第4話 蛍石
桜の木には一枚の葉も付いていない。ビフォスは窓から灰色の空を見上げた。冬というやつが来たんだろう。部屋の奥からはカチン! と鋭い音が聞こえる。ビフォスは実験机を見に行った。机の上には親指ほどの様々な色の蛍石が転がっており、博士は黙々と蛍石をニッパーで八面体へと切り揃えていく。欠片は机にしかれた紙に落ちる。きれいに八面体になった蛍石は寒色、暖色と色分けされて瓶に放り込まれていった。
「博士はいつから鉱物が好きなんですか?」
作業の手を止めて博士が顔を上げた。
「いつから……中学生の頃には好きだったかな。知りあいのじいさんが、鉱物が好きだったんだ」
「そうだったんですか」
博士は八面体に切りそろえた蛍石をなでながら続けた。
「高校生の時に家にいるのが嫌になって飛び出したんだ。そうしたら、じいさんがここをくれたんだ。前は喫茶店だったんだぞ」
ビフォスは改めて家の中を見渡した。確かに、テレビや雑誌で見る家とは作りが違うと思っていたが、以前が店だったなら納得出来る。ビフォスはなんだか楽しくなって、博士にまた質問をした。
「蛍石は好きですか?」
「まぁ、そうだな……色も鮮やかだし、飴玉みたいでおいしそうだしな」
「どうして蛍なんでしょう?」
「光るから」
ビフォスは蛍石を見た。瓶の中の蛍石も欠片も光ってはいない。博士が胸ポケットからペン型のブラックライトを取り出す。茶色の欠片をビフォスの両手に包ませて、光を当てた。すると茶色の破片は桃色に強く光った。
「光りました。それに色も違う」
博士が光を消すと欠片は元の茶色に戻った。あんなに強く光るなんて! ビフォスは欠片を何度も手のひらで転がした。
「熱した方がきれいだぞ?」
博士はおもむろに立ち上がるとキッチンに立った。鍋を用意し、火にかける。博士はビフォスにカーテンと電気を消すように言った。ビフォスは言われた通りにし、暗くなった家の中を少し怖いと思った。博士は火を止め、紙の上にある欠片を鍋に放り込んだ。すぐさま蓋をすると、パキン! パキン! と硬い物が飛び跳ねる音がする。それが止むと博士は「ほら」と鍋の蓋を取り、満足げに中を覗き込んだ。ビフォスも見ようとするが、身長が届かない。つま先立ちになっていると、博士が持ち上げてくれた。
鍋の中は、小さな銀河系になっていた。暗闇に白や翡翠。藍色に黄色。紅と紫が散らばっている。大きい欠片が強く、細かい欠片は弱々しく光る。しかしどれも儚げにぼうんやりとしていた。
「まさに蛍だろう?」
蛍を見たことがないけれど、それが美しいものだとは理解した。ビフォスは生まれて初めて、自分の体が熱くなってゆくのを感じた。
「気に入ったか?」
「はい!」
「こうすると五分は発光し続ける。けれど、熱すると二度と光らなくなる」
つむじのほうから博士の吐く息が流れてくる。それは人間独特の温かみを持っていた。
「絶対にな」
ビフォスは顔を博士に向けた。すると博士の雰囲気が優しくなった。笑ったのだ。
「そういや、晶も好きだったな……」
「アキラ?」
「弟の名前だよ」
それからビフォスはすっかり蛍石を気に入ってしまった。博士が蛍石を割る度に、欠片を鍋で熱してもらい、輝く銀河を眺めた。そうすれば博士も笑ってくれるから、ビフォスはますます蛍石をねだった。熱した後の光らない欠片も、丁寧に自分の標本箱にしまっていた。
「博士! この蛍石を熱してください」
ある日ビフォスが博士に見せたものは標本ケースに入った蛍石だった。博士の顔が引きつる。
「見境なしはやめなさい」
「でも、もう蛍石も欠片もありません」
「もう? ……じゃあ買いに行くか」
「ボクも自分で選びたいです。外に連れて行ってください」
今まで外に興味はなかった。けれど、今は自分で蛍石を買いに外へ出たいと痛切に思う。けれど博士は両手でバツを作った。
「ダメです。お前のためにいろんな色の蛍石を買ってくるから我慢しなさい」
ビフォスは素直に頷かなかった。「いいな?」と博士が言っても頷かないので、博士はビフォスの頭を無理やりおさえて頷かせた。
「すぐに買ってくるからおとなしく待ってなさい。火はつけるな。溶けるぞ」
博士は白衣を脱いでビフォスに預けると、冬物のコートを羽織って出て行った。ビフォスは白衣を実験机の上に置いて、おとなしく待っていた。しかし博士はすぐに帰ってこなかった。そうしていよいよ夜になった。
「遅いなぁ……」
鉱物でも磨こうかと考えた時、二階から電話が鳴った。ビフォスは二階に行き受話器を取った。
「もしもし?」
『片桐さんのお宅ですか? ご家族の方で間違いありませんか?』
知らない男の人の声。なんだが緊迫している。ビフォスは「はい」と小さな声で答えた。
『先ほど片桐さんが**店で刃物で刺され病院へ搬送されました。すぐに来てください』
えっ──……??
『***病院へ向かってください』
手から力が抜けた。受話器が床に叩きつけられる。
博士が刺された? 刺されたってどういうこと? どうして? 頭の中は何一つ落ち着いていないのに、体だけが動きだす。病院の場所も知らないのに気がつけば階段を一気に駆け下りて扉を開けていた。博士が大変だ! 暗闇の世界に走り出そうとした瞬間、茶色の何かにぶつかった。何かはよろめいただけで、ビフォスをしっかりと受け止めた。
「やぁビフォス。飛び出して来てどうしたんだい? 片桐とケンカでもしたのかな?」
「エルウィさん!」
茶色の何かはエルウィのトレンチコートだった。今回は背中に長方形の大きな木箱を背負っていた。ビフォスはエルウィのコートを強く引っ張った。
「ボクを***病院へ連れて行ってください! 博士が、博士が刺されたって!」
異常事態だとすぐさま気がついたエルウィが「分かった」と肩から木箱を下ろした。
「病院へ行こう。けど君はこの中に入ってなさい。少し土臭いがね」
エルウィは箱の蓋を開けると、中に入っていた細長い包みを地面に置いた。包みの先から人間の腕が見えた。その手の手首から真っ赤な花が溢れんばかりに顔を覗かせていた。花弁が一枚、地面に落ちた。
「ほら、行くよ」
ビフォスは空になった木箱の中に滑り込んだ。大きさはぴったりだった。蓋が閉じられると木箱が上下し、エルウィの足音が早くなる。ビフォスは暗い箱の中で、足が折れた時のことを思い出していた。あの時、博士は「痛いか?」と聞いた。
ケガをするということは、きっと悪いことなんだろう。人にはどれくらい悪いことなんだろう。鉱石の足がくっつくように、博士の傷もくっつくのだろうか?
ビフォスは固く目をつぶった。両手を組みたかったけれど、指が折れてしまいそうでやめておいた。ビフォスは一心不乱意に博士の無事を祈っていた。
コンコン、と蓋をノックする音が聞こえた。蓋が静かに開けられるとエルウィの顔が現れた。
「病院に着いたよ。私が部屋を出たら出てきなさい。ただし、静かにすること」
引き戸を開ける音と共に、エルウィが去った。ビフォスは箱から飛び出た。部屋は全てが汚れのない白で眩しい。ビフォスは思わず目を閉じた。それからゆっくりと開ける。左横にベッドが置いてあり博士が横たわっていた。ビフォスは思わず叫びそうになった口を両手で押さえた。博士は眠っているようだった。顔は血の気が失せて少し青白い。それでも生きていることに間違いはなかった。ベッドの近くの小さなサイドテーブルには紙袋が置いてあった。中を覗くとたくさんの蛍石が入っていた。
「刺されたのは腹部ですね。出血がひどかったようですが、手術はうまくいきました」
外からエルウィと電話で聞いた男の人の会話が聞こえてきた。
「片桐は、誰に、どんな理由で刺されたんだ? 彼は人に恨まれるようなことはしないよ」
「まず、刺した人物は小町 春香です。彼女は三年前から相当な借金を抱えています。小町さんの祖父が片桐さんに所有していた土地を勝手に譲渡したから取り返そうとしたと供述しています。ここ二年ほど、何回か土地を渡せと脅迫していたことも調査済みです」
「彼はきちんとした手順を踏んであのおじいさんから土地をもらっていたはずだ」
「ええ。ですから、完全な逆恨みです。刺したのも衝動的だったようです。今は自分がいかに不憫だったかと喋っていますよ」
ビフォスはベッド横の丸椅子に座った。男の説明を聞いているだけで吐き気がしそうだ。
「……また金だ」
「博士?」
うめくように、博士が目を閉ざしながら言った。それから苦しそうに息を吸うと、深く時間をかけて吐き出した。
「子供の頃から、親も親戚も金、金、金……。遺産や会社の儲けのためなら簡単に人を裏切るし、だます」
ビフォスは博士を覗き込んだ。博士の家族の話をまともに聞くのは初めてだ。
「晶が入院してる時も仕事を理由に見舞いに来なかった。しかもあの親、保険金をかけてやがった。晶が死ねばいいと思ってやがった」
「博士を刺した人も、お金が欲しかったんですね」
「ああ。じいさんのことなんて、忘れてたくせに。金のために家族だってこと主張してきやがった」
博士はもう一度苦しそうに息を吸った。それから泣き出しそうな声で「頼むから俺に関わってこないでくれ」と言った。
この傷は、もうくっつかないのだろうか? ビフォスは博士を見つめた。博士の心を引き裂いた人間は、今ものうのうと暮らしているだろう。
冷たいはずのビフォスの体が、熱くなってゆく。腹の下あたり。熱が吹き荒れ、今すぐなにかを殴りたい気分になる。ビフォスは見たこともない、博士の母と父を、人の形をした全てのものを壊したい衝動にかられた。
「やめなさい」
頭の上にポンっと、何かが乗る。それはエルウィの手だった。
「人間を恨むなんてやめることだよ。そんなことをしても、後が辛いだけだ。恨むのは、片桐を刺した人だけにしなさい」
ゆっくりと、水が土に染み込んでいくように語りかける。エルウィはビフォスの頭を撫でた。たったそれだけで、ビフォスの中で吹き荒れていた怒りが収まった。エルウィは「いい子だ」と言うと、博士を見た。
「片桐、君もだぞ。人間が嫌いだなんて言うから苦しいんだ。もうここらでその意地を捨てたらどうだい?」
エルウィは困ったように笑った。
「幸せに生きないでどうする」
博士は目を固く閉じ、下唇を噛んだ。
「博士」
ビフォスは博士の目の上に、そっと手を乗せた。
「家に帰りましょう。ボク、博士の買ってくれた蛍石を早く見たいです」
博士は少し間を置いて「そうだな」と返事をした。
小町という女性の逮捕は連日ニュースのトップを飾った。博士も無事退院することができた。帰る時はエルウィがいろいろと手配をしてれた。そのことに関して、博士は何も言わなかった。エルウィはしばらく家に居たが博士の傷が落ち着いたところでエジプトへ旅立って行った。
冬も終わりに近づいた頃。あれから蛍石を何度か熱したが、博士は笑わなくなってしまった。ビフォスは自分の標本箱の中身を見た。光らなくなった蛍石の欠片でいっぱいになっている。それを持って、窓際に立つ博士に駆け寄った。白衣のすそを引っ張ると博士は振り向いた。
「これを熱してください」
標本箱を差し出すと博士は戸惑った。
「これはもう光らないぞ?」
「分かりませんよ?」
ビフォスは強気に標本箱を博士に押し付けた。博士はさらに戸惑いながらもキッチンへ向かい、準備を始めてくれた。鍋が温まった頃合いを見計らってビフォスがカーテンを閉めて電気を消す。博士がたくさんの光らない欠片を鍋に入れた。蓋を閉めてしばらくしてから博士は「ほら」と暗い声を出した。ビフォスはいつものように持ち上げてもらう。鍋の中には銀河系はなく、生気を失った欠片で埋め尽くされていた。
「言っただろ。二度と光らないって」
ビフォスは気にせず欠片に目を凝らし、一つ一つの欠片を観察した。それは祈りにも似ていた。静かに黙って鉱物を見つめ続ける。
きっと博士が涙を流していたのは、弟さんが亡くなった日だ。博士はどんな思いで、自分を作ってきたのだろう。小さな欠片から、ここまで大きく育てるために、何度溶液を作り、何度触ってきたのだろう。物言わぬ鉱石を黙ってを見つめ続けて、博士はその先に一体何を見たかったのだろう。ビフォスが動き出した理由がそこにあるなら、博士にその先を見せてあげたい。いや、見せれるはずだ。
未だ闇しかない銀河系を鉱物の目は一心不乱に覗き込んだ。
ひそひそ………。
全身をかすかに震わすような小さなつぶやき。ビフォスは息を飲んだ。
「あ、博士。見てください!」
それは唯一、暗闇の中で儚くも強く光っていた。砂粒ほどの翡翠の光は暗黒の中の道しるべのようだった。
「光りましたね」
「ありえない。二度光るなんて……」
「でも光っています」ビフォスは博士の方に顔を向けた。「光ってますよ」
博士は翡翠の光りを見失うまいと瞳を大きく見開いていた。博士の黒い瞳には翡翠の光りがしっかりと灯っている。その瞳から、一滴涙がこぼれ落ちた。温かいその滴はビフォスのほおを濡らしていった。
結晶の子 稲葉郁人 @ikuto
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