第五幕
第五幕
遠目に見守る私とアーロンの視線の先で、レナード博士は膝を震わせながら、コモリオムの中へと一歩を踏み出した。彼の表情には既に恐怖の色は無く、緊張と歓喜、そして驚嘆でもって紅潮した顔に汗と涙を滲ませている。
「おお……おおおお……」
遺跡の内部に足を踏み入れたレナード博士は、積年の宿願を果たした喜びに感極まり、言葉にならない愉悦の声を漏らしながらその場に泣き崩れてしまった。それもその筈、彼の言を信じるならば実に四十年近くを費やした研究の成果が今まさに眼前で花開いたのであるから、その胸に去来する感動は想像するに余りある。おそらくは人生の春を謳歌するかのような快感に打ち震えているであろう事は、想像に難くない。
「どうやら、もう絶壁が起動する危険性は無いらしいな。それじゃあ俺達も、コモリオムの中へと入ってみようか。全員、俺の後について来い」
隣に立つ私と背後に控えた部下達に号令をかけたアーロンは、全員を引き連れて、かつて絶壁であった門からコモリオムの中へと進入する。
「大気の構成は?」
「問題ありません。大気の主成分は窒素で、ガスも検出されず、酸素濃度、二酸化炭素濃度共に安定しています」
アーロンに問われた部下の一人が、手にした計測機器に表示された分析結果を確認しながら返答した。どうやらコモリオムの内部からは、人体に有害なガス等は検出されなかったらしい。
「そいつは良かった。ここまで来ておいておあずけを食らうのは、精神衛生上よろしくないからな」
そう言うとアーロンは、先んじてコモリオムの内部へと足を踏み入れていたレナード博士に近付き、跪いたまま咽び泣いている彼の肩を抱いて激励する。
「やったじゃないか、レナード博士。悲願達成おめでとう。おそらくはあんたが、コモリオムの中へと足を踏み入れた歴史上最初の人類だ。しかし、泣くのはまだ早い。これからもっととんでもない物の数々が、この先には待ち構えているんだろうからさ」
「……そうだな、アーロン。うん、そうだ、その通りだ。こんな所で泣いている場合じゃない。私はもっともっと、先へと進まなければならないんだ」
眼鏡を外して汗と涙を拭ったレナード博士は決意を新たにすると、鼻水を啜り上げながら立ち上がった。そしてミイラを納め直したトランクケースを胸に抱いたまま、コモリオム内部の床や壁をつぶさに観察している。
「それにしても、凄いな」
私もまたコモリオムの内壁を撫でながら、感嘆の言葉を漏らした。
レナード博士の仮設によれば、この遺跡は異性人の宇宙船か、もしくはそれに類する長期居住ユニットと言う事らしい。しかしその宇宙船なり長期居住ユニットなりが少なくともミノア文明の時代から存在したとなれば、このコモリオムはこんな極北の僻地で、四千年以上もの永きに渡って眠り続けていた計算になる。そしてそんな途方もない時間が経過しているにもかかわらず、私が触れている内壁はあまりにも綺麗で、経年劣化はおろか永久凍土の重量によって生じた傷や歪み一つ確認出来なかった。いやそもそも、この内壁を構成しているのが果たして何と言う材質なのかすらも、私には判別が付かない。
そこで改めて、私は周囲を観察する。
外郭に開いた門からコモリオムの内部へと侵入したばかりのこの場所は、どうやらT字型の交差路らしい。そしてパッと見た限りでは外郭の内側を沿うように緩く湾曲した通路が左右に一本ずつ続き、更に正面には一本の通路が直進し、コモリオムの奥へと続いていた。また通路の幅は十mほどで、天井までの高さも六mほどだろうか。人間程度の生物が利用するだけならば不必要なほどに広いが、重機やそれに類する車輌を搬入させる事が考慮されているのならば、適切なサイズなのだろう。
触れているコモリオムの内壁はひんやりと冷たくて硬く、一見すると金属の質感に近いが、セラミックの様な焼結体なのかもしれない。また色は青味がかった白に近くて光沢があり、清潔で、黒光りしていた外郭とは別種の材質で構成されている事が推測された。そして内壁の所々には絶壁に施されていたのと同種の、見た事も無い意匠による装飾が見て取れる。仮にこれらの装飾が文字なのだとすれば、南米マヤ文明のマヤ文字に少しだけ似ていると言えなくもない。
「本当に、凄いなこれは。ここが本当に異星人の宇宙船の中だとするなら、俺もレナード博士みたいに、感動で涙が出ちゃうね」
通路の中央で両手を広げて天井を見上げたアーロンが、ひゅうと口笛を吹きながら感想の言葉を漏らした。そしてその場でクルリと一回転すると、軽快なステップを踏んで奇妙なディスコダンスを踊ってみせる。
「しかし、思っていた以上に中は明るいな。携帯式の投光機も用意させていたんだが、どうやら必要無かったらしい」
「ああ。確かに明るいな、アーロン。だが照明機器らしき物はどこにも見られないので、壁や天井そのものが光を放っているのだろう」
アーロンの言葉に同意した私も、天井を見上げた。仕組みは分からないが四方の壁や床や天井の全てがぼんやりと光っており、視界に映る範囲では、影になっているような箇所は見当たらない。そしてふと気付けば、私達だけではなくアーロンの部下の兵士達や発掘スタッフ達も、天井を見上げて呆然としている。やはり皆、前人未到の遺跡内部へと足を踏み入れた感動に、心ここにあらずと言った様子だ。
「記録班、写真と動画は撮っているな? それじゃあレナード博士もロジオノフ博士も、こんな入り口の側でいつまでもウロウロしていないで、そろそろコモリオムの奥へと進もうじゃないか」
記録班と思しきカメラを携えた兵士二名に確認を取ったアーロンは、私とレナード博士に向かって手招きをしながら、遺跡の奥へと続く通路の先を指し示した。天井を見上げていた私も、壁に刻まれた装飾をつぶさに観察していたレナード博士も、先導する彼に付き従って通路を進む。
「なあ、アーロン」
「なんだい、ロジオノフ博士?」
歩きながら声をかけた私に、アーロンはチラリとこちらを振り返って応えた。
「本当に、これは異星人の遺跡だと思うのか?」
アーロンは、くっくと笑って私をからかう。
「またその質問かい、ロジオノフ博士? さっきも言った通りに、重要なのは異星人が存在した方が、世の中は愉快で興味深いって事だけだよ。そしてこうして見た限りの所感では、どうやらこれまでは眉唾モノだったレナード博士の仮設も、まんざら嘘ではないようだね」
「そうとも、私の仮説は正しかったんだ。このコモリオムは、異星人の残した遺跡に間違いは無い。そして私の推測では、この先には多くのヒュペルボレイオスと、そのヒュペルボレイオスを操っていた異星人達が眠っている筈だ」
アーロンの賛同を得たレナード博士は、水を得た魚の様に力強く、噛み気味に自説を語った。興奮し過ぎているせいか、彼の眼の焦点が少しばかり合っていない。
「また扉か。今度は、すんなりと通してほしいね」
通路を百mばかりも奥へと進むと、そこで道は閉ざされて再び壁に突き当たったので、私達は足を止める。そしてアーロンの言う通りにその突き当たりの壁は更に奥の空間へと続く扉らしく、先程通過して来た絶壁と同じ様な継ぎ目と装飾が見て取れた。
「また、これが必要かな?」
レナード博士がミイラの納められたトランクケースを掲げ、私は顎に伸びた無精髭を毟りながら応える。
「さてどうだろうね、レナード博士。ギリシャ神話によるとヒュペルボレイオスの住む地に関しては、この世の理想郷であるとしか記述されていない。つまりそれは、かつてこのコモリオムの中に足を踏み入れた人類が居たと言う事なのか?」
「……なんだ、そうすると、私が人類初ではなかったのか」
私の言葉に、レナード博士はがくりと肩を落とし、意気消沈した。しかしそんな彼の肩をアーロンは馴れ馴れしく抱き締めながら、満面の笑顔でもって慰める。
「なあに、気にするなよ、レナード博士。確かに人類初じゃなかったかもしれないが、少なくとも現代人としては初めてだし、研究者としては間違い無く人類初だ。だからこれからコモリオムの謎を解明すれば、あんたの名前が歴史に残る事は間違い無い。そう思えば、どこの誰とも分からない古代人にちょっとばかり先を越されたくらいの事は、瑣末な問題じゃないか」
「……そうだな。うん、その通りだよ、アーロン。わたしにはこれから、このコモリオムの謎を人類で最初に解き明かすと言う使命が残されているんだ」
一度は光を失った瞳に輝きを取り戻し、レナード博士は再び決意を新たにした。この初老の男も、随分と単純な性格らしい。
「さて、それでこの扉は、一体どうすれば開くのかな。……おい、そこのお前。ちょっとこれを借りるぞ」
そう言うとアーロンは、背後に控えていた発掘スタッフの一人が被っていたヘルメットを、不意に摘み取ろうとした。すると顎紐をしっかりと締めていなかったヘルメットは簡単に外れ、それを奪われたスタッフは少しばつが悪そうにしているが、そんな事をアーロンは気にしない。そして野球のピッチャーの様に振りかぶると、彼はヘルメットを扉に向かって投げ付けた。
コーンと言う反響音と共に硬い扉に当たったヘルメットは、床に落下してカラカラと転がる。それと同時に閉ざされていた扉は、僅かな作動音と震動と共に、絶壁の時と同じ様に継ぎ目から剥離しながら壁面の中へと収納された。どうやらコモリオム内部の扉は絶壁の様に侵入者を強制的に排除する事は無く、タッチセンサー式の自動扉の様に、触れれば開く仕掛けらしい。
そして扉を踏み越えた私達の眼前に、コモリオムの中心部がその姿を晒す。
「хорошо……」
「bravo……」
眼前に広がる光景に圧倒され、私とレナード博士の口から母国語で感嘆の言葉が漏れた。また私達の背後でもアーロンの部下達が息を飲み、呆然と立ち尽くしながら、各々の言葉で驚愕を露にする。
それは、広壮な空間だった。中央部には最も広い箇所で直径百m余りの、最下層から最上層の天井まで達する、すり鉢型をした円形の吹き抜けが口を開ける。そしてその吹き抜けの周囲には各階層に別れた通路が並び、更にその通路から放射状に細い通路が等間隔で並んで、コモリオム内部の各部屋へと続いていた。喩えるならば円形をした巨大なショッピングモールの様な間取りと配置だが、下手なモールよりも遥かに清潔で明るく、その印象は商業施設と言うよりも医療施設や精密機器の工場に近い。特にその印象をより深くさせるのが、床や壁が青味がかった白一色か、もしくはガラスかアクリルの様な透明な素材で構成されている点だろう。またこの空間の通路は、ここに至るまでに通過した絶壁から続く通路よりも格段に狭く、一つの階層の床から天井までの高さも低かった。おそらくはここを利用していたコモリオムの主達は、人間よりも小柄だったに違い無い。
「イエス! これだよこれ、こう言うのが見てみたかったんだ。これこそいかにも宇宙船の中って感じで、ワクワクドキドキしちゃうね」
アーロンが無邪気に笑いながらそう言うと、またしてもポケットからスマートフォンを取り出して、吹き抜けの各所を背景にした自撮り写真を撮影している。国家機密を扱う諜報員らしさの欠片も無い彼の振る舞いに、私は只々呆れる事しか出来ない。
「やはり、私の仮説は正しかったんだ。コモリオムの内部のこの空間こそが、かつてこの場所で異星人が活動していた確固たる証拠なのだから、誰にもこの事実を否定する事は出来ないんだからな。学会で散々私の事を馬鹿にして来た奴等め、これであいつらに吠え面をかかせる事が出来るぞ」
レナード博士は再び、感動で打ち震えながら涙と鼻水を零し続けている。
「おい、レナード博士もロジオノフ博士も、アレを見てみろよ」
吹き抜けを囲む通路の縁から身を乗り出したアーロンが、こちらに向かって手招きをしながら私達を呼んだ。そこで私とレナード博士が彼に並んでコモリオムの最下層を覗き込むと、そこには吹き抜けを囲むように放射状にズラリと並べられた人造の巨人が見て取れた。
「あれは、ヒュペルボレイオスか?」
「そうだよ、ロジオノフ博士。あんたがクレタ島で発掘した巨人と同種の、機動兵器だ」
相槌を打つアーロンの言葉に、私は少しばかりムッとしながら言葉を返す。
「兵器とは限らんだろう。仮に私がクレタ島で発掘したミイラが異星人だったとしても、あの巨人は彼らにとっての宇宙服の様な物だったのかもしれないし、もしくは車椅子の様に肉体の機能を補助する器具だった可能性も考えられる」
「お優しいねえ、ロジオノフ博士は。それとも、これが元軍人である俺と、学者であるあんたとの感性の違いってやつなのかな?」
私をからかうようにそう言うと、アーロンは肩をすくめた。
「アーロン、ロジオノフ博士、どうやらこれを使えば、ここからあの巨人が置かれた最下層へと行けるようだ。下に下りて、もっと近くで調査してみよう」
そう言って私達を呼ぶレナード博士の方を振り向くと、彼は吹き抜けを囲む通路の一角に設置された手摺で囲まれたスペースに立ち、その壁面のコンソールらしき部分を指差している。どうやらその一角は、上下の階層へと移動するためのエレベーターの様な装置らしい。
「よし、お前達の内の半分は、俺について来い。残りの半分はここで待機して、周囲を警戒しろ」
背後に控えていた兵士と発掘スタッフ達に、指示を出すアーロン。彼の命令に従い、部下達の半数が私達に随伴してエレベーターに乗り込み、残りの半数はその場に待機する。
「ええと、これかな?」
心許無い手付きで、レナード博士がコンソールを操作した。すると音も無く私達の乗った通路の一角が浮き上がり、上昇を開始する。
「おっと、こっちは上昇だったか。失敗失敗」
「おいおい、しっかりしてくれよ、レナード博士」
申し訳無さそうに呟いたレナード博士の脇腹をアーロンがつついて、まるで子供の様にからかった。そしてエレベーターは、二階層ばかり上昇してから停止する。
「上昇しちまったのは予定外だが、ついでだからこの階層も見て回ろう」
楽しそうに笑いながらそう言ったアーロンが、我先にとエレベーターから通路へと降り立った。彼に倣って私とレナード博士、それにアーロンの部下達もまた、通路に降り立って周囲を見渡す。
「これは……水耕栽培か?」
眼前の光景に、私は独り言ちた。このフロアの壁面は全て透明で、吹き抜けを囲む通路から更に放射状に延びる通路の内側も、全て透けて見える。そして通路によって分割された各部屋の中では、何層にも積み重ねられた棚が水と思しき液体に満たされた状態で隙間無く並べられ、その上には見た事も無いような植物らしき塊が無数に栽培されていた。その植物一つの大きさは、成人男子の握り拳と同じくらい。白色の球根状の本体から、黄褐色の葉っぱが数枚、上方向に向かって伸びている。強引に喩えると、玉葱と白菜を足して二で割ったような外観だ。
「凄いぞこれは……。自動で栽培を続けているのか? 四千年も時が経っているのに、止まる事無く? そもそもこれは、食用の植物なのか? それとも研究用? いや、もしかすると、大気の組成を維持するための触媒として必要なのか?」
私の隣に立つレナード博士もまた、透明な壁面に顔を密着させながら、感嘆に満ちた独り言をブツブツと呟き続けている。確かに彼の言う通りに、この植物の栽培施設が四千年もの昔から稼動し続けているとするならば、それは現在の人類の常識を超えた驚異的な事実に他ならない。
「ロジオノフ博士、ギリシャ神話ではヒュペルボレイオスの住む地はどんな言葉で表現されていたか、覚えてるかい?」
アーロンが尋ねたので、私は答える。
「ああ。彼らが住む土地は温暖な気候に恵まれて夜が無く、肥沃で生命に満ち溢れ、永遠の平和が約束された理想郷だとされている。確かに古代人がこんな光景を見たとしたならば、そう思うのも頷けるな。二十四時間三百六十五日、昼も夜も夏も冬も無く人口の光によって無限に食物を生産出来る、まさに理想郷だ」
「そうとも。そして俺達は、その理想郷に足を踏み入れた。素晴らしいね、本当に素晴らしい。神話が事実だったと証明される現場に立ち会えるなんて、永い人生でも二度と無い機会だろうな。こうなって来ると、ヒュペルボレイオス達が崇拝していた光明神アポロンと言うのが何者だったのかにまで言及したい気分だよ」
そう言いながら、アーロンはスマートフォンで自撮り写真を何枚も撮影していた。まさかSNSにでも投稿する訳でもあるまいに、何故この男は、こんなにも沢山の自撮り写真を撮るのだろう。
「さて、それじゃあそろそろ、最下層へと下りてみようか。まだ上の階層にも何が存在するのか気になるところだが、今は全てを見て回っているほど暇じゃない。重要な施設から先に見て回ろう」
「もう下りるのか? 私はもう少し、他の施設も見て回りたいんだが……」
急かすアーロンの言葉にレナード博士は異を唱えるが、部下を引き連れたアーロンがエレベーターの方へと移動してしまうと、名残惜しそうに追従した。そして私自身もまた、この水耕栽培以外にもどんな施設がこのコモリオム内に存在するのだろうかと後ろ髪を引かれる思いだったが、右も左も分からぬ場所に一人取り残されるのも不安だったので、彼の後に続く。
「ええと、下降下降と」
「今度は大丈夫なんだろうな、レナード博士?」
「ああ、大体分かって来たよ、アーロン。文字が読めない点を除けば、基本的な操作方法はスマートフォンのタッチパネルと大差無い」
それは大丈夫とは言えないだろうとの疑問を抱くが、そんな心配を他所に、レナード博士の操作によってエレベーターは下降を開始した。すると五階層分も下降した後に、私達はコモリオムの最下層へと到着する。
そこには、上の階層から垣間見えていた通りに、人造の巨人がコモリオムの中心を向いて放射状に格納されていた。そしておそらくは神話に登場するヒュペルボレイオスそのものだと思われるその巨人郡は、私がクレタ島で発掘した一種類だけではない。一見しただけでも最低五種類が存在し、最小では全高三m程度から、最大では十m近い固体まで確認出来る。しかもそれらは各種類が数十機余り存在し、総数では百機を超えていると推定された。
「ワオ! これがヒュペルボレイオスか。資料の写真では何度も見たが、こうして実物を間近で見ると、まさに壮観だね。やはりこう言った機動兵器こそ、男の子の玩具って匂いがプンプンするよ」
「まだこれを兵器だと考えているのかい、アーロン? それも学者とは違う、元軍人の感性ってやつなのかい? しかも仮に兵器だとするならば、それを玩具と表現するのはどうかと思うがね」
「固いねえ、ロジオノフ博士は。あんただって子供の頃は戦車や戦闘機の玩具で遊んだし、戦争ごっこで玩具の拳銃を振り回したクチだろう? それとも博士は、ボルトロンみたいなロボットアニメに夢中のオタク少年だったのかな?」
「ボルトロン? そんな物は、知らんな。子供時代の私は恐竜に夢中で図書館と博物館が大好きな、ガリ勉少年だったよ」
私とアーロンは軽い皮肉で互いに牽制し合いながら、整然と格納されたヒュペルボレイオスに近付き、その装甲の表面に触れる。すると金属の様に硬くてひんやりとした感触の箇所と、樹脂かシリコンの様に柔らかくて常温の箇所とが散在し、恒温動物の体表面の様に僅かな熱を放っている箇所も確認出来た。そしてやはりこの人造の巨人もまた、四千年以上も放置されていたとは思えないほどに保存状態が良く、経年劣化も見られない。しかし私がクレタ島で発掘した個体はボロボロに劣化していたので、やはり生物における生と死の様に、恒久的に事故修復を繰り返すための条件が存在するのだろう。
「これが、生きた状態のヒュペルボレイオスか……。未だに信じ難い事だが、やはり現行の人類の技術を遥かに上回る、高度な文明の産物としか思えない」
「その通りだよ、ロジオノフ博士。これを作った異星人から見たら、古代ギリシャの人間なんぞは、まるで我々から見たチンパンジー程度の文明しか築いていなかった事だろう。しかし喜ぶべき事に、現代の人類は、古代ギリシャ人ほど愚かではない。この装甲に用いられている素材の種類は判別出来ないが、たとえそれが地球上に存在しなくとも、少なくとも何がしかの元素で構成されている事くらいは理解出来る。だから私はきっと、このコモリオムの謎の全てを解き明かしてやるんだ」
私の呟きに、レナード博士がヒュペルボレイオスの装甲や各部の機構をつぶさに観察しながら応えた。知的好奇心と探究心によって突き動かされた彼の学術的衝動と興奮は、専門分野は違えど同じ学者であり研究者として、私にも身に覚えがある。眼の前に新たな謎を提示された今この時こそが、その道を修める者にとっては、セックス以上の快楽である事は想像に難くない。
「そしてこの異星人の文明が重力を操る事も、私には理解出来る」
そう言って、レナード博士はニヤリと、まるで少年の様に悪戯っぽく笑った。そして彼の言葉を裏付けるかのように、このコモリオムの最下層に格納されているヒュペルボレイオス達は全て、床から僅かに浮いている。
「いや、重力だけではないな……。空間に対して干渉しているのか? それとも、高度な慣性制御か?」
宙に浮いているにもかかわらず、押しても引いてもびくともしないヒュペルボレイオス達。その姿勢制御が如何なる理屈によって成り立っているのかに興味を示し、眼を輝かせながら推測するレナード博士。彼は眼前に並び立つ人造の巨人を撫で回しながら、今にも絶頂に達してしまいそうに見えた。
「これでまた一つ、神話が事実だった事が証明されたな、ロジオノフ博士。確か神話によるとヒュペルボレイオスは、自由に空を飛び回る事が出来るんだったかな?」
「そうだ。そして豊かな知識を有すると同時に、不死であったとされている。私がクレタ島で発掘した個体は既に死んでいたが、こうして四千年以上も放置されていたヒュペルボレイオス達が生きているのだから、古代人から見たら不死そのものだろう」
「不死。素晴らしいね。まさに人類の夢だよ」
私と言葉を交わしながら、居並ぶヒュペルボレイオス達を背景に、能天気なピースサインを掲げて自撮り写真を撮影するアーロン。そんな彼の姿を見た私はひどく不愉快になるが、おそらくそれは、彼がヤコネを仕留めた際にも同様にピースサインを掲げていたからであろう。
「ところでロジオノフ博士もレナード博士も、気付いているんだろう? そろそろあそこへと上ってみようじゃないか」
そう言うと、アーロンはコモリオムの中心である吹き抜けの最上層を指し示した。彼に言われずとも当然気付いてはいたが、そこには他の階層とは違い、中央に直径十mほどの円盤型の部屋が存在している。そして今現在私達が立っている最下層からでは床しか見えないその部屋は、吹き抜けを囲む通路とは繋がっておらずに、それだけが周囲から独立して宙に浮いていた。その形状と位置から推測するに、あれがこのコモリオムを制御する心臓部である事は想像に難くない。
「気付いていたさ、アーロン。だがあそこにはどうやって入るんだ?」
「さあね。だがとりあえずは、あそこと同じ階層まで上ってみよう。レナード博士も、依存は無いだろう?」
アーロンに尋ねられたレナード博士はこくりと頷き、私達は再び連れ立って、ぞろぞろとエレベーターに乗り込む。そして宙に浮いた部屋が存在する最上層へと辿り着くと、吹き抜けを囲む通路から、その円盤型の部屋を見遣った。
部屋にはドーム型の屋根が存在し、その屋根は全て透明な素材で出来ていて、ここからでも内部が透けて見える。また床と同様に屋根も宙に浮いており、その両者に挟まれた部屋の側面には、壁が存在しない。そしてやはり通路から部屋へと至る方法は、この階層に到着しても、依然として判明しなかった。
「さて、これからどうする?」
私が問うと、アーロンは通路から吹き抜けへと身を乗り出しながら言う。
「この階層だけ、手摺が無いな」
言われてみれば確かに、この階層だけ吹き抜けを囲む通路に手摺が存在せず、少しでも足を踏み外せば下の階層へと落下しそうで非常に危ない。
「おいちょっとお前、こっちに来い」
背後に控えていた発掘スタッフの一人に向かって手招きをしながら、アーロンはこちらへと来るように命令した。
「お前には、アレが何に見える?」
通路の縁に立って宙に浮いた部屋を指差すアーロンが問うと、彼の元へと駆け寄った発掘スタッフは、指された先に眼を凝らしながら尋ねる。
「どれの事ですか?」
「ほら、アレだよアレ。お前には見えていないのか?」
アーロンが何を指差しているのかを確認しようと、発掘スタッフは更に吹き抜けへと近付き、身を乗り出しながら眼を凝らしていた。隣に立つ私もまた同様に眼を凝らすが、件の部屋の正体が不明であると言う事を除けば、特に不審な点は無い。そして発掘スタッフの意識が視線の先へと集中し、足元に対する注意が疎かになったのを見計らって、アーロンは一歩後退する。
「わっ!」
次の瞬間、まるで子供の悪戯の様な無邪気さで、アーロンは発掘スタッフの背中を突き飛ばした。頓狂な悲鳴を上げながら、手摺の無い通路から吹き抜けへとその身を投げ出される発掘スタッフ。息を呑む私とレナード博士、そして兵士達と他の発掘スタッフ達。しかし下の階層へと落下すると思われた発掘スタッフの足は、通路から部屋へと続く何も存在しない筈の虚空でもって、見えない床に着地していた。その見えない床は彼の足が接地している部分だけがボンヤリと青白く光り、まるで蛍光塗料の塊が彼の足を支えているようにも見える。
「ほうら、思った通りだ」
ニコニコと笑いながらそう言ったアーロンは、発掘スタッフに倣うかのように、自身もまた虚空へと足を踏み出した。するとやはり、青白く光る見えない床がその姿を現し、虚空でもって彼の体重を支える。
「おいおいどうした? そんなに驚いた顔をしていないで、少しは笑えよ。それに例え床が無かったとしても、せいぜい一階層か二階層分も落下するだけだ。その程度じゃ、たいした怪我もしやしないさ」
自分が突き飛ばした発掘スタッフの肩を馴れ馴れしく抱いたアーロンは、まるで悪びれた様子も無く、無邪気に笑いながらそう言った。一方で突き飛ばされた発掘スタッフの方はと言えば、恐怖と狼狽、そして怒りでもって顔面を紅潮させながら口をパクパクと動かして、言葉も出ない。勿論アーロンの言う通り、この吹き抜けは上層階ほど口が広いすり鉢状になっているので、最悪でも二階層分ほど落下するだけだった事は間違い無いだろう。しかしだからと言って、部下を突き飛ばして人体実験を行なう口実にはならない筈だが、そんな常識がこの男に通用しない事はこの場にいる誰もが知っていた。
「ん? どうした? まさかお前、この俺に文句があるんじゃないよな?」
その顔には悪意の無い笑みを浮かべたまま、肩を抱いた発掘スタッフを更に抱き寄せると、まるで恫喝するかのように言い放つアーロン。彼の言葉に部下である発掘スタッフはあらゆる意味で言葉を失い、顔を俯かせて奥歯を噛み締めると、無言のまま立ち尽くしていた。
「さて、どうやらこのまま進めば、問題無く中央のドームまで渡れるようだ。ロジオノフ博士とレナード博士は、俺と一緒に来てくれ。他の連中はそこで待機して、周囲を警戒していろ」
待機を命じた部下達をその場に残して、先行するアーロン。彼の後を追い、私とレナード博士の二人もまた、見えない床へと恐る恐る降り立つ。足元でボンヤリと光る床の感触は予想以上に硬くて、まるで硬質ガラスの上を歩いているかのような気分だったが、踏み出す先が完全に透明な分だけこちらの方が怖い。そして一歩一歩足元を確認しながら歩を進めた私達は、やがて吹き抜けの中央に浮かぶドーム型の屋根に覆われた部屋へと辿り着くと、その内部を改めて確認する。
「ここは、司令室? いや、それとも制御室か? どちらにせよ、戦艦における艦橋の様な場所だろうか?」
私はボソリと呟いた。この部屋を艦橋だと判断した最大の根拠は、部屋の中心を囲むように、小さいながらも軍隊の指揮所で使われているような指令台が円形に並べられている点である。そしてその指令台には放射状に様々なコンソールが並んでいるが、今現在のそれらには、何も表示されていない。
「これは……?」
艦橋の中央に設置された指令台から少し離れた場所に、やはりコモリオムの中心を囲むような配置で合計十二基のカプセルの様な物が等間隔で並べられていたので、私はその内の一つに近付いた。そのカプセルは人間の子供一人がちょうど納まるくらいの大きさで、卵に似た楕円の球形をしており、蓋だと思われる本体の上半分は曇りガラス状の半透明の素材で出来ている。
「これは何だと思う、レナード博士?」
「何だろうか? コモリオムの中心部に置かれていると言う事は、何か重要な装置だと考えられるが……」
私はレナード博士を呼び、二人でカプセルを観察した。曇りガラスの様な素材越しでは今一つ明確に確認は出来ないが、うっすらと透けて見える内部には、何か薄茶色の物体が納められているように見える。そして内部をよりハッキリ見ようと私が顔を近付けたその時、レナード博士がカプセルの基部に取り付けられたコンソールを指で触った。それと同時に、今までは曇りガラス状だったカプセルの蓋が突然透明になって内部が透けて見え、私の眼前にその姿を晒す。
「うわっ!」
至近距離でそれを見てしまった私は驚いて頓狂な声を上げ、体勢を崩して転び、尻を床でもってしたたかに打ち付ける。しかし痛めた尻を擦りながらすぐさま立ち上がると、再びカプセルに顔を近付けた。当然だが隣に立つレナード博士もまた、私と一緒に顔を近付けている。
「何だこれは……?」
透けて見えるカプセルの内部では、柔らかなクッション材の上に、奇妙な生物が横たわっていた。大きさは人間の新生児くらいで、感覚器や四肢の配置は人間に近いが、服は着ておらずに毛も生えていない。羽毛を毟った鶏の様な質感の肌の色は南方のアジア人くらいの薄茶色で、頭部が異常に大きく、また隆起した頭頂部の先端は鋭く尖っていた。そしてその生物が、カプセルの中で果たして生きているのか死んでいるのかは判別が付かなかったが、少なくとも腐敗やミイラ化は進行していないように見える。
「レナード博士、これは……」
「ああ、分かっている」
隣に立つレナード博士に声をかけると、彼は私が皆まで言う前に胸に抱えていたトランクケースを取り出し、その蓋を開けて中身を取り出した。カプセルの中で眠る謎の生物と、トランクケースの中に納められていた謎のミイラ。片一方は死蝋化が進んでいるために表皮の状態などはまるで異なるが、全体的な形状や感覚器や四肢の配置は酷似している。
「やはりこれは、私がクレタ島で発掘したヒュペルボレイオスの内部に納められていたミイラの、生前の姿に間違い無いな」
「ああ、まさにその通りだよ、ロジオノフ博士」
「だとすると、やはりこの奇怪な生物が、このコモリオムを作った異星人なのか?」
「それ以外の結論が存在するとでも?」
私とレナード博士は言葉を交わしながら、謎の生物と謎のミイラの出自が一致した事を何度も確認し合った。そしてそんな私達の背後では、アーロンが別のカプセルのコンソールに触れる。
「これは凄いね。いやあ、本当に気持ち悪くって、最高に面白いよ」
コンソールに触れた事によって蓋が透明になったそのカプセル内にも、やはり異星人と思われる謎の生物が横たわっていた。そして気持ち悪いと言いながらもそれをまじまじと見つめるアーロンは、ひゅうと口笛を吹くと、本当に楽しそうにニコニコと笑っている。また当然の様に、彼は異星人の眠るカプセルを背景にした自撮り写真を撮影する事を忘れない。
「他のカプセルにも、同じ様にこの気持ち悪い奴らが入っているのかな?」
そう言うと、意気揚々とステップを踏んで鼻歌を歌いながら、艦橋内に放射状に配置されたカプセルのコンソールに次々と触れて回るアーロン。彼が十二基全てのカプセルの蓋を透明にすると、新たな事実が判明する。
「このカプセルだけが、空だな」
十一基のカプセルには異星人が眠っていたが、一基だけは内部が空で、主を失ったクッション材だけが物悲しげに鎮座していた。
「どうしてこれだけは空だと思う、ロジオノフ博士?」
「そんな事は決まっているだろう、アーロン。本来はそこに納まるべき存在はクレタ島で死亡し、ようやく今日になって、この地へと我々が持ち込んだのだからな」
アーロンの問いにそう答えると、私はレナード博士が手にしたミイラを指差す。十二基目のカプセルに収まるべきであった異星人は何がしかの事故か事件で死亡し、搭乗していたヒュペルボレイオスと共にミイラと化して、実に四千年間もの永きに渡ってクレタ島の遺跡内で眠っていたのだ。そして本来彼が眠る筈であったこのカプセルに納まった時、果たしてこのコモリオムはどのように彼を迎え、またどのような反応を示すのだろうか。
「いやあ、それにしてもこの気持ち悪い異星人どもは、まるで人間の赤ん坊の出来損ないみたいだな。そう考えるとこのドームが、奇形児だけを集めた産婦人科の新生児室みたいに思えてくるよ」
「不謹慎な喩えをするな、アーロン」
私はたしなめるが、当のアーロンは楽しそうに鼻歌を歌いつつ、彼が気持ち悪いと評する異星人を透明なカプセルの蓋越しに眺めて無邪気に笑っている。そしてレナード博士は艦橋中心部の指令台を起動させようとするが、コンソールを操作しても反応が無いらしく、やや落胆しながらも調査を継続していた。
「それでだ、アーロン」
「何だい、ロジオノフ博士?」
「これでこのコモリオムの内部の主要な点は、概ね確認出来た事になる。もちろんまだまだ調べる点はあるのだろうが、それはむしろエンジニアの仕事であって、私の様な考古学者の出る幕じゃない。そこで、敢えて聞こう。お前達が仮にこのコモリオムの謎を解明出来たとして、その知識と技術をどうする気だ?」
私の問いに、アーロンはその顔に貼り付けた無邪気な笑みを深くする。
「どうする気だ、か。そうだな、まず第一の目標は、ここで得た知識と技術の独占だ」
「独占?」
眉をひそめながら、私は問うた。
「そうだよ、ロジオノフ博士。これだけ高度な文明の遺物が手に入ったんだから、それを我が合衆国が独占しない手は無い。そしてこのコモリオムの謎が全て解明された暁には、合衆国は再び世界一の超大国へと返り咲いて、中国やロシアの顔色をうかがいながら政治と経済のバランスを重視するような貧弱な国家体制からは脱却出来る。古き良き、自由と正義のアメリカの再来。いやあ、ワクワクするじゃないか」
「そんな事が、本当に可能だとでも思っているのか? これだけの知識と技術を一国が独占すれば、世界の軍事バランスは崩壊する。いや、軍事だけでは無い。経済バランスが今以上に狂って、富める国と貧する国との格差は広がるばかりだ。そうなれば行き着く先は、一握りの富を巡る、終わりの見えないテロと内戦に決まっている。そんなものが、お前の望みなのか?」
語気を荒げる私に向かって両手の人差し指を突き付けながら、アーロンは本当に楽しそうに、微笑みを絶やさない。
「ビンゴ! その通りだよ、ロジオノフ博士。そしてむしろ、それが俺の望みでもある」
「なんだと?」
「テロに内戦、大いに結構じゃないか。俺達みたいな裏家業の諜報屋は、社会情勢が不安定な方が儲かるし、何よりも仕事をしていて楽しくって仕方が無い。それに考えてもみろよ、博士。俺は知識と技術の独占は、あくまでも第一の目標だと言った筈だ。そして第二の目標が、あんたが説明してくれたように、軍事と経済のバランスを崩して合衆国以外の世界中を混乱に陥れる事にある。勿論俺個人としては、合衆国内に累が及んでも一向に構わないがね」
アーロンの返答に、私は言葉を失った。しかしそんな私とは対照的に、眼前に立つCIAの工作員は語り続ける。
「しかし今しがた語った第一と第二の目標は、あくまでもCIAの上層部が設定したものだ。そしてこれらとは別に、俺自身が設定する第ゼロの目標が存在する。それはこのコモリオムを巡って、北極海に面する各国が泥沼の戦乱状態に陥る事だ」
パチパチと手を叩きながら、満面の笑顔で微笑むアーロン。彼が一体何を考えているのか、私には理解出来なかった。
「考えてもみろよ、ロジオノフ博士。これだけの貴重な遺物を発見したんだから、その事実を知った周辺国は、当然ながら黙っちゃいない。CIAのお偉いさん方は国際法に則り、公海上に浮かぶこの島を最初に占有した合衆国が、領有権を主張出来るものと考えている。しかしそんな思惑に反して、ロシアにカナダにグリーンランド、ちょいとばかり遠いがノルウェーも含む各国が、このニッカネン島の領有権を主張して国際司法裁判所に審判を付託する事だろう。それとおそらく、北極海に面していないくせに難癖を付けて、中国も介入して来るに違い無い。そしてそうなれば、俺の目論みは叶ったも同然だ」
アーロンの笑みが、これ以上無いくらいに深くなる。
「コモリオムを巡っての戦乱の開始。それに伴って混乱する、世界の政治と経済、そして軍事。これ以上愉快な事が、他にあるかい?」
「……そんな事をして、何が楽しい」
私は肩を震わせ、拳を握り締めて怒りを抑制しながら疑問を呈した。しかしアーロンには、まるで悪びれた様子が無い。
「何が楽しいかって? 楽しいに決まっているじゃないか。世界が混乱すれば、それだけ退屈じゃなくなる。俺はとにかく、退屈ってヤツが大っ嫌いでね。とにかく何でもいいから、常にワクワクドキドキしていたいのさ。そのためなら、俺は何だってする。退屈な毎日を打ち滅ぼすためなら、例え実の両親を殺されようが合衆国が壊滅しようが、構うもんか」
この世で最も邪気が無いであろう笑顔と共に発されたアーロンの言葉は、私の堪忍袋の緒を切れさせるには充分過ぎた。
「……くだらん」
「はい?」
「くだらんと言ったんだ。退屈しないためだけにこんな大それた事を起こすだなんて、くだらないにも程がある。そんなくだらん理由で、まだ年端も行かない少女だったヤコネは殺されたと言うのか? ヤコネ以外にも、何人もの人間が殺されたと言うのか? そしてこれからも、殺し合いを続けさせようと言うのか? そんな考えは間違っているし、私は絶対に認めない。お前は最低の、サイコ野郎だ、アーロン」
怒りと絶望に任せて、私は胸の内を吐露する。しかしアーロンは、まるで動じない。
「言ってくれるねえ、ロジオノフ博士。しかしあんたにだって責任の一端は負ってもらわなくちゃ、困るじゃないか」
「……どう言う意味だ?」
「あんたは合衆国がコモリオムの知識と技術を独占する事を咎めるが、ならばオリファー財団にそれらを供出しようとするあんた自身は、咎めないのかい? それともオリファー財団ならば、コモリオムを平和利用してくれるとでも? それはあまりにも、短絡的な考えだ。それにそもそも、このコモリオムへと至る『鍵』である異星人のミイラを発掘して、それをここまで持ち出してくれたのは他ならぬあんたじゃないか。もしも未知の知識と技術が世界を混乱させる事を純粋に危惧していたのならば、発掘した『鍵』を、北極海のどこかにでも捨てちまえば良かったんだよ。それが出来なかった時点で、あんたもまた俺達の共犯なのさ、ロジオノフ博士」
「詭弁だな。オリファー財団は営利団体だが、決して一国の利益のみに偏向するような国粋組織ではない。それに私はこの遺物の正体を知らなかったんだから、故意にここまで持ち込んだ訳じゃない」
抗言してはみたものの、心の中ではアーロンの言葉を完全には否定出来ない。確かに彼の言う通り、クレタ島で発掘した遺物をここまで持ち込んだのも、学者としての知的好奇心からそれを廃棄すると言う選択肢を選べなかったのも、この私自身である事は厳然たる事実なのだ。そしてそんな私の心中を見透かしたかのように、アーロンはニコニコと微笑み続けている。
「とにかく私はもう、これ以上キミ達に協力する気は無い。帰らせてもらおう」
私はそう言うと、ダウンコートの裾を翻して、その場を後にしようとした。しかしそんな私の独断を、アーロンは許さない。
「待ってもらおうか、ロジオノフ博士」
艦橋から出て行こうとした私の背中に彼の声が届いたので、肩越しに振り返った。すると眼に止まったのは、こちらに自動拳銃の銃口を向けて立つアーロンの姿。その光景に私は反射的に足を止め、両手を挙げて降伏の意思を示す。
「残念だねえ、いやあ、本当に残念だ。しかしこのコモリオムの秘密を知られてしまったからには、もはやどう足掻いても、生きてあんたをロシアに帰すと言う選択肢は残されていないんだよ。……ああ、勿論合衆国に亡命させる気も無いがね」
そう言うアーロンの構えた自動拳銃の銃口は、私の心臓を確実に狙っていた。
「……私を殺す気か?」
「我々に協力してもらえないのなら、残念だけどそうするまでだ。……とは言っても、実はあんたはとっくの昔に、ほとんど用済みなんだけどね。ほら、さっきあんた自身が言ってただろう? ここから先はエンジニアの仕事であって、考古学者の出る幕じゃないって。その言葉通りに、コモリオムの謎を解明するにあたっては、あんたは殆ど役立たずだ。それでもあんたをここまで連れて来てやったのは、『鍵』をここまで運んで来てくれた事に対する礼と言うか、まあ、ボーナスみたいなもんでね。だから遅かれ早かれ、あんたには死んでもらう予定だったんだよ」
「それはまた、CIAとアーロン様はお優しい事で。嬉しくって、涙が出るね」
皮肉を口にしてはみたものの、銃口を向けられて生殺与奪の権限を奪われた私には、腕力でもって彼に抵抗するだけの余裕は無い。そしてアーロンは勝ち誇ったかのように、不敵に微笑む。
「なあ、アーロン。出来ればロジオノフ博士を、殺さないでやってくれないか?」
私達二人の遣り取りを横で聞いていたレナード博士が、オロオロと狼狽しながらアーロンに懇願した。だがその願いは、聞き届けられない。
「駄目だね、レナード博士。あんたはまだまだ役に立つから殺す気は無いが、ロジオノフ博士は別だ」
アーロンはにべも無く否定し、自動拳銃の引き金に指を掛けた。
「それじゃあ死んでくれ、ロジオノフ博士」
私は死を覚悟する。
しかし次の瞬間、これまでは仄白く発光していたコモリオム内の壁面の各所が、突如としてオレンジ色に輝き始めた。そして艦橋の中央に設置された指令台の上には、青白い光線による立体映像が表示される。また同時に、ズンと言う腹の底に響くような重低音と共に、地面が微かに揺れた。
「何だ? 何が起こった?」
私もアーロンもレナード博士も、その場に居合わせた全員が周囲を見渡しながら、何事が起きたのかと狼狽する。
「何だと? もう一度言え! 何が攻めて来たって? オリファー財団? 糞、こんな時に奴等が来るなんて、どうしてこの場所が分かったんだ!」
困惑する私とレナード博士の眼前で、アーロンが左耳を押さえながら叫んだ。今の今まで気付かなかったが、よく見れば彼の左耳には、イヤホン型の無線通信機が装着されている。どうやらその無線通信機で、外部の部下達と交信しているらしい。
「アーロン、これを見てみろ。どうやらこれはこのコモリオム周辺、いや、ニッカネン島全体を表示しているらしい」
「何だと? どけっ!」
艦橋中央の指令台の上に表示された立体映像を指し示す、レナード博士。そんな彼を押し退けたアーロンは、その映像を凝視する。そこにはこのニッカネン島全体が、そこに存在する人間や機器や重機、更には航空機に至るまでが全方位から縮小表示され、島の全貌が露になっていた。そして島に次々と着陸するオリファー財団のエンブレムが掲げられた攻撃ヘリコプターの姿もまた、鮮明に表示されている。するとそのヘリコプターが発射したミサイルが地上に着弾する度に、先程と同じ様に、ズンと言う重低音と震動が響き渡った。どうやらこの震動を感知してコモリオムが自動的に起動し、このオレンジ色の発光は、緊急事態を告げる警告色らしい。
「糞! おい、お前ら! ここの警備は後回しで構わんから、今は地上に戻って、全員で敵を排除しろ! 急げ!」
無線通信機を使って、アーロンは部下達に命令を下す。するとコモリオムの内部で待機を命じられていた兵士達と発掘スタッフ達は、我先にと地上に帰還して、敵との交戦に備えた。そして私自身もまた艦橋の中央の指令台へと近付くと、そこに表示された青白い立体映像を凝視する。
「……ヤコネ?」
私の眼が、ニッカネン島の地表を表示した立体映像の一点に、釘付けになった。そこではCIAの兵士達とオリファー財団の私設軍隊の兵士達と思しき両者が交戦していたが、その中に一人、見慣れた防寒着を着込んで愛用のライフル銃を肩に担いだ少女が駆け回っている。
「そんな馬鹿な……。しかしこれは、このアノガジェとライフルは、ヤコネに間違い無い……」
ヤコネが生きていた。私はその事実を確認しようと身を乗り出し、立体映像で表示されたヤコネに触れようとするが、当然ながら映像に触れる事は出来ずに指は空を切る。そして私の手から逃れた小さなヤコネはニッカネン島の地表に口を開けた、このコモリオムへと続く穴の中に姿を消した。
「ヤコネ!」
こちらへと向かって来ているヤコネを迎えようと、私は踵を返す。しかしそんな私の背中に、再びアーロンは自動拳銃の銃口を向けた。
「おっと、どこに行く気だい、ロジオノフ博士。まだ話が終わってないって言うのに、一人で勝手に逃げ出されちゃあ、俺としては困るんだよね」
「……ヤコネが生きていたんだ。私は彼女と一緒に、こんな島からは脱出してみせる。そしてアーロン、お前なんかの好きにはさせない」
威勢良く啖呵を切ってみせた私の言葉を、アーロンは笑顔を絶やさずに否定する。
「果たして、そう上手く行くかな? あんたはここで死ぬし、そのヤコネとか言う殺し損ねたエスキモーのお譲ちゃんも、今度は確実に殺してあげよう」
アーロンがそう言うと同時に、気配も音も前触れも無く、幾つもの巨大な影がコモリオムの下層に姿を現した。それらは最下層に格納されていた筈の人造の巨人であるヒュペルボレイオス達の中でも、特に大型の種類の一団。そしてヒュペルボレイオス達は宙に浮いたまま一列縦隊を編成すると、私達がこの場所へと至ったルートを逆に進んで、絶壁からコモリオムの外部へと侵攻を開始する。どうやら無人のまま、この母艦を守護するためのプログラムに従って、自動で動いているらしい。
「いいぞいいぞ、最高に面白くなって来たじゃないか。やっぱり人生ってやつは、こうでなくっちゃあ意味が無い。ロジオノフ博士、どうせあんたはもうすぐ死ぬんだから、残り少ない人生を一緒に楽しもうじゃないか」
ひゅうと口笛を吹きながら、笑うアーロン。彼の眼前に表示された立体映像上では、コモリオムへと続く穴から飛び出したヒュペルボレイオス達がオリファー財団とCIAの区別無く、敵と判断した存在を無差別に攻撃していた。そしてそれらの攻撃を受けた兵士や航空機は、次々と撃沈して灰燼に帰す。
「いいねえ、実にいい」
哄笑するアーロンの隙を突いて逃げ出せないかと私は後退るが、艦橋の縁まで達したところで、再び彼は自動拳銃の引き金に指を掛けた。そして空いている左手の人差し指を左右に揺らしながら舌打ちし、それは許さないとでも言いたげにほくそ笑む。どうやら私を逃がす気は、微塵も無いらしい。
「どこだ、ヴァシリー!」
不意に、私の名を呼ぶ声が聞こえた。見ればコモリオムの下層、絶壁へと続く通路の入り口にライフル銃を持ったヤコネが立っており、キョロキョロと周囲を見渡している。
「ヤコネ、私はここだ!」
振り返った私は、眼下のヤコネに向かって叫んだ。するとこちらに気付いて艦橋を見上げた彼女と眼が合い、私達は互いの名を呼び合う。
「ヴァシリー!」
「ヤコネ!」
私とヤコネの感動の再会であったが、その感慨に耽っているだけの猶予は、今は無い。
「どけ!」
背後から駆け寄って来たアーロンが叫ぶと、艦橋の縁に立つ私を突き飛ばした。そしてどうと床に倒れ伏した私の隣に立ち、自動拳銃の照準をヤコネに合わせて構え直すと、間髪を容れずに引き金を引く。パンと言う乾いた銃声と共に、38口径の銃弾がヤコネに向けて発射された。
「ヤコネ!」
私は床を這いながら彼女の名を呼び、透明な床越しにヤコネの姿を探す。
「あたしは大丈夫だ、ヴァシリー! そこまで行くには、どうすればいい?」
「エレベーターを使え! そこの手摺で囲まれている場所だ!」
「分かった!」
私はヤコネと視線を交わしながら、エレベーターを指差した。どうやら彼女は、ここまで上って来る気でいるらしい。
「糞っ! さっきは便利だと思ったが、邪魔な床だ!」
アーロンが叫ぶと、吹き抜けを囲む通路から艦橋へと続く透明な床を、ブーツの踵でもって力任せに蹴りつけた。蹴られた床はビクともせずに、只ボンヤリと青白く光る。そして良く見れば、紫煙を纏わせた銃弾の弾頭が一発、その床の上をころころと転がっていた。どうやらそれはアーロンの構えた自動拳銃から発射された銃弾であり、透明な床を貫通出来ずに、彼の足元で推進力を失ったらしい。
「ヴァシリー! これは、どうやって動かすんだ? 動かし方が、分からない!」
「コンソールを操作するんだ!」
エレベーターを動かそうと四苦八苦しているヤコネに向かって私は叫んだが、彼女はコンソールを操作する事もままならずに、立ち往生したまま難儀している。私達が乗って来たエレベーターは未だこの階層に停まったままで、まずはそれを、ヤコネの待つ下層にまで下ろさなければならない。しかし我々の中でエレベーターの操作方法を理解しているのは、レナード博士只一人だけだ。
とりあえず私は立ち上がろうと、床から身を起こす。しかし膝立ちの体勢になったところで、突然の衝撃と共に顔面を激痛が襲い、私は透明な床の上を転がって再び倒れ伏した。一瞬だけ意識が飛んで何が起こったのか分からず呆けたが、アーロンが私の顔面を蹴り上げた事を、真っ赤な鼻血をボタボタと滴らせながら理解する。幸いにも鼻骨が折れてはいないようだが、鼻の奥がジンジンと熱い。
「こうなったらロジオノフ博士、あんたを先に殺してやる。その後で下に下りてから、あのお譲ちゃんを殺してやろう」
そう言うと、再び立ち上がろうとする私の眉間に、自動拳銃の照準を合わせるアーロン。こんな状況でも未だにニコニコと微笑んでいる彼の表情に、私は背筋にゾッと怖気を走らせた。そしてこちらに向けられた銃口を見据えながら、再び死を覚悟する。
だがその時、艦橋の方角からゴトンと、何かが落下する音が鼓膜に届いた。私とアーロンがそちらを見遣ると、レナード博士が立ち尽くしており、どうやらずっと胸に抱えていたトランクケースを床へと取り落としたらしい。
「レナード博士? どうした?」
彼の息は荒く、額に汗を滲ませ、何やら様子がおかしかった。そして次の瞬間、何かを決意したらしいレナード博士は、覚束無い足取りながらも全速力で走り始める。しかも上官である筈のアーロンを途中で突き飛ばし、そのままエレベーターの方角へと一目散に走り去った。
「どこに行く気だ、レナード博士!」
叫ぶアーロンには眼もくれず、エレベーターに乗り込んだレナード博士はコンソールを操作し、ヤコネの待つ下層へと下降を開始する。アーロンは私に向けていた銃口をレナード博士へと向け直すが、間一髪で透明な床に阻まれて、狙い撃つには間に合わない。
「一体どう言う事だ、レナード! 俺を裏切る気か?」
一瞬だが、アーロンの声から余裕が消えた。そしてエレベーターシャフトに歩み寄ろうとする彼の背後で立ち上がった私は、アーロンから自動拳銃を奪い取るべく、隙を突いて彼の腕に飛びかかる。得物を巡って透明な床の上で揉み合う、私とアーロン。
「糞! 何をする! 放せ!」
「放すもんか、アーロン! お前にヤコネは殺させない! 何があろうと、絶対にだ!」
果敢に飛びかかり、啖呵を切ってみせた私だったが、アーロンとの体格差と腕力の差はあまりにも歴然としていた。それでも虚を突いたおかげで最初はアーロンを組み伏せられそうにも思えたが、すぐに形勢は逆転され、逆に私の方が身体の自由を奪われる。
「退いてろ! ヴァシリー・ロジオノフ!」
そう叫びながら、アーロンは私の鼻っ柱を、自動拳銃のグリップの底でもって殴りつけた。ガツンと言う衝撃と共に私は止まりかけていた鼻血を再び噴出させ、背中から床に転がり落ち、真っ赤に濡れた鼻を押さえる。そして殴りつけたアーロン自身もまた、体勢を崩して尻餅をついた。
「死ね!」
言うが早いか、アーロンの構えた自動拳銃が火を噴き、発射された銃弾が半身を起こした私の頬を掠める。皮膚と肉の一部を削がれて頬骨の少し下に大きな傷が開き、耳たぶが弾け飛んだが、私はまだ死んではいない。おそらくアーロンは私の眉間を狙っていたのだろうが、体勢を崩しているために手元が狂い、私を殺し損ねたようだ。
「糞! 外したか!」
舌打ちをして口惜しがったアーロンは、素早く立ち上がる。その一方で私は未だ、床に転がったままだ。
「今度こそ殺してやるぞ、ロジオノフ博士」
アーロンがそう言って自動拳銃を構えようとした、その時。レナード博士とヤコネを乗せたエレベーターが到着し、コモリオムの内部へと足を踏み入れていた我々四人が、この階層で一堂に会した。
「ヴァシリー、無事か?」
「ヤコネ、キミの方こそ、無事だったのか!」
互いの身を案じて名を呼び合う、私とヤコネ。しかし彼女の注意が鼻血で真っ赤に濡れた私の姿に向けられている間に、アーロンは軍隊時代に培われた手腕でもって、私に合わせられていた自動拳銃の照準をヤコネの心臓へと合わせ直した。そして一瞬の躊躇いも無く、引き金を引く。
「ヤコネ!」
叫ぶ私の眼前で、アーロンの構えた自動拳銃から発射された銃弾により、ヤコネの胸の中心に穴が穿たれた。そして着弾の衝撃によって仰け反った彼女は、そのまま後方に転がり、仰向けに倒れ伏す。この距離でも正確に心臓を撃ち抜いてみせるアーロンの射撃の腕前が、今は只々恨めしい。
「アーロン、二度までもヤコネを撃つとは、貴様だけは絶対に許さんぞ!」
痛む鼻を押さえながら立ち上がった私は、何としてでも一矢報いるために、叫びながら身構える。しかしそんな私を一瞥したアーロンは、今度はレナード博士に視線を向けた。見ればエレベーター上の彼は隣で倒れ伏したヤコネとアーロンとを交互に見遣りながら、オロオロと狼狽している。
「ロジオノフ博士、あんたを殺すのは後回しだ。まずは俺の大嫌いな、裏切り者を殺す」
そう言った次の瞬間、再び飛びかかろうとした私の眼前で、アーロンの身体がくるりと一回転した。そして彼の強烈な上段後ろ回し蹴りが私の無防備な顎を正確に打ち抜き、完璧なクリーンヒットをもらってしまった私は、その場に膝から崩れ落ちる。
「待て、アーロン……。待たないか……」
これで何度目になるのか、もはや倒れ飽きた見えない床に這い蹲りながらも、ギリギリで意識を保っていた私はアーロンを呼び止めようとした。だが私の言葉を無視した彼は、エレベーター上のレナード博士に自動拳銃を向ける。
「レナード博士。何故あんたは、そのエスキモーのお譲ちゃんをここまで連れて来た? そのお譲ちゃんが俺の敵であるって事くらいは、理解出来ている筈だろう?」
アーロンの問いに、銃口を向けられたレナード博士はガタガタと震えながら口篭るばかりで、満足な返答を返す事が出来ない。
「そうか、答えられないか。だったら答えなくても構わないさ。少し予定が早まったが、どっちにしろ、あんたにはこのニッカネン島で死んでもらうんだからな」
そう言い終えるのと同時に、満面の笑みを浮かべたアーロンの構えた自動拳銃からパンパンと二度の銃声が轟くと、二発の銃弾が連続して発射された。そして身を竦めるレナード博士の胸に着弾すると、血飛沫と共に博士は床を転がる。
「さて、これで残るは俺とあんたの二人だけだよ、ロジオノフ博士。レナード博士を殺しちまったのは予定外だが、さっさとあんたにも死んでもらって、俺も地上で戦っている部下達の応援に向かわなくちゃね」
銃口から紫煙が漂う自動拳銃を片手に、こちらへと歩み寄って来たアーロンはそう言うと、顎に喰らった回し蹴りの衝撃によって未だに膝が笑っている私を見据えて心底楽しそうにほくそ笑んだ。そして眼下の私に銃口を向けてから、別れの言葉を述べる。
「これで本当にさようならだ、ロジオノフ博士」
「……果たしてそうかな、アーロン?」
「何だと?」
この期に及んで発された私の言葉を、アーロンは訝しんだ。そして私の視線の先へと、彼もまた視線を巡らせる。するとそこには胸に穴を穿たれて死んだ筈のヤコネが膝立て姿勢でライフル銃を構えており、その照準はアーロンに向けられていた。彼が今から身を隠すだけの猶予は、既に残されていない。
「そんな……」
アーロンが何かを言いかけたところで、ターンと後を引くような甲高い銃声と共にヤコネのライフル銃から銃弾が発射されると、その鉛の塊はアーロンの右膝を正確に撃ち抜いた。撃ち抜かれた右膝は主の体重を支える事が出来ずに関節が砕け、本来ならば曲がってはいけない方向へと曲がり、体勢を崩したアーロンは床に崩れ落ちる。
「痛ってえ! 糞! 痛えな!」
砕けた右膝を押さえながらアーロンは呻き、その場でのたうち回って苦悶の表情を浮かべ、先程までの勝ち誇っていた勇姿は見る影も無い。そんな彼を尻目に、ようやく意識がはっきりとして来た私はガクガクと震える膝を必死で鼓舞しながら、何とか立ち上がる事に成功する。
「ヴァシリー、無事か?」
「ああ、私は平気だよ。それよりもヤコネ、キミの方こそ大丈夫なのかい?」
未だ足元は若干覚束無いが、辛うじて歩く事が可能になった私の元へと、ヤコネは駆け寄って来た。そして彼女と私は互いの無事を喜び合って熱い抱擁を交わし、肌に伝わる相手の体温と鼓動に歓喜する。また至近距離で嗅ぐヤコネの体臭は少し生臭く、血の味がした。
だが感動の再開に打ち震える私達二人の耳に、アーロンの怒声が届く。
「糞が! てめえら、未だ終わってねえぞ! よくも俺の膝を撃ってくれたな、このエスキモーの糞ビッチが!」
口汚く罵りながら床から半身を起こしたアーロンは、こちらに向かって自動拳銃を構えた。彼の位置からでは、私と抱擁を交わすヤコネの無防備な背中が露になっている。
「血反吐吐いて死ね!」
そう叫ぶのと同時に、アーロンは引き金を引いた。私が身を挺して庇おうとするのも間に合わず、銃口から射出された38口径の鉛の弾頭は至近距離からヤコネの背中に命中し、彼女と抱き合った私の身体にも着弾の衝撃がズシンと伝わる。
「ヤコネ!」
彼女の名を呼ぶ私の手の中で、ヤコネの身体が、ガクリと力無く崩れ落ちた。その光景を確認したアーロンが、勝利を確信して不敵な笑みを漏らす。しかしヤコネは、床に膝を突きはしたものの、それ以上体勢を崩す事は無かった。それどころか自力で立ち上がると、何事も無かったかのように背後を振り返り、肩に吊っていたライフル銃をアーロンに向けて構える。
「お前の負けだ、アーロン。銃を捨てろ」
スコープ付きのライフル銃でアーロンの眉間に狙いを定めながら、敗北と投降を勧告するヤコネ。彼女を殺し切れなかったアーロンは床に座り込んだまま、再び無邪気な笑顔を取り戻すと、手にした自動拳銃を私達に向かって指し示した。よく見ればその自動拳銃は、スライドがホールドオープンの状態で止まっている。つまり弾倉にも薬室にも、既に弾は残っていない。
「弾切れだ。銃を捨てなくたって、もうこれ以上、何の抵抗も出来やしないさ。こんな事ならグロック42なんかじゃなくて、もっと装弾数の多い銃を持って来るんだったよ」
自嘲気味にそう言ったアーロンは観念したのか、自動拳銃を放り捨てると、ごろりと横になった。しかし彼の顔から無邪気な笑みが消える事は無く、ニコニコと微笑み続けている。
「そうだ、ヤコネ。そんな事よりも、キミは大丈夫なのかい? 胸と背中を、二箇所も撃たれただろう? 早く治療をしないといけないし、ああ、しかしここには薬も包帯も無い。いやそれ以前に、アラスカでアーロンに胸を撃たれて、キミは死んだ筈じゃなかったのかい?」
我に返った私は、やや噛み気味になりながらも、矢継ぎ早な質問でもってヤコネの身を案じた。しかしそんな私に対して、落ち着いた様子のヤコネは構えていたライフル銃を肩に吊り直すと、着ていたアノガジェの裾をまくってみせる。すると彼女の防寒着の下からは、軍隊や警察が採用しているような防弾のボディアーマーがその姿を現した。
「大丈夫だ。これを着ていたから、あたしは死なない。物凄く痛かったが、銃弾は通さない」
勝ち誇ったかのような表情でそう言うと、ボディアーマーの表面をコンコンと叩いてみせるヤコネ。そんな彼女の言葉に、私は安堵の溜息を漏らすと同時に、膝の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。そして大粒の涙を零しながら笑い、ヤコネが無事であった事を神に感謝する。
「良かった……。本当に良かった……。神様、ありがとうございます……」
へたり込んだまま嬉し泣きを続ける私の頭を、ヤコネがギュッと、胸に抱いた。アノガジェ越しに、彼女が着込んでいるボディアーマーのケブラー樹脂の硬さが、頬に伝わって来る。
「ボディアーマーを着てただなんて、ずっりいなあ……糞……。そんなモンさえ無けりゃあ、俺の勝ちだったのに……」
右膝を撃ち砕かれて横たわったままのアーロンが口惜しがって、悪態を吐いた。確かに彼の言う通り、ヤコネがボディアーマーを着ていなければ、今頃は私もヤコネもアーロンによって殺されていた事だろう。
「しかしヤコネ、いつの間にキミは、こんな物を手に入れたんだい? アラスカでは着ていなかった筈だろう? だとしたら、最初にアーロンに胸を撃たれた時は、どうして助かったんだい?」
へたり込んでいた私は床から立ち上がると、ヤコネのボディアーマーを指差しながら問うた。
「これは、マウリシオから借りた」
「マウリシオ? 一体どこの誰だい、それは?」
知らない名前が出て来たので私は尋ねたが、残念ながらヤコネは、今はその人物について詳しく説明する気は無いらしい。
「マウリシオには、後で会わせる。それと、アラスカではこれのおかげで助かった」
そう言うと、ヤコネは自身のアノガジェの襟元に手を差し入れた。そして見慣れた動作でもって、いつも首から吊るしている愛用のスキニングナイフを取り出す。しかしそのスキニングナイフは、頑丈な革製のシースの中央が大きく抉れていた。
「アラスカでの銃弾は、これに当たった。お気に入りのナイフが折れてしまったが、あたしは助かった」
手に取って良く見れば、アーロンが放った38口径の銃弾を受け止めたらしいシースには円形の穴が開き、そこから覗くナイフの刃は凹んで折れ曲がっている。どうやら彼女が常に胸元に吊るしていたこのナイフが、不幸中の幸いにも、心臓を狙ったアーロンの凶弾からヤコネを救ってくれたらしい。
「いや、まったく、信じられないよヤコネ。こんな事って、実際に起こり得るもんなんだな。こんな映画か小説の中でしか観た事が無いような偶然で助かるなんて、本当に、信じられない」
「あたしが助かって良かったな、ヴァシリー。それと、覚えておけ。銃で撃たれると、物凄く痛いぞ」
一本のナイフによって大切な人が命を落とさずに済んだ事を神に感謝し、感極まった私は、再び涙を零す。しかしそんな私とは対照的に、ヤコネはまるで他人事の様に撃たれた時の感想を述べると、再びライフル銃を構え直した。そして見えない床の上に寝転がったままのアーロンに近付き、彼の眉間に照準を合わせる。
「どうした? 俺を殺すのかい? 殺すんだったら、一思いに頭を吹っ飛ばしてくれ。苦しみながらジワジワと死ぬのだけは、死んでも御免だからな」
「お前は殺さない。しかし、生かしもしない」
アーロンの問いにそう答えたヤコネは、彼の眉間に合わせていた照準を横に移動させると、躊躇い無く引き金を引いた。銃口から射出されたライフル弾が、今度はアーロンの左膝を貫通する。
「痛ってえ! 糞! 今度は左膝かよ! いい加減にしやがれよ、このエスキモーの糞ビッチが!」
両膝を撃ち砕かれたアーロンは、悪態を吐きながら見えない床の上で激痛に悶え苦しみ、のたうち回った。自業自得とは言え、私は少しだけ彼が気の毒に思えてならない。
「ヴァシリー、こんな所からは、今すぐに立ち去るぞ」
「ああ、そうだなヤコネ。しかし、もう少しだけ待ってくれ」
構えていたライフル銃を肩に吊ったヤコネがコモリオムからの退去を進言したが、私は彼女を制して、吹き抜けの中央に浮かぶ艦橋へと足を向けた。そしてそこに転がっていた、先程レナード博士が取り落としたトランクケースを床から拾い上げると、ナンバーロック式の蓋を開いてその中身を取り出す。
「何だそれは?」
トランクケースから取り出された異星人のミイラをまじまじと見つめながら、ヤコネが尋ねた。ミイラの正体を、彼女にも理解出来る言葉で一から説明するのが困難に思えたので、私は何も答えずに艦橋の一角に接地されたカプセルに近付く。
「何をする気だい、ロジオノフ博士?」
「これを、本来あるべき場所に戻すだけだ」
アーロンの問いに答えた私は、全部で十二基在るカプセルの内の他とは違う一基、つまり一つだけ中身が空だったカプセルのコンソールに触れた。触れた事によってコンソールは起動するが、そこに表示されている文字は全く読めない。それでも表示された文字や記号に触れてデタラメに操作を続けると、幸いにも、透明な素材で出来たカプセルの蓋が僅かな作動音と共に開いてくれた。カプセル内に敷かれた無人のクッション材が、その姿を白日の下に晒す。
「四千年ぶりの帰還か。もうクレタ島で不慮の死を遂げるような事も無く、仲間達と共に安らかに眠っていてくれよ」
そう言うと、私は手にしたミイラをカプセルの中に納めた。すると何かを感知したのか、ゆっくりと自動的に蓋が閉まり、再び曇りガラス状になって内部が見えなくなる。今年の二月にクレタ島で発掘して以降、私を悩ませ続け、多くの人達を騒動に巻き込んで来た異星人のミイラ。CIAが呼称するところの『鍵』ともこれでお別れなのかと思うと、少しだけ心残りが無い訳ではないが、今はこれがベストな選択に違い無い。そしてカプセルの蓋が閉じてから一拍の間を置いた後に、艦橋中央の指令台の上に、これまでは表示されていなかった立体映像が映し出される。また同時に、何かのシステムが起動したのか、コモリオム全体が微かに揺れた。
「……飛ぶ気か?」
指令台の上に表示された新たな立体映像に、地球全体の模式図と航星図が含まれている事に気付いた私はそう呟くと、ヤコネに向かって叫ぶ。
「ヤコネ、今すぐにここを出るぞ! このコモリオムはどうやら地球を離れて、母艦だか母星だかに帰る気らしい!」
私の言葉を半分方しか理解出来なかったらしいヤコネの手を掴むと、私達はコモリオムから脱出すべく、エレベーターに向かって駆け出した。するとそんな私の背中に、両膝を撃ち砕かれて立ち上がる事も出来ないアーロンの声が届く。
「待ちな、ロジオノフ博士」
「何だ、アーロン?」
「ガム食う?」
こんな状況下でもニコニコと無邪気に微笑みながら、アーロンはポケットから取り出した板ガムをこちらに向かって差し出していた。
「……いらんよ。ガムは嫌いだと言った筈だろう?」
「ああ、そう言えばそうだったな。それにしても、俺はここに置いてけぼりかい? さっきそのお譲ちゃんが言っていた、殺しもしないが生かしもしないってのは、こう言う事なのかい? だとしたら、随分と残酷な仕打ちだね」
アーロンの言葉に、私は抗言する。
「残酷な仕打ちと言う割には、随分と楽しそうに笑っているじゃないか」
「そりゃそうさ。なんせ、こんなに楽しい事が他にあるかい? このまま宇宙に行けるかもしれないし、運が良けりゃあ、この気持ち悪い異星人どもの母星に連れて行ってもらえるかもしれないんだ。そうなれば当分は退屈しないですむに違い無いって考えただけで、ワクワクドキドキが止まらないね」
本当に心の底から楽しそうにそう言うと、アーロンは板ガムを一枚口に放り込んで、クチャクチャと咀嚼し始めた。その笑顔には、やはり微塵も邪気が無い。
「さらばだ、アーロン」
「ああ、これでお別れだ、ロジオノフ博士。それに、エスキモーのお譲ちゃんも。もしかしたらまた会う事があるかもしれないが、それまでは達者でな」
その言葉を最後に、私とヤコネはアーロンに背を向けてエレベーターに駆け寄ると、それに乗り込んだ。エレベーターの中では二発の銃弾を胸に受けたレナード博士が、防寒着と白衣を鮮血で真っ赤に染めながら横たわっている。
「レナード博士?」
「……ああ、ロジオノフ博士か」
床に転がったままのレナード博士は、未だ絶命してはいなかった。着弾の寸前に身を竦めたのが功を奏したのか、銃弾は心臓から逸れ、即死は免れたものと思われる。しかし胸に穿たれた二つの穴からは鮮血が溢れ、呼吸は荒く顔面は蒼白で、既に致命傷を負っている事は誰の眼にも疑いようが無い。
「今度は、下に下りればいいんだな?」
息も絶え絶えにそう言うと、レナード博士は半身を起こし、震える手でもってエレベーターのコンソールを操作し始めた。そして彼の操作によって下降を開始したエレベーターの中で、私は尋ねる。
「レナード博士、どうして貴方は先程、ヤコネを艦橋の在る階層にまで連れて来てくれたんですか? あんな事さえしなければ、貴方が裏切り者として、アーロンに撃たれるような事は無かったのに」
「そうだ。お前は、何故あたしを助けてくれた?」
ヤコネもまた、私と共に問うた。それに対して肺を深く損傷しているらしいレナード博士は、呼吸をする度にゴボゴボと血を吐きながら答える。
「そうしなければ、ロジオノフ博士、貴方がアーロンに殺されていたじゃないか。私はオカルトの研究に取り憑かれた身だが、こう見えても、決して倫理観の狂ったマッド・サイエンティストじゃない。自分の研究のせいで罪も無い人が死ぬなんて言うのは、まっぴら御免だ」
「レナード博士……」
私は、震える彼の手をギュッと握り締めた。既に彼の手からは、体温が失われつつある。
「それにな、ロジオノフ博士。私は嬉しかったんだ。もう何年もこんな僻地で研究を続けているところに、貴方の様な、同じ研究者が訪れてくれた事がね。だから貴方には、死んでほしくなかった。出来ればもっと、貴方と一緒に、このコモリオムやヒュペルボレイオスについて語り合いたかったよ。だが今は、自分の研究の成果であるこの地で死ねる事だけが、唯一の救いだ」
レナード博士がそこまで言い終えたところで、エレベーターは下層へと到着した。
「ええと、そこのお嬢さんは、名前は何と言うのかな?」
「ヤコネだ。ヤコネ・ウッタク」
「そうか。それではロジオノフ博士もヤコネのお嬢さんも、急いだ方がいい。おそらくもうすぐ、コモリオムの絶壁が閉じる。その前に、ここを出るんだ」
そう言って私の手を放したレナード博士に、私とヤコネは別れの言葉を述べる。
「さようなら、レナード博士。貴方には感謝している」
「お前、良い奴だった。また会おう」
私達の言葉に対して、残念ながら、レナード博士からの返事は無かった。そして私とヤコネの二人は、コモリオムの出口に向かって通路を走り始める。
「急げ、ヴァシリー! 遅いぞ!」
「これでも一生懸命走っているんだ! 私の事は気にせずに、キミだけでも逃げろ!」
走る私達の眼前ではコモリオムと外界とを繋ぐ絶壁が、開いた時とは逆に上から下へと、これまでの剥離した状態から徐々に閉じつつあった。小柄ながらも体力には自身のあるヤコネに対して、運動不足が服を着て歩いているようなひ弱な私は、あっと言う間に彼女に置いて行かれる。
「ヴァシリー、急げ! もうすぐだ!」
「あとちょっと! あとちょっと! あとちょっと!」
一足先に絶壁から脱出したヤコネに急かされながら、私は可能な限りの全速力でもって、走り続けた。ここまで来た時には短く感じた通路が、今は無限の長さに思える。やがて通路を渡り終え、閉じかけていた絶壁から身を投げ出した私もまた、ギリギリのタイミングで脱出する事に成功した。そして身を投げ出した勢いのまま永久凍土の地面を転がると、立ち上がりながら背後のコモリオムを見上げる。
絶壁が閉じたコモリオムは、地の底から響くような重低音の地鳴りと共に、微かに震動していた。そして僅かずつだが、地面から浮かび上がりつつある。その光景はまるで、地震で揺れるフットボールのスタジアムにも似ていた。
「まずい! この氷穴自体が崩れるぞ!」
私は叫びながらヤコネの手を引いて、地上へと脱出するための穴を目指し、再び走り始める。しかし彼女の方が足が速いので、手を引いていた私の方が見る間に追い抜かされて、逆に手を引かれて走る羽目になった。
「ヤコネ! ロジオノフ博士! こっちだ、急いで!」
私達の名を呼ぶ聞き覚えの無い声に、前方を見遣る。すると地上へと続く穴の入り口に、見覚えのない男が立っているのが眼に止まった。その男は私よりも少し背が低いががっしりとした筋肉質の体格で、肌は浅黒く、全身をタクティカルギアと銃火器類でもって武装している。そして彼は私の手を取ると、穴の出口を目指して先導しながら、階段を駆け上がり始めた。
「キミは誰だ?」
右手をヤコネに、左手を見知らぬ男に引かれながら階段を駆け上がる私が尋ねると、男もまた階段を駆け上がりながら答える。
「私はマウリシオ・ヤマシタ。オリファー財団に雇われたPMC部隊の、特殊作戦部隊上級大尉です。大変遅くなりましたが、ロジオノフ博士、貴方を救助に参りました」
自己紹介によれば、男の名前はマウリシオ。先程ヤコネが言っていた、ボディアーマーを借りたと言う相手がこの男なのだと察した私は、ようやく本物の救援部隊が到着した事に深く安堵した。しかし今の私達には、残念ながら、邂逅を喜び合っているような暇は無い。私達の背後では地を裂くような轟音と震動と共に、永久凍土に覆われた氷穴が崩れ始め、一刻も早くこの穴から脱出しなければ巨大な氷塊の下敷きになって死ぬ事は眼に見えていた。
「急げ、ヴァシリー!」
「ロジオノフ博士、急いで!」
私よりも重武装でありながら体力に自信のあるヤコネとマウリシオの二人が、私を急かす。急かされた私も必死で階段を駆け上がるが、平素の運動不足が祟って、なんとか転ばずに脚を前後させるのが精一杯の有様だ。するとその間にも背後には落下する氷塊が迫り、足の脛の骨が軋んで悲鳴を上げる。僅か二百m余りで到達出来る筈の出口が、やけに遠い。
「間に合え! 間に合え! 間に合え!」
最後はヤコネとマウリシオの二人に半ば引き摺られる格好で、遂に私達三人は、穴からの脱出に成功した。それはまさに間一髪と表現すべきタイミングで、私達の背後で永久凍土に開けられた氷穴が崩れ落ち、轟音と震動が大地を揺らす。そして崩れ落ちた氷塊の山の中から、今度は巨大な黒い塊が、ゆっくりと上昇を始めた。
「あれは、コモリオムか……」
そう呟いた私の眼前では、永久凍土の中から姿を現したコモリオムが宙に浮いており、ニッカネン島の直上にその姿を晒す。氷に覆われていないそれは、まさに巨大な宇宙船そのものであり、まるでハリウッドのSF映画を見ているかのような光景だった。
「ヴァシリー、何だあれは? 何故浮いている?」
ヤコネが尋ねたのでそちらを見遣れば、彼女はライフル銃を構え、そのスコープでもって宙に浮かぶコモリオムを観察している。
「撃つなよ、ヤコネ。下手に撃って反撃でもされたら、こっちが危ない」
今にもライフル銃の引き金を引きそうなヤコネを制して、私は忠告した。彼女の隣に立つマウリシオもまた、宙に浮かぶ巨大な遺跡を見ながら、呆然としている。そして立ち尽くす私達の眼前でコモリオムは上昇を続け、次第にその速度を増すと、やがて眼にも止まらぬ速さでもって空の彼方に消え去った。おそらくはアーロンを乗せたままのそれは、今の人類の科学力では到達出来ない遥かなる星の世界にまで、飛んで行ってしまったのだろう。
「一件落着、かな?」
私はボソリと呟いた。良く見れば東の地平線上は朝焼けに燃え、見上げた空は漆黒の夜の闇から次第に澄み渡る青空へと続く、藍のグラデーションで美しく染まっている。
「ロジオノフ博士、改めて挨拶をさせていただきます。私はオリファー財団に雇われたPMC部隊の特殊作戦部隊上級大尉の、マウリシオ・ヤマシタです。オリファー財団の救援部隊として、貴方を救出しに来ました」
「私は考古学者の、ヴァシリー・ロジオノフだ。キミ達救援部隊の到着を、ずっと心待ちにしていたよ」
コモリオムが消え去った空を見上げていた私に、マウリシオが改めて自己紹介の言葉を述べながら手を差し出して来たので、私も自己紹介をすると同時に彼と握手を交わした。マウリシオの名前と容姿から察するに、ヒスパニック系とアジア系の混血の可能性が高い。
「どうやら地上の方も、一段落したようです」
そう言ってニッカネン島の全貌を見遣るマウリシオに倣って、私も周囲に視線を巡らせる。
私とアーロンが地下のコモリオム内部で相対している間に、地上ではマウリシオの部下であるPMC部隊とCIAの工作部隊、またそのどちらにも属さないヒュペルボレイオス達とが、三つ巴の攻防戦を繰り広げていたらしい。そしてどうやらその攻防戦は、オリファー財団のPMC部隊の勝利で終焉を迎えたようだ。その証拠に、雪原の各所ではマウリシオと同じタクティカル装備に身を包んだPMC部隊がCIAの兵士達を拘束する姿が散見され、巨大な人造の巨人であるヒュペルボレイオス達もまた、その活動を停止させている。
「それにしても、キミ達には申し訳無い事をしたな。せっかくここまで救援に来てくれたのに、私はトランクケースを中身ごと失ったし、最大の収穫である筈のコモリオムもどこかへ飛んで行ってしまった。少なからず被害も出ただろうに、完全に無駄足を踏ませてしまったよ」
私は、マウリシオに向かって詫びながら言った。
「コモリオム? 先程宙に浮いていた、あの黒い巨大な物体ですか? あんな巨大な物は、流石に私達でも回収出来ませんよ。むしろ、あれが十五機も回収出来た事の方が、充分な成果として本社に報告出来ます」
そう言ってマウリシオが指差した先に鎮座していたのは、活動を停止させて地面に正座するような体勢になった、合計十五機のヒュペルボレイオスの内の一機。それは既に宙には浮いていなかったが、一見したところ、破壊されたような痕跡も無い。
「我々の装備では、この巨人には傷一つ付ける事が出来ませんでした。如何なる銃弾も砲弾も、全て着弾する前に推進力を失い、その威力の大半を発揮出来ないまま地面に落下してしまいます。それに、運動エネルギーだけではなく熱エネルギーを利用した兵器もまた、こいつには通用しません。そのため我々もCIAも、交戦しているように見えて、実質的にはこの巨人から逃げ回るのが精一杯でした」
手近なヒュペルボレイオスに近付いた私とヤコネに、マウリシオが説明した。
「しかしロジオノフ博士、ヤコネが貴方を探して地下に下りて行ってから暫くすると、突如としてこの巨人達は活動を停止させました。そこで私も地下に下りて様子を見に行くと、ちょうど貴方とヤコネが脱出しようと走って来たのです。その後の事は、貴方もご存知でしょう?」
「なるほどね。きっとこのヒュペルボレイオス達も、母船が飛び立つ準備が出来たから、用済みとされたのか。……いや、それともこいつらの回収よりも、母星への帰還の方が優先されたのかな? とにかく無傷の生きたヒュペルボレイオスを、オリファー財団は十五機も手に入れたって訳か」
得心した私は巨人の装甲を撫でながらそう言うと、北極海から吹きすさぶ寒風に身を晒し、真っ白な息を空に向かって吐く。朝陽に照らし出されたヒュペルボレイオスの姿は勇壮で、そして美しかった。
「ヴァシリー、これで全て、終わったな」
「ああ。終わったんだよ、ヤコネ」
私とヤコネは、再び熱い抱擁を交わす。
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