第六幕
第六幕
陽もすっかり高くなり、ニッカネン島の上空は澄み渡る青空に包まれていた。遅れて到着したオリファー財団の回収部隊によって十五機のヒュペルボレイオスを海上輸送する算段も整い、CIAの捕虜も引き渡し終え、マウリシオ上級大尉を指揮官とした救援部隊はその役目を終えつつある。後は私をカリフォルニア州のサンノゼに送り届ければ彼らの任務は終了だが、その途中でアラスカに立ち寄り、トゥクトゥの待つ狩猟小屋へとヤコネを送り届けてもらわなければならない。
「それではロジオノフ博士、お乗りください。ヤコネも一緒に乗ってくれ」
マウリシオに促されて、私はタンデムローター式の軍用輸送ヘリコプターに乗り込み、座席に腰を下ろすとシートベルトを締めた。隣の座席にはヤコネが、向かいの座席にはマウリシオがそれぞれ腰を下ろして、シートベルトを締める。そして我々三人にPMC部隊の兵士三名、更に二名のパイロットを加えた乗員全員の準備が整った事が確認されると、ヘリコプターはニッカネン島の雪原からゆっくりと離陸を開始した。ヤコネは空を飛ぶ乗り物には慣れていないのか、離陸の瞬間に顔を強張らせて、緊張を隠せない。
「今度は、墜落しないでくれよ?」
よく見ればこのヘリコプターも、数日前に私を乗せたままアラスカの雪原に墜落したヘリコプターと同型機だったので、機体をコンコンと叩きながら私は呟いた。
「それでマウリシオ、これからの予定は?」
「まずはこのまま南下して、アラスカに向かいます。そしてバローの街でヤコネを下ろした後に、最終目的地であるサンノゼを目指して、更に南下します。途中で補給を受ける必要がありますが、明日の未明には到着するでしょう」
私の問いに答えるマウリシオに、更に問う。
「バローの街に? ヤコネの狩猟小屋に、直接向かわないのかい?」
「あたしの犬ゾリが、バローの街の、ワールズ・エンドに停めてある。それを回収する」
今度は、隣に座るヤコネが答えた。どうやら彼女の犬ゾリを回収するために、一旦バローの街に立ち寄らなければならないらしい。
「そうか。そう言う事なら、多少遠回りになってしまうので無理にとは言わないが、犬ゾリに乗ったヤコネと一緒に私も狩猟小屋に立ち寄らせてもらえないか? ヤコネが無事に帰宅するのを見届けたいし、彼女の命を危険に晒してしまった事を、曽祖父であるトゥクトゥに詫びておきたいんだ」
私の要望に、マウリシオは腕組みをして暫し熟考してから、口を開く。
「いいでしょう、ロジオノフ博士。そのくらいであれば、燃料にも余裕があります。それに狩猟小屋の側でCIAに壊滅させられたと言うFSBの遺体やヘリを回収するための部隊を派遣する必要があるので、その先遣を我々が務めた事にすれば、任務に私情を挟んだと言うそしりも免れ得るでしょう」
「ありがとう、助かるよ」
私はホッと胸を撫で下ろし、マウリシオに感謝の言葉を述べた。
「それじゃあ次はヤコネ、キミに尋ねたい。キミが狩猟小屋の前でアーロンに撃たれた後に何が起こって、どうしてこんな北極海に浮かぶ孤島にまで私を追って来たのか、それを教えてくれ。しかもオリファー財団の救援部隊と合流した上に、彼らのヘリに同乗してまでもだ」
隣の座席に座るヤコネに改めて尋ねると、彼女は自分の命を救ってくれた折れたスキニングナイフを手の中で弄びながら、淡々と答える。
「アーロンに撃たれたあたしは、痛みで気絶した。すぐに目覚めたが、既にお前はCIAと一緒に飛び去っていたんだ、ヴァシリー。それであたしは、犬ゾリを走らせて、バローの街に向かった。そしてワールズ・エンドでお前を待っていたマウリシオと合流し、事情を説明した」
「本当に驚きましたよ、ロジオノフ博士。貴方に合流地点として指定されたレストランで待ち続けていたら、このヤコネが突然飛び込んで来て、貴方を助けるためにヘリを出せと要求するんですからね。レストランの店主はあなたの事なんて知らないと言っていたので、てっきり合流地点を間違えたのかと不審に思っていたところでした」
ヤコネの説明を補足するように、マウリシオが言った。どうやらワールズ・エンドの店主であるネイサンは、FSBのソゾンに言われた通りに、私達の所在に関しては知らぬ存ぜぬを決め込んだらしい。
「ワールズ・エンドでヤコネから事情と経緯を聞かされた我々は、CIAから貴方を奪還するために、救援部隊を武装させて再編成しました。そして貴方が持っているヤコネの携帯電話のGPS機能から所在地を特定し、この北極海まで救助に赴いた訳です。部隊の再編成に手間取ってしまったために、予定よりも到着が遅れてしまいました点は、ご容赦ください」
マウリシオの説明に、私はスーツの胸ポケットに納めたままになっていた携帯電話を取り出して、その液晶画面を撫でる。こんな型遅れの携帯電話のGPS機能に助けられるとは、人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。
「なるほど、ここに至るまでの経緯は、おおよそ理解した。それでヤコネ、どうしてキミがマウリシオ達と一緒に、危険を冒してまでニッカネン島にやって来たんだい? 助けられた身でこんな事を言うのもなんだが、救援部隊と連絡が取れたのなら、後は彼らに任せておけばいいのに」
再びヤコネに問うと、彼女は愛用のライフル銃を勇ましく掲げながら答える。
「言った筈だ、ヴァシリー。お前の問題は、あたしの問題だ。そしてお前の敵は、あたしの敵だ。大事な客人を、他人任せにする事は出来ない。あたし自らの手で助けなければ、意味が無い。途中で投げ出しては、誇り高きイヌピアット族の名折れだ」
勇ましげなヤコネとは対照的に、マウリシオの表情は冴えない。
「本当は我々も、彼女にはバローの街で待機しているように何度も説得したんですよ。しかし、頑として聞き入れませんでね。自分は一人前の狩人だから一緒に戦えると言って、さっさと我々のヘリに乗り込むと、シートベルトを締めて座り込んでしまったんです。それで仕方無く、この島まで同行する事は許可しましたが、ヘリからは一歩も降りないように固く約束させました。ところが島に到着した途端にそんな約束などどこ吹く風で、このヤコネはヘリから飛び出して、貴方を助けに行ってしまったんですよ。作戦行動中に一般市民、しかも十代の少女を同行させて死なせたなんて事になったら、こっちの責任問題にも発展するって言うのに」
そう言ったマウリシオは天を仰ぎ、深く嘆息した。幸いにもヤコネが無事だったから良かったようなものの、万一彼女の身に何かあったらと思うと、彼も気が気ではなかったのだろう。
「それに関しては、本当に申し訳無かったと思っているぞ、マウリシオ」
まるで反省している素振りも無く、淡々とヤコネは詫びた。
「まったく、一応の備えとしてボディアーマーを着せておいて、本当に良かったよ」
ヤコネから返却された、胸と背中に弾痕の残るボディアーマーをためつすがめつ見つめながら、マウリシオは再び嘆息する。
「ヤコネ」
私はヤコネの名を呼ぶと、こちらを振り向いた彼女の頭を、軽くコツンと叩いた。
「助けてくれた事に関しては礼を言うが、もう私なんかのために、あんな危険な真似はしないでくれ」
「分かった、ヴァシリー。約束する」
ヤコネの返答に、彼女の言う『約束』とやらがどの程度信用出来るものなのだろうかと懐疑的な私は、苦笑いを浮かべる。そしてそんな私の心の内を知ってか知らずか、ヤコネもまた私に向かって、満面の笑顔でもってニコリと微笑んだ。やがて私達はどちらからともなく、膝の上で硬く手を握り合い、肩を寄せ合う。これがハリウッド映画だったなら、きっとハッピーエンドの瞬間に違い無い。
しかしその時、ロマンチックさの欠片も無く、ヤコネの腹の虫がぐるるると鳴った。そう言えば私もまた、随分と腹が減っている。
「マウリシオ、腹が減った。何か食べる物をくれ」
不躾に、食事を要求するヤコネ。彼女の命令に従い、マウリシオはシートベルトを外して座席から立ち上がると、ヘリコプター内のカーゴやバッグを漁った。そして取り出した食料と飲料を持って来ると、私とヤコネに手渡す。
「今はこのくらいしか無いぞ、ヤコネ。長期戦は想定していなかったから、今回はMREも持って来ていない。それとロジオノフ博士も、一緒に食べますか?」
「ああ、いただくよ。ありがとう」
手渡されたそれはアルミ箔の包装紙に包まれた、クッキー生地にチョコレートやナッツやカラメルが練り込まれた所謂エネルギーバーと言うやつと、ペットボトル入りのミルクティーだった。そして私もヤコネもすぐさま包装紙を剥くと、やたらと甘くて高カロリーなそのエネルギーバーを、貪るように咀嚼する。
「これはなかなか、甘くて美味いな」
甘い物には眼が無い十代の少女であるヤコネが、正直な感想を漏らした。
「そうだな。疲れている時には、やっぱり甘い物は格別に美味いな」
私も同意しながらエネルギーバーを食べ尽くすと、カラカラになった喉をミルクティーで潤してから、小さなゲップを漏らして人心地つく。
「眠くなった。あたしは寝る」
エネルギーバーを二本食べ終えて満腹になったらしいヤコネはそう言うと、私の腕を抱き、私の肩を枕代わりにして就寝の体勢を取った。そしてものの数分後には、まるで周囲の雑音など意に介さずにすうすうと寝息を立てながら、深い眠りに就く。腹が減ったら手近な物を食い、眠くなったらどこでも寝てしまうイヌピアット族の習性は、こんなヘリコプターの中でも健在らしい。
「まるで、野生児そのものだな」
半ば呆れながら、私はボソリと呟いた。そしてマウリシオもまた、私に同意する。
「まったく、その通りですね。それにしてもロジオノフ博士、貴方は一体どう言ういきさつで、この少女と出会ったんですか?」
「なんだ、ヤコネから聞いていないのかい?」
「雪原で貴方を拾って、客人として迎えたとは言っていましたが、詳細に関しては聞いていません。それに彼女の英語はカタコトなんで、細部の描写がいささか不鮮明でしてね。それと、CIAに連れ去られてからの貴方があの島で何を見たのか、その辺りに関しても説明をお願いします」
「分かったよマウリシオ、全てをお話しよう。だがその前に、私も少しばかり眠らせてもらえないかな? ヤコネの事を言えた義理じゃないが、私も腹が膨れたら、急にどっと疲れが押し寄せて来たよ。なにせ今日一日だけで、何度も死にかけたからね」
そう言いながら、私は大きく口を開けてあくびを漏らした。
「了解しました、ロジオノフ博士。それでは詳細な説明は、サンノゼに向かう途中でお伺いしましょう。アラスカに到着するまではもう暫くかかりますから、それまではゆっくりとお休みください」
「ありがとう、そうさせてもらうよ」
マウリシオに礼を言うと、私は座席の背もたれに体重を預け、隣で眠るヤコネの柔らかな頭にそっと自分の頬を寄せてから瞼を閉じる。そしてゆっくりと意識を脳の奥深くへと沈めると、暗く温かな夢の世界へと旅立って行った。鼓膜を揺らすヘリコプターのエンジン音と震動も、今は子守唄の様に心地良い。
●
「……ロジオノフ博士、ロジオノフ博士」
自分の名を呼ぶ声と肩を揺すられる違和感に、私は浅い眠りから覚醒した。
「ロジオノフ博士、起きられましたか? 当機はもうすぐ、バローの街に到着します」
「……え? あ、ああ。おはよう、マウリシオ」
未だ若干寝惚け眼な私は、自分がどこにいるのかも分からないままに眼前のマウリシオに起床の挨拶を告げたが、彼はそんな私に少し呆れているようにも見える。そしてすぐにここがオリファー財団のヘリコプターの中である事を思い出した私は、目脂で汚れた眼を擦りながら、大きなあくびを漏らした。
ふと隣の座席を見遣れば、ヤコネは未だ私の腕を抱き締めながら、すうすうと浅い寝息を立てている。
「ヤコネ、おい、ヤコネ」
マウリシオが私にしたように、私もまたヤコネの名を呼びながら、彼女の肩を揺すった。
「……ん? どうした、ヴァシリー?」
目覚めたばかりのヤコネは、やはり私と同じ様に、未だ若干寝惚けているらしい。その証拠に彼女は私の腕を抱き直すと、二度寝を決め込もうと再び瞼を閉じてしまった。
「ヤコネ、もう起きなさい。もうすぐバローの街に到着するらしいぞ」
ポンポンと優しく頭を叩きながら再び声をかけてやると、ようやく眼を覚ますヤコネ。彼女は自分のライフル銃が手元に有る事を確認すると、一度大きなあくびを漏らしてから、私と起床の挨拶を交わす。
「おはよう、ヴァシリー」
「おはよう、ヤコネ」
私達は見つめ合い、微笑み合った。そんな私達の姿を横目に、マウリシオがニヤニヤとほくそ笑んでいる。
「それで、あとどのくらいでバローの街に到着するんだい?」
「もう到着しましたよ。あとは着陸するだけです」
私の問いにマウリシオが返答した直後に、ヘリコプターは減速と下降を開始した。そして機体が一際大きく揺れたかと思うと、タイヤとダンパーが軋み、身体に感じていた慣性を失うと同時に足の裏に地面の感触が蘇る。するとエンジンの停止と同時に後部ハッチが開放され、私達はヘリコプターの機内から、今や懐かしのアラスカの大地へと降り立った。ほんの数時間前まで立っていたニッカネン島とさほど気候は変わらない筈だが、頬を撫でる寒風すらも懐かしく感じる。
「さてと、ここはバローの街の、どの辺りだろうか?」
「あれは、アパヨーク・ストリートだ。すぐそこに、ワールズ・エンドが在る」
周囲を見渡す私に、ヘリコプターが着陸した空き地の前を走る通りを指差したヤコネが答えた。言われてみれば確かに、ワールズ・エンドのすぐ裏手に在った筈の空港が、ここからでも遠目に見て取れる。
「急ぐぞ、ヴァシリー。ついて来い」
「あ、ああ」
ワールズ・エンドが在ると言う方角に向かって、脇目も振らずにさっさと歩き始めるヤコネ。しかしマイペースな彼女の後を追おうと一歩を踏み出したところで、私は気付く。
「あれ? なあ、マウリシオ。他のヘリはどうしたんだい?」
空き地に停まっているヘリコプターが一機だけだったので、私は尋ねた。確かニッカネン島を出発した際には最低でも五機で編隊を組んでいた筈なのに、今は私達が乗って来た機体しか確認出来ない。
「ああ、他のヘリでしたら、全て直接サンノゼへと帰還させました。アラスカに立ち寄る要件は貴方とヤコネを狩猟小屋まで送り届けるだけですので、我々だけで充分事足りるとの判断です」
「そうか。まあ、確かにそうだな」
マウリシオの説明に得心した私は、彼と共にヤコネの後を追う。他のオリファー財団に雇われたPMC部隊の兵士達は、ヘリコプターの機内で待機したままだ。
「着いたぞ」
空き地から歩く事、百m弱。アパヨーク・ストリートを南下した後に辿り着いたレストラン、ワールズ・エンド。その軒先にはアウカネックとトゥングルリアの二匹が繋がれたヤコネの犬ゾリが待機しており、人懐こいトゥングルリアは私の顔を見るなり親しげに飛びかかって来て、マウリシオにも興味深げにじゃれ付きながら顔を舐め回す。そしてワールズ・エンドの扉を開けた私とマウリシオの二人は、西部開拓時代の古き良きアメリカをモチーフとした店内に、揃って入店した。外気で凍えた身体に、店の中央に置かれたガスストーブの発する温風が心地良い。
「やあ、ヴァシリー。本当に生きていたんだな。てっきりあのロシア人どもに殺されたと思って、あんたの事は記憶から消すつもりでいたよ」
肥満体をカウンターの中に無理矢理納めた店主のネイサンが、私の顔を見るなり、縁起でも無い言葉を挨拶代わりに発した。しかし何度見てもこの男は、テンガロンハットとネッカチーフが似合っていない。
「期待に添えなくて申し訳無いが、私は未だ生きているよ、ネイサン」
精一杯の皮肉を込めてそう言った私の眼前で、我々よりも先に入店していたヤコネが、両手に大きな紙袋を抱えてこちらを見遣る。
「ヴァシリー、手伝え。これを、犬ゾリに積む」
彼女が抱えた紙袋の正体は、丸一日前にソゾンとFSBによって強制的に退店させられた際に有耶無耶になっていた、バローの街のスーパーマーケットでヤコネと私が買い込んだ商品が詰まった買い物袋。ネイサンから購入した乾燥大麻が追加されたそれを受け取った私は、ワールズ・エンドの店外へと出ると、彼女と共に合計四袋の紙袋を犬ゾリに積み込んだ。ヤコネの命令口調が、なんだか今は、妙に心地良い。
「よし。それじゃあ狩猟小屋に帰るぞ。ヴァシリー、荷台に乗れ」
「ちょっと待ってくれよ、ヤコネ。ご覧の通り、今の私はアティギもアノガジェも着ていないんだ。犬ゾリに乗ってアラスカの雪原を走ったりなんかしたら、凍った空気に体温を奪われて、あっと言う間に凍死してしまうよ」
スーツの上からダウンコートを纏っただけの軽装である私は、ヤコネの命令に異を唱えた。密閉されたヘリコプターの中ならまだしも、外気に全身を晒す犬ゾリではものの一時間ほどで凍死の危険性が否めないし、手袋も履いていない手の指など確実に凍傷を負うだろう。ヤコネと一緒に雪原を走れる最後の機会になるだろうから後ろ髪を引かれたが、さすがに命を代償にしてまで危険を冒す訳には行かない。
「そうか。なら仕方無い。お前達は、ヘリでついて来い」
私とマウリシオにそう言うと、ヤコネは買い物袋を積んだ犬ゾリの運転席に立ち、二匹のアラスカンマラミュートの名を小声で呼ぶ。
「アウカネック、トゥングルリア」
するとヤコネの声の大きさに呼応した速度でもって、アウカネックとトゥングルリアの二匹は、ゆっくりとソリを引き始めた。
「それではロジオノフ博士、我々もヘリに戻りましょう」
「そうだな」
マウリシオに先導され、私と彼の二人は、ヘリコプターの停められた空き地へと引き返す。そしてヘリコプターの機内に乗り込むと座席に腰を下ろし、シートベルトを締めると同時に後部ハッチが閉まると、タンデムローター式の鉄の塊は機体を揺らしながら離陸を開始した。ヤコネが座っていた隣の座席が今は空席になっているのが、少し寂しい。
「よし。このまま狩猟小屋まで、ヤコネの乗った犬ゾリを追跡してくれ」
マウリシオが、コクピットに座るパイロット二名に要請した。その要請に従い、ヘリコプターは機体を旋回させると、アパヨーク・ストリート沿いを南下しているヤコネの犬ゾリを追跡し始める。するとヘリコプターの窓から戸外を眺めていた私の視線の先で、犬ゾリで徐行していたヤコネが、上空やや後方を飛ぶこちらをチラリと一瞥した。そして我々が追って来ている事を確認した彼女は犬ゾリの速度を上げ、やがて最高速度に達すると、それにピタリと追従したヘリコプターはアラスカの空を飛び続ける。
見渡す限り白一色の広大な雪原を疾走する一台の犬ゾリと、それを追う軍用輸送ヘリコプター。それは何かの映画のワンシーンの様で、なかなかに画になる光景だった。
●
「そろそろですか、ロジオノフ博士?」
「ああそうだ、マウリシオ。あの地平線の少し手前にうっすらと見えているのが、ウッタク家の狩猟小屋だ。手前に、FSBのヘリの残骸も見えるだろう?」
ヤコネの操る犬ゾリを追跡する事、実に二時間弱。距離にして七十㎞余りも飛び続けたところで、私とマウリシオはヘリコプターのコクピット越しに臨む視界の先に、ようやく狩猟小屋を視界に捉えた事を確認し合った。眼下では、ヤコネを乗せたソリがアウカネックとトゥングルリアの二匹によって引かれながら、雪煙を巻き上げて疾走している。
「これより、降下を開始します」
パイロットがそう言うと、ヘリコプターはゆっくりと高度を下げ始めた。そして十分ばかりも経過した後に、ヤコネの乗った犬ゾリは狩猟小屋の手前で徐々に減速するとやがて停止し、我々を乗せたヘリコプターは更に百mばかり後方で着陸態勢に入る。雪原に降り積もった粉雪が回転するローターから発せられた下降気流によって上空に舞い上がり、視界全体が真っ白に染まった。
「臭うな」
着陸したヘリコプターの後部ハッチから雪原へと降り立った私は、ボソリと呟いて、自身の鼻を摘んだ。見慣れたウッタク家の狩猟小屋へと続く道中には、アーロン率いるCIAによって壊滅させられたFSBのスノーモービルとヘリコプターの残骸が転がり、爆発炎上したそれらからは、未だに鼻を突くようなキナ臭い匂いと微かな黒煙が漂っている。そして私とマウリシオ、それにマウリシオの部下であるPMC部隊の兵士達三名が連れ立って狩猟小屋へと歩み寄れば、その道沿いにはFSBの工作部隊の兵士達の無残な死体が点々と転がっていた。
胸や腹、それに頭部や顔面を大口径の銃火器によって撃ち抜かれ、内臓や脳髄を露出させたまま横たわる、物言わぬ死体の数々。アラスカの凍える外気に丸一日間以上も晒され続けたそれらは、どれもカチカチに凍っており、如何なる救命措置が施されようとも二度と蘇生しない事を暗に物語っている。
「ヤコネ?」
二機のヘリコプターと七台のスノーモービルの残骸、そしてFSBの凍った死体を横目に歩き続けた私は、ふとヤコネの姿が見えない事に気付いた。既に残り十m余りの距離にまで狩猟小屋に近付き、傍らには彼女が乗っていた今は無人の犬ゾリが、主を失くして物悲しげに鎮座している。そしてソリに繋がれたままになっていたトゥングルリアが私に気付くとこちらに駆け寄って来たので、私はこの人懐こい黒毛の雌犬の頭や喉を撫でてやりながら、周囲を見渡してヤコネを探した。
風除けのための岩場の陰を除けば、見渡した範囲内には、姿を隠せるような場所は狩猟小屋の中しか見当たらない。しかしソリの荷台には未だ買い物袋が積まれたままなので、荷物を運び入れに狩猟小屋へと向かった訳ではないのだろう。とりあえずは丸一日以上も小屋を空けていたので、一足先に、留守を守るトゥクトゥの爺様の様子でも見に行ったのだろうか。
そうこうしている内に、狩猟小屋の入り口に吊るされた毛皮が捲れ上がって板戸が開くのを視界の隅に捉えたので、私はそちらへと視線を巡らせた。するとそこに居たのは、今やすっかり見慣れた、伝統的な防寒着であるアノガジェに身を包んだ小柄な少女の姿。やはりヤコネは、狩猟小屋の中へと一足先に帰還していたらしい。
しかし狩猟小屋の中から姿を現したのは、ヤコネ一人だけではなかった。彼女の背後に控える予想もしていなかった大きな人影に驚愕して、私は息を呑む。
「ソゾン……。生きていたのか……」
それはFSBの工作部隊のリーダー、ソゾン・ニキーチンの姿だった。CIAのアーロン・ウェイクマンによって頭部を撃ち抜かれて絶命したものと思われていた彼が、今はウッタク家の狩猟小屋の前に立っている。しかもソゾンは小柄なヤコネの細い首を筋骨隆々な左腕でもって締め上げながら背後から拘束し、更には右手に持った回転式拳銃の銃口を、彼女のこめかみに突き付けていた。
つまり我々は、FSBのソゾンによって、未だ年端も行かない少女であるヤコネを人質に取られてしまった訳だ。
「やあ、ロジオノフ博士。ほんの一日ぶりの再会だが、やけに懐かしく感じるな。あのアーロンとか言う若造に撃たれたショックで暫く気絶していたが、目覚めたらお前もこのお譲ちゃんもCIAも、誰一人として周囲に居なかったものでね。このオンボロな小屋の中で、お前達が帰って来るのを待たせてもらったよ」
私の眼を見据えながらそう言うと、ソゾンはくっくと笑う。妙に眼が血走った彼の表情と口調からは、以前は感じられた軍人然とした落ち着きや気概が、今は全くうかがえない。そしてよく見れば、ソゾンの額の左半分から側頭部にかけてには、アーロンが放った銃弾によって抉り取られたと思われる大きな傷痕が確認出来る。その傷痕は深く、皮膚や骨だけではなく脳髄の一部までもが欠損し、零れ落ちた脳漿が彼の上着にこびり付いていた。これだけの傷を負いながら存命であった事に感心するよりも、むしろ即死していない事の方が不思議だと言ってよい。
「アウリッチ! アウカネック、トゥングルリア、アウリッチ!」
人質に取られたヤコネが、二匹のアラスカンマラミュートに向かって、動かないように命じた。見れば二匹の犬達は牙を剥き、ソリに繋がれたままながらも、主人に危害を加えようとするソゾンに飛び掛かろうと身を屈めて唸り声を上げている。この従順なる二匹に制動を命じたヤコネの意図は、自らが助かりたいと言うよりも、切羽詰ったソゾンによって愛犬達が殺されないための処置なのだろう。
「後ろの連中は、オリファー財団の私設軍隊か」
ソゾンの言葉に、私は自分の背後を見遣った。するとマウリシオと彼の部下達三名は、既に各自の自動小銃を構え、ソゾンの頭部に狙いを定めている。しかし当然ながら、ヤコネを人質に取られた上に彼女を盾にされた状況では、迂闊に発砲する事は出来ない。
「ヤコネを放せ、ソゾン!」
私は叫ぶが、ソゾンは再びくっくと笑う。
「命令する権利があるのはお前ではなく私の方だろう、ロジオノフ博士? なにせこっちには、見ての通り人質がいるんだからな」
「幼い少女を人質に取るとは、見下げ果てたものだな、ソゾン」
そう言った私を睨み据えながら、ソゾンは少しばかり眉根を寄せた。
「なんとでも言え。二十名近い部下と多くの装備を失い、作戦行動の継続も不可能となった上にCIAに出し抜かれるような失態を演じた私には、もはや形振り構っているような余裕は無い。こうなった以上は、せめてお前に一矢報いてから死ぬまでだ」
やはり今のソゾンには、軍人然とした気概がまるで感じられない。それにしても、ここに至るまでの道中に彼の死体が転がっていなかった事に気付かなかった自分の愚鈍さに、今更ながら腹が立つ。
「さてと、まずはそこのオリファー財団の兵士達に、武装解除をしてもらおうか。銃を捨てるだけではなく、弾倉を抜いて、薬室の中の弾も捨てろ」
我々に向かって命令するソゾンに、彼によって首を締め上げられたヤコネが、声を枯らしながら叫ぶ。
「マウリシオ、撃て! あたしの事は気にするな!」
「黙れクソガキ! 死にたくなかったら動くな! 今の私は、女子供だろうと躊躇わずに殺すぞ!」
ヤコネの声が掻き消されるほどの声量で叫んだソゾンは、手にした回転式拳銃の撃鉄を起こした。もはや一刻の猶予も無く、これ以上彼を刺激するのはあまりにも危険過ぎる。
「分かった。武装解除する。だから、ヤコネは開放しろ」
そう言ったマウリシオは手にした自動小銃の構えを解き、弾倉と薬室内の銃弾も抜くと、それら全てを足元に放り捨てた。そして腰の自動拳銃もホルスターから抜くと、自動小銃同様、足元に放り捨てる。また彼の部下達も、マウリシオに倣って、武装解除に同意せざるを得ない。
「よし。次は全員、手を頭の後ろで組んでから、跪け」
ソゾンの次なる命令にも、マウリシオと彼の部下達は従った。勿論私も従い、手を頭の後ろで組むと、その場に跪く。この体勢では、咄嗟に素早く動く事が出来ない。
「それで、次は何を要求する? 裸にでもなればいいのかい?」
私の皮肉に、ソゾンは不敵な笑みを漏らす。
「裸になれ、か。それも面白そうだが、凍死では時間がかかり過ぎる。もっと手っ取り早く、お前には死んでもらおう」
吐く息の白さから察するに、ソゾンの呼吸が荒い。私に対する復讐を為さんと興奮しているのか、それとも頭部に負った傷によって、彼自身もまた死の淵に立たされているのだろうか。
「ロジオノフ博士、立て」
命令に従い、私は立ち上がった。
「よし。次は後ろの男が捨てた拳銃を拾い、スライドを引いて、銃弾を装填しろ」
異を唱える事は無く、背後のマウリシオが雪原に放り捨てた自動拳銃を拾い上げた私は、スライドを引いて初弾を薬室に送り込むと同時に撃鉄を起こす。これでもう、この自動拳銃はいつでも撃てる状態だ。
「後は分かっているだろう、ロジオノフ博士? その拳銃を口に咥えて引き金を引き、自ら命を絶て」
やはり予想通りの展開になったかと、私は天を仰ぐ。人質を取った上に自らの手を汚す事無く復讐を為そうとは、どれだけ贔屓目に見ても軍人の風上にも置けない行為である事は明々白々としていたが、それだけソゾンも切羽詰まっている事は想像に難くない。そして彼の命令に従う前に、一つだけ気になった事を、私はソゾンに尋ねる。
「ところでソゾン、トゥクトゥは無事なんだろうな?」
「トゥクトゥ? ……ああ、このお譲ちゃんの、曽祖父か。小屋の中で置物みたいにじっと動かない爺さんが居たんで無視していたが、そんな名前だったとはね。安心しろ。殺す意味も無かったから、生かしてある。きっと今頃も、小屋の中で座ったままだ」
ソゾンの返答に、私は安堵した。この期に及んでトゥクトゥの爺様まで命を落としたとあっては、喩えこの命と引き換えに彼女を救えたとしても、ヤコネに申し訳が立たない。
「さあ、早くしろ、ロジオノフ博士」
急かすソゾンの言葉に、私は自動拳銃の銃身を口に咥えると、眼を閉じた。
「やめろ、ヴァシリー!」
ヤコネが叫ぶが、彼女の声がやけに遠くから聞こえて来るような気がして、現実感が無い。実際には、ヤコネを人質に取ったソゾンから私までの距離は、おおよそ十m程度。私の背後に立つマウリシオと彼の部下達は武装解除した上に跪かされており、少しでも不審な挙動を取れば、ヤコネの命が危ない。またアウカネックとトゥングルリアの二匹が襲いかかった場合にも、やはり彼女は命を落とすだろう。手にしたマウリシオの拳銃でもって、私自身がソゾンを撃つと言う選択肢も存在するが、射撃経験の乏しい私の技量ではこの距離で正確に的に当てる自信は無い。絶体絶命の状況下で、ヤコネの命を確実に救う方法は、一つしか無かった。
「やめろ、ヴァシリー! 撃つな! 撃たないでくれ!」
悲痛に叫ぶヤコネには申し訳無いと思うが、私の命と引き換えに彼女が助かるのであれば、安いものだ。そう考えると少しだけ気が楽になった私は、口に咥えた自動拳銃の引き金に掛けた指に、力を込める。死ぬ前にもう一度だけヤコネと抱擁を交わしたかったが、今となっては詮無い事だ。
「あ」
不意に、背後のマウリシオが頓狂な声を上げた。不思議に思った私は自害を中断し、閉じていた眼を開ける。すると狩猟小屋の脇に立つ風除けの岩場の陰から現れた巨大な獣が、小屋の前に立つソゾンとヤコネの元へと、地面を揺らしながら背後から駆け寄るのが見て取れた。
その巨大な獣は、全身を白い毛で覆われた、ホッキョクグマ。私やマウリシオよりも一拍遅れてその接近に気付いたソゾンが背後を振り返るが、既にホッキョクグマは彼を間合いに捉えて直立し、鋭い爪の生えた腕を振り上げて攻撃態勢に入っている。足の爪先から頭頂部までの高さが軽く三mを越える、雄のホッキョクグマでも滅多に見られないほどの巨体。私は以前ヤコネが言っていた、ホッキョクグマは背中を見せると、自分よりも弱い獲物と判断して必ず殺しに来ると言う言葉を思い出した。不運にもソゾンは、そんな北極圏最大の陸上生物に、無防備な背中を見せてしまったのだ。
「なんだこいつは! 糞!」
驚愕と狼狽でもって眼を見開いたソゾンは左手で拘束していたヤコネを突き飛ばすと、素早く身を翻しながら叫び、右手に握った回転式拳銃の銃口を背後のホッキョクグマへと向ける。突き飛ばされて体勢を崩し、地面に倒れ伏すヤコネ。そんな彼女のすぐ背後で、ソゾンの回転式拳銃が火を噴いた。
だが次の瞬間、牙を剥いたホッキョクグマの咆哮が雪原に轟き、それと同時に振り下ろされた獣の左腕がソゾンの右腕を薙ぎ払う。命中した筈の回転式拳銃による一撃は、硬くて分厚い毛皮に覆われたホッキョクグマにはまるで効果が無く、むしろ獣を激高させるだけだった。そして鋭い爪によってソゾンの右腕はズタズタに切り裂かれ、強靭な筋肉を纏っていた筈のそれは、まるでボロ雑巾の様に肘から先が千切れ飛ぶ。
雪原に落下して転がる、未だ回転式拳銃を握ったままの、ソゾンの右腕。自身の腕の肘から先が無くなった事が信じられないのか、切断面を見つめて茫然自失としたままその場に立ち尽くすソゾン。そして返す刀の要領でもって、今度はホッキョクグマの右腕による強烈な一撃が、彼の頭部に命中した。
鋭い爪が、ソゾンの頭部の前半分だけを毟り取る。
「ごぽ」
下顎だけを残した顔面をごっそり失い、頭蓋骨の断面を露出させたソゾンの喉から、奇妙な声が漏れた。頭蓋骨と一緒に脳髄の前半分も毟り取られた彼は、頭蓋腔から脳漿をボトボトと零れ落としながら絶命し、その場にドサリと崩れ落ちる。流石のFSBの工作員も、野生のホッキョクグマが相手ではひとたまりも無い。そしてソゾンを仕留め終えたホッキョクグマは、今度は倒れ伏した状態から何とか立ち上がったヤコネを、新たな標的をして捉えた。彼女の足元では顔面と右腕を失ったソゾンの死体が横たわり、切断面からじわじわと鮮血を滲ませて、真っ白な雪原を赤く染めている。
再びアラスカの大地に、ホッキョクグマの咆哮が轟き渡った。そして巨大な獣は右腕を振り上げると、今度はヤコネを屠らんと攻撃態勢に入る。
「ヤコネ!」
私は彼女の名を叫び、右手に持ったマウリシオの自動拳銃を、ホッキョクグマに照準を合わせて構え直した。今度は的が大きいのでこの距離でも命中させる事が可能だが、威力に乏しい拳銃弾では巨大なホッキョクグマを一撃で倒せる可能性は、ほぼ皆無に等しい。背後のマウリシオ達が自動小銃と弾倉を拾い上げてコッキングレバーを引き、薬室に銃弾を装填してから照準を合わせているだけの猶予をホッキョクグマが与えてくれる可能性も、やはり皆無だろう。アウカネックとトゥングルリアが襲い掛かるには距離が遠過ぎるし、ヤコネがいつも肩に吊っている愛用のライフル銃は、今は彼女の手元に無い。
もはや万策尽きた感があるが、私は万に一つの可能性に賭けて、構えた自動拳銃の引き金を引いた。銃口から銃弾が射出されてマズルフラッシュが輝くと同時に、一際大きな銃声がドンと、壮烈なこだまを反響させながらアラスカの空に轟き渡る。しかしその銃声は、小口径の拳銃から発されたにしては、あまりにも轟音過ぎた。そして着弾するとホッキョクグマは動きを止め、その胸に穿たれた穴から真っ赤な鮮血を噴出させると、ぐらりと体勢を崩す。
私とヤコネ、それにマウリシオと彼の部下達。その場に居合わせた全員が、呆然と立ち尽くしていた。ソゾンが放った拳銃弾はホッキョクグマに対してまるで無力だったと言うのに、私が放ったそれは巨大な獣の硬く分厚い毛皮に覆われた胸に穴を穿ち、絶命せしめようとしているのだろうか。
しかし私は、すぐに事実を悟る。先程の一際大きな銃声と、ホッキョクグマの胸に穴を穿った銃弾とは、私が構えた自動拳銃から発されたものではなかった。正確に言えば、私が引き金を引いたのと全く同時に発された、別の銃による一撃に相違無い。その証拠に、私は引き金を引いていないのに再びドンと言う銃声が轟くと、今度はホッキョクグマの脳天に穴が穿たれた。
狭い額のちょうどど真ん中の急所を、頚部から撃ち抜く必殺の一撃。小脳から間脳を経由して大脳新皮質へと至る脳髄の中央を正確に破壊されたホッキョクグマは、白い毛並みを鮮血と脳漿でもって赤く染めながら絶命し、前のめりになってその場に崩れ落ちる。そしてズシンと大地を揺らしながら、既に横たわっていたソゾンの死体の上に積み重なるように倒れ伏すと、ピクリとも動かなくなった。ソゾンの死体の少し脇に立っていたヤコネは、ホッキョクグマの死体に圧し潰される事も無く、遠目に見た限りではどうやら無傷であるらしい。
そしてホッキョクグマが倒れ伏した事により、その巨大な獣の背後に立っていた、たった二発の銃弾によって北極圏最大の陸上生物を撃ち倒した者が我々の前にその姿を晒す。果たしてそこに立っていたのは、ヤコネの愛銃に勝るとも劣らない大型のライフル銃を構えた、トゥクトゥの爺様の姿だった。彼が構えたライフル銃の銃口からは、ゆらゆらと紫煙が漂っている。
「ヤコネ! 無事か?」
ハッと我に返った私は手にした自動拳銃を放り捨てると、ヤコネの身を案じながら、急いで彼女の元へと駆け寄った。少し遅れてマウリシオと彼の部下達が続き、アウカネックとトゥングルリアの二匹もまた追従する。
「大丈夫か、ヤコネ? 怪我は無いかい? どこか、痛いところは無いかい? この血はどうしたんだい? ホッキョクグマの返り血かい?」
駆け寄った私はヤコネの肩を掴み、早口で捲くし立てながら、彼女が無事である事を何度も検めた。そしてソゾンによって締め上げられていた首が僅かに赤く腫れている点を除けば、その小柄な身骨にかすり傷一つ負っていない事が確認されると、私はヤコネの身体を固く抱き締めながら涙を零す。
「良かった……。本当に良かった……」
「お前も怪我は無いか、ヴァシリー? それに、もう泣き止め。一人前の男がそんな簡単に、めそめそと泣くな」
いつもの様に淡々とした口調でもって、ヤコネは命令した。そして彼女もまた私を抱き締め返すと、アウカネックとトゥングルリアの二匹がまるで祝福するかのように、私達の周囲をぐるぐると回りながら嬉しそうに吠え立てる。そして互いの無事を一通り喜び合った私達は、どちらからともなく抱擁を解くと、命の恩人であるトゥクトゥの爺様に礼を言うべく彼の元へと歩み寄った。
「見事な腕前でした。それに、立派なライフルですね」
まず私が彼の持つライフル銃を褒めると、隣に立つヤコネが誇らしげに説明する。
「トゥクトゥのライフルは、ウェザビー・マグナム弾を撃つ。あたしのライフルよりも強い。イヌピアット族の伝説的な狩人だったトゥクトゥの、愛銃だ」
詳しい事は良く分からなかったが、どうやらトゥクトゥの爺様の愛銃は、凄いライフル銃らしい。
「それにしてもトゥクトゥ、本当にありがとうございました。おかげで私もヤコネも無事だった事を、心から感謝しています。それと、あなたの曾孫であるヤコネを危険な眼に遭わせてしまった事を、謝罪させてください。私の事情にあなた方を散々巻き込んでしまって、本当に申し訳無いと感じています」
私は礼を述べ、また同時に謝罪すると、トゥクトゥの爺様に向かって小さく頭を下げた。すると彼は無言のまま私の眼をジッと見据えると、いつもの調子でニヤニヤと湿った笑いを漏らしながら、口元に咥えたタバコをふかす。良く見ればそのタバコはフィルターの無い紙巻であり、つまりは大麻だった。
「トゥクトゥ」
愛する曽祖父の名を呼びながらトゥクトゥの爺様に抱き付いたヤコネの背中を、抱き付かれたトゥクトゥの爺様は、優しくポンポンと叩く。そんな二人を見守る私の足元には、顔面と右腕を失ったソゾンの凄惨な死体が転がり、更にはそれを圧し潰すかのようにして巨大なホッキョクグマの死体が横たわっていた。
見慣れた狩猟小屋の周囲は血で汚れ、凍った死体が幾つも転がり、血生臭い匂いとガソリンが焼ける匂いが微かに漂う。それはどう見てもハッピーエンドを迎える準備が整っている光景とは思えなかったが、それでも私は、眼前に広がるアラスカの景色を穏やかな気持ちで眺めていた。
「今度こそ本当に、全てが終わったんだな」
そう呟いた私の吐いた息が白く凍り、風に流されて虚空を舞う。
●
「今度こそ本当に、お別れだな」
眼前に立つヤコネの眼をジッと見つめながら、私は言った。彼女の足元にはアウカネックとトゥングルリアの二匹が鎮座し、また私の背後では、マウリシオとその部下達を乗せたオリファー財団の軍用輸送ヘリコプターが離陸の時を待っている。脚の悪いトゥクトゥは既に狩猟小屋へと帰還しており、彼の姿はここには無い。
ソゾンがホッキョクグマに、ホッキョクグマがトゥクトゥによって仕留められてから、既に一時間ばかりが経過していた。その間に、ウッタク家の狩猟小屋の周囲に転がっていたFSBの死体はマウリシオと彼の部下達によって死体袋に納められ、壊れたスノーモービルも一箇所に集められている。爆発炎上したヘリコプターの残骸ばかりは人力では移動させる事が出来なかったので、飛び散っていた細かな破片を集めはしたものの、本体は未だその場に放置されたままだ。そしてこれらの死体と残骸は後日、オリファー財団の回収部隊が到着してから、全て跡形も無く回収される運びとなっている。また雪原の各所に残る真っ赤な血痕がやたらと眼を引くが、こればかりは雨や風で自然に洗い流される事を期待する以外には、どうしようもない。
ちなみにトゥクトゥが仕留めたホッキョクグマはヤコネの手によって素早く血抜きが施された後に毛皮が剥がされ、更に細かく切り分けられてから、今は食用肉として地下の冷蔵庫に貯蔵されている。彼女によれば、ホッキョクグマの肉も美味く、毛皮も高値で売れるらしい。
「そうだな。お別れだな」
ヤコネもまた私の眼を見つめ返しながら、別れの時が近い事を再確認した。
「短い時間だったが、本当にありがとう、ヤコネ。君と一緒に過ごせた日々は、本当に楽しかったよ」
「あたしも楽しかったぞ、ヴァシリー。別れるのが、寂しい」
狩猟小屋から百mばかり離れた雪原に停留しているヘリコプターと、その二十mばかり手前で向かい合うように立つ私とヤコネ。私達は暫し、無言で見つめ合う。
「なあ、ヴァシリー」
沈黙を破って、ヤコネが口を開いた。
「一昨日あたしは、イヌピアット族としてこの地で生きて行くべきなのか、それとも白人として街で生きて行くべきなのか、自分の生き方について迷っているとお前に言った」
「そうだな。結論は出たのかい?」
私が問うと、ヤコネは首を振る。
「未だ結論は、出ていない。しかしあたしは、もう暫く、この狩猟小屋でトゥクトゥと一緒に生きて行こうと思う。その後は、自分の生きたいように生きる」
「そうか。キミも自分の生き方を、自分で決める気になったんだな」
そう言って私がヤコネの柔らかな頬に触れると、彼女は突然、大粒の涙を両の瞳からボロボロと零しながら泣き始めた。顔をグシャグシャにして泣き続けるヤコネの姿は、普段の飄々としていると言うか淡々としていると言うか、常にマイペースな彼女を見慣れた私の眼には、やけに新鮮に映る。
「ヴァシリー、あたしはお前と、別れたくない」
「私もそうだよ、ヤコネ。キミとは別れたくない。だけど今は、私達は一緒には居られない。だから名残惜しいが、ここで別れなければならないんだ」
互いの気持ちを確認し合った私とヤコネは、固くギュッと抱き締め合い、熱い抱擁を交わした。触れ合った互いの頬から体温と鼓動を感じ合い、吐く息の暖かさと湿度に、生きている事の喜びを称え合う。少しだけ生臭い彼女の体臭も、今はやけに愛おしい。そしてひとしきり別れを惜しんだ私達は抱擁を解くと、遂に離別の時を迎えた。
「また会えるかな、ヴァシリー?」
「分からない。運が良ければ会えるだろうし、運が悪ければ、これが最後の機会になるだろう。先の事は分からないが、まあ、なるようになるさ」
私の言葉に、ヤコネが微笑む。
「ケ・セラ・セラか」
「そうだ。アーマイだ」
私とヤコネは、それぞれが相手から教えてもらった人生の行く末を達観する言葉を交わし合うと、微笑み合った。そしてその言葉と笑みを別れの挨拶とした私は踵を返すと、マウリシオ達が待っているヘリコプターへと足を向け、歩き始める。背後でくうんと、トゥングルリアが寂しげに鳴いた。
「ヴァシリー!」
最後にヤコネが私の名を呼んだので、歩きながら背後を振り返ると、彼女は自分のライフル銃を天高く掲げている。そして一発ターンと、空に向けて銃弾を発射した。どうやらそれは、別れを惜しむ礼砲の代わりらしい。
「もう出発しても、よろしいですか?」
「ああ、出してくれ」
ヘリコプターに乗るとマウリシオが尋ねて来たので、私は離陸を許可した。するとエンジンが始動し、後部ハッチが閉まると、ヘリコプターは離陸を開始する。
次第にアラスカの大地から遠ざかって行くヘリコプターの窓から地上を臨むと、ヤコネがこちらに向かって手を振っていた。私も手を振り返すが、おそらくは彼女からは見えていないだろう。そして暫くはヘリコプターの後を追って雪原を走っていたトゥングルリアも、やがて諦めて、狩猟小屋へと帰還する。
さらばアラスカ。さらば北極圏。さらば誇り高きイヌピアット族の狩人、ヤコネ・ウッタク。この極北の大地で経験した事を、私は一生忘れない。
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