秋の空に秋刀魚は泳ぐ

武石こう

秋の空に秋刀魚は泳ぐ

 あの時、かの有名な歳羅秋広(さいらあきひろ)の話を言わなければこのような事にはならなかったのかもしれない。私は飛んでいってしまった少年の姿を思い、激しい後悔の念に駆られていた。

 季節は秋になり、夏の濃い青空はどんどんと薄れてしまってすっかりと淡くなってしまっていた。入道雲のような大きな雲は寒くなってしまったこの地域を離れ、きっと南の方で暖を取りに行くため旅に出た。

 ある日私が公園のベンチで休んでいると(銀杏の匂いがやけにする日だった)、少年が一人、隣に座ってきたのだった。彼の名前は徒一(といち)。十一歳の無邪気な子だった。

 悲しいかな、私が積極的に話しかけてしまうと通報されてしまうかもしれないのが、今の世の中だった。私は彼がいないものとしてその場を過ごすことにした。手に持った缶コーヒーの味と、色味が薄いつまらない空を見上げて息を吐く。


「おじさん」


 話しかけてきたのは徒一だった。私は何も合図を送ったわけでもない。話すのも面倒だと思っていた。彼は子供らしく簡単にかき分けてきた。


「なんだい?」

「それ、美味しい?」

「ああ、美味しいよ」


 彼が差していたのは缶コーヒー。無糖。いつの頃からか私は無糖しか飲まなくなっていて、今日もまた近くの自販機で買っていた。少し肌寒いので、温かいものを。いや、熱い。


「ウソだ」徒一は眉をひそめ、「だってすごく苦いもん、それ」と言った。

「ウソじゃないさ」


 私は素直に返した。苦いと感じたのは、私も子供の頃はそうだったが、今は違う。


「秋刀魚のわただって、大人になれば美味しく感じるものなんだよ」

「わた?」

「内臓だよ。お腹にあるだろう?」

「うええ、あれ? おじさん、よくあんなの食べられるね。お父さんお母さんも美味しそうに食べているけど」


 大人になれば美味しく感じられる。と彼に言ってしまったがそんなことはない。大人でも苦手な人は多い。でも私は美味しく感じている。あの癖のある苦みは奥に旨味を感じられ、秋刀魚と言われてあれだけが出されても文句は言うまい。


「秋刀魚、かあ。お父さんもお母さんも秋刀魚大好きなんだ」

「へえ、それは実に秋らしくていいじゃないか」


 私も帰りに買って帰ろうと決めた。


「知ってるかい? 秋刀魚はね、海だけに住んでいるわけじゃないんだよ」


 ここからが私の大きな過ちの始まりだった。私の言葉に彼は驚き、口をぽかんと半開きにしていた。その姿が実におかしくて私はもっと話を続けてしまいたくなったのだ。ここで止めていれば、どれだけ良かったことだろうか。


「空でも泳いでいるんだ」


 上に広がる秋の淡い青色の空。目を凝らしてみても見えないが、遥か高いところで秋刀魚は泳いでいる。それはとてもこちらが食べられるのではないかというくらいの大群で空を自由自在に泳いでいる。

 これが歳羅秋広の言った話。私はそのままに徒一に言ってみたのだ。

 私がこれを聞いた時、何をバカなことを言っているのだと思ったから、空に秋刀魚がいるのかどうかを確かめようとはしなかった。それは周りの子たちもそうだった。秋刀魚は魚で、魚は水で、川か海でしか泳ぐことはできない。そもそも空のどこが川で海なのか、塩気があるのかないのか、考えるだけで嫌になった。

 徒一は違った。


「ホント?」


 そのことに気づけなかった。


「本当さ。秋刀魚は秋だけ空をも泳ぐ魚で、空で獲れた秋刀魚は『空(そら)秋刀魚』としてとても高い値段をつけられているんだよ。それにわただって苦くなくて、すごく美味しいと聞いたことがある」


 より面白い話にしようと、咄嗟に思いついたでまかせも混ぜてしまった。

 けれどそんなこと徒一にはなんの関係もなく、見知らぬおじさんの与太話と思ってはくれなかった。秋刀魚は秋の淡く印象に残りづらい空の海でたくさん泳いでいて、それを獲る漁師もいるものだと思い込んでしまったのだ。

 聞いてしまった徒一は私に頭を下げ、駆け足で自分の家へと帰っていった。この時の私は信じ込んだ彼の姿にとても良い気分になり、無糖のコーヒーですら少し甘く感じるほどになっていた。

 彼の気分を害するとしても、作り話はその場で否定するべきだったのだ。

 徒一は自分の家へと帰ると物置部屋を探った。三階建ての一軒家で、物置部屋は一階のガレージの奥にある。普段両親からは入ってはならないと言われていた場所だが、空秋刀魚があっさりと言いつけを破らせて悪い子にした。

 どうすれば空秋刀魚が獲れるのかわからなかった徒一は、とにかく泳げ、釣りができる恰好ならば大丈夫だと思い、父親のシュノーケルと釣り竿を出した。父親と釣りに行ったことがあったから、釣り糸も仕掛けも準備できた。

 水着は学校で使っているものを穿き、その上からズボンとTシャツを着た。海に潜るならばやってはいけない格好だが、空に潜れば潜るほど寒いと彼は知っていて、防寒用に着たのだ。

 徒一はシュノーケルのゴムを合わせ、顔に着けた。これ以上操作できないほどに絞めたが、大人用であるために少しゆるみがあった。このままではゴーグルの意味を果たさないかもしれない。それでも徒一は退かず、釣り竿を片手にその格好のまま家の屋根の上へと乗った。瓦のひんやりとした感触が未知なる冒険へと彼を奮い立たせた。

 その日の空は雲が少なく、見た目は波が穏やかで空秋刀魚を獲るにはうってつけの空模様だった。一つ冷たい風が吹いた。空模様は似ていても、春と違って彼の身体を震えさせた。

 空では秋刀魚が泳げ、ならば人でも泳げるはず。徒一の足がすうっと家の屋根から離れ、その身体はどんどんと空へと潜り始めた。

 泳ぎが下手ならばここですぐに引き返したかもしれない。でも彼は特に習ったわけでもないのに泳ぎが上手く、授業の水泳でも学年で一番きれいで速い泳ぎをする子だった。見事な平泳ぎでどんどんと空へ潜っていく。あっという間に近くの低い人口山の高さを越え、さらに町の中心部にそびえ立つ高層ビル群をも簡単に追い抜いた。

 山は驚いて草木を揺らし、ビルも驚き窓で光をちかちかと反射させていた。

 後日、軽やかな平泳ぎで空を泳ぐ徒一を見た、ビルの中にいた人はこう言った。


「北島康介かと思ったわ」


 そのような具合でとうとう彼は建物が及ばない高さへと進み、普段は雲が多く流れるくらいの場所へと来た。住んでいる町が手ですくえるくらいの大きさになった。遠くでは飛行機が浮かんでいるのが見え、手を振ってみたがやはり何も返ってくることはなかった。

 彼が手を振った飛行機の操縦士は言った。


「やけに高いところを飛ぶ鳥だと思ったのだ」

 副操縦士は、

「変わった挙動だとは感じましたが、まさか」


 空秋刀魚の群れは近くのどこにもなく徒一は腕を組んだ。息はまだまだ余裕があった。町のあまり良くない空ではあまり住めないのかもしれないと考えた彼は、自分の考えるきれいな方面へと進んだ。

 思った通り、秋の空は波が穏やかで彼を阻まなかった。薄く淡い青色も実際に泳いでみればとても澄んでいると感じられ、「わあ」とため息を漏らす。

 うろこ雲の中を通り過ぎようとすると、あまりに脆く雲はばらばらになってしまって形を崩した。そのうろこ雲を見ていた人は言った。


「うろこ雲の一つがいきなりビリヤードの球のように飛んで、周りにぶつかっていったんですよ。初めて見ました、あんなのは」


 とにかく泳いで進んでいけば、住んでいた町からかなり遠くの所まで来てしまっていた。それでも空秋刀魚に夢中になっていた彼は気づかずにただ追い求め泳ぎ続ける。

 とうとう泳ぐのに邪魔であると釣り竿を放り投げた。手から離れた釣り竿は地面へと浮かんでいき、やがて見えなくなった。釣り竿はのち、彼が住んでいた町からかなり離れた市の田畑に落ちていたところを発見された。名前が書いてあり、そして特徴から間違いなく自分の物だと父親は認めた。

 秋の空を泳いでいると、たまに冬へと向かう凍える風が一吹きし、徒一の身体を通り抜けた。最初は気分が高揚していてあまり問題にしなかったが、長く泳いでいるとどんどんと身体から熱が奪われていることに嫌でも気づかされてしまい、全身を震えさせ始めた。唇も紫に変わって。

 いきなり光り輝く群れが彼を襲った。あまりにひどい群れであるので、彼はカラスの大群であると怯え、逃げ出そうとした。大群は泳いで逃げる彼をあっさりと飲み込んだ。本来いるべき場所ではないこの空ではどうしても逃げられなかったのだ。

 光り輝くことから、それはカラスではなく空秋刀魚の群れであった。

 陽があくびをする、いつも帰ってくる時間を過ぎても帰ってこない徒一を心配し、両親は捜索願を出して捜索が始まった。するとしばらく経って空を漂っていた彼が発見された。身体はとても冷たく、シュノーケルとズボンとTシャツの恰好で動かなくなっていた。

 あのまま彼は家に帰られなくなり、そのまま身体をひどく冷たくしてしまったのだった。空秋刀魚を結局捕まえることはできず、ただ彼一人がぷかぷかと浮かんで遥か彼方へと流されてしまっていた。透き通った秋の空が彼の身体を地面へと追いやることはなく、流れる薄雲と同じく扱って。

 私は彼の両親に、空秋刀魚のことを言った。覚悟はできていた。しかし彼の両親は私を責め立てることはなく、徒一がどうして空秋刀魚を求めたのかという想像を含めた理由を語った。


「内臓を食べれば褒めてもらえると思ったのでしょう。あの子はそういう子です」


 罪滅ぼしになればと私も空秋刀魚を探しに空へと潜ろうとした。装備も子供である彼より整え、釣り竿ではなく網を持って家の屋根へと上った。群れを集めるための集魚灯までも用意した。

 それでも私が彼のように空へと潜ることはできなかった。どこかそんなことできるはずがないと思ってしまっていたからだ。空秋刀魚などいるはずがないのだと、どうしても思ってしまうのだ。

 徒一の墓には焼いた秋刀魚が多く供えられた。たった一人秋の空で秋刀魚を獲りに行った彼を皆哀れみ、単純な思考で置いていったのだ。墓は秋刀魚であふれかえる。その中で一度も空秋刀魚が供えられたことはなかった。

 徒一の墓には不思議なことがある。供えられた秋刀魚を管理人が片付ける頃にはどうしてか、すべて内臓だけがなくなっているのだ。最初から抜かれていたことはないと、管理人は言っていた。「確かに供えられた当初の秋刀魚はどこも裂かれていなかった」と。

 それが管理人の話題作りかどうかなどどうでもいいことだ。私はまたやってきたこの季節で、あの公園のあのベンチに座り缶コーヒーを飲みながら空を見上げるのみだった。

 色味に薄い淡くあまり味気のない秋の空に、徒一の姿をたまに見た。彼はまだ空秋刀魚を探し求めているのだろうが、皆そう言う私のことをひどく笑うのだった。

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