結晶の子

稲葉郁人

第1話 水晶

そこはビル街の喧騒から逃れるように入り組んだ所にあった。

 路地を進んで行くと突然円形の広場に出た。息をすることすらためらうほどの静寂。まるで世界から切り離されたような空間だった。広場の中心に大きすぎない品の良い桜の木が、もも色の花を咲かせていた。

 広場のいくつかある建物の一つがそこだった。日に焼けて黄ばんだ壁に朱色の屋根、飴色の扉の左横に大きな窓がはめ込まれている家。

 飴色の扉を通り抜けて、初めに目に飛び込んで来るのは自分と同じ、たくさんの鉱物だった。壁に沿っていくつも古い棚が並び、その中には丁寧に鉱物が飾られている。天井からいくつも裸電球がぶら下がっていたが、いくつかは空で、電球の中には透明や紫、黄色、水色、深緑などといった色あいの水晶が入っていた。

 入り口から左手側に理科室の実験机が置かれている。フラスコや、試験管。バーナーまで置いてあった。机の奥には二階へ続く階段があった。

 棚や、部屋のいたるところに置かれている大小様々な机の上には鉱物で埋め尽くされていた。全て丁寧に標本箱にしまわれ、大きなものはガラスケースに入れられている。手製のラベルには全ての鉱物の名前が記されていた。家の中はほこりっぽく、一番奥の壁にアーチ状の窓から差し込む太陽の光を反射して空気中の細かいゴミがいつも家の中で輝いていた。

 キーン……。

 透明感のある甲高い音が、かすかに部屋に広がる。

 アーチ状の窓を左を曲がり、覗き込む。そこは実験スペースとでも言うのか、実験机が真ん中にあった。その後ろはキッチンになっていて、左壁には実験器具や薬品の入った瓶が置いてある棚とトイレへの扉。右壁にも同じ棚があった。

 実験机に彼が座っている。短めに切られた髪。黒いVネックのシャツにジーンズ。白衣を羽織っている。まるで理科の先生だ。彼は目を閉じて、机の上の小さな機械に耳を傾けている。それが音を発していた。小さな灰色の箱に細いガラスの筒が付けられている機械は「水晶発振子」という。筒の中に入っている水晶に特定の周波数を与えると水晶は振動を起こす。その音を彼はよく聞いていた。

 実験机のすぐそばに、液体で満たされた大きな容器があった。ガラスケースまで被せられ、中には子供ほどの巨大な鉱物が沈んでいる。快晴の空を思わす透明感のある鉱物だった。それを目にした瞬間、ふと意識が歪んだ。


 ぎぃいい……。突然、扉を開く音が静寂を侵した。彼がため息をつきながらスイッチを切った。彼は重い足取りで扉の方へと向かった。液体の中から見る景色は、全ての物の輪郭が曖昧になる。彼と入って来た誰かが言葉を交わしている。音は液体を通すととたんにくぐもって聞こえる。かろうじて女だということは分かった。女は激しく彼に向かってなにかを言っている。彼は相手にしていないのか、足音がこちらに帰って来た。女のハイヒールの音がコツン! コツン! と、床に穴を空けそうな勢いで彼を追って来た。

「ねぇ聞いてるの? 今すぐこの店と土地を私に返してちょうだい。そうすれば全部なかったことにしてあげるから」

 女は猫なで声に針を千本忍ばせたような喋り方で彼に迫った。彼が目の前に立つ。真っ黒な瞳がこちらを覗き込んできた。嵐が過ぎ去るまで、自分には何もできないのだと言われているようだった。

「あら? 何それこの前来た時はそんなものなかったじゃない」

 女は彼の横に立つと、憤然としていた顔を変えた。「ビフォスファマイト? すごく大きな鉱物ね。しかも液体の中に入ってるのはどうして?」

 女は思ったことを片っ端から言葉にする。それから良いことを思いついたと言わんばかりに、手を叩いた。

「じゃあこれを売っぱらいなさいよ。けっこうな大金になるんじゃないの? とりあえず今はそれでも良いわ」

「俺はあんたのじいさんから、ちゃんとした手続きでこの店を貰ったんだ。文句を言われる筋合いはない」

 女の提案を彼は視線を合わせることなくバッサリと断ち切った。

「ふざけないでよ。あなたが祖父から奪ったんでしょう。本当は私達家族の物だったのに!」

 彼は横目で女を見た後、ゆっくりと、言葉に軽蔑を染み込ませながら言った。

「じいさんはあんた達を家族って言ってなかった。最悪な寄生虫って言っていたんだ。じいさんが死んでからもむしり取って行く気か?」

 一瞬、女の怒りが燃えるように湧き上がったが、瞬時にその怒りは女の中で溶けることのない凍土に変わった。

「そうね。あなたは家族ってものが分からないのよね。祖父はかわいそうだって言ってたけど、そうやってあなたも祖父に寄生してたんじゃないの?」

 女が彼に背を向けた。もう帰るらしい。叩きつけるような靴音が数回してから、ぎぃいい……と、扉の閉まる音が部屋に広がった。嵐が過ぎ去っても、いつも部屋を満たす心地の良い静寂は戻ってこなかった。

 彼は女が帰ってからも身動き一つしなかった。ほんの少し眉間にしわを寄せて、意識だけを遠くに行かせているようだった。

 やがて彼はおもむろに両手を伸ばして来た。彼の手が液体に入った時、波紋が水面に広がり、ゆるやかな振動が体を叩いた。彼はまるでこっちに来るように両手を広げている。輪郭のぼやけた彼の口が小さく動いた。彼の両手が触れた。しかし、いくつものトゲが彼の手を拒んでしまった。柔らかな人の肉がトゲに当たると、薄い膜を破るような感覚が伝わってきた。快晴の空を薄めた色をする液体の中に、赤黒い血が混じる。彼が素早く液体から手を抜いた。水面が激しく波打って、ぐわんぐわんと液体を揺らした。彼は慌てて背を向けて、実験道具がしまわれている棚をあさった。

 じんわりと、赤黒い血が目の前で霧のように広がっていくのを見ていた。そして唐突に、この血を取り込めると確信した。無数に伸びる自分のトゲの先から血を丁寧に全て吸い取った。彼の血はいつも浸かっている液体と違って、ぼんやりと熱く、苦味とほのかな甘みを伝えた。

 彼が振り返った時、液体には血は一滴もなかった。彼の左中指には絆創膏が貼られている。ガーゼの部分が薄紅色に染まっていた。彼とまたしばらく目が合った。彼は少しだけ目を伏せると、実験机に戻った。

 キーン……という透明感のある甲高い音が部屋に広がる。彼があの機械のスイッチを入れたのだ。嵐の余韻を、水晶の音が洗っていく。穏やかな波が漂流物を追い出していくようだった。後はただ、太陽の光がひっそりと部屋に入り込むだけだった。

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