第10章 勘当

 長和二年(一〇一三)の閏十月は、翌月に新嘗祭(にいなめさい)を控えていたため、殿上人たちは準備に追われ比較的忙しい日々を送っていた。その日午前の政務が終わり、清涼殿の昼御座(ひるのおまし)を後にした顕光は、いつのもように休憩を取ろうと殿上間へと足を踏み入れた。

 (やれやれ。毎度のことながら、新嘗祭は舞姫の人選やら大量の酒の手配やらで、準備する側にとっては本当にしんどい行事だわい)

 しょぼしょぼとする目を擦り、同僚たちが固まっているところから少し離れた円座に彼は腰を下ろした。とくに今年の新嘗祭は、今上三条帝がご即位なさってから初めて行われる大嘗祭(だいじょうさい)でもあるため、通年のもの以上に盛大な儀式にしなければならならない。お蔭でのんびり屋の自分まで雑務に駆り出され、朝早くから夜遅くまで宮中であれこれと采配をふるう羽目になり、我が家に帰れない日さえ幾日かあった。

 (わしゃ仕切り役には向いておらんのだがなぁ)

 慢性的な寝不足を少しでも解消すべく、固い机に肘をついた彼は、たるんだ頬をのせてうつらうつらと仮眠を取り始めた。ちっとも寝心地は良くないが、目を休める分には多少の効果があるだろう。若い公達の声を遠くに聞きながら、顕光は現実と夢の世界を行ったり来たりしていた。と、ふいに視界の端を鮮やかな何かが遮った。目を開けて良く見ると、それは精緻な刺繍が施された平緒であり、さらに顔を上げると、大納言藤原実資が例の必要以上に厳めしい面構えをして自分を見下ろしている。

 (ゲッ!)

 声にこそ出さなかったが、狼狽した顕光が鯉のような間の抜けた表情しているのをギロリと睨めつけた実資は、どすんと音が鳴らんばかりに彼の隣に座り込んだ。何がしたいのだ、コイツは?こちらが気まずくなるほどじいっと見つめてくる同僚に、顕光は冷や汗まで垂れてきそうな心地がした。儂はそっちの趣味はないのだが。あらぬ懸念を抱き始めた頃、ようやく頑固一徹な男が口を開いた。

 「まったく、根も葉もない噂を立てられてご息女も苦労絶えませんな」

 「はっ?」

 ますます訳が分からなくなった顕光は、首を傾げて固まってしまった。どう返答して良いものやら。毎度のことながら本当に扱いづらい男である。粗忽者の顕光は若い頃から彼が苦手であった。表は鷹揚裏は老獪を信条とする藤原氏の男にあって、何故このように融通の利かない奴が出てきてしまったのだろう。困惑を極める顕光を無表情で観察した実資は、手にした笏を口に当てるとコホンと咳払いをひとつし、もったいぶった調子で話し始めた。

 「貴殿のご息女前(さきの)承香殿女御さまに関する噂ですよ。先帝の寵姫でいらっしゃったお方が、あの色好み源宰相頼定と密通なぞ。まったく不名誉なことこの上ない流言ではございませぬか」

 「はぁ!?一体貴殿は何を言っているのだ!元子が密通!?」

 眠気も一気に覚めた顕光は、食ってかかるように実資に問いただした。いっときはあれほど世人の注目の的となった長女であったが、夫帝を失ったいまは自邸でつれづれな日々を過ごしているとばかり思い込んでいたのだ。だからこそ近頃では、いっそのこと出家を勧めてみようか悩んでいたくらいだったというのに。

 (その元子が密通?しかもあの頼定と…?)

 俄かには信じがたい話を聞かされ、顕光は目を白黒させた。自分以外の家族は皆彼を気に入っていたため表向き非難することはなかったが、昔から顕光はあの亡き妻の甥にどうも好感が持てなかった。真面目一辺倒な自分とは異なり、幼少の頃から洒落好きで愛嬌のあった頼定は、しょっちゅう堀河院に顔を出しては息子たちを唆して埒もない悪戯の首謀者となっていた。そのクセいざその悪戯がバレてしまっても、「へへへッ、ごめんよ」と実に憎めない様子で素直に謝るものだから、盛子や他の女房達もつい笑って許してしまうようだった。

 (だが今回のことは、笑って許される問題ではないぞ)

 気がつけば先程まで談笑に興じていた同僚たちが、チラチラと自分たちの方を窺っている。あの表情からして、件の噂はすでに宮中じゅうに広まっているようだ。改めて顕光は実資の方に視線を戻すと、彼は顎のくぼみに笏を当て興味深そうにこちらを見つめている。そういえば何人かいるコイツの妻のなかには、死んだ頼定の妹やヤツの乳母子も含まれていたはずだ。だとしたら密通うんぬんもかなり信憑性の高い話である。というかそもそも、ある程度確かな情報筋から聞かない限り、彼の性格からしてわざわざそのようなゴシップを話題に持ち出してくるはずがない。

 (おせっかいなのか嫌味なのか、どちらにせよいけ好かない奴じゃわい)

 しかし今回は、そのおせっかいのお蔭で娘の醜聞を察知することができたのだ。それにしても、よりにもよってあの頼定が元子に手を出していたとは。そのようなこと、もし今上のお耳にでも入ったら…。

 (せっかく苦労して敦明親王さまを延子の婿としてお迎えしたのに、これでは儂の壮大な計画も全て水泡に帰すではないか!)

 今から三年ほど前に推し進めた次女延子と三条帝の皇子式部卿宮敦明親王との婚礼は、いわば顕光が挑んだ人生二度目の賭けであった。あいだに一条帝の遺児たちが即位することはあるかもしれぬが、両統迭立(てつりつ)の原則に従えば、敦明親王に皇位がまわってくる可能性は充分にある。となれば、延子の産むであろう王子がいずれ帝になる日を臨むのも決して夢ではない。そう一念発起したからこそ、もうすでに二十代半ばを過ぎて行き遅れになっていた延子を引っ張り出してきたのだ。幸い親王は率直で物怖じしない延子を気に入り、いまでは堀河院を常の住まいとして夫婦仲良く良く暮らしている。もしこのまま上手く事が運べば、いずれ延子の対の屋から元気な産声を聞く日も近いだろう。だというのに、だというのに…!!

 (一体元子は、何をやらかしておるのだ!?)

 湯が沸騰するように、ふつふつとした怒りが身体じゅうに行き渡っていく。声を荒げたくなる気持ちを抑え、顕光は据わった目で実資を睨んだ。

 「ちょっと、よろしいですかな」

 彼は座を立つように同僚を促すと、何処か人目を忍んでじっくり話が聞ける場所がないか探し始めた。


 我ながら三十路を過ぎた身で恥ずかしいことだと、元子も己の奔放さに呆れないわけではなかった。だが人生二度目の愛は、先立ってのそれが格式ばってプレッシャーのかかるものであったのに対し、あまりにも自由で感情の赴くままの行為であったため、この幸せを失いたくないという思いが強烈になってしまったのである。そのため自分たちのことが徐々に噂になってきていることを男から聞いた時も、以前はあれほど恐れていた世間の人々の口よりも、噂を気にして彼が自分のもとへ通って来なくなるのではないかという懸念ばかりが頭を占めた。

 「もともとそれほど良い評判ではなかったんだ。今更あれこれ言われたって気にしないさ、俺は」

 思い切って男に尋ねてみると、彼は事もなげにそう答えた。互いの衣を衾(ふすま)代わりに引っかけ単姿で絡み合った男女は、双方の熱で初冬の寒風をしのいでいた。

 「それよりも君こそ平気なのか?先帝のキサキであった堀河の大君さまが、あの好き者源頼定を通わせているらしいなんて噂されて。今回のことで評判を落とすのは、むしろ君の方だろうに」

 「まぁ、そんな。私だって悪評にかけては貴方に負けていませんよ。何しろ私は水を産んだ女御らしいですからね。みんなもう充分私のことは奇人変人と見なしているでしょうよ。だから今更、もっと風変りな女だと思われたところで別に気になりません」

 「そうか、ならいいんだが。それにしてもそう考えてみれば、俺たちは風変り者同士で案外良い組み合わせなのかもしれないな。いやいや全く、縁結びの神は奇妙な取り合わせを思いついたものだ」

 「まぁ、頼定さまったら」

 クスクスと吐息がかった笑いを洩らした元子は、中指で彼の顎鬚をなぞった。そのまま再び濃密な空気が漂い始めた頃、ふいに寝殿の方から無遠慮な足音が聞こえてきた。徐々に近づいて来るそれは、地鳴りのような大声を轟かせており、荒ぶる神スサノオもかくやといった感じだ。

 「何の騒ぎかしら?」

 怪訝そうに呟いた元子は、頼定と共にむっくりと身を起こすと、音源の正体を探ろうと耳を澄ませた。なまじすでに夜中で屋敷は寝静まっていただけに、その声で邸内にいる者全てが叩き起こされたことだろう。しかもよくよく聞いていると、声の主は父顕光その人であり、「もとこぉぉー!!」と怒号を発している。

 「「!?」」

 二人同時に顔を見合わせた男女は、緊急事態に束の間身体を硬直させた。しかしすぐにせまり来る難事を察知すると、元子は直衣をかき集めて男の手に押し込めてこう叫んだ。

 「とりあえず、何処かに隠れていて下さい!!」

 見たことがないほど必死の形相の女に一瞬息を呑んだ頼定だったが、すぐに真顔になり  「何処に?」と落ち着いた調子で尋ねてきた。

 「何処って、えーっと…」

 見回して元子はハタと気がついた。几帳や御簾で大広間を区切る寝殿造は、開放的な反面身を隠すのに適当な場所がない。それでも周囲を見回して、そうだ塗籠(ぬりごめ)ならと思った矢先、はやくも台風の目は対の屋に到達していた。

 「大殿さま!どうなされたのですか、このような夜更けに!」

 転げ落ちるように御簾から簀子に飛び出して来た讃岐は、それで主人が冷静になってくれるといわんばかりに深く深く頭を下げた。両肩を上下させ息を切らした顕光は、そんな彼女を眼光鋭く睨みつけると「元子は何処だ?」と低い声で問うた。

 「はっはい、おひいさまはすでにおやすみになっていらっしゃいまして、只今お起こしして参りますゆえ、今しばらくこちらでお待ちくだっ…、大殿さま!?」

 自分が言い切るのを待たず御簾内に入ろうとする主人に、讃岐は大いに狼狽した。マズイ、これはマズイ。顕光に取り縋らんばかりに彼の前方を阻んだ彼女は、再度懇願をする。

 「どうか大殿さま、いま私がおひいさまをお起こしして参りますので、しばしお待ちを!」

 「ええぃ!うるさいぞ、讃岐!だいたいそなたもそなただ。養い子の行状に目を光らせていなければならぬ乳母が、自ら養い子の不義に手をかすとは!事が済んだらそなたの処遇についても考えるゆえ、覚悟しておけよ!」

 そう言うと顕光は、なかば八つ当たりのように娘の乳母を足蹴にし、荒々しく御簾を持ち上げた。そしてズカズカと置いてある調度品を蹴散らしながら部屋の最奥に進むと、周囲の視線を遮るように御帳台のまわりを取り囲む几帳の前へ立ちはだかった。なかへ入ろうとした矢先、今となっては可愛さ余って憎さ百倍となった長女が、兎のような俊敏さで几帳の合間を縫って現れた。

 「どっどうなさったの、お父さま?こんな夜更けに」

 冷静さを装っているものの、上気し乱れた黒髪にもはや未亡人の孤独はない。よくよく足元を見れば、白い踝に纏わりつくように男物の帯が巻きついているではないか。ここに到るまで心の何処かで娘の潔白を信じていた顕光は、それを見た瞬間実資が教えてくれたことが全て真実であったことを理解した。そうなるともう、なまじ以前は溺愛していただけに裏切られたような心地がして、湧いた怒りは一気にどす黒いものへ変化した。この馬鹿娘がッ!やおら顕光は右手を宙に上げると、元子の小さな頬にぴしゃりと平手打ちをくらわせた。

 「…そなたという子は、体何処まで親を苦しめれば気が済むのだ!?」

 「お父さま!?」

 生れて初めて受けた暴力に、娘は愕然とした。ここ数年来、視線だけで感じてきた父の本音がとうとう暴かれたのだ。腫れた頬を押さえ、悲しみと怒りが入り交じった眼差しを彼女は父へ投げつけた。負けじと顕光もキッとこれを見据えたが、すぐに彼女を押しのけると、薙ぎ払うように立て込まれた几帳を脇へ倒して現場へ踏み込んだ。

 御帳台のうちを照らす灯影は、脱ぎ散らかした男女の衣服に縫い込まれた金糸を、妖しく黒光りさせていた。だがその眩しい光景にあって、真っ先に顕光の視界に飛び込んできたのは、涼やかな目元を面白そうに細め車座になった男の姿であった。一応申し訳程度に着崩した単の上に浮線綾(ふせんりょう)の紋が入った白い直衣を引っかけ、頭には烏帽子をかぶせてはいたが、それとて体裁を繕うというよりは己を見栄え良く見せようとするねらいからであろう。

 「頼定、お前!」

 「これはこれは右大臣殿、ご機嫌麗しゅう。このような夜更けに何かご用ですかな?」

 しれっとした表情で質問してくる色好みに、顕光は一層青筋を浮き立たせた。おのれコイツ、どのツラ下げてッ!もし彼が貴族ではなく武士であったら、迷わずこの時点で抜刀していたことだろう。今度は男同士の激しい応酬の始まりである。

 「一体どういうつもりだ!?うちの娘に手を出すとは!!元子は女御なのだぞ!!自分のしていることが分かっているのか!?」

 「違いますよ、おじ上。女御ではなく、元女御です。一条帝がご存命だった頃はともかく、現在の彼女は夫君に先立たれまた独身に戻った身です。従って別の愛を見つけたところで何ら問題はない」

 「だからといって、お前のような二度も勅勘を蒙った好き者と誰が一緒にさせるか!この子はキサキだった女人らしく慎ましい余生を送らせるのだ」

 「どう生きるかは彼女自身が決めることで、貴方が決めることではない。おじ上、元子はもう三十過ぎた大人の女人ですよ。一時は貴方の願い通り入内もして、お家の繁栄ためにつくしました。もういい加減、彼女を解放してやったらどうです?」

 「えぇい、うるさいうるさい!知ったような口をききよって!権力の中枢から外れ、呑気に色事に耽っていたお前に何がわかる!だいたいお前は昔からッ…、」

 ここからは身内の口論が続くため省略するが、大方は内輪揉めにありがちな主観的で他人にはどうでもよい恨みつらみの言い合いだったことだけは伝えておこう。とにかくこの夜堀河院で起こったちょっとした事件は、翌日には屋敷じゅうは言うに及ばず宮中じゅうの人々の耳に入り、一度ならず二度までも世人の注目を集めるような珍事をしでかした我が身の宿世(すくせ)を、後日元子はつくづく呪うことになる。だが少なくともこの夜は、眼前で繰り広げられる惨事を収拾させることにいっぱいいっぱいとなった。男二人の口論に割って入り、しぶる頼定を説き伏せ何とか帰らせることはできたものの、視界の端ではいまだに讃岐がさめざめと泣いている。

 (泣きたいのはこっちよ)

 間男が部屋を後にすると、父は怒りの矛先を娘に戻した。顕光は単姿で寒さに身を震わせる元子に袿をかけてやるやさしさもなく、その後延々彼女をなじった。最初は殊勝に耳を傾けていた元子も、「まったく、どうしてそなたばかりこうも情けないことをしでかすのだ」、と言われた瞬間堪忍袋の緒が切れた。なんですってッ!?

 「私だけ?それは大きな間違いですわ、お父さま」

 俄かに強い物言いをし出した娘に、顕光は怪訝な表情を浮かべた。顔を上げると娘が妖艶な微笑を浮かべ、口元を袖で覆い自分を横目で見つめている。

 「私が情けない娘ならば、重家のお兄さまはどうなりますの?家門を継ぐという重責から逃げ出し、仏の道に走った重家のお兄さまは。お父さまは出家した直後こそ、「あんな親不孝者は勘当じゃ」とお兄さまを責めていましたが、今では季節の変わるごとに園城寺に使いを出しているではありませんか」

 「なっなにぃ!?」

 「おまけに一度は僧位を上げてやろうとまでおっしゃったそうですね。まぁ、お兄さまはきっぱりとお断わりになったようですけど。何故お兄さまのことにはそれほど寛大になれて、私のことはお許しになって下さらないのですか?頼定さまがおっしゃった通り、一条の帝さまに先立たれて未亡人となったいま、私が殿方を通わせても何ら問題はないはずです。実際歴史を紐解けば、キサキだった女人が再婚したという前例もあるではありませんか」

 「うっ!そなたという子は言うに事欠いて!」

 そうなのだ。あまり奨励されてはいないものの、天皇のキサキだった女人が後に別の男と一緒になるケースは、古代からあるにはあった。例えば先ほどちらりと話題にのぼった実資の妻で頼定の妹になる婉子女王は、もとは寛和御息所(かんわのみやすどころ)と呼ばれていた女人で、あの花山法皇に伺候していた。またこの二年後の長和四年(一〇一五)には、元子と同じく一条帝のキサキであった御匣殿別当(通称:暗部屋女御(くらべやのにょうご))藤原尊子も、三条帝皇后藤原娍子の異母弟通任へ再嫁している。ただ婉子や尊子がキサキ時代に夫帝から全く顧みられなかったのに対し、元子は一時とはいえ一条帝の愛を独占し皇胤まで宿した寵姫である。同じように夫帝の御代が終わった後第二の幸せを見つけたのだといっても、周囲の人々の受ける印象もまた同じであったかどうか。父顕光の過剰反応には、そういった世間の本音への警戒も混じっていたのかもしれない。

 「どちらにしても、あの頼定だけは絶対に許さん!絶対にな!」

 「まぁ、どうしてですの?頼定さまは皇族の血を引く名家のご出身ですし、あの道長さまとも昵懇だと伺いましたよ。いまの政の情勢を鑑みれば、なまじ同じ藤原の殿方と再婚して御堂関白家と同族争いをするよりも、多少時流から外れていてもそこそこの身分の殿方と一緒になった方が、立ち回りの仕方によってはかえって出世栄達が望めるのではありませんか?」

 「おのれじゃじゃ馬娘が。知ったような口を聞きよって…。確かに御堂関白家の勢力は強大じゃが、それ以前にあの男は今上からお怒りを受け出仕も間々ならん奴ではないか!もしこのまま今上の皇統が主流となったら、下手をすればあやつ自身はおろか末代まで帝王から睨まれる家系となるのだぞ!!」

 「あら?やはりそのことがお父さまの本音なのですね」

 「なに、どういうことだ?」

 「取り入っている三条帝の逆鱗に触れること。お父さまが本当に恐れているのは、三条帝が毛嫌いなさっている頼定さまを婿に迎えることで、敦明親王さまを介した三条帝との仲が険悪になることなのでしょう?」

 そう言った娘は、冷笑を浮かべてゆっくりと父親を見つめた。その瞳には、かつて自分もまた似たように権力を握るための駒として利用され、価値がなくなった途端見捨てられたことへの恨みが宿っている。顕光にしてみれば、下手に慰めようとすれば自分勝手な未練をぶつけてしまいそうになることを懸念して、あえて娘との距離を取ったのだという言い訳があったが、それを伝えたとてこの娘はさらに恨みを募らせるだけなのではないか。現在の妻に対してはそれほどでもないのに、どういう訳か彼は先妻盛子と元子には器量の狭い男だと思われたくないという意地がはたらいた。

 「そなたそこまで分かっていながら、頼定と深い仲になったのか…」

 「はい、まぁそうですね。けれど、本当にこのままお父さまの思惑通り三条帝の皇統が続いてゆくかどうかは、正直言って疑問に感じています。だってあの道長さまが、それをむざむざお許しになるとは到底思えませんもの」

 「黙らぬか。政というのは、その時々に起こった出来事によって如何様にでも変転していくものなのだ。だが、そのことをそなたが気にかける必要はない。夫であった一条帝がお隠れになったいま、そなたは大人しゅうあのお方の菩提を弔う日々を送っておればよいのだ」

 「そう言いくるめて、お父さまは私を出家させるおつもりなのでしょう?出家なんて、絶対にイヤです。せっかくかけがいのない男(ひと)ができて幸せの絶頂期だというのに、何故そんな乾ききった尼僧生活に足を突っ込まなければなりませんの?もうお父さまや家の都合で人生を左右されるなんてまっぴらです。権力闘争に身を投じたいのならば、どうぞご自分で勝手にやって下さい。けれどきっと今度も、道長さまにもっていかれるのが関の山でしょうけれど」

 「なっ何だとぉ!そなたという子は、そなたという子は!!」

 「あっ!?大殿さま、お止め下さい!」

 およそ手加減というものを知らぬ思春期の小娘ように無遠慮な物言いをした三十路の娘に対し、キリキリと引っ張られていた顕光の自制の糸がプツンと切れた。すでに時刻は子の刻をまわった頃だったが、彼らの騒ぎ立てる音は静まりかえる堀河院内においては、相当に遠くまで響くものだったらしい。怒りのあまり前後不覚に陥った顕光は、裳着の祝いに親戚がくれた櫛箱から乱暴に鋏を引っ掴み、讃岐の制止を振り切って右手で娘の首根っこを押さえた。そして猫のようにきゃあきゃあと暴れる娘の美しい黒髪をクルクルと己の腕に巻き込むと、いかにも乱暴にジャキジャキと切り刻んでいった。

 「あぁ、大殿さま…。何ということを…」

 あたりに散らばった黒髪の束を見て、涙に頬を濡らした讃岐が茫然と呟いた。当の元子も放心したように軽くなった己の首筋に手を当てると、フラフラと鏡台の前にいざり恐る恐る現状の姿を確認した。鏡に映る自分の黒髪は、概ね首の上部のところまで切り込まれていたが、何筋かは短すぎたり長すぎたりで不均等に寸断され、市井の女童のようなざんばら髪となっていた。一条帝と頼定は全く性格の異なる男性であったが、彼らが唯一共通して愛でてくれたのが黒髪の手触りであったのに。今はもう、それも愛の記憶と共に無残に切り刻まれてしまった。何も考えられない元子の頭上で、顕光の怒声だけが響いた。

 「何ということも、何もないわッ!!そなたらこれより主従揃って謹慎じゃ!元子には見張りをつけるゆえ、讃岐お前は自分の局に下がっていろ!元子、これでもうそなたは出家した身じゃ。近いうちに僧を呼び寄せ、正式に授戒させてやるからな!!」


 慶円僧正は困惑していた。これまで何人もの俗人たちの髪を削ぎ、仏の道へ誘う案内役を引き受けてきた彼であったが、今日の授戒ほど気まずい空気の漂うそれに参加したことはなかったからである。

 そもそも今回の授戒の儀式は、始まりからしていつもとは異なっていた。ほんの四日程前の早朝、右大臣藤原顕光の使いが突然寺の庭先に現れ、「主人が娘の出家をお手伝い願いたいと申しております」と言った。別にそういった依頼自体は日常的に受けているため、話を聞いた直後は「はい、喜んでお引き受けしますよ」と安請け合いしたのだが、次に具体的な日取りについての相談に入ると、慶円は始終眉をひそめることとなった。

 「では、伺うのは何時がよろしいでしょう?」

 「できるだけ早く。主人は今日明日でもかまわぬと申しておりました」

 「えっ!?今日明日ですか?」

 非礼を承知しながらも、慶円は驚かずにはおれなかった。何しろ大臣家の姫君の出家である。彼もそれほど何回も名門の人が世を捨てる現場に立ち会ったことはないけれど、少なくとも知り合いの僧侶の体験談なども織り交ぜて考えると、一般的に公卿のそれも右大臣家の姫君が出家をするとなれば、事前に周囲に告知した上念入りな準備をして臨むもののはずだ。

 (それを、今日明日にでも行いたいとは…)

 不可解に感じていることが表情に現れたのだろう。使いの男が如何にも具合が悪そうに顔を背けた。慶円はそれを見てますます不審に思ったが、僧侶である自分が俗世の事情について追及することは躊躇われたため、その日は一番近い日で時間に余裕のある四日後に伺いますとだけ話して、何も聞かずに使いを帰した。だが四日という中途半端な間(ま)は、俗世から隔たった寺の境内にも、世間の人々が流す噂が漂ってくる期間としては充分な長さだった。まだ外の世界に未練のある小坊主が、一体何処から仕入れてきたのか、右大臣家で起こったちょっとした事件のあらましを寺の者たちに自慢げに吹聴したのである。無論その小坊主の頭にはげんこつを食らわせたが、一部始終を耳にした慶円は正直「これはちと面倒なご用を引き受けてしまったわい」と、間近に迫った儀式の日を思い憂鬱になった。

 授戒の儀式当日は、関係者の心とは裏腹に実に気持ちの良い冬晴れの日であった。一刻もはやく娘を尼にしたがった右大臣は、早朝には前回の使いの男を寺へ寄越すと、急き立てるように慶円一行を堀河院へ案内した。そして到着するや否や、今回出家させられることとなった大君こと前承香殿女御が住んでいる対の屋へ通された一行は、まず大臣家の姫君の御座所とは思えないくらい人気のない室内を見て驚いた。一応儀式のために几帳や調度類は移動させられ、上座の文机には小ぶりだが品の良いつくりをした観音像が鎮座していたが、いかにも間に合わせで準備した感が否めない式場だった。何やら開始から気分が削がれるような雰囲気だったが、ともかくも依頼を引き受けた以上責任を持って事を進めなければならないと思い直した慶円は、姫君が几帳ごしに着座した気配を感じ取ると、かえっていつもより張りのある声で経を唱え出した。

 儀式自体は、通常のものよりもとずっとはやく終わった。というのも、女人の出家は身の丈にあまる黒髪を切る作業に時間を食うのだが、今回の場合はそれを行う手間が省かれたからである。式に参列したのは、父右大臣と数名の腹心女房だけだったが、皆こういった時にありがちなもったいぶった態度はなく、まるで回を重ねた法事に参列する人のように、味気なく心ここにあらずといった態度であった。

 (いかに事情が事情とはいえ、このような形で出家されて、姫君は御仏の弟子として真面目に精進なさることができるのだろうか?)

 噂を聞いた直後から懸念していたことが、いよいよ不安になってきた。当人が望んでもいないのに無理やり出家させることは、結局その人の不幸になる。先々帝花山院などはまさにその典型例で、僧体にありながら女色に耽る姿を他の僧侶なかには激しく非難する者もいたが、慶円個人はむしろ彼をお労しいと思っていた。若い盛りに信じていた者に騙されて寺へ放り込まれ、それまでの華やかな暮らしぶりとは全く正反対の日々を送るなど、なかなかお気持ちの整理がつけられないのではないか。出家とはいわばある種の〝死〟を意味するのだから、当人がよくよく考えた上で行われるものではなければなるまい。

 (それをこのような形で行うなど、右大臣殿も無体なことをなさる…)

 とはいえ儀式は終了したので、慶円は勧められた菓子(くだもの)も強いて断わり、最低限の供物だけいただいてさっさと辞去しようと腰を上げた。すると折からカタカタと格子を揺らしていた冬の風がつかの間勢いを増し、机に載せられていた観音像をガタンと振り倒した。信仰心の厚い慶円は、それを見るや否や本能的に音のした方へ近づき、大事そうに両手で床に転んだ御仏を拾い上げた。その時である。無意識に手前の几帳の方へ視線をやると、まだ勢いの衰えきってない風が布地を常より激しくまくり上げた。

 (!!)

 それはほんの一瞬のことで、目撃された彼女自身も気づいていなかったと思う。しかし、長らく清貧の生活を貫いてきた慶円にとっては忘れられない一瞬となった。布地の合間から垣間見た姫君は、贅肉に覆われた父親からは想像できない程すらりとした肢体をもつ佳人であった。重ねた袿の袖からちらりとのぞく手は日に当たることを知らず、頭つきは小さくつい抱き寄せたい誘惑に駆られる。だが痛ましいことに、本来そこから川の流れのように背中をすべるであろう黒髪は、首の上部辺りでばっさりと寸断されていた。また本来は手足同様白皙であるはずの顔(かんばせ)は、あばたが散った上に泣き腫らしひどい様相になっていた。だがそれでも、慶円はこの姫君が麗しいと思った。不思議なことに世の中には、どれほど着飾っていても一向に垢抜けない人がいる一方で、どれほど質素な身なりをしていても人目を引く者もいる。恐らく彼女は後者に入る数少ない一人なのだろう。それにしても…。

 (なんとまぁ…。世を捨てた我が身には、これは毒じゃわい)

 思いがけず俗世の極楽を目にすることになった慶円は、「では、これで」と逃げるように廂の方へ足を踏み出した。寺に帰ったら、しばらく本堂に引き籠って瞑想に耽ろう。だが今見てしまったものを、そう簡単に忘れられるだろうか。刹那姫君のささやいた声だけが、呪詛のように耳にこびりついて離れない。

 「出家なんて、誰がするものですか…」


 それからの人生、藤原元子は明け暮れ念仏を唱える日々を送り、臨終は来迎の栄誉をいただいて西海浄土へと旅立った…というわけではなかった。この姫君の見上げたところは、女人は往生できないと盲信した浄土思想が支配する平安の世にあって、一度は無理やり出家させられた身にも関わらず、最後まで〝女〟としての人生を優先したことである。

 謹慎処分を宣言した直後こそ、四六時中見張りをつけ娘の傍へ誰一人近づけようとはしなかった顕光だったが、授戒の儀式を受けさせると安心したのか、局へ辞していた讃岐をさっさと許し、傍目には対の屋の在り様をもとあったように戻した。彼の理屈に従えば、娘はもう尼になってしまったのだから恋だの結婚だのは関りのない話で、また蒸し返そうにもすでに全ては終わったことと認識されているのだった。

 しかし残念ながら、娘が関わっていたものは恋でも結婚でもなく愛だったし、これには下火があっても終わりはなかった。強制的に授戒させられた悲運は、長年押し殺していた反抗心を噴出させ、また男への深い愛を再認識させる啓示となってしまったのである。元子はまだショックから立ち直れていない老乳母がフラフラと御前に現れるや、開口一番にこう命じた。

 「文を出すから、あの方に届けて」

 「おひいさま!?」と息を呑み動揺する讃岐とは対照的に、彼女の瞳はかつてないほど強く鮮やかな光を放っていた。あの男(ひと)を愛している。元子の選択肢はもはやそれ以外なかった。たとえ父からどれほど反対されようともたとえ世間からどれほど非難されようと、この愛を失う以上に恐ろしいことなどあろうか。心の思うまましたためられた消息を読んだ男は、女の評判や自分の立身出世等煩っていた種々の雑念が、彼女の情熱によって灰と化していくような心地にさせられ、いそいそとまた夜陰に紛れ堀河院へ足を運ぶ日々を再開した。

 「一体どうしたんだ?あんな大胆な文章を書くなんて」

 女の腕を取り手のひらに唇を押しつけた男の瞳は、ギラギラと焼けついていた。一方女は女で、そんな男の様子を見て自分のなかの魔性の部分が小躍りするのを感じ、それを自制するために吐息交じりのくぐもった声を出さなければならなかった。

 「あら、言わなくとも答えはお分かりでしょう?すべてはこの時この瞬間のためですわ」  〝引き離されればされるほど燃え上がる愛〟というものに、いよいよ男女は夢中になった。こうなるともう父親の反対は、試練であって障害ではない。安心したといっても以前よりは娘の周囲に気を配っていた顕光は、すぐにまた自邸の門前に夜中見覚えのない白馬が現れることに気がついたが、娘を罵ろうにも彼女はもはや顔を見るのも煩わしいとばかりにそっぽを向き、こちらへ一瞥をやることすらなかった。そうして半月ばかり、昼は怒鳴られ夜はささやかれの日々を送っているうち、とうとう怒張の継続に疲れた顕光が、吐き捨てるようにこう叫んで娘の部屋をとび出した。

 「そなたなんぞ、もう何処へなりとも行ってしまえッ!!」

 いっときの感情に流されたとはいえ、事実上の絶縁宣言であった。深窓を旨とする貴族の姫君たちの中にも、時たま随分中道から外れた女人が出てくることはあったが、女御までやっておいて親から面と向かって勘当だと言われたのは彼女くらいではないだろうか。とはいえこの父親の激昂は、元子の胸をハッとさせた。別に悲しみからではない。そうかその手があったのか、という目から鱗が落ちるような気持ちからであった。まぁ私ったら、どうしてもっとはやくそんな単純なことを思いつかなかったのかしら!?きっとキサキをやっていた頃以外はずーっとこの家にいるのが当たり前だったから、他の選択肢があるっていう発想が思い浮かばなかったんだわ!でもそうよそうよ、ここを出ていけばいいのよ!!よし、ここを出て行こう。それは世の親たちか聞いたら泣き出しそうなくらい、実にあっさりとした決心だった。だがいったんそうと決心がつくと、もういてもたってもいられぬ。元子は腕を組み、母屋と廂の間を行ったり来たりしながら考え込んだ。

 (けれど、何処へ行けば良いのかしら?)

 できれば頼定のところへ転がり込みたいが、彼の屋敷には橘氏から迎えた正妻格の女人がすでに同居しているというから、つまらない女のいざこざを起こさぬためにも、何処か別の場所に住んだ方が適当だろう。でも、何処へ?なおも元子は沈思し、ふと思い立った。

 (そうだ、彼に頼んでみよう)

 となればやはりアテにするのは讃岐だ。さてさて、これはまた骨の折れる説得をしなければならないぞ。彼女は大きな声で乳母の名を呼んだ。

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