒く息を継ぎ苦悶の声を小さく漏らした。

 猛牛の魔人の爛々と輝くその眼は、まるで獲物を観察するかのように撫で回す。そしてゆっくりと近づくと、男の髪を鷲掴みにし強引に顔を上げる。大柄な男の身体を吊り上げ、その顔を覗き込んだ。

 その瞬間、男は猛牛の魔人の顔面に握り締めた岩を渾身の力で叩き込んだ。ぐしゃり、と何かが潰れ砕ける音が岩窟に響く。どれだけの力が篭っていたのか、猛牛の魔人の左眼窩が砕け、眼球が飛び出だしていた。

 如何に頑強な魔人とはいえ、左眼窩を砕かれて痛みを感じぬはずもなく、猛牛の魔人は絶叫を上げると、その巨大な戦斧落としその場に膝を付き、両手で砕けた左眼窩辺りを押さえ蹲った。

 男は足元に転がった人間の背丈ほどはあろうかという巨大な戦斧を右手で握ると、渾身の力をこめてそれを振り上げようとした。鍛え上げられた男の筋肉に力が篭り、太く膨張する。

 そしてとうとう、その鉄塊のような戦斧が振り上げられた。

「随分と世話になったようだな、牛頭」

 そして口元を歪め眼を見開くと、そのまま猛牛の魔人の頭へと振り下ろした。それは猛牛の魔人の頭を一撃で粉砕していた。

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