第9章 成就
瞬く間に時間は流れ、気づけば寛弘三年(一〇〇六)を迎えていた。この間小さな変事はいくつかあったが、政は道長を舵取り役に据えたことで一応は安定し、一条帝の傍らへ中宮彰子が控えていることに、人々はもはや不自然さを感じなくなっていた。
そんな空気のなか、何故また元子の参内(さんだい)話が持ち上がったのか。当初この話を耳にしたある若い典侍は、「あの女御さまって、出家なさったんじゃありませんの!?」と塗りたくった白粉が割れるほど目を丸くさせた。彼女ほどのオーバーリアクションではないものの、朝廷に奉仕する者たちは皆一様に眉を顰め、再浮上した承香殿女御並びにその父顕光のねらいが何なのか、柱や几帳の後ろで肩寄せ合って推量した。
「きっとまた、ご息女を介して朝政を掌握しようと、右大臣さまはらしくもない欲をおかきになったに相違あるまい」
「しかしそうは言っても、本当に今更あの左大臣さまを敵に回して、事を起こそうと思われるだろうか?いくら右大臣さまでも、すでに天下の形勢が定まったことはわかっていらっしゃるだろうに」
当人たちの顔など滅多に拝むことができない地下人(じげびと)までが、仕事の合間に使い古した碁盤を挟んでそんなことを言い合っている。まして中宮つきの女房達の動揺は尋常でなく、「老いの下葉が我が主を差し置いて、何を今更しゃしゃり出ていらっしゃるのか」と口さがないことまで言う者が現れ、彰子の意を汲んだと思しき先輩格から厳重注意を受ける始末であった。
だが当の元子本人も、自分たち夫婦の消息のやり取りに端を発しているとはいえ、今回の参内は久々過ぎて気恥ずかしささえ感じていた。前年正月にはとうとう従二位を授けられ、表立っては離縁の状態にさえみえる夫婦仲であっても、心の底では自分に対しての愛着を捨てないでいてくれている夫に感謝していたが、それを直接伝えたくともなかなか世の流れが許してくれそうにない。二進も三進も行かないまま月日が過ぎ、このまま名ばかりの女御で老年を迎えるのかという思いさえ、常に頭の片隅にあるようになってきた頃、唐突にしかも驚くほどすんなりと参内が認められた。初めその吉報を聞いたときには、何かまた裏があるのではないかと勘繰ってしまったが、どうも人伝えに聞いたところによると、近頃親しくするようになった中宮彰子が色々手を回してくれたらしい。そのような訳で寛弘三年二月二十五日、承香殿女御藤原元子は、実に五年半ぶりに夫帝のおいでになる里内裏東三条院へ参内したのである。
(同じ屋敷でも、昼間見るのと夜見るのでは、全然雰囲気が違うのね)
元子は、はるか向こうの方に見える広大な東三条院の庭に圧倒されながら、かつて詮子に呼び出されてこの大邸宅に来たときのことを回想した。あの時は一体何故姑が自分を招いたのかその真意がわからず、始終緊張していたため庭を愛でる心の余裕なぞなかった。だが今、こうして夜の闇に包まれた藤原氏の玉の台(うてな)を眺めていると、この景観そのものが自分の一門の在り方を象徴しているように思えてならなくなった。中心は壮麗かつ幽玄的な趣を漂わせながら、明りの届かない端の端は深い闇に覆われ、探ることが躊躇われる暗黒の歴史を刻んできた氏族。野心・権謀、そして裏切り。我が身は、そういった人間の醜い欲に屈した祖先の血によって成り立っている。そう考えると元子は、つくづく藤原の女として生きることの業の深さが呪わしく感じられた。
「今年の桜も、もう終わりかな」
遠くの方から聞こえて来る声にハッとし、元子は無防備な表情で正面を向いた。見ると御帳台のなか、夫が穏やかな苦笑を浮かべ自分を見つめている。いくら慣れ親しんだ仲になっているとはいえ、一国の君主を前に物思いに耽るとは。初夜の時もそうだったが、自分はどうもキサキに必要な嗜みが欠けているらしい。「もっ申し訳ございません!」元子が慌てて謝罪すると、男は記憶しているよりずっと低い声で笑い、あばたの残る白い頬にそっと手をそえた。
「良いんだよ。僕は君のそういうのんびりとしたところが好きなんだから。死んだ定子も、近頃では彰子までも同じようなことを言っていたな」
「えっ、中宮さまがですか?」
「あぁ。彼女は定子と違って、まだ直に君と会ったことがないのに、何通かの文のやり取りだけでもう君のことが気に入ってしまったらしい。まったく、君たちは何なんだ?僕を挟んで寵を競い合うどころか、僕を飛び越えて親交を結ぶなんて。これじゃあ男としての自分の魅力さえ疑わしくなるよ」
しかし言葉とは裏腹に、夫は嬉しそうな表情を浮かべていた。亡き定子が突然歓談を申し込んできた時のように、中宮彰子の消息はある日ツテを介して唐突に届けられた。
(一体どうして?私、気がつかないうちに何か失礼なことしてしまっていたのかしら?)
これまでの経験から、悪い方にばかり考えてしまう癖がついていた元子は、少し古くなって味の出ている桃色の料紙に、書き手の本質を反映したかのようなはらいの強い筆致で書かれた文面を恐る恐る読み出した。
曰く、自分は数年前からある若い女房に身の回りの世話をさせているのだが、最近ふとした拍子にその女房の身の上話を聞く機会を得た。彼女はかつて貴女さまにお仕えしていたが、自分の高慢な失言のために主人である貴女さまの名を傷つけてしまい、居たたまれなくなって勝手に御前を退いた。いつかそのお詫びをしたいと常々願っていたが、こうして大人になり分別を身に着けたいま、改めて当時の自分の幼稚さを恥じ入り謝罪したい気持ちは増々強くなっている、と申している。ついては、近日適当に用事をつくって堀河院へその女房を遣わすから、どうか彼女に目通りして欲しいという内容のものだった。
事情を読んだ元子は、悲劇を思い出して苦悶するより先に懐かしさでアッと感激した。若菜が、あの若菜が生きている!息災にやっている!何度となく反省を繰り返すなかで、今頃はどうしているだろうと心配していた女童が、今は飛ぶ鳥を落とす勢いの中宮彰子に仕えている。一にも二にもなく、元子はその申し出を受け入れた。それからほどなくして、彼の女童こと中宮彰子が女房衛門は、現在の主から託された紙や布地などの贈物と共に元子の御前に颯爽と現れた。
「若菜…!」
「女御さま…!」
再会した瞬間、もと主従は喜びのあまり互いの名を呼び合った。きっと余人には、この感情の奔流はわかるまい。衛門は自分の未来を決定づけた過去の失敗から、今日に到るまでの様々な出来事が思い出され、ここに参上する数日前から考えていた謝罪の言葉を口にしようにも、胸がいっぱいになって何も申し上げることができない。一方元子も、思い出のなかでは危うげな幼さを残していた女童が、御殿女房らしく濃き紅の落ち着いた襲ねを着こなしている姿に感無量といった面持ちである。しばらくの間両者は無言のまま見つめ合っていたが、ややあって衛門がグイッと深く頭を下げた。
「若菜、いいえ衛門?」
どうしたのですかと声を掛けようとした刹那、母屋に響き渡る程の大声で衛門が叫んだ。
「申し訳ありませんでした!まことに、まことに、申し訳ありませんでした!!」
悲鳴に近いその謝罪に一瞬ひるんだ元子であったが、肩を縮込め俯いたまま嗚咽するかつての召し使いを見て、すぐさまにじり寄り手を握った。
「もう良いのですよ、衛門。全ては過ぎ去った日々の出来事です。私もつらかったけれど、今のあなたの姿を見てあの頃の苦しみは決して無駄ではなかったのだと悟りました」
「…女御さま」
顔を上げた衛門は、元子の目にも涙が滲んでいるのを見て、自分の人生は試練の連続だったけれども、仕える主人にだけは恵まれてきたのだと改めて確信した。ふと脇を見ると、それまで黙って成り行きを見守っていた讃岐もまた袿の袖で目頭を押さえている。溢れる感動に任せて涙なみだすること数分、ようやく讃岐が「さぁ、今日のこの日のためにとっときのくだものを用意してありますよ」と言ったのを機に、茶菓子を囲んで現在の衛門の宮廷生活について話を聞く運びとなった。
「では、中宮さまは父上が朝政を掌握するいまの政を、決して良いこととは思っていらっしゃらないというの?」
大層驚いた様子で讃岐が尋ねると、衛門は静かに肯いて「えぇ、多分」と返事をした。
「私(わたくし)は女房といいましても下腸の身分ですので、そう重要な事柄には関わることが許されておりませんが、日頃おそばで細々とした用事を仰せつかっている経験から察しますに、中宮さまは父君である道長さまの増長ぶりを快く思っていらっしゃらないご様子です。とくに最近の道長さまは、目に見えて今上をないがしろにするお振舞いがありますから、今上を尊敬なさっている中宮さまには、それがひどくご不快に感じられているようです」
何とまぁ、内情というのは聞いてみなければわからないものである。さらに衛門が言うことには、里内裏生活が長く続いている影響もあるとはいえ、一条に伺候するキサキが自分一人だけであるという現状に、彰子は申し訳ないという気持ちすら抱いているという。
「それはまたどうして?」
「やはり、承香殿さまをはじめとする他のおキサキ方のお気持ちを慮ってのことではないでしょうか。それに本来内裏とは、大勢のおキサキが寵を競い合ってこそ栄える場所です。確かに中宮さまの御前は、各所から才媛が集められて大変賑々しい雰囲気ですが、実際華やかだった皇后定子さまの後宮を懐かしむ声も挙がっているのですよ」
「「はぁ…」」
意外なあまり、無意識に同音の反応をした乳母と養い君は、何ともいえない微妙な表情を浮かべ顔を見合わせた。一度入ってみれば分かることだが、宮中それも内裏という空間は極めて閉鎖的な世界である。従って、キサキの一人として内裏の噂話はそれとなく耳に入れるようにしている元子でも、詳細が知れない話を聞くことも多い。中宮に関する情報も同様で、道長が故定子の後宮に負けぬようにと方々から美人やら才女やらを集め、娘の後宮を内裏の中心に据えようと躍起になっているらしいという噂くらいは知っていたが、据えられた張本人である彰子の人柄などについてはこれまで全く気にされることはなかった。しかし衛門の話から判断するに、どうやら中宮彰子という女人は単なるお飾りのキサキというわけではなく、なかなか思慮深く芯の強いお方であるらしい。元子は俄かに襲ねた袿に埋もれたままのイメージであった彰子像が、シュルシュルと軽快に袴をさばく大人の女人へ変わっていくのを感じた。そしてその日以来、衛門を自分に遣わしてくれたことに関する礼状から始まり、彰子との親密な文通が開始されることとなったのである。
「中宮彰子さまは、素晴らしい女人ですね」
ポツリと呟いたキサキに、一条はハッと顔を上げた。再び庭先に視線を転じている彼女の横顔は美しかったが、同時に寂しさを含んでいた。
「あぁ、そうだな」
多少の罪悪感を抱きつつも、彼は素直に同意した。そうだ、確かに彰子は素晴らしい女人だ。だが、君も彼女に勝るとも劣らず素晴らしい女人だよ。本当はそう言ってやりたい。しかしそういった言葉をかけてやることに、一条は躊躇いを感じていた。とりわけ定子に死に別れて以後、彼はたとえ真心を込めた言葉であっても、自分が発した途端その場しのぎの空虚なものに変化してしまうような気がしてならなくなっていたのだ。君主は何をしても許される身であるなどと、一体誰が言い出したのだろう。貫き通したい信念も成し遂げたい志も妥協せねばならぬ人生など、男のそれではない。愛した女一人ですら守れぬ人生など…!!俯いた彼は苦しげに目を閉じた。
一方元子は、肯定したきり黙り込んでしまった夫を不審に思い、ようやく彼の方へ視線を戻し自分の失言に気がついた。まぁ、私としたことが。そんなつもりではなかったのに。あぁ、どうしましょう。…いっそのこと、いま伝えてしまおうか。けれど、この機会に言ってもただの気休めにしか聞こえないのではないか。いいえ、迷っているくらいならば言ってしまおう。大切なのは切り出し方の上手い下手ではない。言おうと決心がついた時に、きちんと伝えることなのだ。悶々と考えた末、むしろきりりとした表情で元子は夫へ語り始めた。
「ねぇ、あなた。実際あなたが私のことをどう思っていらっしゃるかは分かりませんが、私はあなたのキサキになれて本当に良かったと思っています。あなたは責任感が強くて寛大で、何より他人の心の痛みを理解できる素晴らしい帝王です。そのようなお方の妻になれたことを、私は誇りに感じています。いいえ、私だけではありません。亡くなられた定子さまも、そして彰子さまも、あなたのキサキになれたことをきっと誇りにしていらっしゃいますよ」
「元子…」
「ですから、あまりご自分のことを卑下なさらず、どうかもっと自信を持って下さい。己の人生を謳歌する権利は、あなたにもあるのですから」
これまで胸の奥深くに仕舞い込んでいた思いを打ち明けると、元子はやさしく夫に笑いかけた。潤んだ瞳は灯明の光できらきらと輝いている。しばらく疎遠だったキサキに思いがけず本音を見透かされた一条は、驚きのあまり束の間彼女を凝視していたが、やがて何度かまばたきをするとゆっくりといつもの穏やかな表情に戻っていった。いつもの、あの全て分かっていながら、それらを受け入れているような表情に。
「…僕は果報者だな」
「あら、やっと気がつかれましたの?」
「何だって、コイツめ」
ペロッと下を出した妻を、一条はじゃれるように小突いた。あぁ、そうだこの感覚。かつてほどの熱は帯びていないものの、自分は彼女のこのような一面を愛おしいと思っていたのだった。女人たちからすれば理解できない心境かもしれぬが、彼は寵愛したキサキたちの長所を全て平等に愛していた。定子や元子に関してはそこに苦い無念が混じっているが、彰子に対する愛情には淡い父性愛も混じっていて澱みがない。一条は頭の片隅で敦康に手習いを教えている彰子の姿を思い出した。玉座は孤独ではあるが、自分は決して一人ではない。
「君も充分素晴らしい女人だよ、元子」
「はい?いま、何かおっしゃいました?」
その夜はそのまま、会えなかった時間埋めるように他愛のない話をしているうちに明け方となった。帰り際、夫婦はじゃあいずれまたと言って別れたが、お互いもうこの次はないことを本能的にわかっていた。
(誰のせいでもない。きっとこれが一番自然なことなのだわ)
元子は短い帰路なかで、輦車の壁に頭をもたせかけながら悟った。ふり仰げば、はるか東山の山々からは朝日が顔をのぞかせはじめている。あぁ、今朝私はようやく自分の運命を受け入れることができたのだ。早朝の大気を吸い込んだ彼女は、山ぎわの光線にひとつの愛が穏やかな終息を迎えるのを見た。もう私は、何ものにも縛られはしない。己の欲するところから、自分の歩むべき道を悟る術を身に着けたのだから。だからもう、迷うものか。深淵な闇夜が乳白色にぼかされ、都大路は黎明の輝きに満たされていく。日輪が描く一景をしばらく鑑賞しているうち、彼女はふと思った。
(この色で衣を染め上げることができたなら、きっと〝あの男(ひと)〟に似合う)
(あの夫(ひと)が死んだ)
寛弘八年(一〇一一)六月二十二日、第六十六代天皇一条帝がお隠れになった。享年三十二。実に二十五年にもわたる治世であった。その死に際し、彼は第一皇子である敦康親王の立太子を望んだといわれているが、中宮彰子から寛弘五年六年と立て続けに二人の皇子を得た道長が、それを許すはずはなかった。もはや用済みとなった娘婿を崩御数日前に退位させた彼は、長らく東宮に甘んじてきた居貞親王を立てて三条帝とし、空いた東宮位に愛孫敦成を押し込んだ。
「とうとう、道長殿が本音をさらけ出してきたわい」
そう苦々しく顕光が嘆くのを尻目に、元子は実誓呼び寄せてささやかな法会を営み、夫の冥福を祈った。帝王の葬儀は国を挙げて行われるものだから、本来自分がこのようなことをする必要はないのだが、縁あって夫婦になった者同士として女は個人的に男の魂を弔いたかったのである。
(おいたわしい。どんなにか無念だったことだろう)
鈍色の小袿に数珠を忍ばせ、元子は読経の声に耳を傾けながら物思いに耽った。定子の忘れ形見敦康親王は、母に似て英邁な皇子に成長しているという。それを差し置いて、まだ幼児といっていい敦成親王を立てるとは。予見されていたこととはいえ、あまりにも露骨な道長のやり様には娘彰子が公然と不満の声を漏らすほどだった。彼女にしてみれば、いかに自分がお腹を痛めて産んだ子ではないとはいえ、しばらくの間面倒を見た敦康は我が子同然の存在であった。それを自分が二人の皇子を生みまいらせてしまったことで、愛する養子を日蔭者の人生に追い込んでしまったのだ。
「「母として敦成・敦良は愛おしゅう思うが、敦康の胸中を思うと私は居たたまれない心地がして仕方がない」と、中宮さまは近頃しきりにこういったことばかり口にされて…」
先日久方ぶりに顔を出した衛門は、女主人の苦悶が乗り移ったかのような苦い表情を浮かべ、中宮の現在について嘆息した。そのことを裏づけるかのように、渡された手紙には夫帝を失ったことへの深い悲しみと、やんわりとした父への非難がしたためられていた。同じ男の妻となった者として、元子は彰子の嘆きをよく理解することができたが、返信は強いて慰めの言葉を最小限にし、国母になることへの覚悟を促す内容を中心とした。ただの女御で終わった自分とは違い、父道長との確執も含めて彼女にはこれから帝の母としての試練が待っている。だがきっと、彰子ならばそれも乗り越えられるだろう。問題は自分だ。実誓に充分な褒美を取らせた元子は、仕える者たちを全て下がらせ、人気のなくなった母屋の真木柱(まきばしら)に寄りかかった。じっとりとした晩夏の夕べで、前庭からはひぐらしの声が聞こえてくる。多分自分は、出家した方がいいのだろう。この前唐突に様子を見に来た父の表情には、そう書いてあった。
(でも、それで本当にいいというの?元子)
自分自身の心に問うてみると、答えは明確に否であった。出家ですって?何故そんなことをしなければならないの?私はまだ少しも、己の人生を生きた心地になっていないというのに。愛すべき男もいるというのに。
(愛すべき男ですって…?)
無意識の自問自答が思いがけず本音を引っ張り出してきた。定期的な文通は足掛け数年にもわたり、中継ぎをしている讃岐ですら「よくもまぁ、いい歳をした男女が文のやり取りだけでこれほど続けられるものでございますねぇ」と呆れ返るほどだ。しかし、はたから見ると面白味に欠けるこの男友達とのつき合いにも、近頃ゆるゆると変化が起こり始めてきた。色男のただの気まぐれか、はたまた純情男の恐るべき忍耐力か、「君には尼削ぎは似合わない」とか「こうなると堀河院も居心地が悪いんじゃないか」とか、こちらの心がザワザワするようなことを男が書いてくるようになったのである。
(でも考えてみれば私も、悪い男につかまったものだわ)
最新のゴシップによると、今上三条帝は七年ほど前に亡くなった麗景殿尚侍―兼家の娘で道長の妹―と彼とが関係を持っていたことを未だにお許しにはなっておらず、清涼殿への昇殿を差し止めるほど彼を嫌っているらしい。お蔭で彼はいま世間の人々から〝地下の上達部(かんだちめ)〟とあだ名され、かつて一条帝から勅堪を蒙った時以上の冷遇時代に堪えているそうだ。もっとも彼が寄越す消息にはそういった方面での悲哀はいっさい記されておらず、この点において彼を評価して良いのかどうかはちょっと悩むところである。ただ夫を亡くした元子にとって彼の存在は日々確実に大きくなりつつあり、恐らく色好みの直感で彼もいまが狙い目だとわかっているのだろう。そう思うと、彼の思惑どおりに事が運んでいるような気がして、元子はだんたん腹が立ってきた。こちらばかりが動揺させられて、それを向こうは文面から感じ取ってニヤニヤしているのではないか。やおら彼女は柱から背を起こすと、もうすっかり暗がりに包まれている母屋奥の文机を見た。
(見てらっしゃい、源頼定。そっちがその気なら、こっちだって本気出してやろうじゃないの。あなたも〝ザワザワ″させてやる!)
こうして藤原元子は、第二の人生に足を踏み込むこととなったわけである。
「おいでになりました」
はやる心を落ち着かせようと、手元にあった冊子をめくっていた元子は、声をかけられてビクッと肩を震わせた。振り返れば、廂に控えた讃岐が食い入るように自分を見つめている。その表情は高灯台の覚束ない光のなかでもはっきりとわかるほど緊張しており、己のしようとしていることへの罪悪感に慄いていた。
(そんなに思い悩むのなら、どうして手引きなんてしちゃったのよ)
とつい元子は心のなかで突っ込んでいたが、それは言わずもがな全て養い君のためを思ってのことなのだろう。
夫一条帝が崩御されて、はやくも一年が過ぎようとしていた。この一年、元子は傍目には穏やかな未亡人生活を送っているように見せかけ、その実人生はじまって以来の純愛の日々に身を焦がしていた。挑発に乗るかのように送ったこちらの思わせぶりな手紙に、男も本格的にエンジンをかけられたのか、あれよあれよという間に文面は色めいた文言で埋まるようになり、どちらからともなく「「逢いたい」」と熱望するようになっていった。
「あのね、讃岐。ちょっとお願いがあるんだけどぉ…」
本人は努めてさりげない調子を装っていたつもりだが、実際は上ずりながら照れながらになっていた相談に、乳母は諦めたとも悟ったともつかない遠い目をして、たった一言「畏まりました」と答えた。どうやらこういったことの常で、すでに男の方から再三の懇願があり対応に苦慮していたらしい。大方の色恋というのは、女の承諾さえ得られれば後の展開は早い。入内前とは打って変わり、めっきり人気の少なくなった対の屋に男一人忍び込むのは造作もないことだった。一陣のそよ風が吹き、灯台の炎がフッと消えたと同時に、淡くさわやかな香りを漂わせた大きな人影が、流れるような動作で几帳の内側に入って来た。
(さすがに慣れたものだわぁ)
勝手知ったる色好みの闖入に感心した元子は、先程までの緊張感も忘れ、月明かりを背にして立つ男をしげしげと眺めた。辺りは深い闇に包まれており、いつの間にか乳母もいなくなっている。このような時、女はどう振る舞えば良いのかしら。暗闇で判然としない男の双眸に視線を転じ、彼女はぼんやりと悩んだ。とふいに男の方が座り込み、矢のような速さでいざり寄ってきたかと思うと、ぐいと女の腰をつかんで自分の胸中に引き寄せた。
「ひどいな。お互い顔を知らない仲でもないのに、こんなに暗くして随分余所余所しいんじゃないか」
鬱陶しいまでに長い黒髪を片手に挟み込み、男が耳元でささやいていきた。久しぶりに聞く彼の声は相変わらずやさしくて力強い。物語のなかのような展開に眩暈を覚えた女は、心の臓が焼けつくような高揚感に身体じゅうが火照っていたが、それでも何とか「あばたが見苦しゅうございますから…」と掠れた声で答えた。
「あばた?どれ、見せてごらん」
座る位置を変え、月明かりに照らされるように女の頤(おとがい)を持ち上げると、こちらが気まずくなるくらいじっと熱い目で、男は紅潮する顔を見つめてきた。それは深窓の姫君としてかしずかれ、滅多に人前に姿をさらすことのない女からすれば、まるで人前で裸体を露わにされたかのような心地させる洗礼だった。この男(ひと)は私の心まで見透かそうとしているのではないか。
「全然目立たないじゃないか。それどころか元子、君は本当に美しくなったんだな」
つくづくといった様子で感想を述べた男は、彼女から少し身を離すと、改めて二十数年ぶりに幼馴染の顔を眺めた。純真可憐だった振分髪の頃のイメージで止まっていた面影は、今や数々の苦楽を経て円熟した女人のそれへ変貌している。(あぁ、自分たちは大人になってしまったのだな)と、頼定は珍しくもう戻ることのできない過去の年月を思い、湿っぽい気持ちになった。彼女が老いたことに落胆しているのではない。ただ山間の清水のようにみずみずしかった彼女の心持ちに、世間がズカズカと足を踏み入れたことで澱みが生じたことを感じ取ったのである。
(しかし下流の汚れを受け入れたことで、大河の雄大さを身に着けたようだな)
そうと悟ると、男の口元は自然綻んだ。かつてはありえないと一笑に付した情事を、いま自分たちは大真面目にやっている。思えば随分遠回りをした恋路だったものだ。
「本当に、長い長い道のりだったよ」
いろいろな苦労があったが、つまるところ逆境というのは、賢明ではなく最適な選択を悟らせる過程でしかないのかもしれない。男は積年の思いを告白すべく、再び女の肢体へグッと手を伸ばした。
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