9月7日の奇跡

佳純優希

第1話 9月7日の奇跡

「新しい主任は安田君に任せようと思う」

 課長の指名に安田が喜びの返答をし、俺は目を瞠る。二人の遣り取りも俺の耳には入ってこない。

(嘘だろ……あいつは俺の二年後輩だぞ……)

 言ってはならないことは言わない。悔し涙を見せる訳にもいかない。一瞬だけ下を向いて現実を呑み込む。そして後輩の昇進を称える優しい先輩を演じた。俺は優しい先輩を演じ切れたかも知れないが、後輩の後塵を拝する情けない男に成り下がったのだと自分を卑下した。

 工場では大量の平社員とアルバイトの上に主任が存在し、その上が五十代の課長だ。主任になり損ねた俺に出世の道はもう無いのだ。

「もう、無理じゃないのか。俺……」

「ええ? なんか言った?」

 呟きにバイトのおばちゃんが反応してしまった。ライン(流れ作業の作業場)には多くの「バイトのおばちゃん」が混じっている。

「なんでもないですよー! あははっ」

 俺はそう応えて作業に戻り、おばちゃんもまた作業に戻る。食用油への添加物のニオイが漂う油工場での仕事。

 愛想笑いに慣れてしまった顔を引き締めつつ思う。この二十六年間何をやってきたのだろう。ずっと、愛想笑いの練習をしていたのか? こんな日の為に?

「……」

 この日の仕事もきっかり五時に終わった。工場では残業は少ない。油は適度な高温を保ってパイプ内を流さなくてはならないので(ラードなどは常温では個体)、定められた時間以外に工場の温度を高くするのは効率が悪いのだ。

 今日一日の仕事を、俺はどうやって終えたのだろうか? 思い出せない。 

「疲れてるんだ……」

 独りごちてJRのホームに向かった。

     ○

 車窓から夜の街を見て視線を落として腕時計を見た。今日は九月六日か。

 九月六日?

 何の日だ……九月六日……忘れてはならない日だったハズだ。

 それは……。

「……神無(かんな)の誕生日だ!」

 叫んでしまった。周囲の視線が痛い。

 次の駅で停車すると同時に俺は電車を飛び降りた。

    ○

 高校時代、付き合った彼女がいた。大学は別になったが手紙という手段で遠距離恋愛を続けた。彼女の写真が引き出しにたまっていった。古い時代の愛の形だった。

 やがてお互いに就職が決まり、彼女は結婚と子どもを望んだ。だが俺にはそれを受け入れる覚悟が当時無く、まだ先送りにしたいと望んだ。二人の大きなすれ違いが生まれ……俺たちはやがて疎遠になった。

 何故今になって神無を思い出しているのか。後輩に先んじられたから誰かに慰められたいのか? 自分の心理を分析する余裕などない。だがひとつだけ確かなことがある。

 彼女に俺の本当の気持ちを伝えなければ、一生後悔するだろう、と。

 それだけは確かだ。

     ○

 再び電車に乗り席に座ってカバンを膝の上に置く。手元にはコンビニで買ってきた便箋と封筒、それにボールペンがある。

 揺れる車内で便箋にペンを走らせる。

「今日はあなたの誕生日でしたね。あの日から何年経ったでしょう。俺の気持ちを伝えておかねば、付き合ってくれたあなたの……神無の時間が無駄だったことになってしまうと気付きました。遅くなってすみません。馬鹿で申し訳ないです。

 俺は――……」


     ○


 降りた駅は彼女と過ごした高校の最寄り駅だった。今からすることは俺の自己満足で終わる可能性がほぼ100パーセントだ。いや、自己満足で終わるしかないのだが……。自分の気持ちにだけでも決着を付けたかったんだ。人を利用するなんて最低だよ。俺はどこまで堕ちていくのか?

 思い出の高校の裏門から忍び込み……開いている昇降口から校舎に入り、後は三階に行くだけ。

 誰に訊いても似たような答えが返ってきそうだが、「あなたは高校に忍び込めますか?」と訊いたとしよう。答えはこうだ。

「知らない高校ならまず無理。母校なら忍び込めるルートを何通りか知ってる」


 三階の三年生が座る教室、三年A組。彼女の座っていた席の机に思いを記した手紙をそっと入れた。彼女の想いに応えた――ことには流石にならないが……。

「きみが今どこでどうしているか、もう俺には解らないんだ。これで精一杯。赦してくれとは、言えないか……」

 こっそりと母校を後にした。

 幸い誰にも見付からなかったが、彼女の誕生日に彼女が突然現れるという奇跡も起きなかった。周りを見渡してもどこかから彼女らしき人影が走ってくることは遂になかった。

 彼女は足が速く、陸上部で時々大会に出ていた。二年の時、県内のトップを決めて結果が良ければ全国大会へ――という大会があったのだが、こともあろうに彼女は大会の一週間前に熱を出した。俺はお見舞いに行き「すぐ治るさ」と励ましたが彼女はベッドで号泣した。「絶対に間に合わない」と。調子を戻す時間が無いとか寝ていると筋肉が衰えるとか、詳しいことはその時の俺には解らなかった。

 大会当日。彼女はまだベッドの上にいた。

「起きないから奇跡って言うんです」

 俺は応えられなかった。

 俺たちは「間に合わないこと」と「応えないこと」を繰り返す関係だったのか?

そんな関係が発展するわけないだろうに。

     ○

「明日のタスクも大量なんだよな。明日からは後輩が上司で! やってらんねー」

 うちのアパート近くの河原で「やってらんねー」と叫びつつ、声は笑っていた。

 なんだ、俺はまだ元気だった。無理じゃないかと呟きもしたが、大丈夫だったな。

 頑張るしかない。


     ○


 高校三年生の、とある女子がいた。机の中の封筒に気付き、中の手紙の宛名を確認する。担任の許へ歩き封筒の手紙を渡す。


「珍しい名前だから間違いないと思います。この人勘違いしてますが、先生の誕生日は昨日じゃなくて今日ですよね。神無加奈子先生」



(了)


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9月7日の奇跡 佳純優希 @yuuki_yoshizumi

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