第6章 産褥
それからまたさらにひと月たった長徳三年の暮れ、元子は出産の準備のため里下がりすることとなった。産み月はまだ半年ほど先のことだったが、血のケガレを潔癖なまでに忌避する宮中では、出産は祟りを招きかねない凶事として、女人は退出を余儀なくされていたのだ。しかし、むしろこれは元子とって喜ばしい出来事であった。夫一条帝と離れるのはさびしいことだが、久しぶりに実家へ帰り家族とゆっくり過ごすことができる。彼女の心は、日に日に堀河院を懐かしむ気持ちが強くなっていった。
退出するその日、夫帝からくれぐれも体を厭うようにとお言葉をいただいた彼女は、そのまま清涼殿で用意されてあった輿に乗り込み、裏門の玄輝門めざして華やかな行列をつくった。本音を言えば、殿舎のなかくらいは徒歩で進みたいと思っていたが、キサキの身体を慮った一条が、ご丁寧に室内では輿を屋外では車をと抜かりない送迎を手配なさったため、元子は否応なしに狭い車内に押し込められた。お蔭で慣れない輿独特の揺れに身を任せる羽目となり、もともと悪阻のせいで不快だった気分がさらに悪化した。
(これじゃあ余計に具合が悪くなるわ、あなた!)
ほとんど外の景色が見られない状態のなか列の先頭を進でいた元子は、のぞけって口元を袖で抑え込んだ。そうこうするうちに行列は弘徽殿の前にさしかかり、彼女は母や乳母が聞きつけたら顔を顰めるような呻き声を上げた。元子個人は弘徽殿女御義子に対して何の敵愾心も抱いていないものの、双方に仕える女房達がピリピリした空気を放っていることは、車内でもありありと認識できる。
(はやく通り過ぎてくれないかな)
そわそわと落ち着かない気分で身を固くしていた彼女は、輿がようやく登華殿に差し掛かるとホッと息をついた。とちょうどその時、はるか後方まだ弘徽殿の細殿を通りかかっている列の最後尾辺りから、「何ですって!」とか「まぁ憎らしい!」など小さいが甲高い声で叫ぶ女房達の悲鳴が聞こえてきた。
(何の騒ぎ?)
圧迫するかのように四方を囲まれた車内で、元子はきょろきょろと辺りを見回した。何もかも遮られているせいで、どちら側の女房が発した声なのかさえもわからない。
(何か、良くないことでも起きたのかしら?)
でも、それにしても誰も何も言って来ないのはおかしい。いっそ一旦外に出て、様子を見に行こうかとそこまで考え出したとき、ようやく「女御さま」と讃岐が小声で車の外から話しかけてきた。
「申し訳ございませんでした。もう心配はいりませんので、このままお進み下さい」
「そう?ならいいのだけれど。一体何があったの?誰か怪我でもしたの?」
「いいえ、大したことではございません。ちょっと若菜が…その、粗相を致しまして」
「粗相?」
「えぇ。でも、もう大丈夫ですわ。万事解決致しました。列の後ろがつまっておりますし、はやく車を出発させた方が良いかと存じます」
「あら、そうなの?わかったわ。ならはやく出発してちょうだい」
自分を一刻もはやくこの場から遠ざけたがる讃岐の態度に、疑問を感じた元子であったが、車の揺れのせいで気分は最悪だったため、よく事態を確認することもなく先を急がせてしまった。後から考えれば、本当にあの時は迂闊なことをしたと思う。身分柄その場で弘徽殿へ赴き、義子に直接謝罪するということはできなかったにしても、後日また改めて讃岐を問い但し、文と共に何かしらお詫びの品を送るべきだったのだろう。だが、元子はそれらを怠ってしまった。言い訳をするつもりはないが、久しぶりに実家へ帰ってきた身重の自分を、家族はおろか屋敷中の人々が総出で迎え入れ、そのまま飲めや歌えのどんちゃん騒ぎになったのである。有頂天になった元子は昼間の出来事などすっかり忘れ、その夜ばかりは我が世の春を寿いだ。しかし、今となってはそれも思い出すのも恥ずかしいことのひとつとなってしまった。若かったとはいえ、何と不用意な真似をしたことだろう。その後の自分の悲運が避けられなかった未来であったにせよ、あの時きちんと適切な対応をしていれば、あそこまで誹謗中傷されたり根も葉もない噂を立てられたりすることはなかったかもしれない。
否、どちらにしても、全てはもう過ぎ去った日々の出来事なのだ。あの頃、まるで煩わしいことなど何もないと言わんばかりにいつも笑っていた人々なかにも、もう鬼籍に入ってしまった人は何人かいる。そして逆に煮え湯ばかり飲まされ続け、ひたすら耐え忍ぶ日々を送っていた人々のなかには、今では自分らしくのびのびと生きている人もいる。なべて人の世は、いつの時代もうたかたそのもの。かくゆう自分もいっときは、よもや承香殿さまはいずれ皇后か国母におなりになる星のもとにお生まれか、と言われるほどの幸運に恵まれた時期もあったが、今では一体世の中のどれほどの人が自分の名を覚えていることか。けれど元子は、人々がどんなに自分の存在を忘れ去ろうとも、最終的にたったひとつの揺るぎない愛を得ることができた自分を誇りに思っている。多分結局のところ、自分もまた定子と同じく国母の器ではなかったということなのだろう。
ときに残酷にさえ思われるが万事合理性に基づいた事象、それこそが〝運命〟なのだから。
「えぇい、まだか?まだなのか!?」
右大臣藤原顕光は、白装束に身を包んだ女房達へ怒鳴り散らし、この日何度目かの催促をした。
これは一体、どうしたことか。その場に居合わせた誰もが皆悪い予感ばかりして、打橋(うちはし)を右往左往したり、産室の方角をチラチラ見たりして終日落ち着かない心地で過ごしていた。承香殿女御元子が、朝方急に産気づいたまま一向に産室から出くる気配がないのである。しかも、出産にありがちな励まし声や力む声も全く聞こえてこない。不気味なほど静かで、時折付き添いの女房達の焦った小声が漏れてくるばかりだ。そしてその静寂が、見守る者たちの心を一層不安にした。
「一体元子は、腹の皇子はどうなっておるのだ!?一向に産声が上がらないではないか!よもやそなたたち、何か不手際を起こしたのではあるまいな!?」
もうかれこれ三刻以上待たされている顕光は、恐縮した面持ちで頭を下げ続ける女房達へ、再び振り下ろすような怒声を浴びせた。そんな夫の様子に、見兼ねた妻盛子がそっと声をかける。
「あなた、怒鳴ったところでややが生まれてくるわけはないのですから、どうかまずはお座りになって下さい。私とて最初重家を産んだときは、随分と長い間陣痛に苦しんだではありませんか。初めての出産というものは、時間がかかるものなのですよ」
「それはわかっているが…。しかし、陣痛はあったのに生まれてくる気配がまるでないとは、おかしいではないか」
そう言うと顕光は、さっと身を翻して周囲を几帳で囲んだ空間から飛び出した。目の前にはすらりとした薬師如来がお立ちになり、これに向かって二十人ほどの僧侶が一心に祈りを捧げている。まったく、何故こんな事態になってしまったのか。顕光は我知らず、全てを見透かしたような仏の面差しをキッと睨みつけた。
産み月の皐月になっても産気づく兆候のない娘を、はじめは顕光も温かい気持ちで見守っていた。なぁに、ほんの一週間二週間のズレはよくあることだ。むしろいずれ天下を知ろしめす運命にある御子は、のんびりゆったりとお生まれになった方が返って威厳があるというもの、と楽観視していた。だが、三週間が過ぎやがてひと月が過ぎると、さすがにこれは尋常ではないと焦り出した。加えて、それまでいたって良好だった元子の体調が見る見るうちに衰え、何を食べても吐き出すようになってしまったのだから、いよいよ顕光は動転した。無理を言って急きょ太秦の広隆寺に宿を取り、もはや起き上がるのも大儀そうになっていた娘を運び込んで今日で七日。やっと産気づいたと思ったら、こうして焦燥感ばかりが募る待ちぼうけを食らわされているのだ。
「あの…、もし大殿さま」
出産に携わる女房達とは異なり、通常の小袿(こうちぎ)姿をした女房が遠慮がちに話しかけてきた。「何だ?」あからさまに不機嫌な声で答えた主に慄きながらも、今上と東三条院さまのお使者が出産の経過を教えて欲しいといらっしゃっています、と早口でささやくように彼女は要件を伝えた。
「またか!」
もはや顕光の声は悲鳴に近いものになっていた。なまじ産気づいたとうっかりお知らせしてしまったがために、先程からしきりに双方の使者がやって来てはこうして現状を問いただすのである。とくに息子以上に世次の誕生を心待ちにしている詮子からは、寺に入った直後からひっきりなしに催促の使者が遣わされ、それが一層彼を憂鬱にさせていた。
「お生まれになったら真っ先にお知らせする故、今はただお待ち下さいとお伝えしろ。滝口の宿直奏(とのいもうし)ではあるまいし、そうそう出産が刻限通り行われてたまるか」
半ば呆れ半ば諭すように、顕光は女房へ言伝を申しつけた。あぁ、もう本当に疲れた。こんなはずではなかったのに、一体何処から歯車が狂ったのか。少なくともつい数か月前までは、このまま行けば第一子どころか第二子を授かるのもそう遠くないかもしれぬと、さらなる期待をしてしまう程登り調子だったのに。何しろ今上の元子に対する愛情はなかなかのもので、先だっても里下がりしていた娘をいま一度ひと晩内裏へ参上させよ、という異例のご命令を下されたほどである。あの時はさすがに顕光も驚いて、「そのような例(ためし)は聞いたことがございません。どうか無事ややがお生まれになるまでご辛抱下さい」と申し上げたのだが、一条帝は頑としてこれを聞き入れず、あっという間に細々とした手順をお指図になり、堀河院の対の屋へ車を横づけさせたのである。どうやら新たに御匣殿別当(みくしげどののべっとう)として入内してきた藤原尊子―故道兼と御乳母繁子の娘―がお気に召さず、馴染みのキサキが恋しくなってついというお話だったらしいが、それにしても中宮定子への執着ぶりといい、案外あのお方は色恋に関しては我意を露わになさるのだなぁと、今更ながら顕光は若い君子の情熱に驚かされた。
しかし、それとて満更ではなかった。あまり寵愛が過ぎるとかえって不幸のもとになるが、キサキが夜御殿に召される回数は多ければ多いほど当然懐妊の可能性が高くなる。また将来後継者問題が起こった際は、皇子の生母であるキサキへの愛情の深さが強い影響を与えることもある。顕光はもう愉快でたまらなかった。妻はいまだに兼家の子孫たちへの警戒を緩めないが、中宮定子が公的には出家した扱いになっている現在、男皇子さえ産めば元子はまず間違いなく皇后になれることだろう。そうなればきっと自分も…。何度も何度も先走った妄想をし、顕光は一人ニヤニヤと笑った。だがそれらの誇大妄想もここ数日で急速にしぼみ、かわって浮かぶのは伊周・道長らが呵呵大笑する最悪の権力図ばかりである。
(こんなはずではなかったのだ!!)
簀子に座り込んだ顕光は、高欄に額をガツンッと打ちつけた。こんなはずでは、こんなはずでは…。とその時、俄かに産室の方で女房達のどよめきが起こった。ハッとした顕光は、先程までの憔悴ぶりが嘘のように荒々しく立ち上がると、蛇のような速さで産室の御簾へ近づいた。お蔭で白装束を鮮血に染めた女房とぶつかりそうになったが、顕光はそれにもかまわず掴みかかるような勢いでたった一言彼女へこう聞いた。
「で、どうだったのだ!?」
「女御さま、もう少しです。どうか今一度力んで下さい」
先ほどから同じことしか言わない産婆へ、元子は恨みがましい一瞥を投げた。だからさっきからやっているではないの。
良かれと思っての配慮とはいえ、父が自分をこの寺へ移したことに、元子はいささか腹を立てていた。ただでさえ、生まれてこの方感じたことのないほどの不快感と倦怠感が体を支配していて、手を上げるのも億劫な状態にまで弱っていたのに、その病身を引きずるようにして連れてこられたのである。加えて、産気づいてから延々と唱えられている安産の祈祷が鬱陶しくてたまらない。けれど、今はそれに対して文句を言う気力すらなくなっていた。
朝方、ここ数日何も口にできていない養い君を心配した讃岐が、せめてこれだけでもと重湯を一口含ませた刹那、急に激しい腹痛に見舞われた元子は飲んでいたものを吐き出した。霊場を出産のケガレで汚すことを忌んだ寺の関係者たちは、実家堀河院へ帰ることを勧めたが、そうこうするうちにいよいよ元子の具合も悪くなっていったため、やむを得ず後で必ずこの埋め合わせをすることを約束して、寺の一室を俄か仕立ての産室にした。そのまま今日一日、人から調度まで白一色の部屋へ籠りきりになった元子は、もうこのまま自分は死ぬのではないか、いや死んでもいいとすらぼんやりと考えるようになっていた。一体朝から何度力を振り絞ったことか。体じゅうの臓器を全て抜き出したかのような気分だ。にも関わらず、ややは全く生まれてくる気配がない。
(よもやもうお腹の子は…)
元子だけでなく、産室にいる全員が最悪の結末を予感した。なかでもこれまで何度も助産した経験を持つ産婆は、このままでは子どもはおろか母親の命すら危ういと、誰よりも現状を把握し妊婦以上に大汗をかいていた。たとえ死産であったとしても、とにかくまず子どもをお腹から出さねば。素人目から見ても相当弱っている妊婦へ、いま一度彼女はしわがれた声をかけた。
「さぁ、女御さま。皇子もお待ちかねでございます。恐れ入りますが、もう一度力んで下さいませ」
他に打開策がないことを承知しているのか、汗だくに単姿の妊婦はいやいやながら荒く息を吸い、支えられている上体を弓なりにして下半身に力を込めた。すると唐突にぬっと赤味を帯びた胎児の頭が飛び出してきた。その場にいた女たちは一斉に顔を見合わせると、ささやく程度ながらこれでもかというほど妊婦へ向かって声援を送った。多分その励ましが効いたのだろう。それからも時間はかかったが、やがて首が出て胸出てという過程を女たちは固唾を飲んで見守り、最後に足が出てきたときは感極まってざわめいた。
「あぁ、本当にようございました」
「おめでとうございます!まぁ、なんて可愛らしい皇子さまでしょう!」
口々に祝いの言葉を述べる白装束の女たちから視線を外し、元子はさっきから赤子の尻をたたき続ける産婆へ縋るような声で尋ねた。
「ややは、私の赤ちゃんは無事なの…?」
元子の言葉が耳に入っているのかいないのか、産婆はなおも様々な処置を赤子に施している。その必死の形相に、つかの間喜んでいた女房達も身を固くした。一同が金縛りにでもあったかのように微動だにしないなか、やがてゆっくりと身を起こした産婆は、じっと元子を見据えると目を閉じて首を横に振った。
「申し訳ございません、女御さま。いろいろ手は尽くしましたが、やはりこの御子はもう死んでおります」
「死産、だと?」
はい、いかにも気まずそうな様子で肯いた老女官は、主が思いきり悲しめるよう恭しく首を垂れた。君主たる者は、いかなる時も冷静沈着であらねばならないが、ときには思いがけず不幸に見舞われることは必ずある。だからそうした場合、彼女はいつもこうして深く深く額づき、努めて玉顔を拝さないよう心がけているのだった。別に誰かに言われたからやり始めたのではない。それが実に四代の御代にわたり清涼殿で奉仕し続けてきた彼女が、いつの間にか編み出した忠誠の体現なのである。
「何ということだ…」
予想通り、主の落胆ぶりは激しかった。なまじ先の中宮定子の出産が安産だっただけに、このような最悪の結果もありうることをあまり具体的に想定できていなかったのだろう。しかし、これはまた新たな波乱を予感させる展開になってきたものだわ。万乗の君の傍らへ侍り続け、時の為政者たちの専横を観察してきた老女官は、権力というものが如何に気まぐれに人の幸不幸を定めるものかを知り抜いていた。まだ承香殿女御の敗北が決定的になった訳ではないが、形勢不利になったことは確実だ。帝王の胤を流した女人への世間の目は厳しい。仮に一条帝がまだ女御への愛着を捨てきれなかったとしても、世継ぎを産む能力がないと見なされたキサキが夜御殿に招かれることを百官が感心するはずがない。それどころか気を窺っている者のなかには、ここぞとばかりに自分の娘を推してくる輩もいることだろう。現に娘尊子を御匣殿別当として差し上げた御乳母繁子は、娘が大したご寵愛も受けていないくせに、承香殿死産の一報が入った直後人知れず几帳の裏へ入り込みほくそ笑んでいた。
(なれど問題は、御匣殿別当でも弘徽殿女御でもない)
伊周・道隆兄弟の擁する中宮定子、そしてあの左大臣道長にかしずかれる愛娘彰子。承香殿女御の懐妊で一度は存在感の薄れた二人だったが、今回の悲劇で殿上人たちは再び彼女たちとその親族の動向を注視するようになるだろう。老女官がここまで考えたとき、それまで悲しみに沈黙していた一条帝が、ふいにこのようなことになるならばと後悔の念を露わになさった。
「右近内侍の勧めるまま頻繁に使者を出すのではなかったな。こちらとしては決して悪気があってやったことではないが、陣痛に苦しむ元子にとってはさらに負担をかけられているような心地になったに違いない。しかもこんな不幸な結果に終わってしまうなど…。これで女御の評判が落ちてしまうくらいなら、いっそ始めから懐妊などすべきではなかったのかもしれない」
「はい、まことに。これから承香殿さまがお受けになる試練を思うと、本当においたわしい限りでございます。とくに弘徽殿方に仕える者たちは、それみたことか天罰だと承香殿さまを笑い者にすることでしょう」
「弘徽殿?何故弘徽殿の者たちが承香殿を笑うのだ?それに天罰とは何のことだ?」
御引直衣(おひきのうし)の裾をさばき、一条帝は頭を下げ続ける老女官へ視線を向けた。確かに同時期に入ったキサキにも関わらず、あまりにも両者扱い方に隔てをつけてしまったと我ながら反省しているが、天罰とは引っかかる言葉である。だが言い出したはずの老女官は、それはと述べたきり口ごもった。
「おいおい。そこまで言っておきながら黙っているなんてあんまりじゃないか。僕のキサキたちのトラブルなんだろ?ならば夫である僕も把握しておかなければならないんじゃないか?」
いつの間にか平静のくつろいだ物言いになった一条は、幼い頃から傍近くへ仕えてくれている〝ばあや″をやんわりと問い詰めた。慇懃謙虚な態度に徹し続ける反動か、時々この媼はひどく意味ありげな言い回しをするのだ。まだ若い彼には、ときにそれが堪らないストレスに感じられる。
「で、何なのだ一体?はっきりと言わぬか」
「はっ。ですが、言ったところでお耳汚しになるだけかと…」
「後で知って、ああすべきだったのだとかこうすべきだったのか、と後悔するよりマシだよ。お前だって、そうやって僕が悩み苦しんできたところを、傍で見てきたはずだろう?」
そう言った主の苦渋の表情は、清濁併せ呑んできた老人ように年期が入っていた。実際同世代の若者たちがまだ外を走り回っているような年頃から、この青年帝は大人たちの権謀術数の渦中で板挟みになってきたのだ。だからこそ老女官は、(ご政道とは直接関わりのないことであるものの、これはお耳に入れておいた方が良いかもしれぬ)、と思った出来事は話が公になる以前にそれとなくお伝えし、少しでもショックを軽減して差し上げようと心を砕いていた。
「ならば、申し上げます。このことは承香殿さまご自身が望まれたことではないとは思いますが、今から数か月ほど前、承香殿さまが懐妊のため里下がりをなさろうとした折、弘徽殿さま方と承香殿さま方の女房達の間でささやかな揉め事が起こったのです」
「揉め事?」
「はい…」
老女官は色々なところで耳にしたその事件についての噂のなかで、共通して語られていることをなるべく客観的に主へ申し上げた。話を聞し召した一条帝の顔はだんだんと曇ってゆき、彼女が語り終る頃には先刻みせた苦渋の表情に動揺の気配さえ加えていた。
「そんなことがあったのか?弘徽殿方にはさぞかし辛い出来事だったに違いない」
「はい。女官・女房のなかには、あの一件以来弘徽殿さまは承香殿さまを深く恨み、承香殿さま呪詛しているらしいという不届きな噂を流している者もおります」
「なに?そのような無礼なことを触れ回っている輩がいるのか?すぐに止めさせろ」
「畏まりました。ですが今回の流産を受け、あの一件に関する噂は尾ひれをつけてますます広がるものかと…」
最後まで言い切らず老女官は口をつぐんだ。確かに彼女の言う通り、人の口に戸は立てられない。いずれも故意にしたことではないとはいえ、結果的に承香殿は非難される材料を世間にばら撒いてしまう形となったのだ。一条帝は疲れたように嘆息をつき、ややあって誰に言うでもなくこんなことを呟いた。
「まったく、何故いつもこう話がこじれてしまうんだ?僕はただ、愛する人たちへいつも誠意を以て接したいと願っているだけなのに…。これでまた定子に続いて、僕は一人の女人を泣かせる羽目になってしまった」
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