第8章 年月
はじめ彼女から是非会いたいという消息をもらったとき、元子は御前に讃岐一人しか控えていないことをいいことに、あからさまに恐怖の表情を浮かべた。
「おひいさま。何をそんなに慌てていらっしゃるのですか?これは大変名誉なことですよ」
「だって、讃岐!あの東三条院(ひがしさんじょういん)さまが、詮子さまが私に会いたいとおっしゃっているのよ!」
「はい。ですから、大変名誉なことではありませんか。畏れ多くも国母がおひいさまを自邸に招待したいとおっしゃって下さったのですから」
それはそうなのだろう。だが讃岐にとって詮子は畏れ多い雲上人でも、元子にとって彼女は恐れ多い姑なのである。何かにつけ定子へ遠回しな嫁いびり(元子や義子の入内もこれに該当する)をしたり、政に口を挟んでくることを繰り返したりしたため、最近では愛息一条帝にすらひんしゅくを買っている彼女だが、依然として強い政治力を有し朝政に多大な影響力を与えていることに変わりはない。その詮子が自分に会いたいという。元子は我知らず身震いした。
(一体何を言われるのやら)
定子ほど目の敵にはされていないものの、元子は一人息子の子どもを流した女である。まして定子が敦康親王を生みまいらせ、権力の中枢へ一石を投じてしまったいま、あのとき承香殿が無事皇子をあげていればと、内心自分のことを苦々しく思っているのではないか。
「行きたくないわ、私」
「まぁ、何をおっしゃいます。無理に決まっていますでしょう!国母からのお呼び出しですよ!?ささっ、そうと分かれば衣装のご準備ですよ。何しろ国母にお会いになるのですから、襲ねもよくよく吟味したものにいたしませんと」
そう言うと讃岐は、具体的な日時の決定から衣装の選定までテキパキとこなし、あれよあれよという間に元子を堀河院―東三条院間の往復牛車へ押し込んだ。引っかけられた青の無紋の唐衣(からぎぬ)が、緊張のあまりずっしりと肩に食い込むような錯覚を覚え、悪阻のときに負けず劣らず気持ち悪かったが、悲しいかなそこは平安の高級住宅街事情。元子の住む堀河院と東三条院はともに左京北部、通りの反対側に大内裏を臨む二条大路に面し、従妹たちが住む閑院を挟んで隣の隣、つまりご近所さんだった。そのような訳で深呼吸も終わらぬうちに目的地へ到着すると、当然の如く準備万端慇懃な出迎えを受けた後はさっさと御座所(おましどころ)へ案内され、いつの間にかやたら苦いお茶を美味しそうに飲む羽目になっていた。
「そうでしょう。なかなかに味わい深い茶でしょう。何せこれは唐から取り寄せた高級品で、その昔彼の国の皇帝たちはこの茶を飲むと不老不死になれると信じていたくらいなのですよ」
そう言った東三条院詮子は、控えめながらしかし妙に通りの良い声で高らかに笑った。これまで妊娠していた頃に手紙のやり取りは多少していたし、先年は里内裏一条院にて大勢の女房を付き従わせ参内してきた彼女の姿に恐れ入ったばかりだが、こうして間近で顔と顔を突き合わせて話すのは初めてのことだ。その目鼻立ちは確かに夫と似たところがあり、とくに元子の大好きな彼のすっとした鼻梁は母親譲りなだなぁということが分かるが、発しているオーラや雰囲気はまるで別物だった。息子一条帝の威厳が、やさしくあたたかい言葉をかけられた時のようにじんわりと心に響くものなら、母詮子のそれは、武士(もののふ)たちの鬨の声を聞いたときのように威勢よくただただ圧倒される種類のものだった。
(あの夫(ひと)、性格は崩御されたお父上円融帝似なのかしら?)
今となってはもう確かめる術のない疑問に内心首をかしげながら、元子は愛想良くほほ笑んだ。
「まぁ、そうなのですか。それは結構なものをいただいてしまって…。もっと味わって飲むべきでしたね」
「ホホホッ。気にする必要はありませんよ。このようなものなら、まだまだ我が家の御倉にいくらでもありますもの。卑しくも国母なぞというものになってしまうと、毎日毎日様々な貢物を方々からいただいてしまってさばくのが大変なのよ。まったく、皆そんなに気を遣わなくて良いのにねぇ」
…想像以上に話し相手とするには疲れるお方だな、この女人は。まだお邪魔して四半刻も経っていないのにも関わらず、元子は早くも帰り支度をしたい気持ちになった。皇后定子と初体面した時もそわそわと落ち着かない気持ちになったが、今日のこの詮子との歓談もいつどのようなタイミングで何を言われるかわかったものではないため、まるで叱られる前の子どものように薄らとした恐怖感ばかりが募って居心地が悪かった。とそれまで笑顔だった詮子の表情がふっと曇り、「それはそうと…、」といって話題が変えられた。
「遅ればせながら、皇子と母上のことは残念でしたね。とくに皇子のことは、今上も随分とお悲しみのご様子でしたけれど、私も心待ちにしていただけにひどく残念に思えましたよ」
咎めるというより同情の響きが強い言い方をされたため、元子も過ぎた悲劇が思い出され、ふっと涙ぐんでしまった。
「はい。私のようなつまらない者ばかりが生き残ってしまって…。生まれてくるはずだった皇子にも、私の看病をしていたために具合を悪くした母にも申し訳ない気持ちでいっぱいです。ですが今上は、このような私にも変わらずやさしく接して下さり、もったいなくも有難いことと思っております」
「そうでしょう。今上は大変心の広いお方です。私(わたくし)も我が子ながら本当にすばらしい帝王だと思っているのですよ。けれど…」
そこでふっと口をつぐんだ姑に気づき、元子は顔を上げた。見ると詮子は、磨き上げられ黒光りする脇息へもたれ掛かりながら、いっそ険悪といえるような表情をつくっていた。
「けれどその今上のおやさしさにつけ込んで、良からぬことを吹き込む輩がいるのですよ。誰とは、申しませんけどね」
申しませんけど、ほとんど明言なさっておりますよね?などと言えるわけがないので、元子はどう答えるべきかわからず、怪訝な顔つきのまま固まっていた。するとそれを嫌悪の同調と勘違いしたのだろう、相手は肯いて話を続けた。
「そう、あの皇后定子とその家族です。とくに皇后は、今上のご寵愛が厚いのをよいことに長らく正妻面をして後宮を牛耳っていたのですから、本当に始末の悪い話ですよ。いくら道隆兄上の長女だからといって、たかが掌侍腹(しょうじばら)の娘が中宮などとは全く片腹痛いこと。そもそも私は、女御として亡き円融帝へ伺候していた頃から、皇后の母高内侍はけしかぬ女だと憤っておりましたよ。少しくらい漢学の才があって器量が良いからといって、これ見よがしに帝や殿上人たちに才をひけらかして…。いっそそのまま宮中の恋愛遊戯で時間を浪費して、気がついたら『勢語』の九十九髪(つくもがみ)の媼よろしく、老境の好色を若い男(ひと)たちに笑われればよいと思っていたら、あろうことか道隆兄上はあの女を北の方に据えたではありませんか!」
ここまで言うと詮子は疲れたように荒い息をつき、やりきれなくて堪らぬとばかりに苦い顔をして目を閉じた。しかしいったん毒を吐いて収拾がつかなくなったのか、さらに元子が返答をする間も与えず長年の鬱憤を取り留めもなく語り始めた。
「だいたい道隆兄上も道隆兄上です。名門藤原九条流の嫡男として生を受けながら、あのように卑しい女に骨抜きになるなど。お蔭で高内侍本人はおろか、その親族の高階家まで増長させる結果となって、いたずらに朝政を混乱させることになってしまったではありませんか!!道長のように分相応に皇族の血を引く姫でも娶っていれば、このような事態にはならなかったでしょうに」
あぁ、なるほど。目の前の姑の怒りにビクビクしながらも、元子はようやく合点が行った。これまで(何故東三条院さまは定子さまをこれほど嫌うのかしら?)、と疑問に思うことが度々あったが、(一人息子を取られてそんなに悔しいかなぁ)というくらいにしか考えていなかった。だがこうして詮子の本音を垣間見てみると、どうやら話はそれほど単純なものではないらしい。そう、原因は定子一人に因るものではない。定子とその母方が、詮子とって目障りこの上ない存在なのだ。
始祖鎌足が中大兄皇子―後の天智天皇と乙巳の変を成し遂げて以降、ときに伴氏や橘氏あるいは賜姓皇族などの他勢力を排斥しつつ、その一方で一族の娘たちを歴代の帝へ嫁がせることで、藤原氏は長らく天皇家を支えるたったひとつの有力氏族として枝葉を広げてきた。その繁栄ぶりは、殿上の間に掛けられた日給の簡(ふだ)を眺めれば一目瞭然で、とくに従三位以上の男たちのほとんどは〝藤原″の姓を名乗る者たちで占められていた。そのため後の世の人々なかには、この当時の貴族社会は藤原氏の人々しかいなかったのか、と首を捻ってしまう人もいるかもしれない。
だが無論、そんな訳はなかった。藤原氏の独占によってほとんどは卑官に追いやられてしまったものの、小野・清原・菅原・紀・大江など、実際朝堂には様々な姓を名乗る人々が闊歩していたのである。
そして定子の母方の実家高階(たかしな)氏も、遡れば天武帝まで行き着くそれなりの名門ながら、現在は国司階級に下ったいわゆる〝中の品″の家柄であった。それが先々代の御代に高内侍こと高階貴子が内侍司(ないしのつかさ)へ出仕し、思いがけず藤原摂関家の跡継ぎを射止めたことで新しい流れが生じた。つまり直系ではないものの、専ら親族結婚で血統を保持してきた皇族並びに藤原氏の家系図のなかに、高階が参入してきたのである。
このことは妻問い婚、要するに婿取り婚をまだ続けていた当時の貴族社会において、大きな意味を持っていた。妻側の実家は、通って来る婿の生活全般の世話をするだけにとどまらず、ときには彼の後見役をつとめた。そして子が生まれれば、その子の養育は妻側の実家が責任をもつことが当然とされていた。何が言いたいかというと、つまりこういった婚姻形態を通常だと認識している人々にとって、家族・一族といった血縁集団は多分に母系に依ってまとまるものだ、という固定観念があったということである。
現に藤原道隆という名家の貴公子を婿にいただいた高階氏は、定子ら生まれた孫たちの手足となって中関白家へ奉仕することで、最終的に彼らの外祖父成忠などは従二位にまで上り詰める異例の出世を遂げている。
この事態を招くきっかけをつくった道隆にすれば、学者の家である高階氏の女(むすめ)との結婚は、自分の血統へ教養を付加させることができるまことに有意義なものに思えたのだろうが、妹の詮子にしてみれば他氏族の台頭を許容するとんでもない愚行にうつった。何しろ他でもない藤原氏が、天皇家の母系になることで権力を保持してきた一族である。まして現在の詮子の栄華は、帝の生母になることで得たそれなのだ。彼女はこの時代の母系になることの〝うま味″を、誰よりも熟知していた女人だった。
「生前道隆の兄上はよく、「自分たち夫婦は愛によって結ばれたのだ」と言っておりましたけれど、本当にそうかしら?確かに兄上はあの女にぞっこんでしたけれど、高内侍とその親族は我が一族のことを自分たちが権力を握るための踏み台や隠れ蓑だと思っていたに相違ありませんよ。その証拠に、内覧の宣旨の改ざんや私と道長への呪詛など、伊周めが企てた陰謀の背後には必ず高階氏がいたではありませんか。まったく!!本当に兄上は余計なことをしてくれましたよ」
およそ実の兄について語っているとは思えない程憎悪をたぎらせて力説する姑に、もはや嫁は返す言葉がなかった。元子のあずかり知れぬことであったが、実は詮子の中関白家嫌いをここまで悪化させる一番の原因をつくったのは、他でもない彼女の兄道隆だった。当初は一条を帝位につけるため協力関係にあったはずの兄妹(きょうだい)は、定子が入内して以後若い帝を娘以外の一人の女人も知らぬ男にさせようと、兄が画策した辺りから急速に険悪になっていったようだ。道隆が定子の御座所を清涼殿内に設けさせたのと前後して、詮子は宮中から去り、彼女の最愛の息子の周辺は中関白家の人間で固められた。一体この出来事なかで、兄妹はどのようなやり取りをしたのか。その詳細は遺されてはいないものの、まだようやく十を過ぎるか過ぎないかの息子を若い女に奪われ、本来自分が掌握できたはずだった政(まつりごと)の第一線から締め出される格好となった詮子の怒りは、生来勝気な彼女の性質と照らし合わせてみれば容易に想像がつく。またさらに腹立ただしいことには、そんな母親の怒り悲しみを余所に、幼い息子は自分を恋しがるどころか年上のキサキとの憧憬の恋に夢中となり、全く自分を顧みることがなかったことであった。
「こういってはナンですけれど、息子の母親になどなるものではありませんよ。童のときには、私が少しでも傍から離れれば泣いて追いすがって来たものを、今では私を一目見た瞬間狼狽して後ずさりするんですから。おまけに「母上は何故そのように定子を憎まれるのですか?彼女はあなたの姪でもあるのですよ」と、さも私を悪者のように責めてきて…。本当に損な役回りですわ、母親なんて」
芯に寂しさを抱えた激情を絞り出すかのように、詮子は下を向いて言葉を吐き捨てた。その目は心なしか涙で滲んでいる。するとそれまで調度と一体化して、ほとんど存在を感じさせなかった中年の女房が、東三条院さまと諭すように主へ呼びかけた。
「何ですか、中務(なかつかさ)。私は承香殿と話しているのですよ」
中務というらしいその女房は、何も言わず元子の方へ視線を促した。〝息子の母親″になれなかった元子に、今のような愚痴をこぼすのはデリカシーに欠ける行為だと諌めているらしい。ややあって詮子もそのことに気づいたらしく、「あら、私としたことが」と珍しく恐縮した面持ちで咳払いをした。そして居住まいを正すと、一段下がったところに坐る嫁をまっすぐに見据え、先程とは打って変わった堂々たる口ぶりで話しかけた。
「まぁ、そういう訳なのですから、貴方も励みなさい承香殿」
「はい?」
不敬も忘れ、元子は聞き返した。いまの話の何処に、自分が頑張らなければならない余地があったのだろう。またもや表情を固まらせ、彼女は必死で頭の中で考えを巡らした。だがそんな嫁の困惑など一向にかまう様子もなく、詮子は国母の威厳を体現したかのような自信に満ちた微笑みを返した。
「流産のことは確かに気の毒でしたけれど、それはもう終わったことです。貴方はまだ若い。この先いくらでも皇子を生みまいらせることができます。ですから一度の失敗に挫けず、もっと今上の気を引いてお励みなさいと言っているのです。定子も遠ざけられ、彰子は幼い今が好機なのですよ。貴方だって、このまま定子に独り勝ちさせるのは悔しいでしょう?」
「…!?」
姑の予想外の激励に、元子は空いた口がふさがらなかった。要するに彼女は、もっと子作りに精を出して一発大逆転を狙えと言っているのだ。跡継ぎが欲しい気持ちは分かるものの、息子夫婦にしてみれば余計なお世話ある。しかしそれにしても…。
(何故詮子さまは、この〝私〟に跡継ぎの催促をなさるのかしら?)
これまでの経緯を考えれば、彼女が最も望みうる跡継ぎは、可愛い弟道長の女(むすめ)彰子所生の皇子であろうに。何故自分のような中途半端な立場にいるものにそれを乞うのか?実際のところ不明瞭な権力図にまで思いを馳せ、元子は慣れない推測をしようとしたがやはり見当がつかない。が、この疑問もまた閉じることを知らない姑の口からすぐに割れた。
「でなければ私も、このまま安心して涅槃に旅立つことができません。その点そなたならば、血筋は申し分ないし年の頃はいまが女盛り。加えて今上からの寵愛も厚いのですから、皇子の生母としてこれ以上の適任はおりませんよ」
どうやら事ここに至り、姑は弟への義理立てよりも自分の心安らかな往生の方を優先したい心境になってきたらしい。確かに、ここ数年詮子は病床に就くことが多くなっており、心配した一条帝が罪人の大赦を命じて平癒を祈願したこともあった。今日顔を突き合わせるまで間近で彼女を眺めたことがなかった元子でさえ、姑の顔に長く患ってきた人特有の憔悴の色がみられることは会った瞬間わかった。だからこそ、そのやせ衰えた容貌から抱く印象に反して、溌剌とした言動をする彼女に圧倒されたのだが、第一印象とはあながち馬鹿にできないものらしい。本音のところでは、詮子もまた日々不安で仕方がないのだ。
「承香殿、まことにまことに頼みますよ。あの子には、懐仁には、世に憚ることのない立派な跡継ぎをつくってもらいたのです。それには定子の産んだ子ではいけません。皇族と藤原。このふたつの血統を受け継いだ男の子でなくては!天下安寧ため藤原の栄耀栄華のため、日嗣の皇子を生みまいらせること。それが帝のキサキたるそなたのつとめ、そして藤原の女たちの使命なのですから!!」
ところが詮子の願いも虚しく、その後の数年間元子は夫を誘惑するどころか、そもそも彼に会うことすら難しい状況に追い込まれていった。日に日に勢力を増す道長の御堂関白家に圧倒され、他のキサキたちが参内を躊躇するようになったのである。無論一条帝は定子・元子らを恋しがることもあったのだろうが、ともに政権を運営する道長への遠慮はやはり大きかったし、いたずらに彼女たちを呼び寄せれば迷惑がかかるとの懸念もおありになったのだろう。そんな誰も彼もが、満足のいく人生を送れていないと感じていた長保二年(一〇〇〇)の年末、その突然の訃報は宮中の人々に悲しみよりもむしろ動揺を与えた。悲運の皇后藤原定子が、第三子を出産後そのまま産褥死してしまったのである。この一報を聞いた一条帝の心痛は並大抵のものではなく、立ち会っていた伊周は妹の亡殻を掻き抱いて絶叫したという。元子もまた彼らほどではなかったが、たった一度きりの邂逅でも心を通わせることができた〝ライバル″の死を心から悼んだ。
(かつては都じゅうの女たちの賞賛の的となり、幸いのみをお受けになるために生まれてきたのかと思われる程でいらっしゃった方が、まさかこのようなおいたわしい最期を遂げられるなんて…)
難産の末夜半過ぎに内親王を産み落としたものの、声をかけても一向に反応しない女主人を不審に思い手燭で照らすと、彼女はすでに息絶えた後だったという。その様を想像するだけで、元子はやりきれなさに涙がこぼれた。あれほど気高く心の美しかった女(ひと)が、闇夜のなか産みの苦しみに責めさいなまれながら死んでいったのだ。これを無常と言わずして何と言おう。世間も今更ながら幸薄かった皇后の死を悲しみ、亡き人の人柄のおだやかだったことを懐かしんだ。そして一様に、「あぁ本当に、皇后さまのなんとお気の毒なことだったか」と口をそろえ、もっともらしく憐れんでいる。しかしこのような声を聞く度に、元子はかつてないほどの怒りが体を駆け巡るのを感じた。何がお気の毒なのだろう。絶頂期には先を競って定子の御座所に入り浸っていた公達たちは、没落した途端皆手のひらを返したように彼女の不遇に目を背け、道長への追従に躍起になっていたではないか。お蔭で定子は参内の費用を捻出することや、行列の供奉一人を見つけることにさえ難儀する生活を強いられたのだ。
(そのようなことも皆コロリと忘れて…。本当に世の人々の心のなんと移ろいやすく、頼み甲斐のないこと)
己の苦い経験も回想され、元子は唇をギュッと噛んだ。せめて自分だけは、あの涙をこらえ凛とした表情で天を仰いでいた定子の姿を心に刻んでおこう。それがあの方への一番の供養になるはず。以前東三条院に、定子にばかり子が生まれてくやしくはないのかと聞かれたことがあったが、やはり元子はいまこの時に至っても定子に対してどうしても敵愾心というものを抱けないでいた。むしろ同じ藤原摂関家の総領姫であることや、同じ夫帝に嫁したキサキであるという共通点が奇妙な連帯感をつくり出し、ある種の同志とさえ思える間柄となっていた。
(けれどその親近感も、詮子さまのような人生を送って来られた女人には到底理解できないものなのかもしれない)
円融帝にとって唯一の皇子である一条帝を産んだ東三条院詮子は、先例に従うならば本来は皇后、つまり正妻格になってしかるべきキサキであった。それがどういう訳か、彼女の父兼家と夫帝との仲があまりにも険悪だったために、円融帝は自身の皇后に藤原頼忠女(むすめ)でいま一人のキサキであった遵子を選んだ。もともと夫との関係は良好とは言い難かったため、彼の仕打ちに涙するようなことはなかったが、何かにつけ目の敵にしていた遵子を皇后へ冊立したことには激しい怒りを感じた。
(あの女、一人の皇子もあげていないクセに!)
夫帝と共にライバルへの憎しみも募らせた彼女は、仕える女房達が遵子を〝素腹の后″と揶揄するのを黙認しつつじっと待った。そして親兄弟たちが謀って花山帝を退位させると、順当にいけば遵子が就くはずだった皇太后の地位に一条帝生母として返り咲いたのである。そういった訳で、帝の妻であることよりも帝の母であることを拠り所にせざるをえなかった詮子にとって、定子と元子との間に芽生えた友情や彼女たちが達した境地は、決して理解できな心境の変化なのだった。
(してみると結局、詮子さまが定子さまを毛嫌いしていた理由は、姑としてというよりもむしろ同じ藤原の女でありながら、定子さまがご自分よりもあまりに恵まれていたからかもしれない)
元子は、藤原の女たちの使命について力説したときの詮子の眼光を思い出しながら考えた。藤原の女として天皇家に嫁ぎ、跡取りを産んで一族の栄華を保持すること。始祖鎌足が権力を握って以後、自分たちに課せられた使命はこれであり、その存在意義は藤原という姓に属することに意味がある。だから上が藤原であれば、下が詮子であろうと元子であろうと義子・尊子・彰子であろうと、夫となる帝たちでさえ気には留めていない。
だが、定子だけは違った。
始まりこそ藤原の典型的な政略結婚であったものの、最終的に彼女は〝藤原定子″ではなくただの〝定子″として愛され逝ったのだ。それが自分たちにとってどれほど成し難いことであるか、時めきたまわなかった詮子だからこそ内心は気がついているのではないか。
(そう思えば、案外定子さまは幸福なご生涯だったとも言えるわ。それに比べて詮子さまは…)
今度は、息子の母親であることのさびしさを訴えたときの姑の潤んだ瞳が頭に浮かんだ。定子が生命を懸けて産んだ媄子内親王は、詮子が引き取ることになりそうだと聞いたが、孫の可愛さが少しでも彼女の孤独を癒してくれれば良いがと、元子は心からそう願った。
しかし人間世界の不幸とは不思議なもので、いったん身近な人が一人亡くなると、後を追うように他の親類縁者も鬼籍に入ってしまうようだ。それは万乗の君一条帝とて例外ではなく、翌長保三年(一〇〇一)の年末長患いの末母東三条院詮子が崩御した。若い盛りを突然はかなくなった定子とは異なり、母の場合は年来の持病が祟ってのことだったため、寵姫を失ったとき程の動揺はなさらなかったそうだが、幼少の頃から最も身近にいた女人二人を立て続けに見送ったことにはやはり気を弱くされたのかもしれない。というのも、その年に中宮彰子の養子となった敦康親王に付き添い、後見人として参上していた定子妹の御匣殿(みくしげどの)を懐妊させてしまったのである。別段記録が遺されている訳ではないが、この出来事にはさすがの道長も不快感を露わにしたのではないだろうか。他のキサキたちが身籠るならまだしも、あの定子の妹に手を出したのだ。しかも愛娘の目の届く範囲で。思春期にはいった娘の胸中を慮れば父親として純粋に腹が立ったし、また生まれてくるのが男皇子ならばそれはそれで面倒なことになると、策士家の彼らしく苦々しい思いで事の成り行きを見守っていたに違いない。だが、後の世に語り草となる彼の強運はここでも発揮された。中関白家の悲劇はまだ終幕していなかったらしく、翌年御匣殿が出産を待たず早世したのである。あるいは陰謀説の好きな人なら、これ以上中関白家筋の後継者が生まれることを恐れた道長が、何らかの方法で御匣殿を暗殺したのではと勘繰るかもしれないが、残念ながら真偽のほどは定かではない。
一方元子は元子で、この長保二~三年前後は思いがけぬことへの遭遇が重なった。まず父顕光が再婚した道兼未亡人を堀河院へ招き入れ、二年八月には連れ子の姫君の裳着の式を執り行った。前妻盛子の逝去以来すっかり意気消沈し、出仕も滞りがちになっていた父が元気になったのは喜ばしいことであったが、反面同じ邸内に住んでいても専ら継母のもとで過ごすことが多くなったため、ただでさえぎくしゃくしていた父子関係は以降ますます疎遠となっていった。しかし少なくともこの一家に仕える人々の目には、主の再婚は家族全体にも良い影響を与えたように見えた。実際新婚生活で活力を取り戻した顕光が常にはない情熱を以て奏上した結果、正五位のままだった元子の位を一気に従三位にまで昇級させることに成功したのである。これには「おややを流される前まではあれほどかしずいて下さいましたのに、新しい北の方さまを迎えられた途端こちらには全く顔をお出しにならなくなりましたね」、とぶつくさ言っていた讃岐も手放しで父を褒めちぎった。
しかし乳母の喜びも束の間、翌月起きた不可解な事件は元子とその周囲の人々を凍りつかせた。度重なる焼亡にもめげず完成した新内裏は承香殿(しょうきょうでん)にて、死骸五体が放置されているのが発見されたのである。女人の月の障りでさえケガレと厭う宮中で、敢えて承香殿を選んでこのような嫌がらせをした動機は何なのか。先頃の加階を妬んだ者の仕業か。元子本人は恐怖感さえ抱き再び体調を崩したが、年末は定子の訃報が入ったためすっかりそちらの方に気を取られ、犯人さがしは立ち消えとなった。だが、後になって考えればかえってその方か良かったのかもしれない。帝のおわす内裏へ人目を忍んでそんなものを持ち込むには、内部事情に通じている人間の手引きが必要なはずだ。とすればある程度まで容疑者は絞れるが、たとえ真相を究明し告発をしたとしても、世の大多数の人々は「やれやれまた藤原の内輪揉めか」と呆れるのが関の山であろう。その様を想像しただけで、一度天下のさらし者になった元子はゲンナリした。
そんなこんなで長保二年後半は慌ただしいなか暮れていき、さぁ三年は穏やかに過ごせれば良いのだがと思っていた矢先、今度があの夢想家の兄重家がした決断が堀河院全体を震撼させた。常々俗世を悲観したところがあり、最近では意味深なことを口走ることが度々あったためそれとなく心配していたが、何を思ったのかこの兄は友人で道長養子の源成信と共に近江の園城寺に駆け込んで出家してしまったのだ。思えば兄の性格からして、いつかそのようなことが起こることは予測できそうなものだったが、宮中でもおぼえがめでたく美男子であった兄が世を捨てる理由は、常人にはなかなか理解しがたかった。とくに両人の父顕光・道長のショックは大きく、一報を聞くやいなや二人は慌てて園城寺へ思い直すよう説得に向かったが、若い貴公子たちの発心は予想以上に固く、「まこと親の心子知らずとはこのことですなぁ…」と車中大泣きしながら帰京した。その後も何人かの親類が彼の寺へ足を運び、あれこれと言葉を尽くしたが翻意は促せず、結局もう当人たちの好きにさせるほかあるまいということになった。
「確かに、お前の心ばえは立派なものじゃ。しかし、何故若い盛りのいまに出家せねばならんのだ。せっかく再婚で気力が戻って来たというに、お前の父上はまたこのことで屋敷に引っ込むようになってしまったぞ」
さんざん話し合っても一向に心変わりしない兄に、半ば懇願するように叔父が問いかけると、さすがに彼も罪悪感を隠せなかったのか丸めた頭を下げてポツリと呟いたという。
「私には、朝政を牽引しているお方々のような政の才はございませぬゆえ…」
何でも以前から自分は宮仕えが向いてないとコンプレックスを感じていたが、ある日たまたま藤原公任・斉信・行成・源俊賢ら四納言が、政について喧々諤々な議論を交わしているのに出くわし、その有識ぶりに己の非才を改めて思い知らされたという。
「ただ家柄が良いというだけではならぬのです。世の動きを見極め、それに柔軟な対応ができる判断力がなければ。最終的なところで、選び抜かれ任されるということはありません。私は、残ることのできぬ男なのです」
いかにも無念そうに告白した甥に、叔父はかけてやる言葉が見つからなかったという。自分たちが持たざる者であること。一族皆が薄々気づいてはいたものの、敢えて言及することのなかった事実に、感受性の強い兄は堪えられなくなったのだろう。妹として憐れに思う反面、もっと気を強く持てないものなのかと歯がゆいが、かく言う自分とて女の栄華を極めるという野心には最早何の興味も抱けないでいた。もともと権勢欲の強い方ではなかったし、御堂関白家がこれほど突出した今となっては、仮に皇子を生みまいらせたとて首尾よく政権を握ることができるかどうか。実際この頃になると、消息ひとつ遣るのにも苦労するほど夫と連絡を取ることは難しくなっていた。
一度寵姫恋しさが募った一条帝が、腹心の右近内侍に文を持たせ堀河院へ遣わされたことがあった。内容は非公式ながら参内を促す旨がしたためられており、定子を失った悲しみに一人堪えているに違いない夫を思い、元子も「道長さまは良い顔はされないだろうけれど…」と重い腰を上げかけた。だがほどなくして何処から漏れたのか、今上が内々に右近内侍を使者に立て、承香殿さまをお召しになろうとしているらしいという噂が流れた。この噂に過剰反応をしたのが間に立っていた右近内侍で、「あぁ、何ということかしら!これで私は道長さまから恨まれることになってしまったわ!」と恐れ入った彼女は、逃げるように退出し里から出て来なくなってしまった。そのため結局元子の参内話は頓挫してしまうこととなり、恐縮された張本人である道長を含め関係者各位には後味の悪い気分ばかりが残る顛末となってしまったわけである。だが一見愚かにみえる右近内侍のふるまいも、考えようによっては当時の道長の絶大な権勢を窺い知る逸話と判じることができよう。まごうことなく彼は、摂関政治の頂点を極めた男だったのだ。
しかし摂関政治の欠点は、たとえ同族であっても本流から少しでも外れれば、あっという間に傍流没落の憂き目に遭ってしまうところにある。元子の一家などはまさにその典型で、より立ち入った話をすれば、重家の突然の発心にはこうした事情も影響を与えているのではないか。いずれにしても、右近内侍の反応がさらに宮廷人たちを煽ったのか、それ以降他のキサキのもとへ使いに出ることを皆が嫌がるようになったため、一条朝の後宮はかつて定子一人しかキサキがいなかった頃のように、中宮彰子一人が控えるのみの一夫一妻の体(てい)に戻ってしまった。故につい周辺が寂しくなったと感じた一条は、御匣殿に情けをかけるという軽率な振る舞いをなさってしまったが、この女人も先述したように出産を前に亡くなってしまったため、いよいよ彰子に課せられた役割が重大性を帯びていくことになった。
だが、段々と追い詰められている心地もあった反面、身の内に彰子への愛情が芽生え始めてきていることをこの青年帝は否定できなかった。少女と呼ぶのすらまだ早い時期に入内し、しばらくは形だけのキサキにならざるを得なかった彰子も、この頃にはだんだんと大人びた雰囲気が備わってくるようになり、またそこにあの道長の娘とは思えぬ程の謙遜と純真が宿っていた。このまま娘が皇子を生まなかったらと懸念した父親から、押しつけられたように引き取った定子の忘れ形見敦康親王についても、彼女は真実の愛情を以て接し慣れない子育てに奮闘している。その姿に一条帝は、皇族と藤原の血統にがんじがらめにされた己の人生に小さな希望を見出したようなお気持ちになり、何時しか夜御殿へ彰子が上がる姿が目撃されるようになった。そしてこれと前後するようにして、時々は密かに出されていた承香殿への使いは減り、元子は自分たち夫婦の関係が静かに終息を迎えつつあることを、驚くほどすんなりと受け入れていった。
(何故自分は、こんなにも夜離れが続いているというに平気でいられるのか…?)
自問してみたものの、実は検討はついていた。まるで四季のうつろいのように、ゆっくりとささやかな変化ではあったが、いま一人の男の存在が彼女のなかで大きくなりつつあったのである。
源頼定。
入内して以降、直接会って話をするということはなくなっていたが、あのつらい時期に激励の文を貰ってから夫と並行するように文通は続けている。内容は近況報告を中心にして、努めて色めいた表現は避けようと心がけてはいたが、まるで密書ように讃岐が彼の消息を小袿の袂へ滑り込ませてくる度、元子の胸は刺激的な幸福感で満たされることを禁じえなかった。
(裳着を迎えたばかりの少女ではあるまいし、一体私はどうしてしまったのかしら?)
こうなって来ると、夫帝への罪悪感も湧いてくる。実際頼定から来た文を読み返してみても、取るに足らぬ日常の出来事が書き連ねてあるだけなのだが、とかく世間の噂と言うのは話を針小棒大にすることを好む。ただでさえ水を産んだ女御と珍獣扱いされている気(け)があるのに、この上東宮のキサキにまで手を出したらしい色男と親しくしていることが知られたら、自分は定子以上に貴族社会から浮いた存在になってしまうのではないか。その物思いはひどく彼女を苦しめたが、一方でここ数年散々悩ましい日々が続いたせいか、限られた人生を暗い気持ちで浪費することに馬鹿馬鹿しさを感じるようになっていた。
(これは迷いが吹っ切れる予兆なのか、それともただ自暴自棄になっているだけなのか)
いづれにしても、己も進退を決めねばならぬ時が必ずやって来る。それだけは元子にもわかっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます