第5章 邂逅
少なくとも公事の年表では、長徳三年(九九七)の一年間は藤原元子にとって人生の絶頂期であった。時めきたまわぬ女御義子を尻目に、事実上一条帝のただ一人のキサキとして約半年間、宮中の賞賛の的になったのである。無論定子と義子の気の毒な境遇を思えば、この幸せが手放しで喜べる類のものではないことを、元子は承知していた。だが、夜ごと承香殿から清涼殿へ渡る際、御簾内から漏れる女房達の溜息に、女としての自尊心がくすぐられることは否定できなかった。そして、そんな愛娘の栄華を見守る父顕光の笑い声もまた日に日に大きくなっていった。
(このままいけば、元子がいずれ国母と呼ばれる日も近いかもしれぬ)
そうなれば父である自分は…。凡庸さに比例するように、彼の無謀な野心は膨らむ一方であった。もっとも、全く心配事がないかといえば嘘になる。子が産まれたことで、中宮定子への一条の愛情がますます強くなっていることは、傍目からも明らかであった。また折から病の床にあった国母東三条院詮子の平服を願い、三月に発せられた大赦では、はやくも伊周・隆家兄弟の帰京が許されることとなった。しかも六月には、母詮子の見舞いから還御したその夜、一条帝は参内させた定子母子と感動の再会を果たしている。
(中関白家側が、はやくも力を回復しつつあるわい)
もはや彼らの父道隆が在命であった頃ほどの勢いはないにしても、この先定子が男皇子を産んで形勢が一気に変わる可能性はゼロではない。
(そうなる前に、元子には何としてでも男皇子を、次代の帝を産んでもらわねばならぬ)
顕光は指ならしをしながらも、ほくそ笑んだ。まさかこんな日が来ようとは夢にも思わなかった。ほんの数年前まで、兼家の息子たちの栄達に臍を噛んでいたというのに。いまや彼は、物事の全てが自分を中心にまわり始めていると錯覚していた。儂が藤原氏長者になるのだ。儂がこの国の政を動かすのだ。まだ味方は少ないが、男皇子さえ生まれればきっと何もかも上手くいく。妻盛子は「警戒すべきは伊周さまや隆家さまだけではありません。道長さまこそ油断ならぬお方です」と言っているが、一体いまの道長の何に警戒しろというのだ。娘すらまだ入内させることができていないではないか。何も恐れることはない。いま殿上の間でもっとも輝いているのは、この儂、藤原顕光だ。時代はこの顕光を求めているのだ。後は元子が男の子さえ産んでくれれば!顕光の増長は、いつしか歪んだ欲望をはらんだものとなっていた。そしてある神無月の昼下がり、彼の野心は歓喜のあまり後宮に大音声を響かせることになった。
元子の懐妊が判明したのである。
(気持ち悪い)
元子はこの日何度目かの苦痛を心のなかで洩らした。懐妊していることがわかって約一か月、ピークは過ぎたものの未だに続く悪阻にはいい加減ウンザリだ。けれど、今日ばかりはそれもしばらく耐え忍ばねばなるまい。なにせ今から自分は、周囲の人々が目するところの〝承香殿さま最大のライバル″に初体面しなければならないのだから。
「お越しになられました」
若手女房が、いかにもつくったような上品な声で来訪を告げた。主だけでなく、この殿舎にいる全員がかつてないほど緊張している。ここまでピリピリしてくると、むしろ頭の一部は冴え冴えとした気持ちとなり、自分に発破をかけることができた。何をそんなに動揺しているの?だって私たちはまだ、お互いの顔すら知らないのよ。
「お通しして」
女房につられて澱みのない物言いをすると、元子は我知らず居住まいを正した。注意して見ると飛び出してきたことがわかるお腹には、妊婦であることを示す標(しるし)の帯が巻かれている。本来ならば、もう少し月満ちてから身に纏うべきこの帯を、娘の懐妊を知るや否や真っ先に送ってきた母は、最近専ら神仏に安産祈願をする日々を送っているという。長らく母親として生きてきた女人の強さにあやかろうと、今日あえてこの帯を巻いた元子は、いま一度帯の上からお腹をさすった。するとまるでそれが合図かのように、簀子の方からシュッシュッと衣がこすれ合う音が近づいてきて、やがてパッと持ち上げられた御簾から、表が山吹に唐草裏が薄萌黄の表着(うわぎ)を着た女人が入ってきた。産後で少し肉のついた肢体は気品に満ち、まさに元子が想像していた通りの美貌であったが、惜しむらくは肘の辺りで切り揃えられた緑の黒髪だった。
(この女(ひと)が…)
中宮藤原定子。一条帝最愛のキサキ。ほんの一瞬、両者はお互いを見つめ合った。初対面の女同士が交わす例のあの視線で。しかし深窓の姫君として育った二人は、そのようなやり取りがあったことをおくびにも出さず、ほぼ同時に頭を下げた。
「突然の来訪を申し訳ありません。故関白藤原道隆が女(むすめ)定子でございます」
「いえ、お気になさらず。右大臣藤原顕光が女元子でございます。さっどうぞお座りになって下さい」
指し示された見事な唐織の菌(しとね)に、きびきびと優雅な動作で中宮が歩み寄る。両名が向かい合ったちょうどそのとき、定子の背後にある御簾が遠慮がちに上がり、縮れ毛の女房がそっと入り込んできた。
(あれが、清少納言かしら?)
中宮定子サロンの顔であるはずのその女は、思いがけず醜女だった。外では、先ほどからしとしと小雨が降り始めてきている。彼女の入室を最後に室内の音はすっかり絶え、雨音が支配する重苦しい沈黙が漂った。
(なんて気まずい空気なの)
一人涼しい顔をする清少を除き、その場に控える全ての女房達が、このようなあるいは似たような思いに捉われるなか、やはり口火を切ったのは中宮だった。
「もう何か月になります?」
この質問に一瞬不思議そうな顔をした承香殿は、しかしすぐにあぁと思い当たった様子で返答した。
「ややのことでしょうか?それなら四か月になります」
「そうですか、もうそんなに。お体の具合はどうですか?悪阻が一番ひどい時期だと思いますが」
「はい。まだ万全ではありませんが、大分体調は良くなってきました。一時より食欲もわいてきましたし」
「まぁ、それは良かったこと。私も元来体は丈夫な方でしたが、初産は慣れないことが多くて憂鬱になることが度々ありましたから」
それは本当に、ただ妊娠で疲れていただけだったのだろうか。穏やかな表情を浮かべながらも、元子の頭にふとそのような疑問が生じた。初めての我が子を胎内に宿していたちょうどその頃、彼女は人生で最もつらい日々を送っていたことだろうに。それらの苦難を乗り越え、母子ともに健康な状態で再び宮中に舞い戻って来たのだ。この貴婦人は。とそこまで思いを巡らせると、自分は彼女に対して強い偏見を抱いていたことに気づいた。風にも堪えぬ薄幸の女(ひと)。それがこれまでの中宮定子像であったが、こうして面と向かって話をしてみると、儚げというより淑やか。沈思黙考というより明朗闊達な印象を受ける。
「それは、標の帯でしょうか?」
運ばれてきた茶を一口飲むと、今度は元子の腹部に視線を落とした定子がこう尋ねてきた。
「はい。母が手ずから縫ってくれた標の帯です。まだ巻くのには少しはやいのですが、これを身に着けていると心を強くもてるような気がするのです」
この返答に、定子はよく分かるというようにほほ笑んだ。
「そうでしょうね。私も標の帯は母が縫ってくれたものを巻きましたが。何やら母の手を通して安産の神に守られている心地になれましたわ」
時代を遡れば遡るほど、出産は女にとって命がけの試練だった。元子や定子の生きた十一世紀前後とてそれは例外ではなく、産褥死は女人の大きな死亡原因のひとつだった。まして彼女たちのように、普段は屋敷の奥深くへ籠ってほとんど運動をせずに過ごしている深窓の姫君たちが、急に体力を極端に消耗する難事に挑むのだ。耐え切れずに亡くなってしまうケースが頻発するのは、ある意味当然のことだった。そのため、まだ元子のように出産を経験していない女人からすれば、定子はまるで激戦を生き抜いた猛将のように感じられた。
「産み月はいつでしょうか?」
「はい。医師の見立てによると、皐月のころだそうです」
「そうですか。健やかな皇子が生まれるとよいですね」
「…はい」
会話をすればするほど、元子は定子が自分を尋ねてきた理由がわからなくなってきた。そもそも、今日の歓談を提案してきたのは定子だが、理由は一度内々にご挨拶がしたいという曖昧なものだった。元子の方も、以前から個人的に〝藤原定子〟という人に興味があったこともあり一も二もなく了承したが、何しろ初対面な上にお互いの立場が立場であるため、気さくな調子で話しかけることは躊躇われた。
(こちらを牽制しようというご様子でもなさそうだし…)
近いところでは、円融帝の女御であった遵子と詮子の確執が有名だが、そうでなくとも遥か昔から後宮では、表の政と密接な関わりを持った女の権力争いが繰り広げられていた。故に、昨日突然定子から承香殿へ伺いたいという申し出がきたときは、すわ全面対決かと殿舎じゅうが凍りついたのだった。しかしそのような元子たちの混乱をよそに、先ほどから定子は藤原一門のことや出産に際する心得など、屈託なく〝ライバル″へ語りかけてくる。
「あぁ、良かった。承香殿さまが話しやすいお方で。先日お会いした弘徽殿さまも可愛いらしいお方ではあったけれど、どうも人見知りをしてしまうご性格のようで、全然会話がはずまなかったんですもの」
「えっ、弘徽殿さまにもお会いになったんですか!?」
元子はつい驚いた声を上げてしまった。この人は一体、何がしたいのだろう?自分を追い落とすかもしれない女人たちのもとを尋ねまわるなど。一方定子も元子の表情からその真意を読み取ったのか、見入ってしまうような苦笑をして本音をさらけ出した。
「困りましたね。新しいお方が後宮に入ってくると、皆何故かすでにいるキサキは嫉妬しているに違いないと思い込んでしまうのですから。確かに当初、あなた方お二人が入内なさるという話を聞いたときには、私もひどく塞ぎ込んでしまうような出来事が立て続けに起こっていた時期ですから、この上神仏は私にどれほどの試練を与えるおつもりなのかと嘆きましたが、今こうして内親王を出産し育児に追われる日々を過ごしていると、もっと広い視野で物事を考えることができるようになってきた気がするのです」
「広い視野?」
元子がこう呟くと、年上の佳人は力強く肯いて言葉を続けた。
「皇統を、とりわけ今上の血筋を次の世代に伝えることです。今上は、あのお方は、いずれご自分の子孫が帝位に就かれることを強く望んでいらっしゃいます。無論私もそのようになれば良いと願っていますが、残念ながら長い間皇子に恵まれず、ようやくさずかったと思ったら女の子でした。ですから東三条院詮子さまがおっしゃっているように、「どのおキサキが懐妊したとしても、ただ男皇子さえ産んでくださればよい」と、近頃ではそう考えを改めるようになりました」
「まぁ…、なんとお心の広い」
聞きようによっては嫌味にも取られかねないと自覚しながらも、元子は感嘆の声を漏らさずにはおれなかった。あれだけの逆境に遭いながら、この人はただそれらのことに涙するだけの日々を送っていたわけではないのだ。自分が彼女の立場なら、そのように悟りきることができるだろうか。何もかも恨み、世を拗ねてしまうのではないだろうか。じんわりの心に広がったあたたかいものへ身を任せるまま、元子は思い切った質問をした。
「ご自分の産んだ皇子が、帝位に就くことはお望みではないのですか?国母になりたいと、そう願ったことはないのですか?」
「国母ですか、そうですね…」
しばし思案するように目を伏せた定子は、ややあって悲しそうに首を横にふった。
「一度もそのような未来を思い描かなかったのかといえば嘘になります。けれど今ふりかえってみると、私がこれこそ自分の夢だと思っていたものは、結局私自身の夢ではなかったのだと思います」
「どういう意味でしょうか?」
心底ふしぎそうに尋ねてくる少女の真っ直ぐな瞳に、定子は一瞬怯んだ。だがすぐにその表情は懐かしいものをみた時のようなせつないそれへと変わり、ややあってこれまでとは打って変わって迷いを含んだような口調で語り出した。
「私は、まだ右も左もわからぬ若い時分に入内し、今上から過分なご寵愛をいただくことができました。そのことについては、本当に今上に感謝しております。ですが、いつも自分の心に…何というか不信感がありました」
「不信感?」
「えぇ。私の今上への愛は、まことの愛なのかという不信感です」
(まことの愛…)
元子はその言葉にドキッとしたが、気がついた様子もなく定子は話を続けた。
「入内して以来、私の周囲にはいつも父や兄弟たちがいて、絶えず今上と私との夫婦仲に目を光らせていました。取り分け父道隆は、「一刻も早う男皇子を産んで下され」と、顔をあわせればいつもそればかりで。優秀な女房を集めたり強引な人事を行ったりと、何とか私を中心とする権力基盤を保とうと躍起になっておりました。そのことに有難いと感じつつも、一方で私は自分の心が日ごとに冷めていくのを抑えきれなかったのです」
「冷める、というのはどのように?」
「美しい御殿、才気ある女房達、中宮という身分の私、そして今上と私の愛。何もかもがお膳出てされたつくりものであるという事実に、空しさを感じずにはおれませんでした。いいえ、わかっています。それが藤原摂関家総領姫として生を受けた私の宿命であるということは。けれど、そのような虚構の世界でほほ笑んでいることが幸せだと、私はどうしても思うことができなかった。愛とは、幸せとは、もっと心の発露に即するものでなければならないのではないか、と。自ずと心に生じた疑念に加え、父が亡くなって以後我が家の風向きは悪くなる一方だったので、鬱屈した思いはいよいよ強くなっていきました。そんな時、例のあの政変が起こったのです」
「…さぞ、お辛い日々だったでしょう?」
「はい。生きていくのが、ほとほと嫌になるほど」
当時のことを思い出したのか、定子は沈痛な面持ちで絞り出すように返事をした。そして涙をこらえるように顔を仰ぐと、しばらく切れ長の目をじっと天井へ注いでいだ。肩のまわりで波打つ黒髪は、五節の舞姫がひるがえす檜扇を連想させる。後年元子は彼女との歓談を何度となく思い出す機会があったが、その際まず真っ先に頭に浮かぶのは、雨音にしみ込んだ冬の湿った空気と今のこの瞬間独り天を仰ぐ定子の姿であった。
「中宮さま?」
あまりに長く沈黙する主を気づかい、それまで黙っていた清少納言がそっと声をかけた。するとようやく定子は、「大丈夫。ありがとう」と言って視線を元子へ戻し、少し恥ずかしそうに「ごめんなさい」とつぶやいて話を再開した。
「でも、そう悪いことばかりではなかったのですよ。確かに没落する我が家を見限り、私のもとを離れていく女房も何人かおりましたけれど、ここにいる清少納言をはじめとして、律儀に仕え続けてくれる者も大勢残りました。そのお蔭で、信頼できる者とそうでない者との区別がつきましたし、残ってくれた者たちとは、今では主従を越えた強い絆で結ばれています。それに…、」
「それに?」
元子が促すと、定子はやや躊躇った様子で告白した。
「長らく今上のおそばを離れたことで、私はようやくあのお方への愛を確信することができました。とくに子どもがお腹に宿っているとわかったときは、はやく今上にこの子をお見せしたい。はやく今上にお会いしたい、という思いが強くなっていくことに自分でも驚きました。そして、娘を抱いて愛おしそうにあやすあのお方の姿を見た瞬間、もはや自分の望みは我が子我が夫の幸福のみである、そうと分かったのです」
「我が子我が夫の幸福…」
元子は茫然としたようにつぶやいた。自分がこれまで感じていた不安・迷い・躊躇・疑いの答えは、まさにいま彼女が語る回想のなかにある。そんな気がした。女人の栄華を極め、都じゅうから憧れの的であった女(ひと)でさえ、落ち着くところは結局〝そこ″なのだ。一方定子は、心なしか申し訳なさそうな視線を元子へ送りつつも、これまでの思いの丈をやっと発散する場を見つけたとばかりに熱弁をふるい続ける。
「そうそれが、私の望み。そして私自身の幸福そのものなのです。このような心境にいたることができたことで、私は女人としての誇りと自信を取り戻すことができました。ですが、この望みはあくまで私個人のためのもの。皇室や国の繁栄を思ってのことではないのです。市井に生きる女たちならばともかく、国の母と称される者がそれではいけません。万乗(ばんじょう)の君の母親が抱く望みは、最終的にこの国に生きる全ての人々の幸福につながるものでなくてはならないと思います。だから自分個人の幸福を得たことで満足し、それ以上のことを望まない私は、もはや国母の器ではないのです」
言い切った彼女の瞳は、強く澄み一点の曇りもなかった。それは、守るべき対象と信条をしっかりと理解するに至った女人の姿であった。かなう相手ではない。日が東から上り西へと沈むように元子は自らの敗北を悟った。だが、不思議なほどくやしさというものは感じない。むしろ何か鼓舞されたような気持にすらなっている。中宮定子は、藤原定子は、確かに彼女自身が言うように国母の器ではないのかもしれない。しかし、まぎれもなく彼女は一人の自立した女人であり、強い母であり、そして真実夫を愛する妻なのである。
「全く!何なのですか、あれは!?」
若菜は、定子が口をつけた椀をガツンと盆にのせた。元子の御前でなければ、いっそ放り投げて割っていたことだろう。あまりにも怒りが込み上げているせいで、歓談の盗み聞きをしていたことを公然と認めてしまっている。しかし、讃岐はもはや注意するのも面倒になったのか、あきれた調子で「女御さまの御前で騒々しいですよ」と言うに止まった。
「でも、讃岐さまも腹が立ちませんでしたか?突然会いたいと言ってきたと思ったら、あんなわけのわからない世間話をした挙句、過去の栄光を懐かしんで泣き出して、しまいには自分は今上を愛していることがわかったとか何とか…。一体何がしたかったのかしら、あのお方は!?」
「さぁね、何かしらね?きっとまだ子どものお前にはわからない深いご事情があるのでしょうよ」
「何ですって!ひどいわ、讃岐さん!まだそうやって私のことを子ども扱いして!」
「あら、だって子どもは子どもじゃない?」
「違います!確かに私はまだ裳着を終えていないけれどっ…」
「お止めなさい!もう、本当に学習しない人たちね、あなたたちは」
毎度のことながら繰り広げられる応酬を、元子は疲れ切った様子で仲裁した。一応主人の前なのだから、もう少し節度をわきまえて欲しいものである。悪阻の不快感のせいで、いつもより一層怖い表情になった主を見た若菜は、「しっ失礼しました!」と言い切らぬうちに脱兎のごとく御前を後にした。後に残った讃岐も、ばつが悪そうにこちらをちらちらと窺っている。だが、元子は違う考えに気を取られているのか、脇息にもたれかかったまま先ほどまで定子のいた菌をじっと見つめている。
「あのぉ、おひいさま」
「素晴らしいお方だったわね」
ふいにつぶやかれた養い君の一言に、讃岐は「えっ?」と戸惑った。しかし元子はなおも視線を動かさず、ひどく大人びた表情で言葉を続けた。それは、生れたときから仕え続けてきた讃岐でさえ見たことがない彼女の新たな一面であった。
「定子さま。本当に素晴らしいお方だわ、あの女人は。はじめから私など、かなう相手ではなかったのよ」
「…おひいさま」
「あら、そんな悲しそうな顔しないでよ。別に私は悲観しているわけではないのよ。それどころか、久しぶりに晴れ晴れとした気持ちになれているの」
「晴れ晴れとした気持ち、ですか?」
長年の主従関係からくる遠慮のなさから、あからさまに怪訝な表情をした乳母に、元子は苦笑しつつ答えた。
「えぇ、そう。晴れ晴れとした気持ちよ。だってあそこまで見せつけられたら、もうそうなんですかと受け入れるしかないではないの。結局今上が一番愛していらっしゃるのは定子さまだし、定子さまも定子さまで今上を一人の男性として深く愛していらっしゃるのよ。私のように、今上の寵愛を受けることをどうしても義務の延長としか捉えられない者が、かなう相手ではないのよ」
「おひいさま…」
「それにしても、道長さまのご息女彰子さまは大変ね。道長さまは入内の準備を着々と進めていらっしゃるという噂だけれど、確かまだ彼女は十歳そこそこのはずでしょう?ライバルとなるおキサキがあんな成熟した大人の女人では、あまりにも彰子さまには分が悪すぎるわ」
「そんな、おひいさま。他人事のようにおっしゃらないで下さいまし。おひいさまとて、その〝ライバル″のお一人なのですよ」
「あら、そうだったわね」
「もう、おひいさまったら。そういうところは本当に昔からのんびりとしていらっしゃるるのだから」
「ふふふっ」
言い合うちに、どちらからともなく主従は自然と笑い合い出した。ここ内裏での日々は、確かに華やかで他では得られない経験も得ることができるけれど、反面大勢の人が集うところの常で、上辺だけの交際に時間を割かれストレスを抱えてしまう人も多い。もしかしたら、元子は思った。だからあの夫(ひと)は、中宮定子とその後宮にあれほど入れ込んでしまったのかもしれない。聞くところによると、中関白家は両親である故関白道隆と高内侍(こうのないし)貴子が、藤原摂関家と国司階級という違う家格での結婚だったためか、両家の特徴が混ざり合った独特の開放的な家庭だったそうである。そのため定子の後宮もこの影響を受け、清少納言のような漢文に造詣の深い教養ある女房が集い、才気煥発なやり取りが日常的に行われていたという。それが物心つくかつかないかのうちから煩雑な政務に追われていた彼にとって、どれほど目新しいものに映ったことだろう。元子はそっと、王者の孤独を抱える夫帝の心情を憐れんだ。
こうして寵姫としてお傍に仕える日々を過ごすうち何となく気がついたことだが、夫一条帝はごく親しい者にでさえ常に精神的な距離を置く男(ひと)である。思えば、彼の祖父藤原兼家並びに子息らが、半ばだまし討ちするような形で花山帝を出家させ、自分たちと血縁関係の濃い一条を即位させたのは、彼がわずか数え七歳のときであった。当然のことながら、まだそんな幼帝に百官を率いていく能力があるはずもなく、政は専ら祖父兼家や伯父道隆らに牛耳られる摂関政治となった。その専横ぶりは枚挙にいとまがないが、これまでの人生のなかで夫を悩ました問題の大半の原因は、彼の身内が引き起した権力闘争に因るものである。幼い頃から身内のむき出しの権勢欲に揉まれるというのは、一体どのような感じなのだろう。元子はそっと頭の中で想像した。
…分からない。多分、常に孤独感にさいなまれる子ども時代だったことだろう。誰にも心を許せず、誰からも心を許されない日々は。そんな中で政略結婚だったとはいえ、まだ若く気持ちの正直な女人に出会えたのだ。彼女自身は無論のこと、彼女がつくり出した空間さえ、さぞや彼にとってまぶしく感じられたことだろう。でも結局、それらもいまや全てまぼろしとなってしまった。元子は、夫がしきりに自分を傍へ置きたがる理由が少しだけわかってきたような気がした。自分で言うのも難だが、父顕光に似て彼女はおよそ裏表のある言動というものができない性分である。多分その愚直さが、彼の御眼鏡にかなったのだと思う。だったらせめて自分だけは、彼に二心ない態度で接しようではないか。正直なところ、生まれてくるこの子が現在の権力図にどのような影響を与えるかは未知数だし、また自分や家族がそれに上手く対応できるかどうかももわからない。けれど、母親になるのだ。子どもの幸せのためにも、その父親とは良い関係を築いていこう。たとえ、彼の一番になれなくとも。元子は帰り際、満足しきった表情でかけてきた定子の言葉を思い出した。
「お会いできて本当に良かったですわ。今上があなたを寵愛なさる気持ちがよくわかりました。どうか健やかな皇子をお産み下さい」
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