終章
ガタンッ!
車輪が乗り上げた衝撃で、元子は追憶のまどろみから醒めた。
「到着したようですね」
手を伸ばして物見窓をそっと開くと、目の前に蔀(しとみ)を締め切った簡素な長屋風の造りをした屋敷が広がっていた。どうやらここが新しい我が家らしい。想像していたよりは悪くない。パタンと窓を閉めると、今度は前簾越しから邸内を観察した。乳兄弟実誓が住み込みで管理を任されているというこの車宿(くるまやどり)は、現代でいうところの車庫に相当する建物のことで、車が目的地に到着するとまず牛たちはここに誘導され轅(ながえ)から解放された。というといかにも粗末な小屋のような建物を想像してしまうかもしれないが、僧侶たちが控家として使用しているものになると、中流貴族の邸宅程度の結構贅沢な造りをしているものも多かったらしい。天台座主の高弟として宮中にも出入りする実誓もその一人で、しばらく都に滞在する際などはここで寝起きして仕事を片づけていたが、彼が比叡山に帰っている間は家司を含む数名の者に維持が任され、事実上空き家となっていた。元子にすればまさに天の助けで、父親に勘当を食らった彼女は真っ先に讃岐へ詰め寄ると、躊躇する乳母の筆先を取らんばかりに、息子へ懇願の消息を書かせることを強要した。結果乳母一家が養い君の我が儘に抗えるはずもなく、今日のこの夜陰に紛れた家出が敢行されることとなった。
「おひいさま、もう車を降りてよろしいようですよ」
乳母の声に促され、元子はゆっくりと身を起こし車外へ出た。人気がなく女房さえ雇っていない邸内を、恐れ入った様子で案内する下仕えの女の後へ続きしずしずと進む。我ながら思い切ったことをしたものだ。けれど、愛を守るためにこれ以外の選択肢は思いつかなかった。あのまま生家堀河院に止まりつづければ、遅かれ早かれ父によって山奥の尼寺へ押し込められていただろう。もっとも男の助力を乞えば、そういった状況下になったとしても逃げ出せないこともなかっただろうが、さらに色々な面倒が生じるだろうし、何となく今このタイミングで出奔するのが最適な頃合いのように感じられた。
「あら?あれは…」
先を歩いていた讃岐が、ふと呟いた。彼女の肩越しに前方を窺うと、これから自分の居所になるという屋敷の最奥の部屋の前で、見覚えのある後姿が庭先に目を遣りながら所在なさげに立っている。
「頼定さま」
比較的小さな声でつぶやいたはずだが、名前を呼ぶと彼は嬉々としてこちらを振り向いた。直衣どころか、今夜は狩衣だ。しかも遠くから見るに色は檜皮(ひはだ)色の無紋で、平生の彼からは考えられないくらい地味な装いである。
「どうなさったの?」
いくつかの疑問を含めて、元子は尋ねた。確かに今夜の決断は前もって彼にも知らせてはいたが、全て自分の責任で行わなければならないと思い定めていたため、あえて詳細は伝えないでおいたはずなのに。
「君の乳兄弟実誓から聞いたのさ。彼はなかなか使える男だね。今夜の君の大立ち回りを心配して、見守ってやるよう頼まれたんだ。それにしても水臭いじゃないか。〝共犯者″の俺に何も言わずにこんな面白いことをするなんて」
「まぁ、面白いなんて。私には一世一代の決断だったんですよ。大方明日になったら父は「もうあの子にはビタ一文やらん!」と怒り狂うに違いないわ」
「ふぅむ、そうだな。このままいけばあの広大な堀河院も、妹君の延子殿と婿殿の敦明親王さまが相続することになるだろうな。でもそこまで考えていながら、どうして家を出たんだ?」
「それは…、もう本当に意地悪な方ね。全て分かりきったことでしょう?」
ぶすっとした表情で女が言い返すと、男は屈託なく笑った。
「あぁ、すまない。でもこれもいわば一種のノロ気。君からの愛情を実感したいという愚かな男心ゆえさ。でも、そうだな…。今度顕光殿に会ったら話し合ってみるよ」
「えっ、何をですか?」
「そりゃあ当然君と俺のこれからのことだよ。多分顕光殿だってしばらくはそっぽを向いているだろうが、もともとは君のことを溺愛していたんだ。何時までも非情にはなりきれないはずだよ。それに幸い世論は俺たちの方に味方してくれているようだし」
こう言った頼定は元子の肩に手をまわすと、共に新しい住まいへ足を踏み入れた。そうなのだ。驚いたことに今回は、以前あれほど元子に対して批判的だった世間の人々が、「娘御の御髪(おぐし)を無理やりおろすなど、一体右大臣殿は何がご不満なのだ?皇族の血を色濃く受け継ぐ源宰相さまほど、婿君として不足のないご身分の方はいらっしゃらないだろうに」、と自分たちの仲を容認し父を非難しているらしいのだ。多分それこそキサキ時代に頼定との関係が明るみに出ていたら大変なことになっていたのだろうが、つくづく人の運の良し悪しはタイミング次第である。
(そう考えると、私にもツキがまわって来たのかもしれない)
襟元をほどき寛いだ格好になろうとしている男を眺めながら、元子は物思いに耽った。けれどまぁ、自らの意志で髪を切った定子とは何という違いだろう。頼定には一世一代の決心とは言ったものの、とくに父と大喧嘩してからこちら、自分の行動はやけっぱちな感が否めない。はてさて、もし後世の人などが自分の人生を耳にする機会があったら、どんな評価を下すことやら。聞きたいような、聞きたくないような。でも…。
(これはこれで、ある意味私らしいわ)
行き当たりばったりで、滑稽で、中途半端で。しかし元子は、以前よりそのことをコンプレックスには感じていなかった。むしろ何処か面白いとさえ思い始めてきている。どうしてだろう。近頃びっくりするほど物事を肯定的に楽観的に受け止めることができるようになってきている。
(もしかしたら、この髪のせいかもしれない)
彼女はすっかり寂しくなった己の首筋にそっと手を当てた。悲嘆に暮れる讃岐の手前あまり大っぴらにはしていないが、実のところ元子は今の髪型を結構気に入っていた。何とっても頭が軽い。洗髪はずっと楽になったし、寝る時もせっせと打乱箱(うちみだりのはこ)へ収める面倒がない。人様からみれば大したことではないかもしれないが、生活のなかでいくつかの手間が省かれた解放感は彼女の心に羽をはやした。いずれはまた元のような長さに伸ばし戻さなければならないだろうが、今はもう少しこの〝身軽さ〟を楽しみたい。あるいはこの〝身軽さ〟を得ることができたからこそ、定子は広い視野で物事を考えることができるようになったのかもしれない。
「何を考えてる?」
あまり物思いに耽り過ぎたのだろう。いつの間にか、頼定から興味深そうに見つめられていた。話してみようか。一瞬元子は思ったが、やはり思い止まった。だって殿方の髪は私たちよりずっと短いもの。だから代わりに、愛しているよと言うように「何でもないわ」と微笑んだ。
「何でもない、何でもないか。でも〝とんでもない〟ことっていうのは、往々にしてその〝何でもない〟ことのなかに紛れているものなんだよな」
冗談とも本気ともつかない意見を言いながら、男は女の顎をそっと持ち上げた。確かに彼の言う通り一見〝何でもない〟平和そのものの今の世にも、〝とんでもない〟ことはたくさんある。そう思い巡らして、元子はふと疑問を抱いた。
(そういえば私が水を産んだという噂は、一体誰が言い出したことなのかしら?)
いまだに思い出すとほろ苦い感情が湧く体験であったため、その噂についても常に己の人生に纏わりついているのを意識しながら、強いて目をそらして深く考えないようにしていた。だが思い出というのは、良いものこそ主観的な視点のまま昇華されていくが、悪いものは歳月が流れるにつれ突き放し客観視するようになっていく。無人だった承香殿に死骸が持ち込まれた件といい、あるいはもしかしたら…。と、そこまで考えて元子は首を横に振った。今更何を蒸し返す必要があろう。もはや全ては過ぎ去ったこと。かつての私が抱えていた問題だ。俯いていた視線をそっと上げると、力強く温かい眼差しが見守ってくれている。そう。いまの私は、ただの〝元子″。藤原でも承香殿でもない。ただの〝元子″なのだ。正直に言えば、まだほんの少し心細い。けれどそれ以上にわくわくもしている。この男(ひと)がずっと傍にいてくれるなら、私はきっともっと私らしくなれる。
女は白く細長い腕を伸ばすと、男の額と自分それをコツンと重ねた。しばらくそのまま無言で見つめ合った男女は、やがてどちらからともなくクスクスと笑い出した。ただただ愛する人に誠実でいられること、それが嬉しくて堪らぬというように。
承香殿女御藤原元子の青春 長居園子 @nanase7000
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