第2話 ビフォスファマイト

 突然目を開くことができた。ようやく彼の血の情報が染み込んだのだ。まつ毛についていた気泡が瞬きをする度にゆらりと離れていく。子供は溶液の中にいた。かすかな歪みのある世界から、子供は驚いた顔をしている白衣の彼を見た。子供は水面を突き破るようにして立ち上がった。体は五体満足に揃っている。そして快晴の空を薄めた色をしていた。

「何が起こった?」

 白衣の彼は精一杯の疑問を口に出した。子供は自分が入っていた容器のラベルを指差して答えた。

「博士の育てたビフォスファマイトです」



 博士と子供は理科室の机を挟んで向かい合っていた。最初は驚いていた博士も一週間もすれば慣れてしまったもので、子供を「ビフォス」と呼んでいた。あんなに慌てて子供服を買いに行き、小指を動かすのにさえ異常なほど敏感に反応していたのにだ。

 ビフォスは毎日、博士の作業する様子を見ている。

 博士は水晶を透明度の高い順に並べたり、誰かへ鉱物を郵送するために箱に詰めていたり、難しい名前の化学薬品を使って結晶を育てる溶液も作っていた。

 ビフォスは自分も溶液に育てられたんだと思い返した。博士の作業を見るのに飽きるとビフォスは部屋の中を歩き回った。時々人が来るが、博士の対応は酷く冷たいもので、しばらくして博士は人が嫌いなのだと気がついた。集められた鉱物を一つ一つ、じっくり時間をかけて見ていく。棚の中に透明な水晶や雲母があった。ビフォスは動かない仲間を起こすように指で叩いてみた。カチッという硬い音が返ってくるだけだった。

 棚の上を見上げて、次に自分の入っていた容器の前に立つ。子供一人がすっぽり入るほど巨大なビーカーだ。縁をなぞるとほんの少しほこりがついた。それからアーチ型の窓を覗き込んだ。すると作業に夢中になっていた博士が顔を上げた。

「あんまり日に当たるなよ」

「どうしてですか?」

「そりゃあ、お前」博士はビフォスを日陰の方に手招きした。「溶けるから……」

 ビフォスは初めて自分の体が溶けるのだと知った。さらに博士は続ける。

「それとお前の体はもろいから、簡単に砕ける。激しく動くのもダメだ」

「ボクは鉱石だから硬いはずです」

「ビフォスファマイトは鉱石の中でも柔らかいんだよ。ちょっとした衝撃で割れる。俺は何回も割ってしまった」

 ビフォスは自分の体を改めて見た。紺色のフリースの袖を捲り上げる。人の肌とは程遠い硬度をもつ鉱石の体。触ればほんのすこし冷たい。博士いわくビー玉の感触に似ているらしい。内臓はないし、呼吸も必要ない。体は乾いた布でほこりを拭うだけで清潔になれる。ビフォスは腕を太陽の光にかざしてみた。光が腕を通過して床に薄水色の影を落とす。

「……今は夏なんだから本当に溶けるぞ」

「はい」

 ビフォスは袖を元に戻した。入り口近くの窓から見える桜の木は、すっかり花を散らせて今は青々とした葉をつけている。夏と呼ばれる季節に目を覚ましたせいで、桜の花をこの目で見たことはない。博士は実験机へ戻った。ビフォスも側へ行って博士の隣に立った。そうやって、静かな毎日を送り続けた。


「そういえば、なんで博士って呼ぶんだ?」

 ある日、ビーカーに入れたコーヒーを飲んでいた博士がたずねてきた。

「誰かが博士を博士って呼んでました。動ける前も博士の声や周囲の音は聞こえていたんです」

「それは弟かもな。あいつはよく俺のことを鉱物博士って言ってたから」

「そうなんですか? そういえば博士はいつも黙ってボクを見てましたね。口があれば話せたんですけど」

「鉱石にも意志があるのか?」

「いいえ。動けるようになってから思ったことです。ボクらは小さなつぶやきの集合体ですから」

「つぶやき……?」

「水晶の声を聞きましたよね? その声は長年ボクらがつぶやいてきた言葉を再生したものなんですよ」

 博士は首を傾げてまたコーヒーを飲んだ。どうやら理解してもらえなかったらしい。コーヒーを飲み終えると博士は白衣を脱いで、ビーカーと共に実験机の上に置いた。それから机の下に置いていたリュックサックを背負うと腕時計を確認した。

「買い物に行ってくる。夕方には帰ってくるから、おとなしくしていろよ」

 ビフォスは素直に頷いて、博士を見送った。博士が出て行くと、唯一音を出していた人がいなくなる。鉱物の心地よい冷たさが部屋をそっと侵食していった。

 ビフォスは水晶の飾られる棚の上を見た。チラッと乳白色の鉱物が見える。あれって……。ビフォスは棚と棚の間に置かれていた小さな脚立を引きずり、水晶の棚の前に置いた。古い脚立なのか一足登るごとにネジのきしむ音がする。一番上まで登ったが、身長が低いビフォスには全然届かない。背伸びをして精一杯手を伸ばす。その時、脚立が悲鳴をあげて傾いた。ビフォスはそれに引っ張られるようにして床に落下した。

 パキン──!

 甲高い音と共に右足の感覚が途絶えた。

 床にへばりついた状態で腕と頭、胴の無事を確認した後、体を起こした。

 左足はベージュのズボンからしっかりのぞいているが、右足はふくらはぎのところで途絶えていた。少し離れた所に右足が転がっている。もうくっつかないよね? ビフォスは折れた右足を両手に抱えた。博士が帰ってくるまで待ってよう。ビフォスは足の断面を指でなぞった。表面に凹凸はなかった。

 

「何が起こった?」

 予告通り夕方に博士は帰ってきた。ビフォスは「お帰りなさい」と博士に言った。

「脚立に登ったら落ちたんです」

 博士はリュックサックを床に放り出してビフォスの足を観察した。それからふいっと目を逸らした。

「痛いか?」

「ボクに痛覚はありません」

 博士はビフォスを腕に抱きかかえて、実験机に連れて行って座らせた。そして足元に大きな容器を持ってくる。それに足を入れるよう言われた。ビフォスはおとなしく従った。容器に折れた右足を入れ、断面をぴったり合わせるようにする。博士は机に置いていた白衣を羽織ると机の後ろのキッチンで薬品を用意した。ビフォスは体を後ろにねじって博士の後ろ姿を見ていた。まず蒸留水をたっぷり鍋で沸かし、燐酸水素アンモニウムを入れる。さらに大きな鍋で湯煎し完全に溶かす。しばらくして溶液が冷めると、博士はそれをビフォスが足を入れている容器になみなみと注いだ。

「これは、人工のビフォスファマイトを作るときの手順と一緒だ。うまくいけばくっつく。けれど……当然、余計な結晶が足について歪になるはずだ」

 ビフォスは無言で頷いた。しばらく二人は黙って足を見ていたが、博士の言葉が沈黙を破った。

「どうして脚立に登った?」

「あれを」ビフォスは棚の上の乳白色の鉱石を指差した。「見たかったんです」

「天然のビフォスファマイトだ」

 博士はゆっくりと棚のそばへ行き、倒れた脚立を起こして登りビフォスファマイトを取った。持ってきてくれたそれは、幾つもの太い結晶が子供の頭ほどの大きさに集まっていた。

「博士はどうしてボクを育てたんですか? こんなに大きな天然のビフォスファマイトがあれば人工物なんて要らないと思います」

「天然物は色が悪いんだ。人工物だと透明度のある鮮やかな色をだせる。それに、お前を作り始めたのはこれを手にいれる前だからな」

 博士はビフォスファマイトを実験机に置いた。ぼんやりとそれを見つめる博士は、どこか遠くを見ているようだった。ビフォスはその姿を、前にも一度、見たことがあった。

「泣いていました」

「……誰が?」

「博士が、です。ボクを見ながら黙って涙を流してました」ビフォスは首をかしげた。「その時から人間が嫌いだったんですか?」

 天然物を見ながら、博士は白衣のポケットに両手を突っ込んだ。

「ずっと嫌いだ。金にがめつく強欲で、人を裏切って陥れることしか考えてない」

「博士も人間ですけれど」

「だから毎日吐き気がするよ」

 ひそひそ…………。足の方から微かなつぶやきが聞こえてくる。溶液の中で早くも結晶たちは集まろうとしていた。ビフォスは目を閉じてつぶやきに耳をかたむけた。

「つぶやきっていうのは、情報のことだろうな」

 博士がぽつり、と言葉をこぼした。

「長い年月をかけて集まった結晶の情報が、お前には記憶として還元されてるんだ。だから、さも意識があったように感じるんだ」

 そう言われている間も、つぶやきは止まらない。結晶はひそひそと今にも消えそうな声でつぶやき続けていた。


 一週間経って、ビフォスの足は完全にくっついた。博士が言っていた歪な足にはならなかった。元の通り足の表面はつるりとしていて快晴の空を薄めた色をしている。ただ、折れた部分に細かく白い砂糖のような結晶が輪のようにできた。つぶやきがあふれ出したのかもしれない。ビフォスは輪をそっとなぞった。紙やすりのようにざらついていた。

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