エピローグ


 エピローグ



 廊下に設置された共用のコーヒーメーカーを使って自分のマグカップにコーヒーを注ぎ終えた私は、紙の小袋で小分けにされた砂糖を二袋分ほど投入すると、それを持って自分のオフィスへと引き返した。そして自分のデスクの前に置かれたオフィスチェアに腰を下ろすと、少し甘くし過ぎたコーヒーを啜りながら、人心地付く。ロシア出身である私としては、コーヒーメーカーだけでなく紅茶のポットとサモワールも設置してほしいところだが、残念ながらここは合衆国だ。贅沢は言えない。

 デスクの上には、今後の仕事のための資料が拡げられている。研究室に運び込まれた出土品の鑑定からギリシャで行なわれる発掘作業の陣頭指揮に至るまで、私に与えられた仕事は多岐に渡り、これから当分は忙しくなりそうだ。しかし民間の企業に就職するのは初めての経験なので、大学で教鞭を取っていた頃とは随分と勝手が違い、慣れない商習慣に対する気苦労も多いだろう。勿論、ロシアと合衆国の生活習慣の違いに関しては、言うまでも無い。

 それでもこの新天地で頑張らなければならないと決意も新たにした私は、窓の外に広がる新緑へと眼を向けた。ここはカリフォルニア州のサンノゼに設立されたばかりの、オリファー財団技術研究所合衆国総本部。その広大な敷地の一角に建てられた高層ビルの一室が、この地へと亡命して来たばかりの私に与えられた新たな職場だ。

 それにしても、未だ建設されて間も無いオフィスは清潔で明るく、眼下に広がる敷地の大半は芝生や鑑賞用の草花が敷き詰められた緑地として広く従業員に解放されており、いかにも西海岸の最先端企業と言った趣を成す。勿論それはそれで結構な事なのだが、歴史と伝統を積み重ねたサンクトペテルブルクの古風な街並みに慣れ切った今の私には、この一切の無駄が省かれた機能的な空間はいささか寂しく感じられた。

 コーヒーを半分がた飲み終えたところでオフィスの扉がコンコンと二度ノックされたので、私は振り返り、来訪者に入室を許可する。

「どうぞ」

「ロジオノフ博士、お届け物です。こちらにサインをお願いします」

 入室して来たのは、この研究所に勤める配送係の青年。彼が差し出した受取証に確認のサインを記入した私は、このオフィス気付の、私宛の荷物を受け取った。届けられた荷物は一抱えほどもある、やけに薄汚れて変形し、銀色のダクトテープでグルグル巻きにされたダンボール箱が一つ。オフィスの隅に積まれた、仕事の資料である書籍がギチギチに詰まっているダンボール箱ほどではないが、かなり重い。

「ありがとう」

 私が礼を述べると、青年は形式的な会釈をしてから、無言のまま退室した。

「さてと、誰からの荷物だ? 私のこの新しいオフィスの住所を知っている人物となると、かなり限定される筈だが……」

 独り言ちながらダンボール箱に張られた伝票の差出人欄を確認すると、そこにはいかにも書き慣れていない乱雑な字でもって、『ヤコネ・ウッタク』と書かれている。

「ヤコネからか」

 私はその乱雑な字を指でなぞると、感慨深げな表情を浮かべながらデスクの上の資料を脇に退け、空いたスペースにダンボール箱を置いた。そしてキャビネットの引き出しを開けてカッターナイフを取り出し、ダンボール箱を封緘しているダクトテープを切り裂き始める。

 私がヤコネと別れてアラスカを発ち、このサンノゼへと到着してから、既に三週間ばかりが経過していた。到着した直後の数日間は亡命の手続きだのなんだので慌しかったが、今ではすっかり落ち着いて、オリファー財団が借り上げてくれた新居での暮らしにも随分と慣れて来たところだ。

 そして今から約二週間前、亡命から一週間ばかりが経過して精神的にも物理的にも余裕が出来始めた頃に、私はアラスカに住むヤコネに宛てて、約束していた贈り物を発送した事を思い出す。そこから推測するに、今しがた届いたばかりのこの荷物は、きっと彼女からの返礼に違い無い。

 ちなみにヤコネ宛の贈り物の中身は、トゥクトゥが愛飲しているマルボロの赤箱が五十カートンと、彼女が愛用しているライフル銃の銃弾が五百発。それとアーロンの凶弾からヤコネの身を護って折れてしまったスキニングナイフの代わりとして、新品のナイフを一本プレゼントさせてもらった。ナイフ選びには慎重を期したが、ネットで検索したところ、ランドールと言うメーカーから『アラスカン・スキナー』と言ういかにもな名称のナイフが販売されていたので、一も二も無くそれを選んだ。彼女が私の選んだナイフを気に入ってくれる事を、切に願う。

「しかし、ワールズ・エンド宛でも、ちゃんとヤコネの元にまで届くもんだな」

 再び私は、独り言ちた。二週間前にいざ荷物を発送しようと思った時にようやく気付いたのだが、私はウッタク家の狩猟小屋の住所を知らない。いやそもそも、あんな人里離れた荒野に建てられた小屋に住所が与えられている可能性の方が、どう考えても皆無だった。だからと言って、「バローの街とウェーンライトの街の中間辺りに在る小屋」と伝票に書いたところで、配送会社が届けてくれる筈も無い。

 そこで仕方無く、ヤコネとトゥクトゥを除外すればアラスカで知り合った唯一の人物であるワールズ・エンドの店主ネイサン方に、私はヤコネ宛の荷物を発送した。勿論ネイサンがネコババしてしまう事も危惧されたが、どうやら彼も、荷物を受け渡してくれるだけの矜持は持ち合わせていたらしい。

「何だこりゃ?」

 ダクトテープを切り終えてダンボール箱を開封した私は、頓狂な声を上げた。箱の中にはメモ用紙が一枚と、大きな獣の白骨化した頭蓋骨が一つ、容積一杯にぎっしりと詰め込まれている。そしてメモ用紙を取り出してみれば、やはり書き慣れていない乱雑な字でもって、以下の様に記されていた。


 親愛なるヴァシリー。贈り物ありがとう。お礼に、ホッキョクグマの骨を贈る。大事にしろ。ヤコネ・ウッタク。


「ホッキョクグマか」

 メモ用紙をデスクの上に置くと、私はダンボール箱に詰め込まれていたホッキョクグマの頭蓋骨を持ち上げ、眺める。大きく強靭な上下の顎には合計四本の鋭い牙が生え、肉厚な骨は硬く冷たく、ズシリと重い。たとえ白骨と化しても、それは北極圏最大の陸上生物の威容を誇っていた。

 そしてよく見れば頭蓋骨の脳天には、ちょうど脳髄の中央を貫通するように、一直線の穴が穿たれている。おそらくこれは、あの日トゥクトゥが仕留めたホッキョクグマの頭蓋骨であり、この穴こそは彼が放ったライフル弾による一撃の痕跡に違い無い。

「女の子からの贈り物が、ホッキョクグマの頭蓋骨とはね。まあ、ヤコネらしいと言えば、ヤコネらしいな」

 私はそう言って苦笑いを浮かべると、その頭蓋骨をデスクの上に置いてから、ヤコネ直筆のメモ用紙を取り上げた。そしてそれを眺めながら、遥か遠いアラスカの地で二匹のアラスカンマラミュートと共にアザラシとカリブーを狩って生きる少女の姿に、思いを馳せる。


                                    了

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ヒュペルボレイオスの鍵 大竹久和 @hisakaz

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