第4章 入内

 長徳二年(九九六)十一月十四日、右大臣藤原顕光女(むすめ)元子は母盛子に付き添われ宮中へ初めての参内(さんだい)を果たした。そして翌十二月二日には女御の宣下を受け、御局に承香殿を賜ったため、以後彼女は公では「承香殿女御(しょうきょうでんのにょうご)」と称されることとなった。

 当初「承香殿」という殿舎の名称を聞いたときは、「えーっと、聞いたことはあるけれど、それ何処の御殿だったかしら?」と首をひねった元子であったが、いざ帝のお住まいである内裏に入り込みある程度建物の位置を把握すると、ここがほぼ内裏のど真ん中であることがわかった。というのも、内裏は大小合わせて二十六の殿舎が渡殿や橋でつながった複合建造物なのであるが、そのなかで承香殿は、内裏の心臓部として各公式行事が催される正殿紫宸殿(ししんでん)の後ろのそのまた後ろにあり、さらにその承香殿の背後には、弘徽殿(こきでん)や麗景殿(れいけいでん)など五舎七殿からなる後宮が広がっているという間取りだったためである。政務の執り行われる紫宸殿や仁寿殿(じじゅうでん)と近接していながらも、帝のキサキたちの居所後宮の入口でもあるといういとも微妙な立地条件は、反面公的空間と私的空間のどちらにも属するという強味にもなりえたのか、かつて紀貫之らによって『古今和歌集』が編纂されたのは、この承香殿の東廂にある内御書所(うちのごしょどころ)であったと伝えられている。また帝が日常生活をお送りになる清涼殿とは、弘徽殿と共に後宮のなかでは一番近い距離にあり、この点において元子の女御としてのスタートは幸先の良いものであった。

 なお念のために言っておくと、先程から内裏内裏と繰り返しているが、「内裏」とは宮中のなかでもとくに帝とそのキサキたちが日常生活を送る一角のことを指しているのであり、内裏=宮中というわけではない。宮中の別名は「大内裏」で、この大内裏とは南北約一.四キロ東西約一.二キロの面積を築地の大垣で囲った巨大政庁空間全体のことをいっている。そのなかで内裏は中央東寄りに位置しており、このまわりを朝賀・即位式を行う朝堂院や節会・饗宴を行う豊楽院(ぶらくいん)ほか、二官八省の官衙が取り囲んでいるという構図であった。


 元子は女官に先導されながら、清涼殿までの短い道のりをしずしずと進んでいた。ふと前方に目をやると、一段と冷え込みを増してきた闇夜に松明が赤々と燃えている。

 「すでにお待ちでいらっしゃいます」

 事前にある程度のしきたりを聞かされていた元子は、女官が促すように夜御殿(よるのおとど)につながる障子を開けたので、内心少し驚いていた。話が違うじゃないのよ。確か讃岐は、帝のお支度ができるまでキサキたちはしばらく待たされると言っていた。だからその間に心の準備をしようと思っていたのに。

 (しょうがないな、もう)

 文句を言ってもはじまらないので、仕方がないから元子は努めてさりげない調子で夫となる男(ひと)の寝所へと踏み込んだ。想像していたより、御殿のなかは殺風景なしつらえだ。部屋の真ん中にこそ大きな御帳台(みちょうだい)があり、そこから垂れ下がる几帳が周囲の板敷をひらひらと覆っていたが、その他に目立つ調度といえば御帳台の前にでんと置かれた獅子と狛犬、後は枕上にある二点の謎の置物くらいだった。

 (あれは…草薙剣と八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)かしら?)

 臆面もなくしげしげと国の宝を眺めた元子はふと視線を感じ、御帳台の方へと顔を向けた。するとそこには髻を露わにした二十歳前後の男性が、胡坐をかいて座っており、妙に真剣な眼差しで自分を見上げている。彼は単に何枚かの衵を引っかけ、女物のような丈の長い袴をはいていたが、その鋭敏な瞳は奥山を走る俊敏な牡鹿を連想させた。

 (えっ?この方よね、多分…)

 ほんの数秒、初対面の男女にありがちな気まずい空気が流れた。が、すぐに男は柔和な顔つきになり、年来の友人にするように気さくな調子で話しかけてきた。

 「珍しい?」

 「えっ?」

 なに、何のこと?元子が酸欠した魚のように口をパクパクさせていると、一条帝は少し驚きながらしかし面白そうに補足した。

 「三種の神器のことさ」

 「さっ三種の神器?あぁ、はい!」

 妙に威勢の良い返事をしたものの、その後が続かない元子は途方に暮れて相手の顔色を窺った。だが、立場上恐縮した人間と接することに慣れているせいか、一条帝は彼女の気おくれを大して意に介さず、「そうか、やはり珍しいと感じるんだね」と首を神器の方へ向け会話を続けた。

 「ここまで入って来られる女官や臣下は滅多にいないけど、みんなこの部屋への入室が許されると、一様にあの神器に目を向けるんだよな。僕は小さい頃から身近にあるせいか、正直あまり有難みが湧かないんだけれど」

 そうかこの男(ひと)は、普段から自分のことを「朕」と呼んでいるわけではないのか。緊張がピークに達して何も考えられなくなっていた元子は、かえってそんなどうでもいいことに気がついた。彼とは参内初日に一度会っているが、あの時は儀式の間じゅうほとんど頭を垂れていたし、着慣れない裳の紐が緩んできて非常に落ち着かない気分だったのだ。だがこうして今改めて当代の帝というお方のご尊顔を拝すと、思いがけず彼は健やかで英邁な帝王にみえた。思春期の後半に入った少年の例に漏れず、体格は肉付きこそ乏しいが細長くしなやかで、肩幅もまだ広くなりそうな余韻がある。また口角を上げる独特の微笑み方は、育ちの良さと年齢相応の生意気さが相まって奇妙な魅力を与えており、これには今まで別の方面ばかりに気を取られ、肝心の〝一条帝〟への興味を抱けなかった元子の胸さえもざわめかせた。

 「見てみる?」

 「えっ!いいんですか?」

 思わず大きな声を上げてしまい慌てて自らの口を塞ぐキサキに苦笑しながら、一条は立ち上がって二点のうち場所をとっている平らな櫃(ひつ)を御張台へ引っ張り込んだ。そして近づくよう目線で元子を促し、ゆっくりと蓋を持ち上げた。おずおずと彼の傍らに座り込んだ元子は、しかし無遠慮に櫃の中身を観察する。絹で覆われた箱の底に固定された鉄剣は時代を感じさせる威厳があったが、反面夜陰に照り輝いた周囲の白地が妙な寒々しさを与えていた。確かこの剣は、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治なさったときに、その尾から出てきたものだったといわれていたはず。『古事記』を読んだのはもう随分前のことだけれど、神話に登場する伝説の剣を目の前にして元子の心は高揚した。そのため次の一条帝の質問にも、先程とは打って変わってすべらかな応対ができた。

 「どう?思ったより大したことないだろ?」

 「いえ、そんなことないです。想像していたよりもずっと小さいけれど、これでヤマトタケルノミコトが迫りくる炎を刈り払ったのだと思うと、何だかゾクゾクします」

 伝説の勇者ヤマトタケルは、叔母ヤマトヒメから譲り受けたこの剣を携え東国遠征に赴いた際、その途上で敵が放った野火に囲まれ危機に陥ったが、当時は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれていたこの剣で炎を草ごと断ち切って難を逃れたという。故にそれ以降この剣は草薙剣と称されることになったそうだが、元子のイメージではもっと長大なものだった。

 「あぁ、その話なら僕も好きだな。でも、残念ながらこれは形代で本物じゃないんだよ」

 「えっ!そうなんですか?」

 かつては三点とも帝の手元にあった神器の本物も、この時代には八坂瓊勾玉以外の二点は形代がつくられ、神代の八咫鏡は伊勢国の伊勢神宮へ、そして草薙剣は尾張国の熱田神宮へ安置されていた。なおこのとき元子が見た草薙剣の形代は、さらに時代を下って約一九〇年後の壇ノ浦の戦の際、平家一族と共に海中に没したまま所在不明になったと伝えられている。

 「けれど形代といっても、ずっと昔から代々皇室が大切に保管されてきたものなのでしょう?やはり貴重な神器にはかわりないと思います」

 「そうかな?今まで典侍(ないしのすけ)辺りが恭しく持ち上げるのを不思議な気持ちで眺めてきたけど、宮中の外で育った君でさえそう言うなら、僕ももっと敬意を以て扱わなければならないのかもしれないな」

 生来の誠実さが感じられるような低い声音でそう返答した一条帝は、櫃の蓋を閉じて神器をもとあった場所に戻すと、改めて元子と向かい合った。ここまでくるのにいろいろな葛藤があり、さらにまた現在も里で物思いに沈むあの女(ひと)のことを思うと胸が潰れるような心地がしたが、今宵は久しぶりに楽しい気持ちで夜を過ごせそうだと、彼はまぶしそうに新しいキサキをじっと見つめた。また一方の元子も、今日は終日夜のお召しのことばかり考えて取るものも手につかない状態だったが、先程の男の行動に自分の緊張を解きほぐそうという心遣いが感じられ、初めてささやかではあるが彼を夫として愛おしいと思った。

 (もしかしたら、これならきっと…)

 近づいて来る男の吐息にくすぐったさを感じながら、高鳴る胸の鼓動にかつてない新たな希望を見出し、彼女はそっと目を閉じた。

   

 誰よりも本人とって予想外なことに、元子はたちまち〝いと時めきたまふ″キサキとして、宮中の花形に昇格した。当初は「今どき娘を入内させて出世しようなどと、顕光殿も古臭いことをなさるものだ」、と彼女の入内に対して否定的だった人々も、中宮定子のときほどではないにせよ、しばしば元子を夜御殿に呼び出す今上のお姿に驚きを隠せなかった。

 「いやいや、何事もやってみなければと分かりませんな」

 あの細殿であの廂で、様々な身分に属す者たちが肩を寄せ合ってヒソヒソ話をしている。

 「でも、承香殿さまがご寵愛を一身にお受けになっている一方で、いま一人の女御弘徽殿さまは、全くお相手にされていないそうよ」

 この道三年の女孺(にょじゅ)が、昭陽舎(しょうようしゃ)の中庭で竹ぼうき片手に同僚にそうささやいた。確かに承香殿の女御が衆目を集めるのに反比例するように、彼女に先んじて入内した弘徽殿の女御義子は、日に日に内裏での影が薄くなってきていた。それでも何とか今上に振り向いていただこうと、彼女の父公季はいろいろ弘徽殿のしつらえを華やかにしているそうだが、世評は専ら「弘徽殿さっぱり、承香殿意外」という共通認識だった。

 「義子さまにも、やさしくして差し上げればいいのに」

 今年もまた慌ただしく過ぎていった年末年始が落ち着き、今ではもうすっかりもうひとつの我が家になった承香殿で、元子は火桶に手を当てながら誰に言うということもなく呟いた。すると唐櫃にいそいそと絵巻物を収納していた讃岐が、首だけをこちらへ向けて何をおっしゃっているんですかと鋭い口調で咎めた。

 「せっかくもったいなくも過分なご寵愛をいただいていらっしゃるのに、他のおキサキへそれが移れば良いなどと…。弘徽殿さま方の女房達に聞かれたら、かえって一層の妬み恨みを買っておしまいになりますよ」

 「だから、その妬み恨みを買うのがイヤなのよ。それは私だって初めは、義子さまには負けないぞって一応対抗心を燃やしてみたけれど、まさかここまで扱いに差が生じるなんて想像してなかったわ。全くどうしてあのお方は、義子さまをもっと尊重しようとなさらないのかしら?」

 「さぁ、それはもう今上の個人的なお好みとしか言い様がないのではないでしょうか?」

 「けれど結局、弘徽殿から睨まれるのは私なのよ。あぁ不公平だわ、こんなの!」

 「はいはい、そうお怒りになって下さいますな。おひいさまとて、今上の並々ならぬ思しめしを悪いようには感じていらっしゃらないのでしょ?」

 「それは…嬉しいには嬉しいけれど…、」

 そう言うと元子は、頬を赤らめぷぃっと視線をそらした。無事するすると新枕を交わしたあの夜以来、一条帝は昼夜を問わず度々元子を御前にお呼びになり、最近では承香殿へも立ち寄るようになっていた。入内以前はあまり強く意識していなかったが、どうも年齢が近いということが、思いがけずお互いの距離を縮めるきっかけとなったようだ。考えてみれば、元子がおっかなびっくり内裏に足を踏み入れる前まで、周辺にいらっしゃる女人は皆彼より年上のお方ばかりであった。まず母東三条院詮子は言うに及ばす、最初に迎えたキサキ中宮定子や元子に先んじて嫁いだ義子も、すでに二十代に入っており憧れの佳人といった趣のある方々である。そこへいくと元子との年齢差は僅か一歳である上に、父顕光に似て生来のんびりとしたところのある彼女の人柄は、単なる話し相手として向き合うときにも申し分のない気楽さがある。

 「けれど、油断は禁物だと思います」

 言葉の内容とは裏腹に、拙い響きを残した声がした方を振り向くと、火桶を挟んだ向かい側で女童の若菜が炭をひっくり返していた。

 「若菜、そなたいつの間に?」

 「いまさっきからです。炭が大分燃え尽きてしまっていますね。新しいのを入れてもよろしいでしょうか?」

 そう言うと女童(めのわらわ)は、上司の了解も待たず新しい炭をさっさと桶につぎ足した。ほっそりとした小さな指先で火箸を操るさまはいかにも覚束なかったが、肩を覆う黒髪の輝きは、遠からずおとずれる女盛りを暗示していた。

 「油断は禁物というのは、どういうことかしら?」

 まるで妹に話しかけるように、元子はおちついた調子で尋ねた。背後からは、讃岐がいまいましそうに事の成り行きを窺っている。しかし若菜は年長者からのプレッシャーをものともせず、賢しげに自分の考えを述べ出した。

 「定子さまのことです。年末に中宮さまが内親王をご出産されたのは、女御さまも讃岐さまも無論ご存じでしょう?中宮さまは長らくご懐妊の兆しがないために、石女の烙印を押されていましたが、これで晴れてお世継ぎを産む能力があると、世の人々へ知らしめることができた訳です。今上もきっとまた中宮さまを夜御殿にお召しになって、お励みになるのではないでしょうか?」

 「まぁ、この子ったら!ませたことを!」

 「まぁまぁ、讃岐。落ち着いて」

 逆上した乳母を宥めつつ、元子は胃のあたりがぐっと落ち込むのを感じた。若菜の言う通り、先月師走の十六日、例の政変以来里下がりをしていた中宮定子が、一条帝の第一子である脩子内親王をひっそりと出産した。女児であった上に、ここまでに至る事情が事情だったので、大っぴらな慶事としてもてはやされることはなかったが、この一人の赤子の誕生は公卿たちに、取り分け娘を入内させたりさせたがっている男たちに、水面下で動揺を与えていた。なかでもおよそ腹蔵にため込むということを知らぬ父顕光は、元子本人や周辺に仕える女房達にせっつくだけに飽きたらず、内々に蘆屋道満なる胡散臭い陰陽師に子宝祈願をしているという噂まで立ってしまう始末だ。

 「顕光さまも何とご軽率な。このようなことは、とにもかくにも時の運ですのに…」

 と、仕える女房達がひそひそ囁き合うのはもっともなことである。だが、なまじ諦めかけていた娘の入内が実現したためか、近頃の父は母の諌める声も耳に届かず、何としてでも帝の外祖父になり朝政を掌握しなければならないと、強迫観念のように思いつめていた。それ故元子のもとへもしょっちゅう訪れては、懐妊の兆しがないか承香殿じゅうに尋ねまわり、関係者を辟易させていた。

 「確かに中宮定子さまの内親王ご出産は、女御さまにとって決して喜ばしいことではありませんが、だからといって子どものそなたがそれを憂える必要はありません。そのようなことを心配している暇があったら、手習いにでも勤しんで女御さまづきの女童としてふさわしい教養を持つ努力をなさい」

 何時になく激しい口調で、讃岐はおませな女童を叱責した。大抵の後輩ならば、ここまで彼女に言われればすごすそと引き下がるのだが、なおも若菜はしれっとした様子でそうでしょうかと反論する。

 「それは私(わたくし)はまだまだ半人前でございますが、讃岐さんと同じく承香殿さまに仕える女房です。承香殿さまには、一日もはやく男皇子を産んでいただきたいと願う心は一緒ですわ」

 「それはそうでしょうが、その願いは心の奥深くに秘めておくもので、そなたごとき女童風情が気安く話題に出すことではありませんよ。ましてここは女御さまの御前です。帝がお励みになる云々などと…、恥を知りなさい!」

 「まぁ、失礼な!別に恥知らずでも何でもありません!ここは後宮ですよ!帝がどのおキサキをお召しになるかなんて、女房達の日常会話です」

 「だからといってそなたが…!」

 「二人ともおやめなさい!」

 静まるどころか白熱する一方の女房達の口論にいい加減嫌気がさし、元子は大声ではないもののぴしゃりと厳しい声を上げた。全くこの二人はいつもそうだ。火と油でお互いひくことを知らない。溜息をつきながら黙り込んでしまった両者へ順番に視線を交わすと、元子は冷淡に聞こえない程度の低い声で若菜へ命じた。

 「間もなく日が暮れるから、他の者たちを呼んで格子を下げてもらうように言いなさい。いいですね」

 「…はい」

 主に諌められてさすがに恐縮した若菜は、重い足取りで御前を後にした。後に残った讃岐も恥ずかしそうに下を向いている。

 「もう。一緒に働いていると腹が立つことも多々あるのでしょうが、それこそあなたもいい大人なのだから、少しは冷静な態度で接してよね」

 「面目次第もございません。ですが、あの女童は年齢の割に気働きができる反面、本当に鼻っ柱が強くて出しゃばりで…。他の女房達とのやり取りを聞いているだけでも、冷や冷やすることがありますわ。まだあんな子どもなのに、何処かひねくれているのです」

 「やっぱり、小さい頃から苦労してきたせいかしらね…」

 もともと若菜の母は、さる大臣家に仕える下臈の女房であったが、そこの主人と彼女がかりそめの契りを交わした結果生まれたのが若菜だったらしい。このことに嫉妬した主人の北の方が若菜母子を屋敷から追い出し、それから間もなくして母も流行病で亡くなってしまったため、若菜は物心もつかぬうちから親戚筋の受領宅に厄介になり、肩身の狭い思いをしなければならなかった。

 「おひいさまが宮中でお暮しになるに当たり、仕える女童をさがしているという話を持ち込んだとき、彼の受領は真っ先にあの娘を推薦してきたといいますが、要するに体のいい厄介払いができると思ったのでしょうね」

 「けれど、そんな風に追い出されたというわりには、あの子は一生懸命仕えてくれているわ。そう思えば、多少性格に問題があっても私たちが見守っていってあげなくてはいけないのかもしれないわね」

 元子はしみじみとそう語ると、ふといま自身が述べた言葉によって、心の何処かが融解していくのを感じた。あぁそうか。定子母子のこと、脩子内親王のことだ。まだほんの数か月のことだが、幾度かの逢瀬を過ごしたことで元子は一条帝を愛し始めてきている。だから中宮定子の出産の話を聞いたときには、まだ始まったばかりの愛に横やりを入れられたような気がして、不快感を抱かずにはおれなかった。だが同時に、そういう嫉妬を感じている自分を醜いと恥じてもいた。しかし先ほど若菜へ示した憐憫の情を介して、まだ生まれて間もない定子の娘の行く末を案じる心の余裕ができた気がする。そうなのだ。若菜にしても脩子内親王にしても、その誕生は必ずしも喜ばれるばかりではなかったが、それは彼女たち自身の責任ではない。中宮定子に対する複雑な思いは別として、女児たちの存在を疎んじる権利は元子にはないのだ。そもそも自分一人が独り占めできるような男と結婚するわけではないことは、入内する以前からとっくにわかっていたことではないか。嫉妬の炎は自然と湧き上がるものだから、抑えようと思っても抑えることはできないが、激しく燃やすことはまわりのためにも自分のためにも決して良いことではない。

 (それに、ちゃんとあの夫(ひと)自身の口から話を聞くことができたことだし)

 半月ほど前の夜御殿、いかにもすまなそうな様子で女の子が生まれたそうだと語ったときの夫帝の表情を元子は思い返した。多くのキサキと子をなすことが当たり前である帝の立場を考えれば、何も言わずまた言わせず元子を押し倒すことだって許されているはずなのに。あの男は自分に遠慮してくれた。本当は初めてできた我が子の顔を、見たくて見たくてたまらないはずなのに。だから、いたずらに風を送り込んで嫉妬の炎を激しくするのはやめよう。今はまだ、誕生間もなく純真無垢な自分の愛を守ることに、専念しようではないか。そうたとえ…、

 (たとえ心の片隅に一抹の寂しさを感じていたとしても…。)

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