第7章 暗転
不幸の連鎖とでも言おうか。元子の流産を機に、彼女の家族は天に見放されたように没落の一途を辿る運命を背負わされることとなった。娘の元子はともかく、なまじ顕光は門地に恵まれながら凡庸で長生きをしてしまったがために、この後父兼通以来築いてきた摂関家としての家格が道長一族の独り勝ちでどんどんと崩れていくのを、無力感にさいなまれながら見守る生涯を送ることとなった。しかし、まだそのことに顕光本人も彼の家族も気づいてはいなかった。というより、いまの彼らは目先で次々と発生する問題に手一杯の状態となっていた。長女元子と北の方盛子が、流行病の疱瘡に感染し一進一退の状態にまで陥ってしまったのである。
(もうイヤ、もう死にたい)
燃えるような熱さに蝕まれ、元子はとうとうそこまで思いつめるようになっていた。否、熱のせいばかりではない。あの流産からこちら、彼女は世間からはおろか己の人生からさえも、手のひらを返されたような扱いを受けた気分になっていたのだ。むしろ流産した直後は、夫一条帝からも慰めの消息をもらい悲しみのなかにも小さな希望があった。だが、しばらくして世間から聞こえて来る声に元子は愕然とした。
「聞きましたか?この度承香殿女御さまに起こった悲劇?」
「えぇ、聞きましたとも。本当に不思議な話ですね。お腹から出たのはややではなく、水だったというのは」
「はい、まことに。右大臣殿もあれだけ騒ぎ立てておきながらこのような始末なるとは、さぞや面目を潰されたとお思いのことでしょう」
人によって少しずつ内容は異なるものの、何故か世間では元子が産んだのは子どもではなく水だったという噂が広まっていたのである。そんなはずはない。確かに回数は多くなかったけれど、あの子は自分のお腹を蹴って存在を主張してきたし、何より母になるはずだった元子自身が、身の内に新たな命が宿りつつあることを本能で感じていた。だが世間の人々は、産み月になっても生まれてこないことに訝しんでいた矢先、突然産気づいたと思ったら体から多量の水が流れ出て、承香殿さまのお腹はあっという間にへこんでしまったらしいと、まことしやかにささやき合っているのだ。
(違う、違うわ!!あの子はちゃんと存在していたのよ!!水だったなんてあんまりだわ!!)
できることなら都大路に出て、思い切りそう叫びたいくらいだった。しかし、あの流産以降元子の体調は一向に回復せず、それどころか、ただでさえ体力が落ちていたところへ折から流行っていた疱瘡の病にもかかり、生死の境をさまよう事態となっていた。これに慌てたのが母盛子と乳母讃岐で、それこそ二人は一心同体となり、交代で元子へつきっきりの看病を行っていた。とくに盛子は看病の傍ら、未来の帝の外祖父となる夢を断たれ茫然とする顕光に、「何をいつまで呆けていらっしゃるのですか!そんなに嘆いているヒマがおありになるなら、可愛い娘のために良薬を調達してくるような親心をお見せになったらどうですか!」と叱咤したり、いい加減お引き取り願いたいと言う広隆寺僧侶らには、「まぁ、御仏に仕えるお方とあろう者が無慈悲なことをおっしゃること!これで無理に動かしたことが原因で娘がはかなくなりましたら、どう責任を取って下さるのかしら?」とやり込めたりと、日ごろの控えめな態度とは打って変わり方々へ強気の姿勢で応じていた。
(これが母親の強さというものなのかしら?)
混濁する意識のなか元子はぼんやりとそう思い、自分が得るはずだったものが永遠に失われたことに絶望した。だが、彼女の悲劇はそれだけではすまなかった。寝たきりで切れ切れの意識が続いたある日、ふと几帳の向こうに目をやると女房二人がひそひそ話でとんでもないことを言っているのを耳にしてしまったのである。
「では、弘徽殿方の女房はまだ例のことを根に持ってうちの姫さまを非難しているというの?」
「えぇ、そうらしいわ。「私たちには簾が孕んでいると言ったけれど、あちらは水を孕んでいたそうよ」と嘲笑したり、「あまり思い上がった態度をするとどうなるか、身につまされる思いがいたしますわね」と溜飲を下げているそうよ」
「そんな…。あの失言は姫さまのご意志ではなく、若菜が勝手に言ったことなのに…。水を生んだという噂だけでも耐えられないものを、この上都じゅうからそれみたことかと笑い者にされてしまうというの?」
簾が孕む!!思い上がった態度!!一体それはどういうことか!?身の内にまとわりついていた熱が、冷水をかけられたように一気に冷めていくのを感じた。元子はすぐさま讃岐を枕辺に呼ぶと、言い淀む乳母を食い入るように見つめて厳しく追及した。
「簾が孕むとは、一体どういうこと!?あの里下がりの折に、弘徽殿と何があったの!?」
「それは…。おひいさまの具合が良くなりましたらまたお話いたします故、どうか今はご自身のお体の心配だけをなさって下さい」
「具合が良くなるも何も、これでは気がかりで余計に気分が悪くなる一方だわ。さぁ、何があったのか正直に言ってちょうだい!若菜が一体、弘徽殿に何をしたというの!」
そう問い詰める養い君の顔は、しばらくの病臥のために憔悴しやせ衰え、元来の朗らかな印象が消え去っていた。(あぁ、おひいさま。何故このようなことに)讃岐は誕生した頃から見守り続けてきた主の変わり果てた姿に、今にも突っ伏して泣きたい気持ちになった。皇子さえ無事に産んでいれば、このお方は今頃女の栄華を極めていたはずなのに。あの日から何もかもが繰ってしまった。それからしばらく押し問答が続いた末、とうとう讃岐は鬼気迫る元子の双眸に根負けし、若菜がしでかした件の暴言について白状した。
曰く例の里下がりの日、手輿に随行する承香殿ら一行を眺めようと、御簾内で押し合いへし合いしていた弘徽殿方の女房達に対し、列の最後尾にいた若菜が
「まぁ、はしたない。弘徽殿は簾の身だけが孕んでいるのですねぇ」
と嫌味を言って通り過ぎたというのだ。
「何故その時そのことを言ってくれなかったの!?」
「まことに申し訳ございません。ですが、後宮内でのおキサキ付きの女房達の小競り合いはよくあることなので、それらを逐一おキサキの皆さまにご報告することは、おキサキ方へのお耳汚しになるだけだと、あえて申し上げないことが慣例となっているのです」
何ということだろう。世間知らずを自認していたとはいえ、水面下で各殿舎の女房達がそのような応酬を日常茶飯事としていることを知らなかったとは。元子は今更ながら、自分の読みの甘さ認識の薄さを痛感した。確かに、世間では弘徽殿女御と承香殿女御は帝の寵を競うライバルとして見なされていたが、当人同士はお互いの顔さえ見たこともないのだから、争うも何も実際のところは敵愾心を抱く機会もないと思い込んでいた。しかしときに後宮、いや政の世界は、本人がどのように考えていようがお構いなしに問題が発生することが往々にしてある。だから、たとえ義子と元子がお互いについて特に意識していなくても、周囲の者たちが彼女たちは反目し合っていると〝設定〟すれば、それがさも本当のことのように流布してしまうのである。
(あぁ本当に、私は物事を軽く見過ぎていた)
こうなってみると、若菜がしたことはその〝設定〟を裏づける事実として、噂好きの人々がこちらを糾弾する格好の材料となったわけだ。あぁ、どうしてこんな次々と折り重なるようにひどいことばかり起きるの?元子は棒のようになった手で、自身の顔を覆った。近頃では必死で看病していた母盛子までが、元子から感染したのか高熱に苦しんでいるという。親孝行のつもりでした入内が、まわり回って結局親不孝になっている。
「もうイヤ、もう死にたい」
今度はとうとう口に出してしまった。傍にいる讃岐が涙声で「おひいさま!」と縋っているのでさえ、曖昧模糊として我が身に起こっていることと思えない。とそこへ、ドタドタと簀子の踏み鳴らす女房の足音が聞こえてきた。
「何事ですか!騒々しい!病人がいらっしゃるのですよ!」
溢れ出た涙を拭おうともせず、八つ当たりするように讃岐が叱咤した。だが息を切らした女房の方も彼女以上に涙で化粧が崩れ、上司の言葉が聞こえないかのように悲痛な声をあげた。
「讃岐さま、大変です!北の方さまが、盛子さまが…!!」
最後まで言い切らずその女房が泣き崩れたところで、元子の意識は途切れた。
それからの数か月は、元子にとってモノクロームの世界、全て〝御簾の外″で起こった出来事だった。一時は元子の悲運を自業自得だと非難し、彼女を揶揄した戯れ歌までつくって嘲笑していた人々も、半年も経つと彼女の存在を忘れ去っていった。変わって世間が注目したのは、あの道長の長女彰子が裳着の式をすませ、いよいよ入内することになったらしいという噂だった。ほんの数か月前まで重い腰痛に苦しみ、内密に一条帝へ出家の意志を願い出る程思いつめていたはずの道長は、そのクセ水面下では娘の入内に向け着々と準備を進めていたらしい。長保元年(九九九)二月九日、左大臣藤原道長女彰子の裳着の式は盛大に執り行われ、ほどなくして彼女は朝廷から従三位の地位を賜った。
この出来事で殿上人は言うに及ばず、都じゅうの人々がいよいよ道長が天下を掌握するために本格的に動き出したことを悟った。前年の長徳四年には、中宮定子や東三条院詮子が病に伏し、一条帝までもが元子に続くように疱瘡を患う事態となったが、翌年の初春には道長とその一族の動向に衆目が集まるようになっていった。そのような状況のなかでさらに人々を驚かせたのが、中宮定子がまた懐妊したらしいというニュースだった。発作的な行為だったとはいえ自ら髪を切って出家を断行し、その複雑な立場から内裏にも参入できず、道路ひとつ挟んだ官庁街にある職御曹司(しきのみぞうし)へ留め置かれることとなった悲運のキサキが、またその身に皇胤を宿したらしいという衝撃は、彼女の数奇な運命を証明しているかのようで、都人はこの話題でもちきりになった。
しかし、そのように日々権力図が更新されていくなかにあっても、元子とその家族は死んだように静寂し堀河院へ引き籠っていた。体力に恵まれた若い我が身が起こした執念か、元子の体はゆっくりとではあるが回復し、やがて起き上れるまでの状態となった。だが、その顔からはもはや陶磁器のような滑らかさは消え、痛々しいあばたが散るようになっていた。そして彼女の心もまた、身に纏った鈍色の喪服のごとく黒く淀んだものに変わり果ててしまった。我が子に続いて実母まで失い、世間から嘲笑の的となった経緯は、明朗で鷹揚だった彼女の性質をこれ以上にないぐらい屈折させた。口数は極端に減り、醜くなった顔を隠さんとうつむくことが多くなった女主人の姿に、乳母の讃岐おろか仕える女房達全員が掛ける言葉を見つけられずにいた。ことに彼女の評判を貶める一因をつくり出した若菜は、あまりに居たたまらなくなったのか、ある朝共に寝起きする女童にすら一言も言わず忽然と姿を消した。誰も彼もが笑い声ひとつ上げるのも憚るような状況のなかで、唯一の救いとなったのが、一条帝の意を得て参上した蔵人頭(くろうどのとう)藤原行成の訪問であった。一条帝の腹心中の腹心ともいえる彼は、広隆寺で鬱屈した療養生活をするキサキを心配した主の指示で、彼女への愛を延々と綴った恋文を送り届けるためにやって来たのである。だがそんな幸いの使者行成でさえも、境内に漂う重苦しい空気にはいささか気圧された。
(何というか…。大丈夫なのだろうか、この一家は…?)
取り次ぎに出た女御の乳母とやらも、女御の心情が乗り移ったかのようにボソボソと陰気な言づけをするばかりだし、挨拶がてら顔を出した顕光も、これまた一気に十歳くらい老け込んで生気がなかった。他の女房・従者にしても似たような調子で、寺全体が荒んで呆けた空気になっていて息がつまりそうである。ふたつの死とそれによって失われた幸福や可能性が、この一家の境遇を奈落の底へ突き落してしまったのだと、行成は今更ながらあわれを覚えた。
「お悲しみはお察しいたしますが、どうか乗り越えて下さいますよう。まだ天下の情勢は定まったわけではないのですから」
やっとのことでそれだけの口上を述べると、彼はそそくさと寺を後にした。しかし行成の慰めも夫の恋文ですらも、いま元子にとっては気休めにさえならなかった。ほどなくして堀河院へ帰ることができたものの、一日中自分の部屋に引きこもってぼんやりとする日が何日も続いた。
(このまま消えてしまいたい)
ただひたすらそう思うだけで、昨日今日が過ぎていく日々。琴を弾いても低く切ない旋律にかかると手が止まり、物語を読んでも悲しい場面になると嫌になって冊子を閉じた。何を考えても何をしても、気持ちはあの寺の一室に横たわっていた日々に立ち返ってしまい、前に進もうにもその糧になるものが自分のなかに見出せない。あぁ、せめて母が生きていてくれたら。
「此度のこと、あまり気を落とすことはありませんよ。お父さまはあのように嘆いていますが、所詮産みの苦しみなど殿方には分かるはずもないのですから」
そう言ってやさしく自分の手を取ってくれた母の愛が、今はたまらなく恋しい。だが実際、母は自分が殺したに等しいのだ。自分から疱瘡をもらわなければ、母は死ぬことはなかった。今ではすっかり顔を合わせることが少なくなった父が時折投げかける視線に、元子は自分が犯した罪の重さを嫌でも思い知らされた。
(もうイヤ、もうイヤ)
幾重にも重ねられた几帳の向こう側で、元子の自己嫌悪は日に日に強くなっていく。そんなある日のことだった。
「おひいさま」
伺候する者がまばらになった昼下がり、突然讃岐が頃合いを見計らったかのように薄紫色で小さく結ばれた料紙を袿の袖に滑り込ませてきた。一瞬不審に思った元子だったが、何か訴えかけるような乳母の視線が気にかかったため、その場で開封はせずに母屋奥に立てられた几帳の後ろまでいざり、まわりに誰もいないことを確認してからそっと料紙の結び目をほどいた。
「久しぶりだね。長らく連絡のないところをみると、華やかな宮中生活にすっかり夢中になって、俺のことなどはもう忘れてしまったのかな?」
出だしから親しげな様子で語り出されたそれは、あの筒井筒の男(ひと)源頼定からのものだった。入内して以降新しい生活に慣れていくことにいっぱいいっぱいで、彼とのやり取りはすっかりご無沙汰となっていたが、数年ぶりに文面に現れた幼馴染は相変わらず少し意地悪でやさしかった。頼定はこの度元子に起きた不幸に関してはいっさい触れず、自分がいまは右近衛中将(うこんえのちゅうじょう)に出世したことやとうとう所帯を持ったこと等を細々としたため、末尾には体力回復のため食生活はくれぐれも気をつけよという、何やら若年寄じみた訓戒までつけて元子を泣き笑いさせた。夫からの恋文が延々と慰めの言葉だったのにも関わらず、少しも心が晴れなかったのに対し、頼定のそれはさりげない調子でなつかしいことばかりが書かれていて、元子はほんのひととき独身だった頃のまっさらな気持ちに戻れた気がした。
だが一方で、一条帝も負けてはいなかった。弱り切ったキサキの姿にますます愛おしさを覚えた彼は、折に触れて非公式の消息や贈り物を堀河院の門前に届け、まだご自分が元子を求めていることを強くアピールしてきたのである。もっともこれに喜んだのは元子本人というより周囲の者たちで、女房達は皆依然として今上が女主人へ変わらぬ愛情を抱いているということに新たな希望を見出していた。
「ご覧ください、女御さま。この硯箱に施された見事な金泥。灯台に近づけますと、きらきらと光って一層つややかで上品なものに見えますよ。今上はこういったご趣味も、まことに並み一通りでないお方なのですねぇ」
期待するように自分の顔色を窺う彼女たちに、元子はおどおどとしながら微かにほほ笑むことしかできなかった。精神的に追いつめられた心地のしている人からすれば、たとえ善意であれ、こういった周囲の励ましは焦燥感を募らせる一因にしかならないというのに…。だが元子とは全く違った意味で、一条帝が寵姫へみせるやさしさを素直に喜べない人物がもう一人いた。藤原道長である。もともと定子への当て馬として入内させた義子と元子も、娘彰子が成人した今となってはもはや用済みの存在でしかない。折よく数年間内裏の焼亡が重なり、自邸の一条院や東三条院が里内裏となったことで、娘婿の閨房も逐一耳に入るようになっていた彼は、一条帝が他のキサキと交渉を持つことに対し明に暗に眉をひそめた。そのため寵愛の厚い定子や元子でさえも、道長ら御堂関白家(みどうかんぱくけ)の権勢に圧倒され後宮への常住を遠慮するようになっていったのである。
しかし、そんな剛腕道長でも娘が入内した前後数年間は、まだ子どもっぽさの抜けない彰子を物足りなく思い、女盛りを迎えた他のキサキを求める一条帝の男心を、完全に否定するのは気が咎めたらしい。すなわち悲劇の流産から約一年三ヶ月あまり経った長保元年(九九九)九月七日、依然として心に深い傷跡を残しながらも、時折は乳兄弟実誓を呼んで心の慰めになるような説法を聞き体調が戻ってきた元子は、久しぶりに夫帝の熱意に応じて里内裏一条院に参内したのである。
「おやおや?そこの几帳の後ろに隠れているのは誰だろう?新参の女官かな?」
あばたを隠そうと俯いている女の顔をそっと包むと、男は愛おしげに同じくあばたの散る己の頬にそっと摺り寄せた。元子はそんな夫の気づかいに申し訳ないと思いつつも、身内の不幸以来かたく強張っていた自分の心が、じんわりと融解していくのを感じた。奇しくも自分もまた中宮定子と同じように、逆境を経て初めて夫への愛をはっきりと自覚することができたのである。
(定子さまといえば、お子の経過は順調でいらっしゃるのかしら?あれからこちらも、いろいろお話したいことができたというのに…)
元子が参内する約ひと月ほど前、中宮定子は出産のため平生昌邸へ下がっていた。一度は出家した身でありながら、また懐妊したキサキに対する風当たりは冷たいと同時に複雑で、これでもし今度こそ男の子が誕生でもしてしまったら、朝政は一体どう転んでいくのかと、殿上人たちは固唾を飲んで事の成り行きを窺っていた。
(本当に、何と因果な。そして何とおいたわしい)
夫との抱擁に身を任せながら元子はそっと目を閉じ、もはや同志とも思えるような年上の佳人に同情した。無論定子ほどの女人ならば、いま自分の置かれている境遇もしたたかに乗り切っていくことだろう。しかし何故、彼女ばかりに運命の荒波が襲いかかるのだろうか。否、定子ばかりではない。一条帝のキサキたちは、今まさに大きな波にのまれようとしていた。この年の十一月朔日、満を持して道長の長女彰子が一条のもとへ入内したのである。その輿入れ行列には参議以上のほとんどの公卿が連なり、殿上の間のご意見番藤原実資は同僚たちの追従ぶりにあきれ果てたという。当然元子ら承香殿の面々も、この新しい女御の飛ぶ鳥を落とす勢いにはひたすら気圧され、連日彼の殿舎に控えるあまたの女房達や華麗な調度品をうらやむ声が上がった。
だがその動揺は、更なる急展開であっという間に東山の彼方へと消え去った。彰子の入内から一週間も経たぬうちに、なんと定子が待望の男子を出産したのである。敦康親王と名づけられたこの皇子の誕生は、ようやく愛娘の入内が果たされホッとしていた道長はおろか、嫁いびりに勤しむ東三条院詮子をも相当に狼狽させた。ことに詮子などは、表面上は長らく待ち続けた世継ぎの誕生を喜ぶ一方で、皇子の生母がこれまた長らく忌み嫌い続けた定子だという事実がどうしても気に食わなかった。しかも可愛い弟道長の心情を鑑みれば、あまり手放しで定子腹の世継ぎの誕生を祝うことはできないし、どうかすると自分たち姉弟(きょうだい)の協調関係に水を差す事態となりかねない。なまじこれまで徹底的な道長びいきだっただけに、詮子は窮地に追い込まれた心地となった。そんな最中―これもある意味詮子の悪運の強さを証明しているのかもしれない―、彼女を救うひとつの不幸が起こった。同年師走の始め、三代前冷泉院のキサキにして太皇太后(たいこうたいごう)であった昌子内親王が、思い出したように死んだのである。
これにより〝正妻席〟に座っていた女人たちは、前方にひとつずつ席を移動することとなった。まず皇太后詮子が太皇太后へ、詮子と円融帝の寵を競った皇后遵子は皇太后へ、そして定子は中宮から皇后となり、空いた中宮席には新たに彰子が座らされたのだが、これがまた世人をひどく困惑させた。以前にも述べたように、〝皇后″と〝中宮″は実質的にはどちらも帝の正妻の尊称であり、その立場に置かれた唯一人の女人を指していた。この慣例を破ったのが、道長の兄で定子の父である故関白道隆で、彼は定子を一条帝の正妻にせんと、新設した中宮という地位に娘を据えた。だが今思えば、この時の道隆の暴挙はまだ許容できる範囲のことだった。いくら同じ立場の女人が同時に二人存在することになったとはいえ、遵子は円融帝のキサキで定子は一条帝のキサキ、つまり夫帝の異なった女人たちの間で起こった茶番だったからである。
しかし今回の定子と彰子の場合は、両人共に一条帝のキサキだったため、事態はますます混乱の一途を辿った。何しろ〝皇后〟定子と〝中宮〟彰子、一人の帝に二人の正妻が並立する状態と相成ってしまったからである。無論当初、愛する定子の立場をより一層不利にするこの申し出を聞し召した一条帝の御気色(みけしき)は芳しくなかった。そのためこれを承諾させるためにわざわざ参内してきた母詮子に詰め寄られ、非公式ながら一度は首を縦に振ってしまったもののやはり後で思い直したのか、「まだあの件については内密にするように」と仲介係の行成にクギをさしたほどである。ちなみにこの時、すっかり娘の立后は決定事項になったものと思い込んでいた道長は、この話を聞いてさぞや憤慨したのか、自著『御堂関白記』の一頁を黒く塗りつぶした。その頁には、娘が立后するに適当な吉日を陰陽師安倍清明に占わせた云々と書かれていたそうだが、思うにこうゆう大人げない出来事が散りばめられて歴史は面白くなるのだろう。しかし結局ところ、一条帝の抵抗もむなしく翌長保二年(一〇〇〇)正月の二十八日、彰子の立后は正式に布告された。道長の喜びもひとしおだったろうが、むしろ本当の意味で胸をなでおろしたのは東三条院詮子だったかもしれない。
そしてこのように、道長を家長とする御堂関白家派の人々動きが慌ただしかったなか、政敵である他のキサキたちの父親は何をしていたかというと、有体言ってとくに目立った活動をした様子はない。というか、道長一族の権勢があまりにも強くなっていくため、もはや誰も彼に対抗しようとする有力者がいなくなってしまったというのが正解だったのであろう。元子もまた七月まで里内裏へ留まり、時々は夜御殿に召されるという生活をしばらく続けていたが、飛香舎(ひぎょうしゃ)に溢れかえらんばかりに控える大勢の女房達が、彼の殿舎を通過する度に御簾越しで睨んできたり聞こえよがしに悪口を言ったりするため、いつしか承香殿全体が軽いノイローゼに陥ってしまった。
(このままでは私だけではなく、皆が参ってしまう)
弘徽殿女御義子側と起こした一件で、元子はキサキ同士の揉め事には敏感になっていた。あのように評判を落とす真似は二度としたくない。折よく寵姫がいじめの対象になることを懸念して、しばらく元子を召すことを遠慮していた一条が、我慢できなくなって久しぶりに夜御殿に参上するよう言ってきたため、元子は思い切って退出したい旨を申し上げた。
「そうか、分かったよ。けれど時々は文の返事も寄越しておくれよ」
いかにも残念そうにそう呟く夫を見て、元子は大層彼が気の毒になった。最愛の女(ひと)定子は、この年の二月に長男の顔を見せるため一度は御前(おまえ)へ参上したものの、道長へ遠慮したのかひと月ばかりの滞在で早々に帰ってしまった。そのためこの上元子にまで下がられてしまったら、自分はいよいよ独り寝の寂しさに悩まされることになると憂鬱なお気持ちになっているのだろう。何しろ正式なキサキとはいえ、いま一人の女御彰子は夜伽をさせるにはまだ幼すぎる。広大ながら同じ邸内でしばらく暮らしていたため、元子は遠くから彰子の姿を何度か目にしたことがあるが、率直に言って最初彼女を見た時は「まぁ、道長さまも随分ご無理をなさったのだわ」と驚きを隠せなかった。幼な妻彰子は、絶世の美人ではないが可愛らしく雰囲気のある顔立ちをしていて、定子とはまた違った魅力を兼ね備えた女人であると見受けるが、その小さな体は襲ねた袿に埋もれ、まだあどけなさを残す顔に施された化粧は不自然だった。確かあの子は数えでやっと十三歳になるはずだが、すでに二十歳を過ぎた女人を知っている一条からすれば、いま夜御殿へ召すことはむしろ罪悪のように思われるのは無理もない。だからこそ彼女の父道長も、とりあえずキサキとしての地位だけは高くして箔をつけようと考えたのだろうが、暇を持てますほど抱えた女房達に取り囲まれポツンと立ちすくむ彰子を見かけるにつけ、そういった大人たちの計略ひとつひとつが返って彰子にとって重荷になっているような気がする。
(何と言ったらよいか…。本当に不思議な話だこと)
権謀を張り巡らせる道長や詮子とて、要するに本来の目的は自分の血縁者から次期帝を輩出し権力を保持することだと思うが、その次期帝をつくり出す役目を負った一条帝や彰子は、何処かいつも騒動の渦中にあって存在を忘れ去られているようなところがある。ことに彰子はまだ若い分、彼女の意志や自我といったものへの配慮というのは全くなされていないといってよいだろう。摂関家に生まれた子女たるもの、己の人生は己が決めるという訳にはいかないことは承知しているが、まもなく恥じらいの思春期を迎える少女には、ああいった父親の過剰な〝演出〟がどう映って見えるのだろう?元子は何処か途方に暮れた様子で列の先頭を歩む彰子を尻目に、今回は努めてひっそりと里内裏を後にしたのだった。
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