第3話 南極石

 広場にある桜の木の葉が茶色に染まった。博士は窓の外を見ながら「秋が来たな」とみけんにしわを寄せた。ビフォスは長机にあめ玉ほどの藍方石を瓶詰めにし、琥珀を布で磨いていた。琥珀は巨大な空豆のような形で、中に小さな虫が入っていた。

「博士は秋が嫌いなんですか?」

「この時期に来る奴が嫌いなんだ」

 愛好者の人かな。ビフォスも外を眺めた。

 博士の元を訪れる人は二分される。鉱物愛好者か、何か事情を抱えている人。どちらに対しても博士は冷たいが、何度も訪れてくる人は愛好者に限定されている。ビフォスは同じ女性が親しげに二度やって来たことを覚えていた。人が訪ねてくると、博士はビフォスに隠れているように言う。この世に不思議はあるが、それをいちいち騒がれて説明するのが面倒なのだ。

「ちょっと散歩してくる。琥珀は標本ケースの中にしまっておいてくれ」

 博士はそれだけ言うと、外に出て行ってしまった。入り口に面している棚に空の標本ケースがあったはずだ。丁寧に琥珀を磨いた後、両手に抱えて棚の標本ケースに琥珀を収めた。

 すると、広場の方から足音が聞こえてきた。静寂を煮詰めたようなこの家では、外の音がはっきり聞こえる。博士? ビフォスは扉を見た。いや、違うかな。足音はこっちに向かってくる。しかも軽く走っているように感じられる。居留守をしておけば大丈夫かなぁ。ちらりと隠れることが頭によぎった瞬間、ノックもなく扉が勢い良く開けられた。

「片桐ー! 居るかい?」

 だ、誰? ビフォスはぼうぜんと扉を開けた男を見た。よれた茶色のトレンチコートに皮の手袋をしている。ハットから癖のある少し長い髪が見えた。一見すると若そうだが、声が低くしゃがれている。一体何歳だろう。

「あいかわらず返事はなしか……おや?」

 全く動けずにいるビフォスに、男は興味津々で近づいて来た。同じ目線にしゃがみこむと、人懐っこそうな無邪気な目でビフォスを覗き込んだ。

「君、人間じゃないのだな。いやぁすごい。おっとそうだ片桐を知らないか?」

「カタギリってなんですか?」

「片桐はここの家主だろう? あ、そうだ君はなんて名前だい? 前に片桐に見せてもらった水晶のような」突然何かが男の頭に当たる。男は短い悲鳴を上げた。床に落ちたのは水の入ったペットボトルだった。

「あ、お帰りなさい」

 ビフォスは開けっ放しの扉に立つ博士を見つけた。不機嫌極まりない顔をしている。

「おお! 片桐、半年ぶりだな」

 男はそくざに立ち上がると大きく両手を広げた。博士はろこつに舌打ちをする。

「ビフォス、こいつを家に入れるなくていい。あんたは勝手に入ってくるな」

「また一段と目つきが悪くなったんじゃないか?」

「黙れ。あんたは鉱物愛好者じゃないだろ」

「この子一緒に住んでるのかい? 君の名前知らないみたいだったよ?」

 博士は人間が嫌いだ。けれど思いっきり暴言を吐いたりはしない。それにこんな風に長々と話したりもしない。ひょっとして……。

「二人は友達ですか?」

「そうとも!」

「違う!」男と博士が同時に言った。


 奥の実験机にとりあえず三人は座った。ビフォスは隣で、博士のみけんのしわを見ていた。二人の向かいに座る男が咳払いをする。

「では自己紹介から。私は片桐の友人」博士が「違う」と釘をさす。「エルウィです。よろしくね、ビフォス」

「は、はぁ……」 

 名前は外国人みたいだが、日本人にしか見えない。ビフォスは握手を求めたエルウィに首を振った。うっかり手が折れたら博士はこの人を本気で追い出すかもしれない。エルウィは気にしていないようだ。

「エルウィ、は本名ですか?」

「もちろん違うよ。私は鉱物ではなくて人に寄生する植物の愛好家でね。アフリカ奥地に植物を求めて行った時、ママイ族からエルウィ、植物の友人と呼ばれてたのさ。この名前がお気に入りでね。今ではこっちが……」

「要件を言え」

「いやぁ、おもしろい物を見つけてね。丁度、帰国するところだったからお土産に持ってきたのさ」

 エルウィはコートの内側をあさると、小瓶を取り出した。ビフォスは身を乗り出して小瓶を見た。透明な液体が入っている。

「水? ですか」

「いいや。これは南極石といって歴とした鉱物さ」

「本当ですか博士?」

「くやしいことにな」

 エルウィから南極石の小瓶を受け取る。ビフォスは小瓶を振ってみた。ちゃぷん、と南極石は液体の音を出した。

「液体の鉱物ってすごく珍しいんじゃないですか?」

 それなら博士はものすごく喜ぶはずだ。ビフォスは博士を見上げた。

「そうでもない。身近にある氷だってそうだ」

「氷が、ですか?」

「基本、鉱物は固体でなければならないが、例外が三つある。一つが南極石。後の二つが氷と水銀だ。どれも暖かいと液体になってしまうが鉱物として認められている。おい、エルウィ。どこで取ってきたんだ? カリフォルニアか?」

「南極で探しものをしていてね。ついでに」

 さも当然のように言うエルウィ。ビフォスは南極がむせ返るほどの雪で覆われていることは知っていたが、どこにあるかは知らなかった。後ろの壁に世界地図が貼ってあることを思い出して、見に行く。日本と南極の距離を指でなぞった後、慌てて博士に耳打ちをしに戻った。

「南極って遠いですね。すごいですね」

「本当ですネ」

 寒い南極で取れた鉱物が手の中にある。ビフォスは椅子に座り直して、何度も小瓶を振ってみた。

「南極石は冷蔵庫にでも入れれば固まるよ」

「ありがたくもらうから帰れ」

「それからこれが」エルウィは博士を無視してさらにコートの内側から何かを取り出す。

「結晶の中にある南極石さ」

 手のひらほどの透明なケースの中に、紫水晶が入っていた。夜空を切り取ったように涼やかな色をしている。その結晶の中に空洞があり、液体が入っている。

「晶洞か……」

 博士も少し身を乗り出した。

「晶洞ってなんですか?」

「中が空洞になっていている鉱物のことだ。中に別の結晶ができてたり、液体が入り込むこともある」

 ビフォスは小瓶の南極石を机に置いて、紫水晶を受け取った。博士とエルウィは再び言い合いを始める。ビフォスは紫水晶をあらゆる角度から眺めた。水晶はみているだけで硬さを伝えてくる。あらゆる方向に結晶は伸びていて、美しいがどこか攻撃的だ。けれどその中には触る者を傷つけない液体が入っている。

 なんだか……「博士みたいですね」

 言い合いをしていた博士とエルウィが動きを止めた。

「見た目が硬くても中身は優しいなんて博士みたいです」

 博士はあっけにとられて口を半開きにした。エルウィは両手で口元を覆った。

「君みたいな無愛想で口の悪い人間も、素直で純粋な子に育てられるんだねぇ。私は感動したよ」

「うるさいぞクソじじい」

 二人が再び言い合う横で、ビフォスは紫水晶を何度も傾けていた。


 大きな窓から夕日が差し込む頃。ビフォスはエルウィに謝った。

「ごめんなさい。博士、二階の部屋に行ってしまって……怒ってはないはずです」

 エルウィは扉に手をかけて「毎年こうだよ」と笑った。

「私は彼が学生の頃から知り合いなのさ。彼は君のおかげでずいぶん丸くなったようだ」

 扉を引こうとして、エルウィが急に改まった口調で話し出した。

「君は本当におもしろい。どうして鉱物が動くんだろうか」

「ボクにも分かりません。でも、博士の血が混じったのが原因じゃないかと思います」

「それでかな? 片桐に顔が……あ、いや。どちらかというと弟の方に似てるな……」

 言葉の最後の方はほとんど独り言だった。弟といえば『博士』と呼んでいたのは弟さんだと聞いた。ボクは弟さんの声を聞いていたらしい。それに、まともに博士の家族の話を聞くのはこれがほとんど初めてだ。エルウィが外に出ようとする。慌ててビフォスは呼び止めた。エルウィは胸を少し反らせてビフォスを見る。

「あの、今は弟さんはどこに?」

 エルウィは「彼は」と言うと目を細めた。

「死んでしまったよ。病気だったんだ」

 木の扉が軋みながら閉じてゆく。エルウィが何か言った。完全に扉が閉まった後、家の中にはまた静寂が戻ってきた。去っていくエルウィの足音を聞きながら、二階への階段を仰ぎ見る。それから実験机に戻って置いていた紫水晶を見た。透明のケースを外すと、少し土っぽい匂いがした。ビフォスは紫水晶を持ち上げて、軽く振ってみた。南極石が波打つ。エルウィが去り際に言った言葉を思い出す。

──それだけじゃないがね──

 夜空を切り取ったように涼やかな色。ビフォスよりも硬いこの鉱石の中に液体が入っている。小瓶の南極石は透明だけれど、紫水晶で覆われたこの液体は、何色をしているのか分からなかった。

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