第3章 政変

 それは都人にとって、青天の霹靂と呼ぶにふさわしい大事件であった。明けて長徳二年(九九六)の五月朔日、中関白家の伊周並びに隆家兄弟を捕縛せよとの宣旨が下されたのである。事の発端は、同年の正月十六日に起きた花山法皇襲撃遂事件に遡る。後の人々が「長徳の変」と呼ぶようになるこの事件は、一人の女人をめぐる二人の男の確執がそもそもの原因であったと伝えられている。

 詳細はこうだ。現在は院号をさずかり、出家した身である先帝花山法皇は、僧侶でありながらいまだに女人との交渉をもつ生臭坊主であられた。彼の父冷泉帝は数々の奇行なふるまいをなさることで知られていたが、法皇ご自身もまたその血を受け継いだのか在位中から精神的な疾患を抱えていた。噂によると、亡き藤原兼家とその息子たちは、そんな法皇のお心の弱さにつけ込み、寵姫の死を嘆く彼を唆して半ばだまし討ちするように出家させたというが、真偽のほどはわからない。とにかく若いうちにそういった卑怯な手段によって退位させられたためか、読経三昧の隠居生活を送るような気分にはとてもなれらかったらしく、姫君から女房まで現在もあちらこちらの女人に手を出し憂さ晴らしをなさっているようだ、と悪名高い存在に成り果てていた。

 そして故一条太政大臣藤原為光の四の君もまた、そんな生臭法皇花山の通いどころのひとつであった。四の君自身は、出家した男と関係を持つことを嫌がっていたが、無論彼女の意志など法皇にはおかまいなく、彼の屋敷の門前では度々馬に乗った僧侶が出入りするところが目撃されていた。それだけならまだご隠居の放蕩ということで済んだのだが、間の悪いことに同時期内大臣伊周は同じ家に住む姉妹の三の君を新たな愛人にして通っていた。この三の君は美人で気立てが良く、亡父為光にも鍾愛されていた女人だったが、伊周は何を誤解したのか、法皇の本命は実は彼女なのではないかと勘繰ったのである。そこで弟の隆家に相談し、腕っぷしに自信のある従者数名と姉妹の住まいの前で待ち合わせると、何も知らず呑気に中から出てきた法皇めがけ、あろうことか矢を射かけるという暴挙をしたのだ。のちに彼らは、別に法皇へ殺意を抱いていた訳ではなく、ちょっと脅かしてやろうという軽い気持ちでやったのだと、証言したとかしないとか。とにかく被害者の法皇は一応僧籍にある身だったため、事件が表沙汰になることを望まれなかったが、結局人の口に戸は立てられぬということで宮中の人々にもこのことは知れ渡り、同月の二十五日の除目では伊周の円座はすでに取り払われていたという。

 その後二月に入り、検非違使別当(けびいしべっとう)藤原実資の指揮のもと、伊周の家司宅に捜査の手が入り、数日後には兄弟の罪状を勘申させよとのご命令が下され、事件が正式に立件されることと相成った。この時捜査の責任者であった実資は、兄弟の処分を聞いた際の公卿たちの動揺を「満座、傾き嗟(なげ)く」と書き残しているが、事件が明るみに出てからの公の迅速な対応や伊周の急転落は、まさに彼らにとって怒涛の展開に感じられたのだろう。

 それは当事者である伊周にとっても同じだったようで、二か月後の四月二十四日の除目において、弟隆家が出雲権守(いずものごんのかみ)に自分が大宰権帥(だざいごんのそち)に配流されることが正式に決定すると、彼は仮病をつかって激しくこれを拒んだ。しかし法皇を弓で射たという罪状に加え今上の生母東三条院詮子を呪詛したことや、臣下が行うことを禁じられている秘法を試みたという新たな嫌疑までかけられたこの青年貴公子に、もはや逃げ場はなかった。定子がいる二条北宮に駆け込み、妹と手を取り合い何とかして出頭の先延ばしを計ったものの、とうとう五月朔日のその日、宣旨を受けた検非違使たちが屋敷内に踏み込んだ。隠れた罪人たちの所在を明らかにしようと、邸内は戸や天井・板敷にいたるまではがされ撤(こぼ)され、そこにすすり泣く女房達の悲鳴が重なった。そしてようやくのこと、憔悴しきった表情ながら鋭い眼光で睨みをきかせる隆家を発見したが、首謀者の伊周の行方はようとして知れなかった。「往生際も悪く、一体あのお方は何処へ行かれたのだ」、こう都人がささやくこと三日。噂の張本人は、頭を丸めた姿でひょっこりと二条北宮に戻って来た。

 「亡き父君、道隆公がねむっておられる宇治木幡に懺悔に行きがてら、世をはかなんでご出家されたそうじゃ。あぁ、何とおいたわしい!」

 と五条大橋に寝起きする中鴨の翁は訳知り顔で嘆いたが、すぐにこれは見せかけの出家であるということが判明した。こうなると、お上のご裁断はひたすら冷徹になってくる。同月十五日には、病を理由に配流先に赴けないことを訴える兄弟の要望をのみ、伊周は播磨に隆家は但馬に留め置かれることになったものの、伊周に同行しようとした彼らの母高階貴子は容赦なく連れ戻された。ここに「長徳の変」は一応の決着をみたが、この一連の騒ぎは彼らの親族は無論のこと、彼らと昵懇にしていた者にまで塁が及んだ。


 「ねぇ、讃岐や。何故頼定さままで勅勘をこうむらなければならないの?」

 「まぁ、おひいさま。はしたのうございますよ。召し上がるかお話になるのか、どちらかになさいませ」

 六月も中旬に入り、暑さもいよいよ本格的になってきたある日の昼下がり、元子は対の屋の母屋で乳母讃岐に給仕をしてもらいながら、氷水(ひみず)に舌鼓を打っていた。素肌に生絹(すずし)と袴をまとっただけのその姿は官能的でありながら清純で、かしずき申し上げた乳母でさえ見入ってしまう程の美しさであったが、口元には甘葛(あまずら)がこびりついていた。

 「おひいさま」

 「うん?なぁに?」

 讃岐が何も言わずに漆塗りの鏡台を引き寄せ、懐から畳紙(たとうがみ)を差し出すと「あぁ」と心得た主は口元をぬぐった。そして満足したように椀の上に匙を置くと、同じ質問を繰り返した。

 「ねぇ、讃岐や。本当にどうして頼定さままで連座することになったかしら?あの方は中関白家との血縁関係はそう濃くないはずでしょう?」

 「そうでございますねぇ。この乳母も政に関しましては全くの素人でございますが、やはり彼の家のご兄弟と個人的に親しくなさっていたのを、謀事に加担しているようにとられてしまったのかもしれませんねぇ」

 「ふーん。おいたわしいわねぇ…」

 美しい眉を寄せた主は、まるで謹慎中で自邸に籠る男に思いをはせるように、遠く庭先の方へ視線を向けた。幼馴染の従妹を気にかけるやさしい心遣いを持てるようになった養い君を感慨深く見守る一方、讃岐の心中は複雑な思いも抱いていた。幼少の頃より度々堀河院に出入りし、元子やその兄弟たちと戯れる頼定を何度も見ているため、彼の心ばえのすばらしさはよく分かっているつもりだが、やはり入内を控えた女人が他の男へ心をかけるのは感心できることではないのではないか。

 (これがもし、頼定さまとのご結婚であったなら、私も喜んで(?)おひいさまをお慰めすることができるのだけれど…)

 人の人生とは運命とは、つくづく不思議なものである。讃岐は、初夏の日差しのようにまぶしい頼定の微笑を思い浮かべた。そうはっきりと想像したことはなかったが、我が主はいつかこの従妹殿を背の君と呼ぶようになるのではないかと漠然と考えていた。実際傍目で見ていても、頼定は元子の長所も短所もよく理解した上で、可愛い妹分よと目をかけてくれていたと思う。当人たちがどの程度お互いを意識していたかはわからないが、有体に言えば、このお二人はまわりがせっつくとか何かきっかけを与えさえすれば、案外簡単にくっつくのではないか、と仕える女房一同は邪推していたのである。それが思いがけないお方からのご提案で、思いがけない変転を体験されることになってしまった。

 (入内できることは女人にとって、最大の栄誉であるはずなのだけれど…)

 どうしても不安が拭えない。何か不吉な予感が、胸騒ぎがする。入内することになった経緯に、あの藤原道長公が絡んでいるからかもしれない。北の方盛子さまも道長公の介入が入ることに難色を示されていた。父君兼家公も老獪であったと聞くが、どうやらその子息たちもまた一癖も二癖もある方々らしい。

 (あぁ、いけない。私ったら。養い君のせっかくの出世の機会を、悪い方向にばかり考えて)

 讃岐はいまだに遠方を見据えたままの主に、それにしてもとさりげない調子で話しかけた。自分の危惧と主の憂慮を紛らわすためにも、ここは話題を変えた方がいいだろう。

 「今回の政変の一番の被害者は、他でもない中宮定子さまでございましょうね。ご処分を受けた兄君やご親族の方々は、不躾なことを申せばまぁ自業自得なところがありましょうが、噂を聞く限り中宮さまには本当になんの落度もおありにならなかったようですから。御前にお仕えする者どもも、ご心中をどうお慰めしようか計りかねていることでしょう」

 「そうね。しかもつい先だっては、おいでになる二条北宮が火事になり、身重のお体を侍男に背負われて命からがら逃げだしたというし…」

 あれほど待ち望まれていた懐妊をこのタイミングでするとは、定子という女人は何と数奇な星のもとに生まれてきたお方なのだろう。彼女のお腹に一条帝の子が宿っていることは、五月に二条北宮へ検非違使の強制捜査が入った時点ですでにわかっていたことだったが、邸内を土足で踏み荒らす放免たちの怒号を几帳の陰で聞いていた定子は、絶望のあまり発作的に手近にあった鋏で三尺余りある髪をばっさりと切ってしまったそうだ。たかが髪の毛とはいえ、女人がそれを切ることは出家、つまり世俗との縁を断ち切ることを意味している。中宮でありまして懐妊中の身である彼女が、そんな後先考えない行動をするとは、よくよく追いつめられた心地がしたのだろう。話を聞いた夫一条も、心ならずも彼女の兄弟を裁くよう命じなければならなかった自分の運命を呪うと共に、寵姫の絶望的な悲しみを目の当たりにしたような気持ちとなり、そっと涙をお隠しになったという。そして現在定子は、焼亡した二条北宮を出ておじの高階明順邸で過ごしているそうだ。未来の帝の生母にもなるかもしれぬ彼女の身分を鑑みれば、高階の屋敷は親戚筋であるものの不相応な住まいであることは明らかだが、そのようなことに不服を述べられないほど、今の定子の周辺は力になってくれる近親者を欠いていた。

 (まこと、女人の人生とはままならないものなのだわ…)

 ついこの間まで姫君たちの憧れの的だった女(ひと)が、いまや庶民から貴族まで都中の人々から同情を買っているのだから。ことに遠からず入内することが決まっている元子からすれば、中宮定子に起こった悲劇は決して他人事ではない。

 (「中宮や女御という地位は、一見とても華やかな立場のように思われるけれど、後見役のいるいないや男皇子をもうけたもうけないで、その時々の立場が天と地ほどに変わってしまう女人のことをさしているんだよ」)

 今になって思えば、あの時の頼定の言葉はまことに核心をついたものだった。しかし、その頼定とて結局わけのわからぬ理由で謹慎処分を食らっているのだ。まさに人生の一寸先は闇である。正直なところ、元子はこの一連の騒ぎで入内することに対してすっかり弱腰になっていたが、父顕光が間もなく右大臣に任ぜられるという宣旨が数日のうちに下されることになったいま、いよいよその運命から逃れられないことに憂鬱になっていた。大方同じく左大臣に出世することになった道長が、「女御の父君たるお方が大納言の地位では、後見としてはいささか心もとないのではありませんか?どれ、今度私が左大臣へ昇進した暁には、空いた右大臣の席は貴公へ差し上げましょう」、とまた奸智を働かせたのだろう。お蔭で父はすっかり道長に惚れ込んだようで、「儂はあのお方に一生ついていくぞぉ!」というのが近頃の口癖になっている。

 (まったく。お父さまも本当に調子がいいんだから。ほんの一年前まで、兼家公のご子孫が栄養栄華を極めるのを妬んで、さんざん文句をおっしゃっていたクセに)

 そのうち足元をすくわれても知らないんだから。実父の行く末にまるで他人事のような悪態をついた後、そういえばとふと元子は思い出した。

 「藤原公季さまのご息女、義子さまの入内は何時とり行われることになったの?」

 「あぁ、そのことでしたら少々お待ち下さいませ」

 御前を下がった讃岐は、数分ほどして戻って来た。その手には折りたたまれた薄紅梅色の料紙が握られており、広げた瞬間微かに品のある香りがした。

 「趣味の良い紙ね。どなたからいただいたの?」

 「義子さまのところにお仕えしている小宰相(こさいしょう)という中臈女房ですわ。いやはやそれにしても、この方に行きつくまで案外苦労いたしましたよ。おひいさまに頼まれて安請け合いしたのはいいものの、考えていれば私彼のお屋敷に出入りする知人が一人もいなかったんですから。仕方がありませんので古い友人や親戚筋をあたって、ようやく愚息実誓の知り合いで小宰相の愛人という随身の男を介して、文を出すことができたんですよ」

 「まぁ!実誓ですって?彼の名前なんて久しぶりに聞いたわ。元気にしてるの?」

 「えぇ、お蔭さまで。お師匠である天台座主(ざす)院源さまにも良くして頂いているそうで、近頃ではお師匠のお使いやお供をして宮中にも出入りすることが多くなったそうですわ。随身の男とは、その関係で親しくなったみたいです」

 「そう、あの実誓がねぇ…。初めて出家すると聞いたときはどうなることかと思ったけれど、今になってみればその方が学問好きな彼にとっては良かったのかもしれないわね」

 「はい、私も心底ほっとしております」

 二人の主従は、しみじみとここにはいない青年僧侶の活躍を喜んだ。彼が一生下級官吏に甘んじて権力者に頭を下げ続ける人生を拒み、もっと学道を極めたいと出家の決意を語ったときには、実母である讃岐は卒倒し乳兄弟の元子は必死で止めた。だがそんな女たちの反対を以てしても、青年の一大決心を変えることはできなかった。何から何まで振り切った彼は比叡山の延暦寺に登り、今日のこの日まで元子の人生に再び現れることはなかったのである。それが宮中との人脈ができるほど活動の幅を広げているとは。やはり適材適所というものはあるだなぁと、元子は乳兄弟に教えられた気がした。

 「また近いうちに、彼に連絡を取る機会があったら教えてちょうだい。少しはやいけれど、山奥は秋になると随分冷え込むと聞いているから、綿衣でも何枚か延暦寺へ寄進しましょう」

 「ありがとうございます。息子もおひいさまの入内話を聞き、大層めでたいと喜んでおりました。それはそうと、おひいさま。義子さまの件ですが…」

 「あぁ、そうそう。その小宰相とやらは、何と書いてきたの?」

 「はい。小宰相が申すには、義子さまの入内は七月の下旬に行われることが正式に決まったそうです」

 義子の父大納言藤原公季は、道長の父ですでに鬼籍に入っている兼家の弟である。彼もまた元子の父顕光と同じく、長年兄とその子どもたちに関白職を独占され、傍流として煮え湯を飲まされる日々が続いていた。ところが近年俄かに道長と昵懇になり、今では彼の政権の有力な構成員の一人となっている。

 「もしおひいさまが入内したら、強力な好敵手となるのは義子さまでございましょうね」

 「義子さまが?何故?だって今上の寵姫は定子さまではないの?」

 乳母は甘い甘いというように首を横に振り、こう言った。

 「お血筋でございますよ」

 確かに定子はいまだ今上から厚い寵愛を受けている上、父は故関白道隆である。しかし彼女の母貴子は、円融帝の御代に掌侍(ないしのじょう)として仕え才媛の聞こえ高い女人ではあったが、出自は高階氏という比較的身分の低い学者の家系であった。これに対し義子は、まず父公季が先ほども述べたように、兼家とは歳の離れた兄弟にあたる。彼ら兄弟の父、すなわち義子からすれば祖父に当たる藤原師輔は、その生涯で何人かの妻を娶ったが、晩年に醍醐帝の皇女康子内親王との間にもうけたのが公季その人なのだ。また公季の妻にして義子の母にあたる女人は、同じく醍醐帝の皇子有明親王の女王なので、確かに血筋の点では定子より彼女の方が優っている。元子は毎度のことながら、頭の痛くなるような皇族並びに藤原北家の婚姻関係図を頭に思い描きながら、讃岐の解説に耳を傾けた。そして一通り彼女の話が終わると、感心したように声を上げた。

 「讃岐、あなた。よくもまぁそんな余所の家の家系図まで覚えていられるわね」

 「おほほほ…。まぁそれは、おひいさまよりは多少長く生きておりますから。これまでの人生で折々様々な人とした世間話のなかに、そういった高貴なお方々の誰それが結婚したとか亡くなったとか、色々な話をした思い出が記憶と一緒くたになって、頭のなかに刻み込まれているのですよ」

 それら一緒くたになったものひとつひとつを全て覚えているというのも、すさまじいというかあきれるというか。だが元子はあえてそのことは触れないでおいた。そして今度は、入内する義子について話を転じた。

 「義子さまが高貴な方だということはわかったわ。じゃあ、彼女の年齢はいくつなの?」

 「えーっと、ちょっとお待ちくださいましね」

 情報通讃岐もさすがにそこまでは把握していなかったらしく、手元の消息を読み返すとややあって返事をした。

 「今年で二十三歳におなりだそうです」

 「エェッ、二十三!?それなら定子さまより年上なのではない?」

 渦中の女(ひと)藤原定子は、長徳二年(九九六)のこの時点で数え年二十一歳になっていた。ちなみに夫一条帝は十七歳で、元子は推定十八歳。そして今回の騒ぎで割を食った頼定は二〇歳となっており、要するに彼らは同世代だったのである。無論義子とて、彼らと同じく王朝文学最盛期の頂点に青春を謳歌することになる世代の一員には違いないが、二十代に入ってからの結婚はやはり当時の上流貴族女性にしては晩婚だった。

 「なぜ公季さまは、今までご息女を結婚させなかったのかしら?」

 「さぁ…。察するに顕光さまと同じく、ご心中では娘御を入内させたいと思われ機会を窺っているうち、ずるずると婚期を逃してしまわれたのではないでしょうか?」

 「お気の毒ねぇ…」

 こちらもまた中宮定子と同じく、元子には義子の身の上が他人事とは思えなかった。考えてみれば、これまでとくに深く思い煩うことなく呑気に独身生活を送っていたが、自分もまた両親の方針がもっと現実的なものだったならば、裳着がすむや否やさっさと結婚させられていた可能性が高かったのである。それはそれである意味気楽だが、何かいまひとつ夢がない物足りない人生になっていたことだろう。しかしそれにしても、二十三まで結婚させてもらえなかったとは。義子本人はともかく、母親や乳母など周囲の人々は相当やきもきしていたのではないだろうか。

 「じゃあ、今はご家族の方々と一緒に準備に追われていらっしゃることでしょうね」

 「はい。新たに雇う女房の選定やら新調のお衣装の仕立てなど、猫の手も借りたい程忙しい日々を送られているそうですわ」

 「けれど婚礼の準備ですもの。それだってうれしい悲鳴のはずだわ」

 「いえ、それがそうとばかりではないみたいなのです」

 「えっ、どういうこと?」

 主の素朴な疑問に、はじめ讃岐はちょっと言いよどんでいたが、やがて好奇心が負けたのか小宰相の書いてきた内容を手短に説明した。曰く、小宰相の主藤原義子という女人は、物静かで温厚な人柄ではあるものの、反面大変な引っ込み思案で、父公季と話すときでさえ下を向いて赤面しているのだという。そのためこれまで身内以外との異性交遊は皆無で、仕える女房達は彼女が帝の御前で上手く立ち回れるのかどうか、ひどく心配しているそうだ。

 「それじゃあひょっとして、二十三歳になるまで結婚できなかったのも…」

 「はい。ご本人の性格に因るところも、大きいのかもしれませんね。余程高貴な家の姫君でも、親に隠れて勝手に男を通わせていたという話は、いにしえよりあったと聞きますから。義子さまがもっと奔放なご性格だったのなら、文を送ってきた殿方から適当な人を選んでとうの昔に結婚されていたかもしれません」

 確かに乳母の言う通り元子の好きな『伊勢物語』でも、主人公在原業平が愛した女人たちのなかには、二条后藤原高子のように、清和帝に嫁ぐことが決まっていながら彼と駆け落ちしようとしたり、あるいはさる伊勢の斎宮のように、自ら彼の寝所へ赴き一夜の契りをかわしたりした大胆な姫君たちもいたことが記されている。入内話が持ち上がるまでは、「たとえ束の間でも、業平さまと愛し合えたのだもの。その姫君たちがうらやましいわ」、などと少女じみた憧れを抱いていたけれど、考えてみればとんでもない話である。

 「でも、よくそんなことができたわよね」

 「あら、そうでもありませんよ」

 普段は養い君の素行にうるさい乳母が、あっけらかんと否定したので、元子は目を瞬かせた。心なしか彼女の目は、いたずらっぽくキラリと光っている。

 「何しろ若い女人方というのは、とかく殿方に対して夢見がちになるものですからね。趣深い文の一通や二通もらうと、たちまち自分が物語の女主人公になったように錯覚して、あれよあれよという間に御簾内に殿方を引き込んでおしまいになるのですわ。私も何人か知人友人にそういった者がおります。もっとも今は、皆家庭に入って夫の悪口ばかり言っておりますけど」

 ふーん、そういうものなのか。少女時代の憧れが、遠くの方でガラガラと音を立て崩れていくのを感じながら、一方で元子は、自分にはそういう種類の幻滅が一生縁のないものだということに対し、何故か小さな悲しみも覚えていた。どうしてだろう。草紙や絵巻で話を聞いているうちはあれほど憧れていたのに、近頃では「入内」という言葉を聞くのも疎ましい。まわりが調度や人材を改め、晴れやかな門出にしてやろうと心を砕いてくれていることに感謝しながらも、その中心にあるぽっかりとした空洞が、元子は気になって仕方がなかった。芯がない。中身がない。愛より事情が先立つ結婚。自分は足を踏み出そうとしているのは、そんな空しい未来なのだ。けれど本当の恋とは愛とは、もっと激しく身を焦がすようなものではないのか。それとも、幼い頃から慣れ親しんだ物語に記されていたことは、皆全てつくりごとや嘘だったというのか。

 (まッ、考え込んでも仕方のないことだわ。どちらにしても、私には一生縁のない話なのだから)

 ほとんど解けてしまった氷を甘葛ごとグイと飲み干して、元子は思い悩むのを放棄した。まさか後年、自分がその〝大胆な姫君たち〟の仲間入りをすることになろうとは、夢にも思わずに。


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